会津郡地理図
会津郡(陸奥国会津郡之一)
続日本紀元正天皇養老二年五月「割常陸国之石城・標葉・行方・宇太・白理・菊田六郡、置石城、割白河・石背・会津・安積・信夫五郡、置石背国、割常陸国多阿郡之郷二百一十烟、名曰菊田郡、属石背国焉」とある、此郡の国史に見えたる初なり、是より先已に此郡を建て相津の地に置し郡なる故名け常陸国に属し石背国を置れし時割て石背国に属し、石背国廃して後陸奥国に属せしにや詳ならず、耶麻・大沼・河沼此郡より分れし後も三郡に比するに猶大なる故にや俗に大会津郡と稱す、寛永の頃より会津郡の稱を失ひ、誤て大沼郡と稱す、中にも小出彌五島松川楢原田島河島高野熨斗古町和田黒谷大塩組の地は郡名を失ふ、寛文中肥後守正之此誤りを正し、始て古名に復せり、、、、此郡は四方に高山連り平地少く民居大抵山間に住す其田は中の下其畠は下の上なり暑は晩く寒は早くして甚だ強し、大凡十月より雪積り三月まで消へず冬月疾風あれば吹雪大に起り、平野昿野にて迷仆する者往々あり、是を吹倒とて甚だ恐れ風雪の日は門戸を出る者稀なり、又雪車を以て牛馬に代て諸物を運転す、瀧澤高久中荒井橋爪南青木の組組は平衍にして、田圃多く鶴沼黒川の流れ其土を潤す、共に府城の四面を環れり、気候全く府下に齋し、芒種の前後に苗を植え、寒露の頃に晩稲を刈る、原組は山中にて瑚濱に臨み、雪深く寒気梢強し小出・彌五島・松川・楢原・高野・田島・河島・熨斗口の組組は山中なる故、寒暖遅速有て、花候農務上の諸組より梢遅し、和泉田・古町・黒谷・大塩四組は本郡の西偏にて尤深山幽谷なり、九月中旬より雪降り一丈五六尺積り四月上旬に漸く消え梅桜桃同時に花開く、春耕は平衍の地よりは二十日計遅き処あれども秋收は大抵同時なり、、、、
郷名 倭名鈔に出る所 伴伴・多具・長江今荘名に残れり、
倉精○菱方(安積郡福良組を菱潟荘と稱す、因て菱方は安積郡の郷なるを誤て此郡に出せるならんと云説あり、もしくは昔は此郡の境内にて後転変して安積郡となりしにや、寛元四年満月と云僧福良村伏龍寺の縁起を書して、浅香郡菱縣荘と云へり此頃既に安積郡に属す)○大島(橋爪組の村名に残れり)○屋代○大江(今河沼郡牛澤組に大江村あり河沼郡はもと此郡の内なり)○餘戸
今稱する所十
黒川 村一(此郷の諸村多く市廛となりし故今纔に遺れりと云)、湯原 村十三、
九九布 村二十一、楢原 村二十四、田島 村七、針生 村八、
関本 村七、立岩 村二十四、伊南 村二十三、伊北 村三十二、
荘名 荘二
門田 村百二十四、長江 村百四(長江はもと郷名なり、後荘となりしと見えて、後花園院永享四年に長江荘と記せり鰐口あり、高野組下塩沢村鷲神社にあり、又寛文の頃までは熨斗戸組木賊村熊野宮にも長江荘と刻付たる鰐口ありしと云)、
組名 組十六
瀧澤組 村十一、原組 村十一、高久組 村三十、
中荒井組 村三十二(此内九箇村大沼郡なり)、
南青木組 村三十七(此内四箇村大沼郡なり)、
小出組 村九、彌五島組 村五、松川組 村二十二、楢原組 村二十四、
田島組 村八、河島組 村十二(此内六箇村塩屋郡なり)、
高野組 村八、熨斗戸組(のしど) 村二十四、古町組 村二十三、
和泉田組 村十四、黒谷組 村十四、