越後国魚沼郡地理図
魚沼郡(外篇越後国魚沼郡之一)
此郡は本州の東南隅にあり、「延喜式倭名鈔」に載て古き郡なれども国史に見る所なし、「続日本史」文武天皇大寶二年に越中国四郡を分て越後国に属することあり、此郡及頸城・古志・三島四郡は本越中国なりしが、此時より越後国に属するにや詳に知り難し、「節用集」に魚治に作る者は誤れり、細註に沼の字を出せる方宣し、又頸城郡の下に又伊保野と曰と註せるも此郡の下に移すべし、「太平記」巻十に相模入道武蔵・上野両国の勢に新田義貞兄弟を討べき由下知せし時、義貞宗徒の一族を集て評定有けるに越後国には大略当家の一族充満たれば、津張郡へ打超て上田山を伐塞ぎ、勢を付てや防ぐべきと云、同三十一巻笛吹峠の軍の所に新田義宗栽田山と信濃路に稠く関を居へたりと云、又同巻に、義宗四月二十七日越後の津張より立て七千余騎越中の放生津に着くと見えたるは皆此郡の事なり(上田・栽田は共に今の上田荘にて津張郡は今の妻有荘なるべし)されば此地にては専ら南朝の正朔を奉ぜしと見えて正平の年号を記せし古碑往々残れり(十日町組仁田村小出島組江口村の條下に載す)今此郡に封内付属の地三百余村あり、、、山多く平地少し、魚沼川・信濃川に傍て纔に平衍の諸村あり、其余は多く山間にあり、其田は下の上其畠は下の中なり、気候は国中の諸郡に較れば寒気強く雪尤深し、九月中旬より諸山に雪降り、十月より末は大抵晴日少れなり、或は一昼夜に一丈余積ることあり、此時には山村は纔に樹杪を残して民屋を埋む、数日の間昼夜灯火を点し隣里の往来なし、霽間(はれま)を待ち高窓より出、屋上の雪を掘門戸を通して隣家に往来す、花候は三月上旬の頃に梅花開き、桜は下旬の頃に開く、遅き年には四月に至て一時に開く、農務は芒種の前後に早苗を取寒露の頃苅収む、、、
郷名「倭名鈔」に出る所
賀禰、那珂、刺上、
千屋(ちや) 今小千谷組に千谷・千谷川・小千谷の村々あり、千谷郷川と云小川もあり、又浦佐組浦佐村毘沙門堂応永十一年の寄附状に越後国千屋郡浦佐保並光寺御佛供田とあり、又同所文明七年・延徳三年の古文書にも千屋郡あり、其頃は誤て郡と稱せしにや、
今稱する所十六
吉谷 村二十九、上川(かみかわ) 村十、宇賀地(うかち) 村十三、
廣瀬 村五十、赤石 村五十四、大巻 村六、大井田 村九、羽根川 村五、
吉田 村七、美佐島 村十二、番場 村三、留實(とめさね) 村十七、
早川 村七、木六 村十八、関 村十、石白(いししろ) 村三、
荘名 荘三
藪上 村百八十七、上田 村九十三、妻有(つまり) 村二十三、
組名 組七
小地谷組 村三十八、十日町組 村十九、塩澤組 村五十八、
六日町組 村六十六、浦佐組 村五十四、小出島組 村三十九、
堀内組 村二十九、


魚沼郡参考
太平記 巻第十
新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事 
懸ける処に新田太郎義貞去三月十一日先朝より綸旨を給たりしかば千剣破より虚病して本国へ帰り便宜の一族達を潛に集て謀反の計略をぞ被回ける、懸る企有とは不思寄相摸入道舎弟の四郎左近大夫入道に十万余騎を差副て京都へ上せ畿内・西国の乱を可静とて武蔵・上野・安房・上総・常陸・下野六箇国の勢をぞ被催ける、其兵粮の為にとて近国の庄園に臨時の天役を被懸ける、中にも新田庄世良田には有徳の者多しとて出雲介親連黒沼彦四郎入道を使にて六万貫を五日中可沙汰と堅く下知せられければ使先彼所に莅で大勢を庄家に放入て譴責する事法に過たり、新田義貞是を聞給て我館の辺を雑人の馬蹄に懸させつる事こそ返々も無念なれ争か乍見可怺とて数多の人勢を差向られて両使を忽生取て出雲介をば誡め置き黒沼入道をば頚を切て同日の暮程に世良田の里中にぞ被懸たる、相摸入道此事を聞て大に忿て宣けるは当家執世已に九代海内悉其命に不随と云事更になし、然に近代遠境動ば武命に不随近国常に下知を軽ずる事奇怪也、剰藩屏の中にして使節を誅戮する条罪科非軽に、此時若緩々の沙汰を致さば大逆の基と成ぬべしとて則武蔵・上野両国の勢に仰て新田太郎義貞・舎弟脇屋次郎義助を討て可進すとぞ被下知ける、義貞是を聞て宗徒の一族達を集て此事可有如何と評定有けるに異儀区々にして不一定、或は沼田圧を要害にして利根河を前に当て敵を待んと云義もあり、又越後国には大略当家の一族充満たれば津張郡へ打超て上田山を伐塞ぎ勢を付てや可防と意見不定けるを舎弟脇屋次郎義助暫思案して進出て被申けるは弓矢の道死を軽じて名を重ずるを以て義とせり、就中相摸守天下を執て百六十余年于今至まで武威盛に振て其命を重ぜずと云処なし、されば縦戸祢川をさかうて防共運尽なば叶まじ、又越後国の一族を憑たり共人の意不和ならば久き謀に非ず、指たる事も仕出さぬ物故に此彼へ落行て新田の某こそ相摸守の使を切たりし咎に依て他国へ逃て被討たりしかなんど天下の人口に入らん事こそ口惜けれ、とても討死をせんずる命を謀反人と謂れて朝家の為に捨たらんは無らん跡までも勇は子孫の面を令悦名は路径の尸を可清む、先立て綸旨を被下ぬるは何の用にか可当、各宣旨を額に当て運命を天に任て只一騎也共国中へ打出て義兵を挙たらんに勢付ば軈て鎌倉を可責落、勢不付ば只鎌倉を枕にして討死するより外の事やあるべきと義を先とし勇を宗として宣しかば当座の一族三十余人皆此義にぞ同じける、さらば軈て事の漏れ聞へぬ前に打立とて同五月八日の卯刻に生品明神の御前にて旗を挙綸旨を披て三度是を拝し笠懸野へ打出らる、相随ふ人々氏族には大館次郎宗氏・子息孫次郎幸氏・二男弥次郎氏明・三男彦二郎氏兼・堀口三郎貞満・舎弟四郎行義・岩松三郎経家・里見五郎義胤・脇屋次郎義助・江田三郎光義・桃井次郎尚義是等を宗徒の兵として百五十騎には過ざりけり、此勢にては如何と思ふ処に其日の晩景に利根河の方より馬・物具爽に見へたりける兵二千騎許馬煙を立て馳来る、すはや敵よと目に懸て見れば敵には非ずして越後国の一族に里見・鳥山・田中・大井田・羽川の人々にてぞ坐しける、義貞大に悦て馬を扣て宣けるは此事兼てより其企はありながら昨日今日とは存ぜざりつるに俄に思立事の候ひつる間告申までなかりしに何として存ぜられけると問給ひければ大井田遠江守鞍壷に畏て被申けるは依勅定大儀を思召立るゝ由承候はずば何にとして加様に可馳参候、去五日御使とて天狗山伏一人越後の国中を一日の間に触廻て通候し間夜を日に継で馳参て候、境を隔たる者は皆明日の程にぞ参着候はんずらん、他国へ御出候はゞ且く彼勢を御待候へかしと被申て馬より下て各対面色代して人馬の息を継せ給ける処に後陣の越後勢並甲斐・信濃の源氏共家々の旗を指連て其勢五千余騎夥敷く見へて馳来、義貞・義助不斜悦て是偏八幡大菩薩の擁護による者也、且も不可逗留とて同九日武蔵国へ打越給ふに紀五左衛門足利殿の御子息千寿王殿を奉具足二百余騎にて馳着たり、是より上野・下野・上総・常陸・武蔵の兵共不期に集り不催に馳来て其日の暮程に二十万七千余騎甲を並べ扣たり、去ば四方八百里に余れる武蔵野に人馬共に充満て身を峙るに処なく打囲だる勢なれば天に飛鳥も翔る事を不得地を走る獣も隠んとするに処なし、草の原より出る月は馬鞍の上にほのめきて冑の袖に傾けり、尾花が末を分る風は旗の影をひらめかし母衣の手静る事ぞなき、懸しかば国々の早馬鎌倉へ打重て急を告る事櫛の歯を引が如し、是を聞て時の変化をも計らぬ者は穴ことごとし何程の事か可有、唐土・天竺より寄来といはゞげにも真しかるべし、我朝秋津嶋の内より出て鎌倉殿を亡さんとせん事蟷螂遮車精衛填海とするに不異と欺合り、物の心をも弁たる人はすはや大事出来ぬるは、西国・畿内の合戦未静ざるに大敵又藩籬の中より起れり、是伍子胥が呉王夫差を諌しに晋は瘡にして越は腹心の病也、と云しに不異と恐合へり、去程に京都へ討手を可被上事をば閣て新田殿退治の沙汰計也、同九日軍の評定有て翌日の巳刻に金沢武蔵守貞将に五万余騎を差副て下河辺へ被下、是は先上総・下総の勢を付て敵の後攻をせよと也、一方へは桜田治部大輔貞国を大将にて長崎二郎高重・同孫四郎左衛門・加治二郎左衛門入道に武蔵・上野両国の勢六万余騎を相副て上路より入間河へ被向、是は水沢を前に当て敵の渡さん処を討と也、承久より以来東風閑にして人皆弓箭をも忘たるが如なるに今始て干戈動す珍しさに兵共ことごと敷此を晴と出立たりしかば馬・物具・太刀・刀、皆照耀許なれば由々敷見物にてぞ有ける、路次に両日逗留有て同十一日の辰刻に武蔵国小手差原に打臨給ふ、爰にて遥に源氏の陣を見渡せば其勢雲霞の如くにて幾千万騎共可云数を不知、桜田・長崎是を見て案に相違やしたりけん馬を扣て不進得、義貞忽に入間河を打渡て先時の声を揚陣を勧め早矢合の鏑をぞ射させける、平家も鯨波を合せて旗を進めて懸りけり、初は射手を汰て散々に矢軍をしけるが前は究竟の馬の足立也、何れも東国そだちの武士共なれば争でか少しもたまるべき太刀・長刀の鋒をそろへ馬の轡を並て切て入、二百騎・三百騎・千騎・二千騎兵を添て相戦事三十余度に成しかば義貞の兵三百余騎被討鎌倉勢五百余騎討死して日已に暮ければ人馬共に疲たり、軍は明日と約諾して義貞三里引退て入間河に陣をとる、鎌倉勢も三里引退て久米河に陣をぞ取たりける、両陣相去る其間を見渡せば三十余町に足ざりけり、何れも今日の合戦の物語して人馬の息を継せ両陣互に篝を焼て明るを遅と待居たり、夜既に明ぬれば源氏は平家に先をせられじと馬の足を進て久米河の陣へ押寄る、平家も夜明けば源氏定て寄んずらん待て戦はゞ利あるべしとて馬の腹帯を固め甲の緒を縮め相待とぞみへし、両陣互に寄合せて六万余騎の兵を一手に合て陽に開て中にとり篭んと勇けり、義貞の兵是を見て陰に閉て中を破れじとす、是ぞ此黄石公が虎を縛する手張子房が鬼を拉ぐ術何れも皆存知の道なれば、両陣共に入乱て不被破不被囲して只百戦の命を限りにし一挙に死をぞ争ひける、されば千騎が一騎に成までも互に引じと戦けれ共時の運にやよりけん源氏は纔に討れて平家は多く亡にければ加治・長崎二度の合戦に打負たる心地して分陪を差して引退く、源氏猶続て寄んとしけるが連日数度の戦に人馬あまた疲たりしかば一夜馬の足を休めて久米河に陣を取寄て明る日をこそ待たりけれ、去程に桜田治部大輔貞国・加治・長崎等十二日の軍に打負て引退由鎌倉へ聞へければ相摸入道・舎弟の四郎左近大夫入道恵性を大将軍として塩田陸奥入道・安保左衛門入道・城越後守・長崎駿河守時光・左藤左衛門入道・安東左衛門尉高貞・横溝五郎入道・南部孫二郎・新開左衛門入道・三浦若狭五郎氏明を差副て重て十万余騎を被下其勢十五日の夜半許に分陪に着ければ当陣の敗軍又力を得て勇進まんとす、義貞は敵に荒手の大勢加りたりとは不思寄、十五日の夜未明に分陪へ押寄て時を作る、鎌倉勢先究竟の射手三千人を勝て面に進め雨の降如散々に射させける間源氏射たてられて駈ゑず。平家是に利を得て義貞の勢を取篭不余とこそ責たりけれ、新田義貞逞兵を引勝て敵の大勢を懸破ては裏へ通り取て返ては喚て懸入電光の如激蜘手・輪違に七八度が程ぞ当りける、されども大敵而も荒手にて先度の恥を雪めんと義を専にして闘ひける間義貞遂に打負て堀金を指て引退く、其勢若干被討て痛手を負者数を不知、其日軈て追てばし寄たらば義貞爰にて被討給ふべかりしを今は敵何程の事か可有、新田をば定て武蔵・上野の者共が討て出さんずらんと大様に憑で時を移す、是ぞ平家の運命の尽ぬる処のしるし也、

太平記 巻第三十一
笛吹峠軍事 
新田武蔵守は将軍の御運に退緩して石浜の合戦に本意を不達しかば武蔵国を前になし越後・信濃を後に当て笛吹峠に陣を取てぞおはしける、是を聞て打よる人々には大江田式部大輔・上杉民部大輔・子息兵庫助・中条入道・子息佐渡守・田中修理亮・堀口近江守・羽河越中守・荻野遠江守・酒勾左衛門四郎・屋沢八郎・風間信濃入道・舎弟村岡三郎・堀兵庫助・蒲屋美濃守・長尾右衛門・舎弟弾正忠・仁科兵庫助・高梨越前守・大田滝口・干屋左衛門大夫・矢倉三郎・藤崎四郎・瓶尻十郎・五十嵐文四・同文五・高橋大五郎・同大三郎・友野十郎・繁野八郎・禰津小二郎・舎弟修理亮・神家一族三十三人・繁野一族二十一人都合其勢二万余騎先朝第二宮上野親王を大将にて笛吹峠へ打出る、将軍小手差原の合戦に無事故石浜にをはする由聞へければ馳参れける人々には千葉介・小山判官・小田少将・宇都宮伊予守・常陸大丞・佐竹右馬助・同刑部大輔・白河権少輔・結城判官・長沼判官・河越弾正少弼・高坂刑部大輔・江戸・戸島・古尾谷兵部大輔・三田常陸守・土肥兵衛入道・土屋備前々司・同修理亮・同出雲守・下条小三郎・二宮近江守・同河内守・同但馬守・同能登守・曾我上野守・海老名四郎左衛門・本間・渋谷・曾我三河守・同周防守・同但馬守・同石見守・石浜上野守・武田陸奥守・子息安芸守・同薩摩守・同弾正少弼・小笠原・坂西・一条三郎・板垣三郎左衛門・逸見美濃守・白州上野守・天野三河守・同和泉守・狩野介・長峯勘解由左衛門都合其勢八万余騎将軍の御陣へ馳参る、鎌倉には義興・義治七千余騎にて著到を付ると聞へ武蔵には新田義宗・上杉民部大輔、二万余騎にて引へたりと聞ゆ、何くへ可向と評定有けるが先勢の労せぬ前に大敵に打勝なば鎌倉の小勢は不戦共可退散衆議一途に定て将軍同二月二十五日石浜を立て武蔵府に著給へば甲斐源氏・武田陸奥守・同刑部大輔・子息修理亮・武田上野守・同甲斐前司・同安芸守・同弾正少弼・舎弟薩摩守・小笠原近江守・同三河守・舎弟越後守・一条四郎・板垣四郎・逸見入道・同美濃守・舎弟下野守・南部常陸守・下山十郎左衛門、都合二千余騎にて馳参る、同二十八日将軍笛吹峠へ押寄て敵の陣を見給へば小松生茂て前に小河流たる山の南を陣に取て峯には錦の御旗を打立麓には白旗・中黒・棕櫚葉・梶葉の文書たる旗共其数満々たり、先一番に荒手案内者なればとて甲斐源氏三千余騎にて押寄たり、新田武蔵守と戦ふ、是も荒手の越後勢同三千余騎にて相懸りに懸りて半時許戦ふに逸見入道以下宗との甲斐源氏共百余騎討れて引退く、二番に千葉・宇都宮・小山・佐竹が勢相集て七千余騎上杉民部大輔が陣へ押寄て入乱々々戦ふに信濃勢二百余騎討れければ寄手も三百余騎討れて相引に左右へ颯と引、引けば両陣入替て追つ返つ其日の午刻より酉刻の終まで少しも休む隙なく終日戦ひ暮してけり、夫れ小勢を以て大敵に戦ふは鳥雲の陣にしくはなし、鳥雲の陣と申は先後に山をあて左右に水を堺ふて敵を平野に見下し我勢の程を敵に不見して虎賁狼卒替る替る射手を進めて戦ふ者也、此陣幸に鳥雲に当れり、待て戦はゞ利あるべかりしを武蔵守若武者なれば毎度広みに懸出て大勢に取巻れける間百度戦ひ千度懸破るといへ共敵目に余る程の大勢なれば新田・上杉遂に打負て笛吹峠へぞ引上りける、上杉民部大輔が兵に長尾弾正・根津小次郎とて大力の剛者あり、今日の合戦に打負ぬる事身一の恥辱也と思ければ紛れて敵の陣へ馳入将軍を討奉らんと相謀て二人乍ら俄に二つ引両の笠符を著替へ人に見知れじと長尾は乱髪を顔へ颯と振り懸け根津は刀を以て己が額を突切て血を面に流しかけ切て落したりつる敵の頚鋒に貫きとつ付に取著て只二騎将軍の陣へ馳入る、数万の軍勢道に横て誰が手の人ぞと問ければ是は将軍の御内の者にて候が新田の一族に宗との人々を組討に討て候間頚実検の為に将軍の御前へ参候也、開て通され候へと、高らかに呼て気色ばうて打通れば目出たう候と感ずる人のみ有て思とがむる人もなし、将軍は何くに御座候やらんと問へば、或人あれに引へさせ給ひて候也と指差て教ふ、馬の上よりのびあがりみければ相隔たる事草鹿の的山計に成にけるあはれ幸やたゞ一太刀に切て落さんずる者をと二人屹と目くはせして中々馬を閑々と歩ませける処に猶も将軍の御運や強かりけん見知人有てそこに紛て近付武者は長尾弾正と根津小次郎とにて候は、近付てたばからるなと呼りければ将軍に近付奉らせじと武蔵・相摸の兵共三百余騎中を隔て左右より颯と馳寄る、根津と長尾と支度相違しぬと思ければ鋒に貫きたる頚を抛て乱髪を振揚大勢の中を破て通る、彼等二人が鋒に廻る敵一人として甲の鉢を胸板まで真二に破著けられ腰のつがひを切て落されぬは無りけり、され共敵は大勢也、是等は只二騎なり十方より矢衾を作て散々に射ける間叶はじとや思けんあはれ運強き足利殿やと高らかに欺て閑々と本陣へぞ帰りける、夜に入ければ両陣共に引退て陣々に篝を焼たるに将軍の御陣を見渡せば四方五六里に及て銀漢高くすめる夜に星を列るが如くなり、笛吹峠を顧れば月に消行蛍火の山陰に残るに不異、義宗也を見給て終日の合戦に兵若干討れぬといへ共是程まで陣の透べしとは覚ぬに篝の数の余りにさびしく見るは如何様勢の落行と覚るぞ、道々に関を居よとて栽田山と信濃路に稠く関を居られたり、夫士率将を疑ふ時は戦不利云事あり、前には大敵勝に乗て後は御方の国国なれば今夜一定越後・信濃へ引返さんずらんと我を疑はぬ軍勢不可有、舟を沈め糧を捨て二度び帰じと云心を示すは良将の謀なり、皆馬の鞍をゝろし鎧を脱で引まじき気色人に見せよとて大将鎧を脱給へば士率悉鞍をおろして馬を休む、宵の程は皆心を取静めて居たりけるが夜半許に続松をびたゝしく見へて将軍へ大勢のつゞく勢見へければ明日の戦も叶はじとや思はれけん上杉民部大輔篝計を焼棄て信濃へ落にければ新田武蔵守、其暁越後へ落られけり、斯りし後は只今まで新田・上杉に付順つる武蔵・上野の兵共も未何方へも不著して一合戦の勝負を伺ひ見つる上総・下総の者共も我前にと将軍へ馳参りける程に其勢無程百倍して八十万騎に成にけり、新田左兵衛佐義興・脇屋左衛門佐義治は六千余騎にて尚鎌倉にをはしけるが将軍已に笛吹峠の合戦に打勝て八箇国の勢を卒して鎌倉へ寄給ふ由聞へければ義興も義治も只此にて討死せんと宣ひけるを松田・河村の者共某等が所領の内相摸河の河上に究竟の深山候へば只それへ先引篭らせ給て京都の御左右をも聞召し越後信乃の大将達へも被牒合候て天下の機を得諸国の兵を集てこそ重て御合戦も候はめと、よりより強て申ければ義興・義治諸共に三月四日鎌倉を引て石堂・小俣・二階堂・葦名判官・三浦介・松田・河村・酒勾以下六千余騎の勢を卒して国府津山の奥にぞ篭りける、
「太平記」(国民文庫刊行会)