会津総図
会津とは会津郡耶麻大沼河沼の総称稱にて陸奥国の西南隅なり昔は一面に会津郡にして後漸分れて四郡ちなるしと見ゆ会津郡南にあり大沼郡其北にあり河沼郡其北に続き耶麻郡最北にあり四郡の地を四分にして会津郡其二に余り其余を二分にして耶麻郡其一に居り其余を三分にして大沼郡其二に居り河沼郡其一に居る丑寅の方より未申の方へ三十二里余戌亥の方へ十六里余東は信夫安達安積岩瀬四郡に続き西は越後国に連り南は上野国下野国両国に界ひ北は出羽国に隣る四面の諸山績翠空に挿み風気勁く霜雪深し因て此土に生する者狡悍の俗多し中央は沃田碁布人煙繁密にして四塞の国なり会津の名の起りし始は古事記(崇神天皇十年)に大昆古命者随先命而籠行高志国ここに自東方所遣建河沼別與其父大昆古共住遇于相津故其地相津也と見えたり其後国と稱せしにや万葉集に安比豆?能久爾と読る歌あり後郡となり常陸国に属せしと見ゆ続日本紀元明天皇養老二年に会津郡の名始て出づ此時白河石背安積信夫四郡と共に割て石背国を置れ其国廃して後陸奥国に属せしにや詳ならず耶麻郡は続日本後紀仁明天皇承和七年に始て見ゆ共に延喜式に載する所陸奥国三十五郡の内なり大沼郡は延喜式に見えす神名帳に此地の伊佐須美神社を会津郡の下に載すれは其後に分れしこと分明なり倭名鈔には此郡を加て三十六郡とし又細註に載す河沼郡は只倭名鈔の細註に載て三十六郡の内にあらす四郡の名此に至て始て備れり平家物語に会津四郡と稱すること始て見え東鑑に耶麻郡を会津と稱し古文書古器銘に会津耶麻郡会津大沼郡といへるは会津は四郡の総稱なれはなり寛文の頃には名紛乱して会津郡を失ひ大沼耶麻稲河河沼を会津四郡とす肥後守正之典籍を考へ地理を正し古文書古器銘に拠り四郡の界域を分ち大沼郡の東南を割て会津郡を復し稲河郡を河沼郡に併て四郡の名古に復せり昔孝謙天皇神護景雲三年会津郡の人外正八位下丈部庭融等二人に阿倍会津臣の姓を賜ひ桓武天皇延暦八年会津壮麻蝦夷と戦て打死し仁明天皇承和七年耶麻郡の大領外正八位上勲丈部人磨か戸一煙に上毛野陸奥公と云姓を賜ひしに国史に見ゆ其後頼義家父子の朝臣も此地に至られしと見えて其旧跡所々に残れり治承養和の頃は恵日寺の領なりしにや寿永元年信州横田河原の合戦に此寺の衆徒乗丹房越後の城四郎長茂か募に応し会津四郡の兵を師て木曾義仲と戦ひ打死せしこと平家物語に見ゆ鎌倉右大将藤原泰衡を征伐ありし時三浦(又佐原と稱す)十郎左衛門尉義連軍功により此地を領せり然れとも常に鎌倉に伺候して在邑の暇なかりしにや其住所何れの地ともしれす耶麻郡半在家村に其墓あり其子遠江守盛連六男あり長男を大炊助経連と云耶麻郡猪苗代に住せしにや其苗裔弾正盛国と云者天正中まて其地にあり其次を次郎広盛と云河沼郡北田に遺塁あり子孫応永中まて住せり其次を三郎盛義と云同郡藤倉に居館の迹あり其次を次郎左衛門光盛と云是会津芦名氏の祖なり其次を五郎左衛門尉盛時と云(後に三浦介と稱す)耶麻郡下三宮に住せしにや其地に古塁あり又五郎神社あり此人の後佐原十郎高明と云者応安の頃まて耶麻郡加納荘を領せり其次を六郎左衛門尉時連といふ同郡新宮に住せしにや子孫応永中待て其地に住せり此兄弟の事東鑑に詳せり光盛の子を三郎左衛門泰盛と云東鑑建長八年の記に見えたり其子を遠江守盛宗と云父子の霊牌府下実相寺にあり盛宗の子大夫判官盛員建武二年相模次郎時行に與力し尊氏将軍と戦ひ腰越にて討れたること太平記に見ゆ其子直盛若狭守と云(太平記巻三十一に葦名判官あり此人の事にや詳ならす)光盛より盛員まては其住所傳はらす直盛至徳元年府城を築き鶴城と名け城下の地を黒川と稱す是城地の開けたる始なり其子弾正少弼詮盛(初左衛門尉と云)と云人応安二年田圃を実相寺に寄附せしことあり(寄附状の写今にあり康暦二年寄附状の写も同寺にをさむ)其子修理大夫盛政の時は応永の頃にて天下兵乱の最中なれは此地にても北田新宮の裔等?戦争有て後に盛政に併せらる其子を三郎左衛門尉盛久と云文安元年に卒す盛久子無して弟盛信立つ左近将監と云實徳三年三月十八日に卒す会津郡天寧村に墓あり其子下総守盛詮立つ猪苗代氏(諱を傳へす)叛臣を助て数度合戦あり享徳二年其事漸平く盛詮文正元年三月十四日に卒す其子修理大夫盛高と云明応三年伊達尚宗其子植宗と合戦ありし時盛高三千余騎を師て出羽国長井(今の米沢なり)に至る二十余日の後事平て会津に帰る天正二年家老の事により子息盛滋と干戈に及ひ盛滋敗れて長井に奔る程なく和平し盛高永正十四年十二月八日に卒す実相寺に真影残れり盛滋を出羽判官と云永正十七年兵を出して伊達植宗を授け最上兼義と戦ふ大永元年二月七日に卒す弟遠江守盛舜立此時家臣松本新蔵人塩田其等猪苗代に内応す猪苗代氏(又諱を失う)来て城北八角宮に陣せしか敗続して松本塩田と共に走る河沼郡八葉寺の辺にて猪苗代の兵多く戦死す享禄元年伊達植宗葛西氏を攻て其地を奪ひし時盛舜加勢あり天文三年伊達磐瀬石川諸将と勢を合せて岩城白川と戦ふ天文二十二年八月二十一日に盛舜卒し其子修理大夫盛氏は葦名中興の英将にて兵勢かかりしかは北條氏康武田信玄も音信を通して好を結ひ仙道の諸将白河の結城七郎義親二本松の二本松右京亮義継田村の田村玄蕃允清顕須賀川の二階堂遠江守盛義等皆其指揮に従ひしに永禄四年大沼郡岩崎に城を築き家督を子息盛興に譲て隠居す然るに盛興天正三年二十九歳にて父に先て早世せしかは盛氏再黒川城に帰り軍務を沙汰し二階堂盛義の子盛隆を盛興の後室に妻はせ聟養子とし同八年六月十七日六十歳にて卒す会津郡小田村に葬る芦名氏の血脈此時に断絶す盛隆の時に及て織田家の武威已に盛にして東国の諸将皆門下に拝趨せしかは同九年郎党荒井萬五郎を使者として駿馬一疋蝋燭千挺を贈る此年盛隆三浦介に任せらる一族金上兵庫盛備を勅答の使として黄金三十両を献せしに盛備又遠江守に任せらる同十二年累代の長臣松本太郎と云者遺恨の子細有て六月十三日盛隆舞楽遊覧の為にとて城東羽黒山に登りし隙を伺ひ栗村下総と云者を語らひ黒川城を襲取りしに城下に在合し諸人大勢馳集り盛隆も頓て下山しけれは松本栗村戦負て打死す此年十月大庭三左衛門と云者怨を含むこと有て盛隆を害せしかは家臣相謀て亀王丸とて当歳の子ありしを家督に立しかと同十四年三歳にて夭す家臣又謀て佐竹義重の次男平四郎義広(後盛重と改む)に盛隆の女を配し遺跡を相続せしめしに義広に従ひ来れる大縄讃岐守刎石駿河守譜代の家老と権を争ひ家中不和になりたる上猪苗代弾正盛国義広に叛き伊達政宗に内応す政宗速に猪苗代城に入る義広盛国を退治し政宗の軍勢を追払はんとて同十七年六月五日耶麻郡磨上原に出馬し合戦に及ひしか後に敗績し長臣富田美作守平田左京亮入道同周防守等政宗に心を通しけれは黒川城を保ち兼同十日芦原越より白河に出て常陸国に遁る政宗十一日黒川城に入て年を越えしに十八年三月豊臣家相模の北條を征伐せられ奥の大名先を争の小田原に参向の聞えあるにより政宗も四月下旬会津を発し高原峠より下野国に懸り小田原に赴かんとて会津郡大内村に到りしに路次に北條方の城多く通難きにより越後より信濃路を経て小田原の陣所に到る太閤糺問の上旧領長井の地を賜ひ会津押領の地は速に明渡すへき由命せらる政宗直に会津に下り七月十三日に黒川城を去て出羽国長井に移る同月木村伊勢守来て黒川を戍る小田原落城の後八月五日三好中納言此地に来て民間の兵器を収られ同十月に太閤白河より勢至峠を越え黒川に入らる瑞雲興徳寺を評定所として奥州の仕置せられ蒲生飛騨守氏郷に会津を賜ひ奥州の藩鎮とし田丸中務大輔に岩瀬を賜ひ木村伊勢守に葛西大崎を賜ひ氏郷の指揮に従い萬一奥州に一揆あらは政宗を先鋒とし退治すへき由を命せられ同十四日に高原越を経て帰京あり十月下旬木村伊勢守か領地大崎に一揆起り父子共に城を囲まれ難義に及ぶ由風聞あり氏郷政宗と?し会せ十一月五日大雪を冒して発足し事故なく一揆を平け明年正月十一日に帰陣す此一揆は政宗凶徒に内通し氏郷及木村父子を失はん為計略なる由路次の風聞甚しく政宗か郎等に返忠の者もありけれは氏郷上京して其事を訴ふ太閤いかなる故にか政宗か罪を赦し木村か領地を収公し政宗を其地に移さる氏郷には今度の勤賞としし政宗か旧領を加賜ひ南部大膳大夫信直家老九戸修理亮か主人に叛き郡中を押領せる罪を討すへき旨命せらる氏郷六月十七日領地に下着し七月二十七日会津を立て彼地に発向し軍功多く十月十三日に黒川に帰る氏郷は軍略に長する而已ならす和歌を好み文雅の趣有て治国の才も卓越しけれは文禄元年六月より城郭を修理し市街宅地を改制す是まては城郭の形はあれとも浅間なる芝土堤のままなりしか此時に七層の天守を建女?石塁城楼の構全く備れり又黒川の名を改て若松と稱す同四月七日京都に於て卒す其子鶴千代十三歳にて物学ひの為に京の南禅寺にありしに父の旧領を賜ひ七月十三日に会津に下向す此時浅野弾正少弼長政支置の為に此地に来る其時に下せし文書今にあり(府下大町の條下に出す)鶴千代元服して藤三郎秀行(初秀朝又秀隆と稱す)と稱し後飛騨守に任し太閤の命を以て京照宮の姫君に配す慶長元年長臣蒲生四郎兵衛伏見にし傍輩亘利八右衛門と云者の奢侈の挙動あるを悪て須賀左衛門守岡半三郎をして討しむ秀行四郎兵衛か主人の下知を受け檀に傍輩を討ことを怒て其罪を糺さんとす四郎兵衛石田治部少輔三成尼孝蔵司に馮て其事を訴へしかは太閤度々別儀を以て四郎兵衛か罪を宥むへき旨命せられしかとも秀行固く命に従はさる故已むことを得す四郎兵衛父子并其党二十余人を加藤主計頭清正に預て朝鮮の戦に赴かしむ其後秀行弱年にして樞要の地にあり再家中に騒動あらは世の忽劇となるへしとて同三年会津領百萬石を収公せられ下野国宇都宮にて十八萬石を賜ひ二月上旬其地に移り其跡を上杉中納言景勝に賜ふ此時石田治部少輔会津に下て支置す直江山城守兼続と連署せし文書の写今にあり(耶麻郡檜原村の條下に出す)二月二十四日に景勝若松城に入部し間もなく上京し太閤薨去の後会津に下る兼て石田等と内々相談有て同五年二月より俄に会津仙道長井佐渡荘内にて十二萬余(或は八萬余人とも云)の役夫を催し会津郡神指村に城を築て若松城を移さんとす又多く兵器を集め武士を招き合戦の用意頻なる由聞えしにより召あれとも応せす陰謀の企て隠なかりれは東照宮御征伐あらんとて七月二日江戸に御帰城有て同月二十一日江戸を御出駕あり蒲生秀行は旧領の地なれは先鋒として野州氏江駅に到る景勝も神指の城築を止め白川小峯城には五百川縫殿平林内蔵助南山山王峠には小国但馬長沼には津島玄蕃丞福島には本條出羽守白石には甘糠備後守柳川には須田大炊助を籠置き須賀川二本松津川の城々にも大勢の軍兵を入置き防戦の用意専なり然る処に上方にて石田等か乱起りしこと同月二十四日野州小山の御陣所に注進有て東照宮此より軍を返し給ひ関原一戦の後天下一統に治りけれは翌年八月景勝会津の領地公せられ三十萬石を賜ひ出羽国米沢城に移る同年九月秀行再此地に封せられ六十萬石の地を賜ひ同十七年五月十四日に卒す府下弘真院に葬る長子下野守忠郷十歳にて封を襲き二十九歳にて寛永四年正月四日痘瘡を患て卒す子なければ其跡断絶す府下高厳寺に墓あり其跡を加藤左馬助嘉明に賜ひ四十萬石余を領す同八年九月十二日江戸に於て卒す其子式部少輔明成の時同十六年四月家老堀主水と云者明成に怨有て一族男女三百余人城下を立退き城南中野村にて鉄炮を放ち闇川橋を焼棄て出奔す明成怒て人を諸国に遣て捜求めしかは主水身の置所なく訴状を捧て明成か罪を官に告けしか主水兄弟を捕て明成に賜ふ明成大に喜て江戸芝の邸に於て誅戮す同二十年五月明成故有て盡く領地をたてまつりしかは其子内蔵助明友に石見国吉良にて一萬石を賜て移る其年七月肥後守正之に陸奥国会津郡耶麻大沼河沼安積五郡越後国蒲原郡にて二十三萬石の地を賜はり八月八日若松城に入此時別の命有て会津大沼岩瀬三郡下野国塩屋郡の中の地を以て封内に附属せしむ肥後守正容か時に岩瀬郡の地を除き越後国魚沼郡の地を加へられ子孫相続し今に至る
郡数 郡凡八
陸奥国 会津郡、耶麻郡、大沼郡、河沼郡、安積郡(あさか)
越後国 蒲原郡、魚沼郡(うおの)
下野国 塩屋郡
郷数 郷凡三十七
会津郡 黒川郷、湯原郷、九九布郷(くくふ)、楢原郷、田島郷、針生郷、
関本郷、立岩郷、伊南郷、伊北郷、
耶麻郡 百木郷(ももき)、小布瀬郷、野尻郷、奥川郷、
大沼郡 尾岐郷(おまた)、金山郷(かねやま)、
河沼郡 柳津郷(やないつ)、野沢郷
魚沼郡 吉谷郷(よしたに)、大井田郷、吉田郷、羽根川郷、上川郷、
広瀬郷、宇賀地郷(うかち)、赤石郷、美佐島郷、大巻郷、番場郷、
留実郷(とめさね)、早川郷、木六郷(きろく)、関郷、石白郷(いししろ)、
塩屋郡 三依郷(みより)、
荘数 荘凡十四
会津郡 門田荘(もんでん)、長江荘、
耶麻郡 更級荘、月輪荘、岩崎荘、加納荘、新宮荘、
河沼郡 河沼荘、蜷川荘、
安積郡 菱潟荘、
蒲原郡 小川荘
魚沼郡 妻有荘(つまり)、藪上荘、上田荘、
組数 組凡五十六
会津郡 
瀧澤組、原組、高久組、中荒井組(大沼郡の内九箇村此組に属す)、
南青木組(大沼郡の内四箇村此組に属す)、小出組、弥五島組、松川組、
楢原組、田島組、河島組(塩屋郡の内六箇村此組に属す)、高野組、
熨斗戸組、古町組、和泉田組、黒谷組、
耶麻郡
川東組、川西組、塩川組、小沼組、熊倉組、小田付組、小荒井組、
五目組、慶徳組、木曾組、大谷組、吉田組、
大沼郡
橋爪組(会津郡の内十三箇村此組に属す)、高田組、永井野組、
東尾岐組、冑組、瀧谷組、大谷組、野尻組、大石組、
大塩組(会津郡の内四箇村此組に属す)、
河沼郡
代田組、笈川組、青津組、阪下組、牛澤組、野澤組、
安積郡
福良組
蒲原郡
海道組(河沼郡の内二箇村此組に属す)、鹿瀬組、上條組、下條組、
魚沼郡
小千谷組、十日町組、塩澤組、六日町組、浦佐組、小出島組、堀内組、