50 水戸城







50、水戸城(茨城県水戸市三の丸町)
茨城県指定史跡である水戸城跡(塁及び濠)は、JR常磐線水戸駅前にあり、「この水戸城は平安時代の末期頃、常陸大掾国香の子孫馬場資幹がこの地(現水戸一高)に舘を構えたことに始まり、後に常陸大掾となって府中(現石岡市)に本拠を持ったことから、水戸地方も馬場氏のはかに吉田氏、石川氏など大掾氏の族が栄えました。十五世紀のはじめ(応永年間)、藤原氏の族河原田城主江戸通房が馬場氏を追放し、代わって居城した。それまでの本城の外に宿城(のち二ノ丸、現在茨城大学附属小、水戸二中、水戸三高)を築くなど、城郭を拡張して約百六十余年間水戸地方を支配したが、太田地方を本拠地として常陸北半を領した源氏の族佐竹氏は、天正十八年(1590)秀吉の小田原城攻め(戦国合戦年表127)に功績を認められると一気に江戸氏を攻め、水戸城を占拠し、五十四万石を領する佐竹義宜の本城となり、城郭も一段と拡張され城下町も太田から移された商人によって栄えた。ところが秀吉の死後義宜は石田三成と結んで家康に抗したため、慶長七年(1602)秋田へ国替えを命ぜられ、僅か十三年間で水戸を去った。その後は家康の子信吉、頼宜が一時封ぜられたが、慶長十四年(1609)に大十一子頼房が藩主(二十五万石、第三代綱條の時から三十五万石)となってから代々その子孫が継いだ。頼房は二ノ丸に居舘を築き、三ノ丸を造り三重の濠と土塁を巡らして武家屋敷や町人街を整える一方、徳川御三家として幕府を助けたが、第二代光圀以来尊王の学風を興して天下の大勢を導き、明治維新の源流を開いたのである」これは二ノ丸跡に立っている水戸市教育委員会の説明文です。明治維新の源流を開いたと在りますが、実際は、幕末に尊王攘夷運動をおこし、筑波山に挙兵した天狗党とこの討伐を計った諸生党との血生臭い藩内抗争となり、この抗争は幕末動乱期の水戸藩の政治力を失わせ、水戸藩として何の働きも見せず王政復古(1868)を迎えた。今城跡は県庁、図書館、各学校が建っており、三ノ丸跡に空濠と土塁が残っています。