会津合戦記



本書は葦名盛氏・盛興・盛隆の三代を略述し、亀王及び義広の時、即ち天正十三年関柴合戦、天正十七年磨上原合戦を主として記したものですが、作者及年代は不明で、従来から写本にて諸本が流布しており、会津合戦記・会乱記・会津合戦・会乱実記・葦名家記と異名も多く有りますが、会津合戦記として流布しているものが多く、本編は菊池重匡が大正六年に、表題を「会津合戦記」として会乱記(菊池家蔵本、享保六年筆写)を底本として、一切句読を施さずに、校訂したものです。本書と同一の事を記したものに、葦名由来記・会津四家合考・会津盛衰記等があります。


会津合戦記 (著者不詳)
目次
盛氏代を盛興に譲り隠居の事
盛隆後家入の事
大場三左衛門盛隆を奉討事
政宗檜原口を責給ふ事
関柴備中守謀叛の事
関柴合戦の事
政宗馬場乗の事
佐竹義広葦名に婿名跡の事
伊達政宗仙道を責給ふ事
猪苗代盛国政宗へ降参の事
高田間太郎左衛門荒井新兵衛尉討死の事
磨上合戦付富田将監討死の事
金上遠江守討死の事





盛氏代を盛興に譲り隠居の事
抑会津守護葦名修理太夫盛氏公は桓武天皇の末葉三浦大助が七男佐原十郎左衛門尉義連より十六代なり然るに盛氏天正七年に向羽黒に城を築きここに隠居し給ひ入道して法名を竹閑と号し御子息盛興に御代をゆずり給ふ代々家のしつけんには金上遠江守盛備四天の宿老には平田兵部少輔松本源兵衛尉佐瀬河内守富田将監此四人の者共奉行として国の仕置をなす其外旗本の大名には白川善八郎棚倉玄番須賀川二階堂盛義二本松右京亮義尚同義次大和備中守片平助右衛門尉多々野十郎貴鹿田和泉守高倉近江介高田間太郎左衛門浮島帯刀大里蔵人新国上総守長沼十郎鵜浦甲斐守猪苗代盛国穴沢善右衛門三瓶大内蔵関柴備中守慶徳善五郎栗村弾正同下総守中目式部大輔山内信濃守同播磨守同丹後守河原田治部太夫横田刑部少輔山内刑部左衛門伊南源助沼沢出雲守出仕し給ふ然る処に天正七年七年二十三日に盛興二十九歳にて逝去し給ふ依て竹閑小田山城に御帰城なされ会津政道取納給ふ然に竹閑亦天正八年六月十八日御年六十九歳にて逝去し給ひけり。

〔盛隆後家入の事
去程に盛興の簾中は伊達政宗の伯母なり輝宗には御妹なり時に盛興に御息女ありといへども幼少に渡らせ給へば御聟君の御名跡も叶はざるにつき須賀川二階堂盛義の嫡男盛隆は葦名と御一家の事なればこれを会津へ呼越奉り盛興の簾中に合せ葦名の御代つがせ申けり然るに天正三年に向羽黒へ盛隆御成の刻笈川の住人松本太郎十六歳にて謀叛を企て森代の地頭栗村下総守とは男色の知音なりければ彼を語らひ両勢合せて八百余騎にて小田山の城に押寄せ乗取居たり盛隆向羽黒にて此由聞召大に驚き急ぎ小田山城を責べしとて佐瀬河内守平田刑部両人大将にて稲川郡耶麻郡の勢どもあるひは富番に相詰たり侍共都合二千余騎にて松本を責たりけり松本栗村一同戦ひけれども不叶両人共に討死しければ其夜の内に盛隆小田山城に帰り給ふ抑此松本逆心を企し事盛隆に深くうらみ申子細有故は代々葦名の四天として平田松本佐瀬富田此四人奉行として会津の政道取行ふ然るに松本太郎が親源兵衛尉は太郎が三歳の年病死す然りといへども盛氏より親の跡式相違なく賜はり七歳のとき御目見仰付られ四天の内に加へられしを盛隆の代となちければ何ぞ松本若年なるに老衆役は心得がたしと被仰奉行職を取上げ松本が上屋敷三の丸にありけるをも取上げ米代の西の方にて少の所を賜り松本が元屋敷は沼澤出雲守に賜りけりさるに依て松本盛隆を深く恨み申といへども主命なれば不叶して終に討れけりされば松本一家盛隆に恨をなさぬはなかりけり

〔大場三左衛門盛隆を奉討事〕
天正十年夏の頃盛隆に若君誕生あり亀王殿と号す天正十二年六月二十三日のことなるに大場左衛門盛隆にうらみをなし透を見合討奉り其身も即時に被討けり此大場が所生は須賀川諏訪大明神の神主大場明石が子なりしが相馬合戦の時十三にて盛隆の御前にて日の内に三度まで敵に掛会しを御覧じてさても若年ながら武勇の者なりとて御近習に召加へられ殊に美男のほまれありければ盛隆御寵愛なされけり諸人も恐をなしにけり十九歳にて元服し盛隆の御腰物番に被成けり去程に三左衛門奢ふかく見えければ盛隆も始の様には思召さず次第々々ににくまぬ者はなかりけり三左衛門心に思ひけるは傍輩共にうとまれしも只君故の事ぞかし何とぞ盛隆を討奉り本意を遂げんと思ひて定て討奉り其身も即時に討れけり

〔政宗檜原口を責給ふ事〕
伊達政宗葦名に遺恨有て檜原口を責給ふといへども穴澤兄弟綱木峠に物見を差置政宗寄給はば見下しに鉄炮を打かけんとて用心厳しく相守ければ政宗責入給ふこと不叶然る処に穴澤一同の者遠藤の何がしと云者の謀叛にて穴澤一同風呂の内にて焼ころされ善右衛門新右衛門両人計相残り大塩へ逃来り三瓶大内蔵を頼み黒川へ注進す其隙に政宗檜原に押入給ふ黒川よりは其口堅く相守るべき由被仰付三瓶穴澤兄弟以上三人の者共師子がきを関と定め伐りふさぎ厳しく守ける程に政宗大塩へ責入事不叶猪苗代盛国へも疾く大塩へ相詰加勢可致と被仰付けれども政宗へ降参可仕旨にや畏と計にて不相詰穴澤大内蔵計にて厳しく守護しければ政宗おそれ檜原に控え向城をきつかんと堀などほらせ月日を送らせ給ひけり

関柴備中守謀叛の事〕
関柴備中守は松本太郎が一類として葦名にうらみ深し去に依て政宗を引入れ葦名を責亡ぼさんと思ひ天正十二年四月の頃より檜原へ内通し五月の始に備中守檜原へ参り政宗に対面し軍評定し関柴に帰り松本太郎が伯父源兵衛尉は四天の宿老なりしが松本が方へ使者を以て謀叛の由云遣しければ松本返事に縦令君君にあらずとも臣臣たるをこそ実の忠と申なれ某に於ては政宗に與する義有べからずと云送ければ備中詮なき事に思ひ片時も早く政宗を引入れ奉れとて早々使者を立てにけり政宗此由聞召其義ならば今月十日の夜老衆に勢を差添へ其方の館まで遣すべしと被仰ければ其日を遅しと待居たり

関柴合戦の事
天正十三年五月十日の夜伊達政宗檜原を立給ひ三人の老衆を始として其勢三千余騎入田付山を越え会津に入り給ふ扨又檜原の留守居には大森四郎左衛門尉国直に二千余騎の勢を相添給ふ去程に政宗は近習の侍五百余騎を揃へ入田付に置き其身は爰に居給ひ三人の老衆に二千余騎の勢を相添へ関柴の城につかはし給ふ関柴備中守は手勢百人許引具して其夜の戌刻ばかりに近所の村々二十五箇所に火をかけ地火となし謀叛の色をぞあらはしける去に依て会津四天の内平田が執権原田安広境が城に居たりしが関柴が謀叛の由早馬にて黒川に言上す黒川には四天の宿老を始として小田山に登城し軍評定あり其夜の子の刻計に黒川を打立て丑の刻計に浜崎につき爰に陣を取にけり会津のしつけん金上遠江守盛備は津川に居給ひ其外の諸大名皆々国に居城なれば纔かに黒川御番の勢計り浜崎に発向有り四天の内平田兵部申けるは此川を越え敵に向て合戦仕らんや又川を前に当て戦はんや何れが利あると申けり松本源兵衛聞て申けるは片時も早く橋を渡し関柴が城へ一散に押寄せ責め亡さん事何の子細かあるべき時刻を移し耶麻郡の勢共備中に與しなば事難儀なるべし早々打立給へと申けり富田兵部少輔申けるは松本殿の申さるる段一理ありといへども亀王殿御若年にましまし後室は女性の御事なれば小田山の城覚束なし此橋を渡し若し裏切など有て橋をひかれなば籠の鳥の如くあじろの魚の如くにて悔とも甲斐はよもあらじ四天の内一人は小田山城に帰り亀王殿を守護し奉り安積長沼猪苗代へ相ふれ重て関柴城へ討手を越さん一人は浜崎に残り稲川勢を招き寄せ浜崎を関と定めて相待ばし残る二人は橋を渡し関柴の城へ二手に成て押寄せなば味方を全うして敵を亡さん事踵をめぐらすべからず此儀如何と申けり佐瀬河内守申されけるは各の申さるる段理なきにあらず去ながら関柴備中守が謀叛を企つとも何程の事かあらん諸大名へ相触るまでもあるまじ長評定の其内に時刻移り候へば某に於ては片時も早く馳向ひ候はんと勇で出んとするところを平田富田押留貴殿のいはるる段尤なれども伊達政宗の老衆関柴城に籠ると聞ゆるはおろそかにては叶ふまじ暫く待候へと申けり爰に佐瀬河内守が兄中目式部大輔申けるは某軍法を破るに候はねども御暇賜はれかし慶徳へ参り度存るなり其子細は慶徳善五郎とは無二の入魂にて候へば敵の中に慶徳一人差置申事覚束なしと存るなり我等善五郎に聞せ心を合せ申さん若し善五郎敵の方に成なばひきつれて参り候べし暫く軍評定きはめられよき様に被致よといひ捨て武者三十騎引つれ駒曳寄打乗りて足軽二百人引具して橋を打渡り慶徳さして急ぎけりいまだ東雲明ざるに慶徳につき門外にいたりて見るに今に門は開かず式部は番者に近付かくと云入れければ善五郎立出対面す式部この由語りければ扨々左様に候哉関柴が謀叛の段驚入て候兎角備中守が城に時刻を不移押寄せふみつぶし申さんと其勢五百余騎にて慶徳を打立て急ぐに程なく下柴川原につき爰に陣をぞ取にける是は扨置浜崎にて佐瀬河内守申けるは兄にて候式部は早橋を渡し候へば我等も渡し向はんと其勢三百余騎にて下柴川原へ馳向ひ中目慶徳が勢にぞ加りける三人の老衆も今は詮方なくして兎角橋を渡せやとて其勢二千余騎浜崎を打立て十一日の辰の刻に陣所につき爰に陣をぞ取にける去程に関柴には葦名の勢ことごとく馳向ふ由相聞えければ先陣は伊達重実大将として二千余騎にて向ひけり二陣は関柴備中守三陣は片倉小十郎原田左馬助二千余騎にて下柴川原に向ひ辰の刻より掛合申の刻の始迄掛通し追つまくりつ火花を散して戦ひけり爰に金上遠江守盛備は津川の城に在けるが此由を聞くより十日の夜より津川を打立て本城金上に来り給ひしかば関柴謀叛の由必定なり急せ給へば飛脚の者にはたと行逢たり委く聞て其より五百余騎を引具して其日の申の刻計に下柴川原につき給ふ四天の衆へ使者を以て申されけるは只今某ここへ参着いたし候それへ御加勢申べく候へども御人数は多勢のよし佐瀬中目等は小勢にて候へばこれへ加勢仕らんはや日もやがて暮候へば軍は定て明日ならん然らば会津の猛勢馳参るべし随分合戦いたさんこと肝要に候といひ送り扨慶徳中目佐瀬三人の衆に向て扨々敵は大勢なり身方小勢を以て掛給ふ事名誉の手柄なり後日の証人には金上立申さん方々は暫く御休み候へかし我荒手なれば一軍仕り申さんといひければ慶徳善五郎聞て仰の段忝奉存候へども御覧被成候御前にて某一軍仕り申さんとて手勢百五十騎にて原田左馬助が五百余騎にて控へたる旗本へ一文字に駈入り後まで颯とかけちらして通りければ原田左馬助鶴翼に開き引包て慶徳を討たんとす去れども善五郎は物になれたる勇士なれば魚鱗につらなりよりの端武者のは目もかけず大将原田とくめやとて散々に駈廻りければ原田左馬助もこらへず其間三町計引退く慶徳なほも勝にのりあますまじとて追行処を片倉小十郎横太刀をいれ慶徳を討んとす佐瀬河内守中目式部大輔金上遠江守一手に成て慶徳を討せじと片倉勢の真中におめいて討てかかれば片倉も敗軍して原田と一所に成り中田付をさして引にけり伊達重実も此由を聞き敵に後を巻れなば事難儀なるべしとて是も中田付をさして引き片倉原田と一所になる会津勢はいよいよ勝に乗りて追はんとしけるが下柴川原の勢共一所になり暫く人馬の息をやすめ中田付さして寄にけり去程に伊達政宗は入田付に在りて味方利を失ひ中田付に引きし由聞召老中を討せては如何すべきと思召入田付を打立て五百余騎にて中田付へ出陣し三人の老中と一所になり龍泉寺林に籠り給ふ会津勢すかさず押寄せ鬨の声をあげて政宗の本陣へ討てかかる伊達勢も命を惜まず爰を最後と五六度までかけ合けれども会津勢に切立てられ叶はずして入田付へ引にけり会津勢なほもいさんで入田付まで追はんとすれば爰にもたまりかねて檜原をさして引給ふここに謀叛の棟梁関柴備中守は何とかしたりけん引きおくれ主従四五人にて下柴川原に控へ如何すべきとあきれ果たる所え高柳の地頭心替して備中の守が前に来り一方を打破り政宗へ降参仕度存る旨申ければ備中守大に喜びさらば我も参らんと下柴川原を立たんとて関柴高柳敗軍の勢を集めけるに百八十騎に成にけり備中守喜び此勢にては一方を打破らんこと何の子細かあるべしとてはや下柴川原を立たんとする所へ沼澤出雲守中目式部大輔両人今日はさせる高名もせず無念の次第なりと語り若し味方の手負ありもせんさあらばたすけんと其日の陣場を廻る所に其日も暮て物のあやめもさだかならざるに百騎計にて控へたるものあり誰ぞと見れば逆心の棟梁関柴備中守なり沼澤出雲守屹と見て関柴は何とて引後れけん是こそ願ふ処の敵なれとて両人三十騎にて討てかかる備中守の勢共皆ことごとく敗軍すむざんなるかな関柴高柳両人は主従五六騎に打なされ落行かんにも洩て出づべき様もなくあきれ果たる有様なりかかる事を仕出し今更後悔するも益あらじとても期すべき身にあらずと覚悟を究め爰を最後と六七度戦ひけれども天命逃れずして終に沼澤出雲守に討れけり高柳は叶はじとや思ひけん落行かんとせし所を中目式部大輔これを見ていかに高柳何国へ遁れんとはするぞとてものがれぬ運命なりそこ動くなと声をかけ終に高柳を討取けり去程に金上遠江守は会津勢を引具し其夜は浜崎に陣を取り其日の高名一々次第に記しけり扨又入田付には太郎丸掃部に三百余騎を差添へ檜原の押へに差置金上を始として四天の宿老黒川に着して開陣あり然る所に太郎丸掃部は入田付を打捨て檜原へ参て政宗に降参す関柴備中守が親は宮内少輔とて九十一歳になり歩行も叶はで関柴の城にありしが其夜会津勢関柴城に火をかけければよろぼい出る所を雑人共生捕高手小手にいましめて黒川に引登す金上是を御覧じて逆心者の親なれば武士のみせしめにとて同十二日天寧寺川原に引出し御成敗有て首を獄門に掛られけり寔に備中守は主君へ不忠のみならず親をば物うき死をさせ十悪五逆の罪人むくいの程こそおそろしけれ重て入田付には中目式部大輔を被差遣大塩には始の如く穴澤一同三瓶大内蔵守りければ政宗責入る事不叶むなしく月日を送りけり

政宗馬場乗の事〕
去程に政宗は檜原に城宅して馬場を構へ毎日馬をせめられけるところに穴澤善右衛門は村重とうの弓鷲羽のとがり矢おつ取大塩を立出只一人山伝へして檜原に忍び入り馬場末二本木のありけるかげに身をしのび政宗馬場末迄乗給ふ所を一矢いんと思い待儲くる所に其日政宗は馬場中迄三度乗給ひて馬を休め給ふ善右衛門其日はむなしく暮し日もはや暮に及びければ矢立取出し扨も政宗は御運のつよき弓取哉今日馬場末迄乗給はば此矢を進上仕るべき物を穴澤善右衛門尉と書き馬場中に立置大塩へ帰りけり此矢政宗方にて見付ければ政宗御覧じて穴澤が計略何とも難計とて米沢へ帰られ檜原には片倉小十郎を残し置かれけり

佐竹義広葦名に婿名跡の事
天正十三年の夏の頃葦名亀王殿四歳にて逝去し給ひけるに依て四天の宿老葦名十六人の御一家執権金上遠江守を始として小田山城に集り御名跡の儀評定あり四天の宿老申されけるは政宗の御弟政道を御養子に被成候はば伊達と葦名といよいよ和睦し国の便りともなり日々葦名の御家繁盛せん其上越後の上杉景勝公は御一家といひ関東の北条氏増(政)は同じ平家の流たり然ば是と心を合せ武田信玄を責亡し都へ討て登りなば終には葦名の天下とならんこと何の子細か候はんおのおのいかが思召すやと一様に申けり十六人の御一門有無の返事もなき処に執権金上遠江守申されけるは四天の評定一理ありといへども政宗の弟政道を聟に取らん事且は葦名の武勇薄きに似たり葦名の家を亡さんとはかる政宗の弟を聟に取なば縦令天下の望ありとも兄政宗こそ天下の主とはなり給はめさあらん時は葦名は政宗の家来同然たるべし然らば葦名の家の疵ならずや只佐竹義重の御子義広を聟に取なば佐竹は葦名と御一門の事なれば是に過たる事あらじと頓て佐竹へ使者をたて其年八月中旬に義広を呼奉り盛隆の御息女と合せ奉り義広を盛重となし葦名の家督を続がせ申せり然るに佐竹より大縄讃岐守刎石駿河守平井薩摩守三人の者共御共申来り国の仕置に預らんとせしを四天の宿老申けるは盛重公こそ佐竹より呼奉り主君と仰ぎ申なれ我等代々奉行として国政を執行ふ其内に三人の人々を入るる事中々成間敷由盛重公に言上す盛重公御若年の事なれば兎角の上意なく此儀は佐竹へ云遣し重て申付くべしとありければ四天の宿老是を聞き何ぞ佐竹よりの被仰付を我々用ひ申べき其故は葦名の家こそ主君と仰ぎ申なれ佐竹の被菅にはあらず中々用ひ申事なるまじき由申切て其より登城もせで先例の通り国の仕置を被行けるに盛重が老衆三人の方もあり四天の方もあり家中二つに分れ既に軍起らんとす此由後室聞大に驚き給ひて金上遠江守を召され如何にもして四天の者並に三人の者共をなだむべきよし被仰付ければ金上奉畏候とて四天の方へ意見申されけるは方々の御憤至極せり乍去思召の通はたし給はば主君の命に相背き我と家を亡ぼし葦名代々の四天には似合申間敷なり三人の者共一たんなだめ置き奉行の座につらね折々あやまりを以て一人宛に曲事(切腹)申付んにはしかじと異見ありければ四天の者心ならねども三人の者共と和睦し奉行の座にぞつらねける寔に家を亡すとはかやうの事をや申らん葦名の滅亡此時より起りけり三人の者共は奢深き者共にて我儘ばかり振舞けるこそうたてけれ

伊達政宗仙道を責給ふ事〕
天正十二より同十五年まで伊達政宗仙道を責給ふこと大森の城を始として城数八箇所責落して押領す然れども二本松右京亮義継仙道の旗頭として城を固め籠城す政宗度々責けれども義継大剛の者なれば終に打まけず或時政宗の屋形に行き御旗下に罷成度由申入ければ輝宗召喜て対面せり右京亮ややあつて暇を乞ければ輝宗縁のきはまで出でらるるに義継喜びここぞと思ひ駒引寄て輝宗を取て馬にかきのせ武蔵坊がしやうぞくつれて行風情其身も馬に打乗て刀抜き輝宗のむないたに押当二本松さして急ぎけり輝宗の郎等は主をみかけてうばばれ詮方なくぞ見えける然る所に政宗は折ふし他行し給ひしが父生捕られ給ふと聞き郎等四五人打つれてもみにもうでで追かけけり程なく阿武隈川にて追付けれどもはや川を渡りければ鉄炮を以て打てやと下知すれば右京亮前に廻り輝宗を楯として逃て行く何かは以てたまるべき輝宗を打落す扨政宗は右京亮をば打たずして父輝宗を打たる事無念たぐひなかりけり爰に右京亮が郎等鹿子田和泉守二本松城に引籠り子息梅王丸とて二三歳に成給ふを守護して籠城す去程に政宗二本松の城を責給ひども終に落城せず折ふし十月中旬の節不思議の大雪降ければ軍を止め米沢へ帰り給ふ鹿子田和泉守は梅王丸を守護し奉り城を明て会津へ落行きけり

猪苗代盛国政宗へ降参の事〕
去程に天正十七年四月中旬の頃政宗二本松城に移り五月末つ方まで居住して仙道勢をしたがへ給ふ程に皆々政宗に降参す猪苗代盛国も政宗に内通して心替し其より会津を責落さんと昼夜軍評定す黒川には盛重の老衆四天の宿老衆より猪苗代盛国へ使者を以て申されけるは政宗仙道を責落し候よし定て会津へ責寄すべし其口堅く相守るべし時をうかがひ討手の勢を出すべしと申越ければ盛国畏候此口より何千騎寄せ来り候とも某受取申候と返答すまた此口へ新国上総守鵜浦甲斐守を差遣はされけり

高田間太郎左衛門荒井新兵衛尉討死の事〕
天正十七年六月二十三日に伊達政宗二本松を立て本宮に出陣し勢を揃へ給ふ米沢信夫田村仙道の勢都合二千余騎と聞えける程に近所の住人我も我もと降参す爰に高田間太郎左衛門は政宗へは降参せず浮島の地頭を以て申けるは御辺も我も葦名の御旗下として厚恩深きものなり兎角城を枕として討死すべき由云遣しければ浮島返事にも及ばず政宗へ降参す爰に又太郎左衛門が妹聟荒井新兵衛は高田間と一所に討死せんと我が城に明け夫婦諸共高田間城に来り以上六十三人にて高田間城に楯籠り寄くる敵を待居たるは誠に頼もしかりし次第なり同二十四日に高田間の城に寄られけり政宗も会津責の門出なれば直に御馬を出さる去程に政宗は其勢一万余騎にて高田間の城をとりまき鬨をぞあげにける高田間太郎左衛門は大手を堅め荒井新兵衛は裏門を堅め二十四日の辰の刻より巳の刻の終まで戦ひけるが大勢に無勢の事なれば城中の勢残りすくなに討れけり荒井新兵衛は少し敵を追散らし其隙に高田間と一所に死なんと思ひ大手に来りけり太郎左衛門是を見てそれふせぎ給はれ其は女房に最後をすすめんとて本城に立帰り女房に近付今ぞ最後成ぞ心得給へと申ければ女房もいさぎよく西に向て手を合せ念仏唱ふる所を頓て首を打落す扨高田間は表に打て出んとする所に妹是を見て如何に兄上みづからをも害し給はれと泪を流して申ければ高田間聞ていやとよ汝は荒井が手にかかれといひければ妹聞て何それまで期すべきと念仏をとなひ守刀を引抜き口にくはひうつぶしに成て伏て失せけるは哀なりける次第なり扨太郎左衛門は大手に走り出でいかに新兵衛今は心にかかる事あらじ女房も妹も最後を遂て有ければ心安かれ御身草臥候はん暫く休み候へとて大太刀引抜きやあ汝等高田間太郎左衛門ここにありとて今を最後と切て出れば一度にどつとくずれける然る所に裏門より敵責入ければ高田間荒井屹と見て心得たりとついてかかればはつとひく又後を見れば詰かくる程に両人爰を先度と巳刻の終より未の刻の終まで戦けるが両人今はつかれはていつまでかくてながらふべき今一軍して死なんとて大手の門に立寄る処に裏門より大勢責入り広間口に政宗の旗を立てたり高田間荒井屹と見てすはや願ふ所ぞと政宗の旗下へ一文字に切て入らんとする所に荒井流矢に当りて討れたり高田間無念と思ひ政宗の本陣にかけ入らんとす其間五六間になりしかば手越惣兵衛と云者高田間を組留め頓て首を取にけり扨も高田間荒井が働き天晴剛なりといづれも感じあへりかかる人々を所領の主とはなさずしてただ闇々と討死さすこそ哀なれそれより政宗は軍の門出よしと喜び二本松に開陣有て暫く軍を控へられけり(以上類従本巻二)

磨上合戦付富田将監討死の事〕
同六月五日(天正十七年)の夜政宗猪苗代亀ガ城へ移り給ふ此事四方にかくれなき黒川に聞えしかば盛重大に驚き給ひてさあらば日橋を越え大寺に陣を取るべきなり先年関柴落城の節も塩川の橋を渡り一戦を遂げ利を得しと聞く吉例に任せ我も日橋を渡し敵を一時に追散らさん何ぞ時を移さんや打立てとのたまひて皆々物の具着かため駒引寄て打乗り其夜の丑の刻計に黒川を打立て大寺につき備を立定め先陣は富田将監と定む時に将監盛重の御前に畏て申けるは今度某に先陣を給り候事何より以て難有奉存候然れば存ずる子細候間他の勢を加へず手勢計にて先陣仕度由言上しければ盛重其意に任せられ御ゆるしあり将監は手勢五百余騎にて磨上原まで打て出でおかに味方の者共今度其存る旨の有る間討死すべきなり汝等も最後の共をせんと思ふ者共は甲のしころをかため一足もしりぞかず只一さんに掛合いさぎよく討死せよ又落んと思ふ者は落行けと有ければさすが名を得し者共にて皆々甲の緒をしめ駒を東頭に直し今日を最後と見えにけり二陣は佐瀬河内守稲川沼勢二千余騎三陣は松本源兵衛二千余騎本陣は盛重三人の老衆を始として其勢四百余騎後陣は平田兵部小輔耶麻安積の勢五百余騎布藤源橋一の澤にかかり火を焼立明行く空をぞ待居たる政宗方には先陣猪苗代盛国会津の案内として三引両の旗一流ささせ二千余騎にて控へたり二陣は原田左馬助三千余騎三陣は片倉小十郎四千余騎本陣は政宗一万余騎にて磐梯の腰八ヶ森に控へ給ふ後詰は伊達重実五百余騎にて控へたり爰に又太郎丸掃部政宗よりの仰として足軽二百人に鉄炮を持たせ磨上より南の手にぞ置れける是は味方敗軍の時敵勝に乗てすすまば横合より打てとの計略なり盛重と政宗との本陣は其間坂東道七里程へだだりけり去程に夜もほのぼのと明ければ富田は六日の卯の刻に二陣佐瀬河内守が方へ申けるは何とて貴公の御勢相つづかず候哉其一軍仕らん必ず二陣入替り給るべしといひければ河内守相心得候と返事をばしけれども更に馬をば出さず盛重よりも富田の勢に相つづき二陣透間なく入替るべしと上意ありければ畏候とばかりにて更に馬をば出さず富田将監味方に向て申けれは某以前より討死と申せしはここにて候なり四天の傍輩皆心替と覚えたり扨もいひ甲斐なき人々哉葦名代々の宿老として時の意恨を以て葦名の家を亡さんとは異国本朝にためしなき大無道の悪人なりよしそれとても是非なし縦令身方一騎も残らず討るるとも願ず一人も存命の者は何とぞして政宗の本陣にかけ入り討死して富田が家の名を揚げて給はれと下知してなほも磨上原の東の方へと詰にけり去程に盛国鬨の声を上げ富田が勢に討てかかる富田これを見て誰なるらんと思ひしに扨は盛国めにてありけるよな誠に汝は命鳴鳥の如し己れが命を失ふのみならず葦名の一家として当家を背き逆心を企て葦名の家を亡さんとする曲者天罰忽に蒙るべし自余の者には目なかけそ盛国を討てやとて五百余騎一めんに討てかかれば盛国一戦にも不及颯と引く二陣の原田入替り戦ひけれども富田は今日を限と思ひ命を惜まず一心にはげむ程に原田が陣もこらへずしてくづれけり二陣もやぶれければ三陣片倉入替て追つまくつつ五六度まで戦ひけるが三陣をもふみやぶられ片倉勢もくずれ政宗の本陣さしてぞ引にける富田猶も追かくる所に太郎丸掃部横合より鉄炮を頻に打たせければ富田勢ども即時に五十四人ぞ討れける冨田屹と見て扨は太郎丸掃部めにてありけるよな葦名の御恩をわすれ政宗に降参し剰へ我に向てかやうなる振舞は偏に口惜き次第なり只かけ入て太郎丸を討やとて駒の手綱をかい繰て太郎丸が陣へ一面に討てかかる太郎丸が足軽度も鉄炮の玉薬つめ替つめ替散々に打てども富田が勢鉄炮に当り馬より落るも願ず生残りたる者共は太郎丸と組めやとて一散にかけ入ければ太郎丸が足軽ども鉄炮を打捨々々皆ことごと逃にけり太郎丸もこは叶はじと思ひ馬に鞭打て落んとす将監かけつき太郎丸を馬より取て引寄せ乗りたる鞍の前輪に押当首かき切り家老七宮に向てこれ見給へ能き首取たり然れども命ながらへて勲功所領にも預らばこそ今日をかぎりの命にて此首何かせんとかしこにどうと打捨馬より下立て暫く息をぞつぎにける扨も富田将監は今年二一歳になりけるが比類なき働きとて敵も味方も目を驚かすばかりなり富田今は主従五六騎になりけるが富田が家老七宮主膳貝をふき旄をおつ取り招きければ敗軍の勢共集り百騎ばかりになりにけりされども痛手薄手を負はざるははつか十騎ばかりなり富田これを見てとても死なんずる命なり時刻不移政宗の本陣にかけ入り討死せんとて各馬に乗つれて政宗の控へ給ふ八ヶ森に押寄せ鬨をつくり堅一文字に切て入る伊達勢も抜つれて富田を真中におつとり包み散々に戦ける程に将監敵を颯とかけちらし一方を切やぶりぬけて見ればはつかに主従五六騎になりにけり将監又敵の中に切て入り四方八面に切て廻り颯と引て見れば七宮ばかりになりにけり扨また二人敵の中にかけ入しが痛はしや富田将監最後の次第は知れざりけりかくて政宗は磨上原に打て出で盛重の陣を見渡せば多勢の備少しも不動しずまりかへつて控へければ政宗これを見て先陣富田将監は小勢を以て比類なき働きこれにつづいて会津勢二陣三陣入替り戦ふものならば味方大に利を失ふべし殊に盛重が旗下勢躁がず備を立るはいか様なる軍法あらんも知れずと暫し控へ給ふ処に片倉小十郎鉄炮百挺計を揃へ敵をば打たず会津方の軍見物に出たる雑人共ここかしこの山のはに居たりしをことごとく打せけり雑人共是を見てあはや敵の方よりも鉄炮を打ぞ逃よとて一度にどつと崩れけり盛重の勢は平田勢かけまけ落行と心得けん又内々心替に有るやらん一度にどつと崩れつつああ佐瀬河内守松本が勢共裏切するぞ片時もはやく落行けとて一度にどつとくずれ一めんに引にけり時に何者かしたりけん日橋を引落しける程につはもの共川中に馬を乗入或は飛込水に溺れて死する程に侍七十五六騎雑兵八百人たちまちに死にけり盛重の陣佐竹の勢は少も驚かずこれこそ侍の役なれ合戦の上にかばねを磨上原にさらすとも名を末代に残すは武士の道なれば最後の合戦ここなりと其勢四百余騎責鼓を打て磨上原に打て出で政宗の一万余騎にて控へ給ふ陣へ会津もなくおめいて打てかかり西より東へ一渡り北より南へ馳ちがひおめきさけぶ其声は上は梵天帝釈下は奈落に通ぜんとおびただしくぞ聞えける盛重の老衆平井薩摩守は敵の首二つ取暫く休み居たる所へ政宗の家の子柴田三郎左衛門馳来り薩摩守に渡り合相打に討て双方共に死にける去程に大縄讃岐守刎石駿河守一散に進み出でかばねは磨上原の苔の下にうづむとも名をば雲井にあげんこと何の子細かあらん如何にもして政宗と渡り合有無の勝負をきはめんと自余の敵には目もかけず政宗の旗本をぞ尋ねける盛重無勢とは申せども今日を最後の軍なればさぞあらんとて政宗も物の具を召替大勢とまじはり責戦給ふ政宗の御近所には山科水田信濃大森とて大力の剛の者御馬廻りを守護し盛重を只一時に取ひしがんと責戦けりされば未の刻より軍始り申の刻の終まで息をもつかず戦しが盛重今ははつか三十騎計に打なされ猶戦はんとし給ひしが両人の家老御馬の口にすがり一先敵をしりぞけ黒川へ御帰り給ふべしとて敵を追ちらす盛重其間に引給ふ伊達勢猶も是を討んと追詰々々責にけり大寺には佐瀬平八郎年十八歳にてふみ止り終に討死す西連寺には大和守敵を追散しこれもここにて討死す其間に盛重は堂島を打渡り黒川へ御帰ましましけり然る所に四天の内より言上申けるは片時も早く城を明け佐竹に御帰り給ふべしさなくば押寄せ恐ながら御首を給はらんと申ける程に盛重力及ばず佐竹勢を引つれ其夜の内に小田山城を打立て江戸崎さして登り給ふ又政宗は大寺に陣をぞとり給ふ

金上遠江守討死の事〕
金上遠江守盛備は津川の居城にありしが政宗猪苗代よりいりしより聞えしかば諸侍に相触るるまもなく手勢十四五騎引つれ津川を打立もみにもんで急ぎけり金上が乗給ふ馬は其頃かくれなきとじよう鹿毛とて早馬なりしに盛備片時も早く急がんと一さんに乗給ふ程に共人つづくこと不叶家の若侍只二人御馬に付六日の酉の刻計に大寺に着給ひて見れば盛重はや打まけ黒川に引給ふと聞えしかば金上家の若党白橋権左衛門を近付汝は津川に帰り子共に此状を見せよとて矢立取出し一通を認て権左衛門に渡しいかに汝事の次第を承れ葦名二十代に当り不慮の軍出来して終に家亡ぶなり今日の合戦に葦名の侍共敵の方に降参しける者多けれども名ある者は一人も討死せず明日は黒川へ移りぬべし然らば政宗の侍共昨日の合戦に葦名方の侍共追討にしたること心地よしなんどいはれんことこそ口惜けれ某葦名の家の執権にて御恩厚く蒙りし甲斐もなく今日の合戦に達はざるこそ無念なれ兎角我は討死すべし汝は津川に帰り子共に申べき様は必ず命を全うし今一度義兵をあげ山ノ内勢を頼み重て本位を遂べしと申せはやはや帰れとありければ権左衛門承り御共仕度奉存候へども一旦此儀を津川に帰り御知らせまえらせんためならば御暇申て津川に帰りけり去る程に金上は馬物の具指かため駒曳寄せ打乗てすでに出んと給ふ処に侍一人来り御前に畏り誰人にて渡らせ給ふぞといひければ金上遠江守と答へけり其時かの者申けるは我は佐瀬平八郎が若党にて候が主にて候平八郎盛重公引給ふ時大寺にふみ止り討死し給ふ我も供すべき身なれども相へだたり候故主と一所に討死せず残念に候我等體の者敵の中へかけ入討死せんも及ばず今までながらへ候処君に逢奉り申こと前世の宿縁と存候御供仕らんと申けり金上此由聞召いやとよ汝は国に帰り平八郎最後の體また我等が討死の様子世人に語り伝へよとありければかの者承りこは口惜き御掟かな高きも下きも武士の家に生るる身の甲斐なき命ながらへて主にて候平八郎が最後はか様金上殿の討死はか様とて何か語り申べき是非御供仕らんと申ければ金上聞召尤さあらば参るべしと引具して只三人片倉が控へたる陣にかけ入り金上六十三と申に討死をとげ残る二人も討死す政宗此由御覧じて金上遠江守盛備は忝も諸太夫に任ぜられしものをとて塚をつき死骸をかくし給ひけりとなん

家蔵本奥書
  享保六年正月吉日                                 菊地氏


                                        (会津資料保存会編)


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