奥羽永慶軍記



奥羽永慶軍記(抄)
 奥羽永慶軍記四十巻付録一巻は、現秋田県雄勝郡横堀町生れ、戸部正直の著わすところで、奥羽両国の旧記と古老の見聞直談を採取し、元禄十一に稿了したという。その自筆本は現存しない。
「奥羽永慶軍記」の成立・背景・概要については、佐久間 昇氏の「出羽戦国期に関する軍記物の系譜の研究2」が詳しい。

巻十五

会津摺上坂合戦、同じく落城の事


〔摺上坂の対陣〕
会津平四郎盛重は佐竹・岩城の人々、田村を攻給ふに付き、加勢として田村表に在陣せられけるが、伊達政宗、会津を攻めんとて猪苗代迄出陣のよし、飛脚到来に付き、取る物も取りあえず、六月四日の未明に須賀川を発足して、田舎道百里を打ちて、其の日の暮には若松に着城す。たとえ二,三日の内に軍有りとも、今日の長途を来りし人馬は、物の用に立つべしとも見えざりけり。元来佐竹父子の人々は、田村の軍強くして味方の討死大勢なれば、会津へ後詰の人数を出す事も叶はず、猪苗代心替る上は、今度の軍如何あらんと諸人ささやかずといふ事なし。然れども、大縄讃岐守一人は少しもあぐみたる気色もなく、大将の前に出で、「政宗が人数何万騎来り候とも、只一騎に打ちちらし候はん。」といへば、盛重、幼少の身にて尤と思ひ給ふこそうたてけれ。抑々葦名累代の家臣佐世・平田・富田・松本の四家、度々軍忠他に卓犖(たくらく)すといへども、大縄・羽石是を敢て挙げ用ひず、我が武功ばかりを表に立て、何の功なき者といへども、己が好まんずる者には、猥に賞禄を申しなして賜ひ、己に背く者をば、幼君を諌め、君命なりとて切腹をさせ、或は知行を取上げ、追放する事度々なり。是全く主君のらるる所にあらず。盛重生年十五歳の人なれば、政道あしきとて誰か恨むべき者なし。只大縄讃岐守・羽石駿河守が計ひにてかくの如くなす事なれば、富田・平田・佐世・松本の一族ども、深く是を憤り、頓(にわかし)て心替りして、究竟の兵十八人、政宗の手に属せんと内通してけり。政宗大いに悦び給ひ、密に軍の評定し、猪苗代を打立ち給ふ。先陣は猪苗代弾正盛国、二陣は片倉小十郎、三陣白石若狭守、四陣成実、五陣は政宗の旗本二百余騎、後陣浜田伊豆守、右備大内備前守、左備片平助右衛門尉都合一千八百余騎、家々の旗・馬印を風に翻し、猪苗代を押出す。勇ましかりし勢ひなり。盛重も同じく五日早朝より若松を出陣して、一番に新国上総介、二番に羽石駿河守・鳴海甲斐・中目式部、三番益子新右衛門・同刑部・阿子島治部之助三百余騎、万代山の南の麓に陣を張る。金上遠江守・荒川長門守・二本松右京・新庄弾正等の三百五十騎は湖水の岸に陣取ける。扨、摺上坂の西の原には大将の旗本七百騎、従兵には大縄讃岐守・尾熊因幡守・本明・太田・小野崎・針生・瓜生・千代・常代・軽徳・栗飯原・舟田・岩井伝右衛門・同内記・檜原主水・大篭・須江・雪・蓮沼・及川・小荒井・深谷・金丸を始七陣に備ふ。然るに、いかなる軍慮や有りけん。新橋を隔ていまだ来らざる者どもには、富田美作守・同六郎・佐世大和守・同勝五郎・平田不休斎・同周防守・同尾張守・同左京亮・松本左馬・針生・須江をはじめ二千人にて扣(ひかえ)たり。是皆心替りの者どもとは後にぞ諸人知られける。かかる事を知りて万づ頼みなき者どもにや、夜前三十人逐電す。是さへ大なる味方の弱りなるに、最上より小国隼人・安食大和守百余騎にて加勢のよし、政宗の陣に駈加はると聞えければ、会津方に気を屈せざる者もなし。

〔伊達、会津合戦〕
去程に伊達勢も三手はなりて、一手は湖水の方へ押来る。一手は万代山の方へ打向ふ。中の手は摺上の上を遙に隔て、旗押立てたれば、左右の敵味方寄せあはせ、鉄炮軍を始む。会津方より猪苗代久右衛門盛胤、父が逆心を悪しと思ひければ、真先に進み鉄炮散々に打出す。中にも坂太郎兵衛といふ者、三十目玉の大鉄炮かるがるしげに持つて出で、暫しためらひ、どつと打つ。其の玉あやまず片倉小十郎が前なる敵三騎打落す。会津勢勝に乗つて時を作り、抜連れて切つてかかる。其の時、先を懸し者どもには木村右兵衛尉・相原掃部助・沢井半蔵・坂太郎兵衛・新国三郎兵衛兄弟なり。米沢勢防ぎ兼ねて一町ばかり崩れたり。同時に万代山の軍も始りて、白石・片倉・猪苗代が備乱れたりと見得ければ、会津の先陣大縄讃岐守・みずから鑓取て懸り出で、四,五人突伏たり。此の時、摺上の下に備たる会津の大将自ら下知し、太鼓を打たせ、中の手より押出し給ふ。続く兵には大縄・羽石・益子新右衛門・同平大夫・二本松右京・栗飯原・本明・小野崎・三森・大竃・太田五百余騎、まつしぐらに討てかかる。盛重若手なれども、生死知らずの猛将にて、ただかけよかけよと団扇取りてす進みければ、味方の者ども悪所をも嫌はず、政宗の旗本を目にかけ無二無三に攻め近付く。されども猪苗代・片倉・白石等備を立直し望ぎ止れば、伊達安房守が湖水の方より横合に鉄炮を打かけ、突いてかかる。大内兄弟左右より五百騎を以て押出し始めば、政宗の旗本近ければ、盛重怒つて直ちに勝負を決せんと進まれけるが、今は遙かに隔てられ、味方の足並あしく、大将も危く見得し所に、横田左兵衛・同権太郎・金上遠江守・荒井長門守・木村隼人・沢井半蔵・同助左衛門、真先にすすみ相戦ひ、三十余騎討死す。此の間に会津の旗本本陣に退き、五手に備を立替たり。されども一方の大将たりし津川の城主金上盛満をはじめ討死数人なり。金上が首をば成実が郎等斎藤太郎右衛門討取りぬ。横田をば大内新八郎討取りぬと聞えけり。かくの如く、軍急なりけれども、葦名累代の臣と聞えし富田・平田・佐世・松本・針生・須江等の十八人は新橋をいまだ渡らず扣れるが、会津の人数を残さず討とらんとの軍慮に、橋の上に薪を積ませ、松明に火を付けて焼立てれば、即時に橋は焼落たり。彼の新橋川と云ふは、万代山のふもと、湖水の末にて、いかなる炎天にも水の干る事なし。其の上、水上の地高ければ滝の如く逆浪立ちて、大石岩角透間なし。盛重前には伊達の大勢峰先を揃へ備へたり。後には橋を焼れて大河の難所あり。心替の者どもは二千余人、裏切せんと待懸れば、進退ここに極れり。爰に平田五郎と云ふ若者、盛重の前に出で、「味方の後陣既に心替り、新橋を焼落し候」といふ。大縄・羽石・鳴海等の者ども是を聞きて、日来の奢とは相違して、色を変じてぞ見得にける。されども大将は少しも驚き給はず、「何と佐世・平田・富田・松本の者ども二心にて有りしとかや、新橋を焼落さるる事こそ幸なれ。惣じて戦は引間敷と思ひ定めても、引くは常の習とこそ聞きつれ。况や後に道有りて戦はば、退かんと思はざる事有るべからず。今は道の無きこそよけれ、味方少数なりとも、いかでか勝利を得ざらんや。いざ一戦手痛く当て、伊達の旗本を追崩さん」と打立ち給ふ。

〔葦名盛重の奮戦〕
盛重の装束は小桜威の鎧に、鍬形打ちたる五枚甲、紅の母衣掛けて、金作りの太刀の二尺五寸ありけるに、虎の皮の尻さや掛けて、黒葦毛の馬に打乗り給ふ。容顔美麗にして、生年十五歳といへども自余の十七,八歳のやうにぞ見え給ひける。十三騎の母衣武者を前後左右に立て、敵陣に向ひて鼓貝を調ひ、みづから先を懸んと進み給ふ。伊達方には成実・片倉小十郎・羽田因幡守相掛りに寄るとひとしく、両陣鑓先を揃へ、命も惜しまず戦ふたり。今ははや会津勢三千には過ぎず。伊達勢は一万三千余人なり。盛重、心ばかりは猛けれども、大勢に囲まれ、散々に討たれければ、遁れがたく覚えし所に、会津の者ども大将を討たじと駆ふさがる。元来今日を限りと思ひ定めし事なれば、一足も引かず相戦ふ。両陣の喚き叫ぶ声天地に響き、山川野頭も動き渡つて夥し。爰に会津の家臣富田美作守が嫡子同将監といふ者、父が謀反をいまだ曽て知らず、今父が方より使来て此の事を告げたり。父は新橋を隔てて陣をとれば、将監は大将の旗本に在りて是を聞き、使に向ひて涙をはらはらと流し、「父上は物に狂ひ給ふか。たとへ君邪にましますとも此千が諌をなし、命を惜まぬこそ臣の道なれ。況やいまだ幼稚の君にてましせば、何をか知らしめされん。皆以て大縄・羽石等が所業なり。然るに今主に向ひて弓引き給はん事、末代迄富田の家に不忠の名を得給はん事こそ口惜しけれ。父は不義を行ひ給ふとも、我に於ては君の為に屍を摺上の原にさらさん。此の由を能く父に申せ。」といひ捨てて、手の者三十人を引具れ、敵陣に馳入れば、米沢一方の大将たりし太郎丸掃部とて剛強の兵有りしが、大長刀を持ちて富田を目にかけ、「御辺は何者ぞ。」と馬に間の鞭を当てかけ廻す処を、「富田将監といふ者なり。いざや組ん。」といふ侭に互に乗違へ、押並んで引き組み、馬より落れば、太郎丸掃部が郎等三人・足軽五,六人落合んとする所に、富田が郎等三十人鑓先をならべ突立る。其の間に掃部を組みとめ、首掻落し、盛重の前に駆来り、見参に入れて、「父美作は心変り候。某は兼て存じ候かと諸人の前も耻しく候へば、只今討死仕候はん。」と又敵陣に走り入る。盛重見給ひて、「将監は父に敵対、我に忠を尽さんと思ふ志の程こそ不便なれ。」と涙を流し給ひしが、将監を討たせじと近習六十余騎を相具し、群り立ちたる敵の大勢に馳入り、縦横に破りて追廻す。会津の総勢大将を討せじと同じく突いて出、火をちらし戦へば、伊達勢も此の時散々に討れたり。

〔会津勢敗る〕
されども、敵大勢なれば尽くる事なし。其の上会津楯裏の人数も敵陣に加はり八方に充々ぬれば、盛重今は勢ひ尽きて旗本二百人を引具し、川を渡り、若松の本城に退かんとす。猪苗代・廻淵・大寺百余騎にて討とめんと追いかけたり。富田将監一騎「心得たり」と取つて返し、追来る敵の真中にかけ入りて討死す。其の勢悪鬼の如く、天晴をしき勇士かな、と敵も味方も感じけり。かかる折節、殿(しんがり)の備へとてもあらざれば、三千人の者ども一同に崩れ立ちて引きとらんとす。敵、幸いして鬨を作り、太鼓を打立て遁さじと追駆る。会津勢、新橋川に行詰り、とても死する命をと踏止まり、敵と組みて刺違ふもあれば、新橋川へ落ちて大石岩角に馬を馳当て、自滅するもあり、歩者は川へ飛入り、逆浪に打倒され、流れ死するもあり。伊達勢も川の中迄追入り、討ちつ、討たれつ、突きつ、突かれつ、多くは河岸・川中にての軍なれば、只凡人の業とも見えず。爰にして会津勢千八百余人討るれば、伊達勢も五百余人討れたり。然る所に心変りの者ども大将を討たんと道を遮り、百六十騎待ちかけたり、盛重、わずか二十六騎にてかけ破り通り給へば、猶も討留めんと追来るを、、菅沼与左衛門・本明主膳取つて返し討死にす。次に平田五郎とて十八歳の若者一人踏止まりて大長刀の石突を片手に堤(ひつさ)げて、前に進む敵を一人薙倒せば、此の勢にやおそれけん、敵の足止まれば引返し、落行きぬ。又敵近付かば返し合、三度まで防ぎぬる間に盛重虎口を遁れて若松に帰城せらる。五郎も頓(にわかし)て追付きけり。敵に新橋の難所を破られしかば、今は敵を防がん要害の地もなく、若松の町溝のみぞ固めける。猪苗代路をば大縄讃岐守六十余騎にて町より二町程出張し、矢羅井(やらい)を結ばせ陣取りぬ。敵方、万代山を廻りて、西の方より取りかからんと思へば、羽石・益子・岩井等二百騎を差添え固めらる。平田五郎・針生静之助をば旗本にぞ置れける。斯る所に、七日の早朝には塩川・及川・三橋の三ヶ城を開きて、若松にぞ人数をつぼみける。

〔会津若松落城〕
政宗、六日の夜は猪苗代に宿陣せられ、七日には塩川の城に移り給ふ。遠藤左馬介は米沢の人数二千余人を催し、檜原口より攻入りて大塩の城を攻落し、七日には塩川にぞ入りにける。今ははや政宗猛威を遠近にふるひ、ますます功名を海陸に施す勢ひなれば、北方・小荒井も城中にたまりかね、おのづから落城す。されども、津川・伊奈・伊方・野沢・川口・横田等は籠城堅固にぞ打見えける。白川口には、長沼の城主新国上総介籠城しけるが、猪苗代弾正・柴野弾正・桜田右兵衛・今泉・西館・壺下・大寺の者ども三千人、かねて案内は知りつ、町曲輪(くるわ)に取付き火矢を射かけ攻近付く。折節風はげしく、余煙天をかすめ、焼立ちたり。新国も聞えし兵にてここを専途と防ぎけれども、今度、摺上の合戦に手の者多く討れ、残る者ども疵を蒙りぬれば、人数少なくして、弓・鉄炮を以て敵を防がんとし、火を消さんとするに叶はず。終に落城しけり。若松にして此の事を聞き、町の女童・老人等も爰かしこに逃隠る。理なる哉。若松と大塩の間僅か八里を隔てて敵七,八千攻入らんと、やじりを磨き、鉾先を揃へ、陣を張る。長沼落城の煙のはるかに見ゆれば、僅かに残る兵どもも勇む気色もなし。大縄・羽石等盛重の前に出で、「既に敵は八方より攻近付き候へば、味方は無勢なり。ゆゆしき軍も叶ふまじく候。ひとまづ常州へ御退き、かさねて御本意達し候へかし」と申す。盛重聞給ひて、怒れる眼に涙を浮め、「今更従弟の政宗に累代の所領を奪はれ、佐竹に行きて何の面目有りて父の前には出らるべき。防ぐ兵なくば此の城にて腹を切らん」と宣ひけり。されども、坐中に在りし者ども理を尽くし諌れば、是非に及ばず、女性・女童を先に落し、我が身以上百余騎を率し、殿(しんがり)して闇川通りして、田島・川崎を過ぎて山王峠を越え、下野国糸沢の宿に着きて、同国烏山にぞ居住せらる。ここにて其の年は越年有りて翌年は天正十八年、殿下秀吉公小田原御退治として御下向の折節、常州江戸崎を賜りぬ。扨も大縄讃岐守己一人が勇力にも叶はず、若松を落ちて佐竹に帰りけるが、諸人彼等を嘲りて、「今度葦名殿没落の事は偏(ひとえ) に大縄・羽石等が奢より事起りたりき。さらば主君を落し奉りて跡に残り籠城して、日来諸人に勝れし勇力は何のためぞと、敵の目に留まる程の軍して若松の城を枕ともせよかし」と後指さされ、大縄・羽石・鳴海等何地ともなく逐電してけり。同じく彼等に同意して悪事を進めし武士どもも、「葦名殿をほろぼし、今ここに来りし」など口々にいはれ、行方知れず成りにけり。誠にへつらう人上にあれば、一軍皆訟といへる事を知らざりけるにや。


山内行部少輔討るるの事

〔正宗、山内定房を討たんとす〕
爰に会津盛重の旗本に山内刑部少輔定房は横田・川口・伊南(桑)・伊北(方)・津川の領主として三ヶ所に城郭を構へ、度々の軍に誉れを顕したる兵なり。会津の先祖盛氏より重盛迄四代の間、越後謙信より今景勝に至る迄二代の間、津川口を攻るといへども、山内、身命を惜まず防げば、会津の地を少しも取られず。
然るに此の度、会津は落城すといへども山内は正宗に従はず。正宗使を以って山内に降参せよといひ送らる。山内是を聞きて、「会津落城の事をだに口をしく、いつか本望を遂げんと思ふ処に、我に降参せよとは推参なり。尋常の葉武者とは異なるべし。山内は得こそ降すまじ。夫を憎しと思ひ給はば、是に寄られ候へ。手並の程をも見せて其の後、兎も角も成行候はん」と返答す。
正宗聞給ひて、「天晴れ、大剛の兵かな。いかにもして我手に入れん。」と宣ひけり。白石承り、「此の時、速に攻めさせ給ふべし。彼を其の儘置給ふならば、終には御敵成候べし。たとへいかなる事ありとも降する者にては是なし」と申しければ、正宗、さらば、「山内退治せよ」とて会津新兵衛尉・原田左馬介・桜田右兵衛尉・中村八郎左衛門尉に旗本三百余騎・足軽五百人差添たり。此の勢八月廿一日に坂の下に陣取たり。柳沢(津)の別当も五十人にて馳加はる。

〔津川城攻〕
此の所、聞えし難所なれば、人馬共に往来自由ならず。敵は爰かしこの山々に楯籠り、弓・鉄炮を打かけ、大石・枯木を投げ懸ける。是に依て味方に討るる者数しらず。敵はいまだ一人も討れず、寄手の中にも会津新兵衛尉は原田・桜田・中村に向ひて「敵の人数を押量るに、よもや千人は有るまじく覚たり。其の故は、山内が領内纔か五十余里といえども、皆嶮しき山々にて土民の営もなき所なれば、谷々に住むとも人数思ひやられたり。味方諸所より毎日馳加はれば十倍もあるべし。然れども切所なれば力に及ばざれば迚、是程の小敵を攻あぐんで日数を経るもいひ甲斐なし。我々存するは此の地の案内知りたる者をして、彼等が後より攀のぼり、鉄炮厳しく打ちかけ麓に追落しなば、味方に利を得るべし。」と云ふ。皆、「此の儀然るべし。」とて、与力の若者三十人勝つて足軽三百人を差添たり。案内者には柳津の法師廿余人、遥の山を経廻り、鉄炮・太刀・刀をば皆竪ざまにして背中に負て、古木・大木を分け岩角を踏て、万仭の深き谷を上り、やうやう辛苦して敵の陣取りたる峰にぞ着きにける。思ひよらざる後より鉄炮さんざんに打ちかかれば、「馳近付て手詰の勝負にせよ。」と下知する者もあれども、峰々も猶切所にて、輙く近付き得ず。遅々する間に討倒さるる者若干にして、残る人数はふふ逃る儘に、皆本城にぞ楯籠りける。
かくの如くして五ヶ所に陣取りし峰の敵を追払へば、山内が本城に押よせ、四方の山々を切取り、前後左右より攻詰たり。時に大将山内刑部少(大)輔定房・同小太郎、馬上・歩者三百人城中より駆出で、爰を専途と防ぎ戦ふ。されども多勢の事なれば悉く討れにけり。
山内、手勢みな討れければ、今は是迄とて纔十四、五騎切つて出て、大勢の中へ少しも猶予せず割つて入り、縦横に駆通りしが、爰かしこにて敵に取籠られ、一人も残らず討れにけり。されども相残るものども、津川に籠城して終に落城なし。


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