伊南軍記




伊南軍記
本書も天正十七年(1589)、猪苗代の摺上原合戦の後、伊南の領主河原田氏と伊達勢の田嶋の領主長沼氏との戦いを記したもので、伊北軍記と同じく「泉忠記 会伊軍篇十四巻」と内容はほぼ同じですが、本編のある伊南勢による立岩攻めの記述は「泉忠記」には記載がありません。現在「泉忠記」は十三編、十四編のみ見つかっており、会北軍篇十三巻が伊北軍記、会伊軍篇十四巻が伊南軍記にほぼ同じです。




伊南河原田小林の城を攻る事
河原田盛次と長沼盛秀軍起の事
伊南勢恥風へ取出を構并田野瀬鬼丸へ加勢入事
久川城へ伊達勢寄る事
伊達勢伊南より敗北の事
伊南久川の城へ越後勢加勢来る事
伊南より立岩を攻る事
政宗勢重而横田へ攻来る事


〔伊南河原田小林の城を攻る事〕
河原田治部少将盛次家臣共召集て曰、伊北の城主当方と一味誓約する中に、布沢小林心を変じ伊達勢を招入先駆致す事不義の次第也、簗取は是非無く降参し五十嵐掃部をも助れば、彼において悪からず、殊に彼等先駆にて和泉城攻和泉一党悉く忠死する事不便の至也。当方より加勢早く不遣しも無念也、夫共も越後加勢後詰せば落城はすまじきに、兎に角和泉の運の極也、然れば、一には和泉教養の為、二には我かくて有ながら彼逆徒等に我ままは振舞せじ、其上小林の城へ政宗より警固置るる中に、我等譜代の家来木伏紀伊父子させる恨もなきに、己が非分重畳せるゆへ、木伏を立退南山へ走盛秀が手に属す。今父子共に小林に有由、前代未聞の逆意也、彼と云是と云二瓶兄弟木伏父子が首をはね鬱憤を散すべし。しからば横田へ飛脚を遣し牒し合、前後よりはさみ攻べきに極、使を立しかば、横田氏勝悦び明日勢を遣すべしと返辞す。八月二十六日伊南打立兵には河原田馬場党都合三千余騎、家臣馬場安房守大将として雑兵五百余、鉄砲鑓長刀を持打立小林にても聞也、火明曾根の下を伐ふさぎ、二瓶主水を大将として堀金角田軍兵を率し堅めたり。寄手簗取仏井路に架しが、節所を堅められ早速寄がたし、狭路に列り鉄砲打かけ詞戦計也。安房守馬乗出し、是は盛次の後見馬場安房守也、いかに駿河守聞候へ、兼て伊南伊北一味誓約を契ながら、伊達へ引替事本意にあらず、剰(あまつさへ)伊北へ敵を引入事奇怪也。就夫兄弟が首を刎ん為只今安房守向たり、とても遁まじ能に働討死致されよと大音に呼る、小林の陣より黒き鎧着たる武者すすみ出云様、唯今物々しげに名乗は安房守か、めずらしや、斯く申は堀金助左衛門と云勇力の者也。弓矢取身の習むかしもためし有、入ざる我慢を働すとも此方を便(たより)に降参し命を続然るべし、是非敵するならば勝て後荒言吐とののしる。寄手せき立とも路細して平場なし、木戸際の右は厳石左は切岸にして大河也、瀬枕打て波逆まく、安房守手立を替攻せよと下知すれば、若武者共山の平をつたひ登、いただきより大石枯木ころばしかけ百人斗にて放し掛れば、中に留る所もあり、急に落る所も有、小林勢一度にどつと引去れども、助左衛門木戸口踏留り一人にて防しが、大勢落重れば叶ずして引処に、岨より攻下る兵跡をさえ切、前よりは突かかる、堀金水練の達者なれば、岸の上より淵へ飛込、寄手矢を射かくれどもあたらず、堀金水底をくぐり迯(にげ)川下にて上り堀内に至る。伊南勢堀内へ押詰馬場若狭一陣に進勝負せよと云、堀金聞て、一手吟味いたし某秘蔵の矢を進らせん、矢坪(壺)は何所と云、若狭此すねを射よとたたく、堀金見て若狭尾籠也、何とて矢坪を下すと云、若狭答て太刀にて勝負を決せんと思ひしが、聞けば心の劣たる武士なれば矢坪下たると云、堀金はにつくし手並の程を見せんと矢を打番若狭も山へ登る時、馬乗放せしかば徒立に成矢を横受んと弓杖にすがり身を平にして待懸る、堀金精兵にて長矢束なれば、三人張に十三束三ッ伏せねらひすまして放せば、羽鳴して矢陣違ず左のこむらにはつしと当りくつと抜、右のすねへずんと立、敵味方鳴をしずめて居しが、射たりや堀金と一度に咄(とつ)と誉る。若狭聞る剛者、其矢を抜ず能射たりや堀金、我も当の矢を返すべし、矢坪は何所と云、其方には坪を上て取らせんと草摺巻上右の高股打たたく、若狭能能引て放せば、是も矢坪をたがへず箆深に立、伊南武者共射たりや若狭名誉の手利(てさき)とほむる声、しばしば止ず聞けり。堀金事共せず、矢を抜捨けれ共矢の根は股に留りけり、若狭は痛手なればこらえずして倒伏、堀金首を取んと掛れば、伊南武者多く小林勢も助左衛門討すなと取て返し、平に鑓長刀にて戦所に、菊池紀伊守が棄し馬口強して常に驚しが、此戦に驚手綱掻操打は込みあをれば、なおも飛はね狂廻り余に強くうたれ、寄手の中へ一さんに飛入けり、伊南勢は日頃心にかかる紀伊なれば、天の与る所と杉岸右京進討取血祭よしと悦びけり。馬場が討たれし矢はやうやう抜とり肩に掛退けり。堀金はここを最後と戦へば、伊南勢弥重り矢疵もいたみ不叶して引退、伊南武者競かかり追行、又菊地右馬介は父をうたれ一所に討死せんとや思ひけん、振返りみる所に伊南武者押詰、右馬介めづらしや、汝等父子伊南を汚し主君を後にして欠落して怨敵と成盛秀が手に付此処へ来る事因果のむくひ、紀伊も討取たり汝ものがれじと追詰、右馬介太刀抜持て渡り合しが、大勢打寄父子終に討取し事伊南武者の誉れ也。扨又小林軍兵は本城さして引籠、此要害俄拵なれば柵一重にして四方木立也。伊南勢透(すか)さず押寄凱歌を上攻詰る。要害よりも石弓大木放しけれども、山急ならず木立なればあたらず、柵際に着、城中より鑓長刀にて防ぐ、伊南武者剛にして鎗を合矢を討込、四方より取囲柵を乗乱入火を放焼立れば、城中我先にと後の木立を逃行寺岡山に籠けり。布沢上野も伊南寄ると聞て、布沢より寺岡山表へ着陣す。伊南勢是を見、あれ蹴ちらせと我先にかかる、上野武功の弓取にて少もおどろかず備を構待掛る、安房守下知してすすむは押へおくるるをすすめ、一同にかかれとて先手少々弓射かくれば、すぐに鑓を打入たり。布沢も鑓を合せ戦ふ処に、伊南武者一面に抜き連戦ふ程に、布沢小勢なれば追立られちりちりに逃行上野只一騎卒をはなれ引退く。道祖神を過行ば、横田勢内越峠を下り新久沢を下り先達の小旗ひるがへる、跡よりは伊南武者共此奥也、布沢殿返せ戻せと呼る、横田先手是を見て上野小林へ加勢し追つ帰さると覚たり、先きを遮ここにて討取、去る頃主君氏勝布沢にて卒を離辛き命をのがれ給ふ、其鬱憤を散さんと我先にてすすむ、上野是を見て跡より先は大敵也と、橋の際より引返して又跡へも叶ず、山際を乗返し乗もどし二三遍走廻る、伊南武者我先にと追廻せば、上野馬の達者にて、大勢を切払ひ馳通つて馬の足立見すまして寺岡山へ乗上る、伊南勢も横田勢も上野を討洩す事誠に網の魚、籠の鳥を逃すがごとし。上野駈上る処至て嶮して、中々常人の及所にあらず、扨馬場安房守曰、寺岡山の要害俄に構る事なれば、堅めも強からず、逃散る者とも今集ると見ゆ、備へ定らざる先に攻登れと、螺を吹大鼓を鳴し攻上り三方より攻立る、城中も三方へ分つて防しかども、西南の手を攻敗られすぐに山路を経て布沢へ落るもあり、苅安の方へ落るもあり、伊南勢布沢口迄追行けり、かかる処へ横田左馬允仲丸新蔵人将として三十余騎須佐菅家党雑兵率し三百余騎にて布沢口へ推(押)出、橋前の原にて伊南勢に対面し、此軍に手合せずしてむなしく帰らん事無念也云、伊南勢は勝とき上て帰陣する処に、小林の敗軍等火明曾根の脇なる茂みに忍入、伊南勢の殿(しんが)りの者共を打留、高名せんと隠居る所に、馬場兵庫助十七才心剛なりしかど、させる高名もせず無念に思ひ迯散奴つ原見出し討んと、わざと後れしづしづと引処に、火明曾根に隠いるものども密にしたひ出、兵庫助が仏井路へ乗下所を跡より追掛肩先を切れば馬驚駈出す、兵庫振返見れば、五六人追来る、引返して蹴倒し討んと思ひ、味方を呼ば馬上一騎雑兵四五人引返す、兵庫助会釈もなく一文字に乗掛れば、川原を差て迯行所を二人にて駈あをりければ、川へ飛入々々迯(にげ)る、兵庫助川乗込弓差延て首を引掛打をとし、雑兵にもたせ味方の陣へ帰ける。

〔河原田盛次と長沼盛秀軍起の事〕
伊南河原田盛次は葦名の幕下として、伊南二十三郷下、立石十六郷合て三十九郷を領し、小身なれども藤氏大織冠より五代の孫、鎮守府将軍秀郷十三代の後胤、結城七郎朝光の男阿波守朝村子長広始て野州河原田の郷にうつり、夫より、代々在名を氏として中頃の祖伊南の郷を賜って爰に移り、十代目の孫、河原田筑前守盛次其舎弟杉岸右京進顕信盛政の一子治部少(輔欠)也、当六月屋形義広御退城の後政宗黒川へ入会津を押領せらるる間、南山長沼盛秀より飛札を以被申けるは、会津先方平田富田を始ことごとく政宗へ降参いたし候、御辺も早々御味方に参らるべし、御前の儀は某能様に取持可申と也。盛次一族郎等を集評議しけるに、老臣馬場安房進み出、乍憚(はばかりながら)某存候は、いかに世移時衰ヘ葦名家へ陪臣同前に御成候へばとて、まさしく藤氏結城小山の流にてましませば、自余の武士とは替るべし、然間先年仙道安積において政宗間者を入、無二の味方に属候はば山八郷永く可進と様々申越るる時さへも御承引なく、今更義広没落有ばとて其怨敵たる政宗へ降参の儀某においては不存寄候。且義の有所に随此館を立退給へ、久川の城に楯籠道の詰りに勢を分遣し敵を防がるべし、元より上杉弾正殿は御懇意にて侯程に御旗下と成り給へ、後詰の勢を申受御防可然侯、御一門郎徒の人々いかが思れ侯(と)云ければ、満座此儀に同ず、安房守悦び各一致の者頼敷侯、先年盛次御幼少なれば迚、御父筑前守殿冨田左近将監の御子五郎殿を河原田の御代続に乞給ふゆへに、先は伊南の御主に仰(せ)しかども無程盛政御死去也。其後盛次御成長なされ皆々譜代相伝なれば、誰か御主に用ざらんやと、冨田五郎殿をたばかり三日町へ送り返し伊南へ再寄せざる間、左近将監大に怒り、会津四天の老臣と云一族多ければ両年大軍を催し攻来れども、伊南より中途に出会多勢討取押返す、冨田弥いかり屋形の御勢を申受一族他家迄駈催し、数千の軍兵冨田五郎を大将として寄来る由、河原田一族家臣差つどい、五郎二度の戦に負立腹此度三度めなれば、大軍を率し平場にては利を失ふべし、宮沢尾白岳に要害を構へ、楠が千早の城に籠しことく敵を欺べしと、評議をきはめ、尾白獄を拵る。三日町勢南山を出寄来る由風聞しければ、盛次の殿りは河原田大膳大切の勇臣なれば、しずしずと尾白獄へ行所に、三日町先勢程近見ゆ、大膳曰、敵時刻を移さず城を責べし、しかれば白沢の轟橋を引はづさば爰にて遅々すべし、其間防支度致、要害に待かけべしと、大力成ゆへ安々と橋引はづす所へ、冨田五郎騎寄、河原田大久しや見参せんと云、大膳は珍しや五郎殿、両年ながら追返され又御発向神妙也、其秘蔵の矢参らせんと、十四束三伏打番切て放せば、其あいだ六反計隔て五郎が乗たる鞍の山形射欠き、草摺弐枚射切つつ股を摺、登の山際へ羽振してずんと立、寄手は大膳の矢に怖進ず、大膳橋引はずし宮沢へと急ぐ。然所に棚橋何某と云兵十文字鑓を持、抜駈して川を渡し、一宮辺へ来る、鑓遣の南泉坊得たりと取て返せば足軽も引返す、南泉鑓を合秘術を尽、味方多きゆへ棚橋突落鬼藤内首を取皆々尾白獄へ引籠、此要害右は岨つづき木立茂り所々を堀切、左は嶮難後は急にそびえ、前は百余丈の崩岩攻上様なけれども、剛兵おめきさけんで、攻上る所を、要害よりは能き図を見すまし、石ゆみとう突切落せば寄手麓へなだれ落、五郎いよいよ無念に思ひ、早石ゆみも尽ぬらん、城中は味方の五分一にも足まじ、一散に破れとて新手入替入替攻登る。要害よりも得道具引提打て出る、大膳はひわだ色の羽織着ざいを持下知して曰、敵を間近く引受大石大木のぎ棒を投かけ、ひるむ所を手いたく討べしと勇進て出、寄手岩根を押へ柴手に取付岩の崩を登程に、弓鉄炮も放得ず大木大石にて打ひしがれ手負死人数を知ず、是に僻易し崩下る所を、足軽共楢の木棒長七八尺、めくり尺計成るをのき先に作、熱火にて煎手々(てんで)にかかへ、敵を目の下に見おろし手突にして追下す、寄手敗北し麓を差て迯下る。味方透(すか)さず薙ふせ突倒す、猶も迯行処を宮沢表へ追乱し、爰に追廻し討程に、いたはしや五郎又討負、伊南川を渡り辛き命を遁落けり、残兵這々(はうばう)迯行所を、伊南勢勝に乗追程に、小塩白沢木伏新田山口迄切付る程に、一日の軍に寄手三千余討取、是伊南武者の大功也。今又若武者の尽力抜群すぐれ申候と談じけり。盛次義を鉄石よりも堅く思、則盛秀の方へ返答には、承る趣自余の思案はともかく、武士の家に生れ二張の弓引く事某においては仕間敷と強き口上返翰なれば、盛秀立腹し黒川へ参、政宗の御前に伺ひし、盛次方へか様申遣侯処悪くき返答に侯と返状を披露し、願くは伊南領を某に下賜侯はば、自分の意趣と申盛次を討領知仕度と望申す。政宗不及子細同心有しかども、先布沢上野が元へ行伊北の一族輩を一々攻干(ほし)、其後伊南を攻侯得と仰に依り延引せり、扨盛次は長沼方へ手切れの返辞あれば、定て大軍来るべしと久川の城を丈夫に拵待かけたり。

〔伊南勢恥風へ取出を構并田野瀬鬼丸へ加勢入事〕
南山盛秀は伊北へ攻入簗取を手に入、泉田の城を攻落し黒川へ帰陣し委細申上しかば、今度の忠勤他に異なれば、内々其方望に伊南を攻自分の力を以討領し度由、其方一分にて中々叶まじ、伊北にて千余の軍兵討死す、増て久川の城は要害宜由、大軍を以責るとも即時には落まじ。況や泉田落人も可入、景勝勢も入べきなれば容易には攻亡がたし。我発向せんと思へども、諸方に余党多ければ名代遣さんと大将に柴田但馬守草野備中守宗徒の兵三百余騎、長柄百筋弓二百挺鉄炮千挺雑兵三千余人、長沼弥七郎盛秀は先駆可仕と田島へ帰り勢を催しけり。宗徒の侍には湯田采女生・同仁右衛門尉・星玄蕃允・堂本上総介・児山丹波守・金井沢左衛門尉其外長沼一族并室井渡辺辺見大竹猪股君嶋彼是七十余騎雑兵八百余也。盛秀諸士に向つて今度河原田を討て伊南領を合、旧功の者どもに加増を恩賞すべし、随分忠勤を励べしと有しかば各勇気増けり。去程に伊達勢田嶋へ打入評儀相究、滝原より中山峠にかかり立岩上郷へ入、伊南へ可入との定也。此事伊南へ聞へければ、立岩川を前に当恥風に取出(砦)を構、鹿垣逆茂木を引、土手を築柵を結、柴束をならべ用心専也。大将馬場安房守・河原田掃部介・嫡子杢之助・小塩尾張守・同弾正忠・同芳賀内膳亮・高屋敷大学・大炊助・白沢浜野左衛門尉・宮沢下総守・山口是皆河原田名字の内也・馬場の鴇巣の外記・同蔵人助・宮床四郎左衛門尉・同杢右衛門・水根沢清左衛門・中小屋勘解由・大新田坂井周防守・嫡子助兵衛・二男新左衛門・下田左京助・木沢右衛門尉・佐藤源助・赤塚讃岐・落合菅家上野介・嫡子右馬助、小立岩長門織部、大桃辺見右京・同九郎左衛門、檜枝岐星土佐・同越後を始として、ひたかぶと(直兜)三十七騎は、他所出る時軍役の定也。今度は他戦なれば其庶子野武士等迄器量を撰、馬上百五十騎余、伊北沼田の加勢三十余騎雑兵二千余引率してささえけり。大将安房守也、近年立岩衆は伊南へ随、就中今度は立岩二十三郷不残一味して湯岐郷木賊郷十六郷者とも田野瀬鬼丸に要害を拵籠処に、上立岩八郷は盛秀領知成れ共、盛次へ一味の由聞へければ、様々手を入なだむるにより又盛秀へ一味の誓約極けり。下立岩の十余郷も同郷なれば上立岩より間者を入れすすむるに依、忽心を変じ皆盛秀へ属しけり。去間謀にて一味の躰に伊南をたばかり、田野瀬鬼丸へ伊南勢さそひ出し、留主の所へ森戸より大内沢を経て伊南へ入んと也。扨木賊の郷の者共恥風へ来りて云様、伊達勢立岩を攻ふせ伊南入べき由なれば、先々鬼丸専かため給へとたばかりけるを、伊南勢ゆめゆめ知らず大勢詰掛る。扨盛秀は大軍を率し田嶋を打立、滝原より中山峠を越、八惣森戸へ押出す。兼て相図の事なれば、八惣丹後岩下備後阿久津主水精舎丹波伊予戸土佐熨斗周防森戸備中抔待構合、地走案内して森戸奥へ引入、大内沢へ出只見鼠坂に旗指物ひらめきければ、盛次久川の城より是を見恥風へ早馬を立るに、敵段々勢揃してことごとく放火し、白沢まで焼立る。鬼丸にては伊南の火の手を見てあやしむ処に、次第に烟うづ巻ければ各恥風に引下す、河原田左衛門佐は実否も不知とて留る処に、田野瀬源内左衛門勇力の者にて左衛門は右の手を捕へ物語する処に、郎等小次郎鑓取直し源内の胸板へ突掛、武士の利手を取事聊に也、主人を手込には思ひもよらず放ぬかと云、源内は粗忽なや小次郎互に懇意の中也と飛去しが、大太刀を抜左衛門を討んと懸る所を小次郎心得たりと押隔、其時左衛門は後の巌石を飛下大原山へ出帰けり、扨早馬恥風へ到着し敵大勢大内沢より来る也急き引返侯へと云。伊南勢取あえず馳帰、扨又馬場安房が家人用事有て屋敷を立廻るに、敵来るを味方と思ひ、油断して見処に旗指物替りし故敵と知河原を差て迯川へ飛入所、児玉追かけ長刀にて駈倒し首を取、盛秀是を見雑兵なれども軍神の血祭よしと悦けり。

〔久川城へ伊達勢寄る事〕
天正十七年八月二十八日申の刻斗に伊達勢襲束、しばらく扣しかば、久川城より見おろすに旗馬印五色に散乱して雲霞のごとし、即時に寄せ攻るならば、落城すべき所にしばらく時を移けり。女子はわななきあきれ果たる有様也しが、盛次の乳母に川崎袋方とて、女性なれども心剛に才覚有、鎧引懸髪振みだし、鳥帽子を着太刀を帯長刀持て表にすすみ出、屏風障子等取出させ布子帷子打掛、白米をそそぎくだしつつ馬の湯洗を真似けり。若女原は武者に仕立、木太刀棒杖横へつつ、竿や熊手をもたせ表の方に立廻る。漸城中に有合兵には、鑓遣の南泉坊精兵蓮花院手乗馬場兵庫是は一昨日小林にて手負しゆへ留置、何れも甲冑弓矢にて多勢の中より抜駈したる風情し、只三騎城中より乗下し伊南川の岸に少し取出(砦)を構置其楯の陰にて馬より下り扣たり。扨城中には大将盛次斗にて諸士の妻子下郎等斗にて堅めたり。老人童は内に差つとひ、ひしめく処に、宮床四郎左衛門の妻小ざかしき女にて小袖帷子とき縫旗指物に仕立四壁の木に結流、山風に吹靡せければ寄手は越後勢の加勢と心得寄ざりしは盛次運の強也、城主も表へ出、多数の女共に下知して駈廻る、扨寄手も勢を乱さず、先陣南山勢、二番に長柄、三番に鉄炮、四番に弓、五番に騎兵其外下知に随い二行に列寄来る、伊南川の南北の岸により螺を吹立大鼓を打て鯨波を上れば川瀬にたぐへて夥し、去ども城中無勢なれば、鯨波をも合せずしづまりかへつて音もせず、寄手不審して渡さずして城と取手にむかい鉄炮打かけしかど、城は遠し取手は楯柴束の陰なれば少もあたらず、先陣児山丹波湯田采女ひたかぶと五十騎斗前後にすすませ、向川原を川下へ馳行、川瀬を見すまし渡さんと馳行処に取手より呼る様、爰元には南泉坊蓮花院馬場兵庫扣侯也、人々御名は誰ぞと高声に呼る、向川原には黒なる馬のたくましきに乗たる武者駈出、是は何れも御存知の湯田采女にて侯と名乗、蓮花院扨も不珍田嶋勢かと云もあへず長矢束打切て放せば、湯田か歩立一人射倒す。兵庫も南泉も、負じ劣じと射ほどに、矢庭に八人射倒しけり。去ども采女にはあたらず、敵川をわたし小勢を取籠討ん事と安く思へども、たばかつて川を渡させ城より突て出打取らんと巧むらん、只鉄炮にて打遠矢射よと、矢軍に時刻を移隙に恥風より帰る勢一宮辺に見えければ、是は上州沼田の加勢かと弥気をおくれし進得ず。伊南勢は小塩表より城中へ乗入る、寄手大将是を見て今日は日暮也、殊に士卒は山路に労つ、明日攻んと引返す。南泉坊蓮花院は只三騎おぢて迯行かとののしれども、とがめずして引退き道場小沼千刈に陣を張る。然処に北原忠右衛門と云侍伊南譜代の者なりしが、盛次の勘気を蒙り無拠盛秀に仕しが此度案内として来、つらつら案するに我あやまりゆへ主の勘気を蒙、今新主に忠を尽し古主に弓引事義にあらず、其上伊南に一族多し、此度帰参し歎申さば、御宥免有べしと寄手を駈抜久川へ趣、城にては敵か見方と見る所に、是は北原忠右衛門にて侯、日頃の科(とが)御赦免あつて召仕るる様傍輩中御詫可被給と云、城より招入れば、北原馬より下り城に入盛次へ見参す、譜代と云敵方より来りしゆへ前かどより情深仕れけり。其夜城中より足軽之内云合、敵陣へ忍入彼方此方窺しが、所々かがりを焼拍子木打用心巌、おびやかすべき様なし、鶏鳴の頃かがり細く成行ままに忍寄見れば、長沼は万福寺と云真言寺有、是は糸沢龍福寺隠居なれば、師檀のごとく懇切也、忍者とも見るに住持もなし盛秀は盃扣て物語し小性銚子を持侍三四人伺侯す。下陣に鞍置馬四五疋繋舎人六七人居眠。是は能奪物と厩へ入、たくましき馬薩摩清兵衛馬場久内密にはづなを切れば、渡辺源左衛門木伏甚左衛門跡より追出す、熊坂式部森九郎左衛門打乗二疋奪取馳出、富田山の下にて大音上げ、只今南山殿の御馬を所望仕誰彼乗出たり、止てみよとののしり、白沢の方へ馳行、熊坂弟馬場太郎左衛門同太郎太郎右衛門其外夜討も叶まじ、敵を驚さんと敵の焼残したる門前は敵と一味なればとて、火をかけ凱歌を揚れば、陣中馬噪立皆々引帰れば、手柄也と盛次褒美あり。

〔伊達勢伊南より敗北の事〕
明二十九日数千の軍兵かわ河原に充満すれば、城中にても宵の腹立に敵は未明より寄べしと、五手に配川岸に対陣す、鯨波の声矢さけび震動し、鉄炮大豆蒔くごとし、去とも川端広ければ、掻楯柴束等に留る、扨夜前奪し二疋の馬に究竟の乗手乗出し大声上し、南山殿と伊南は合壁にて御懇切也、しかし盛次不如意にて馬も事欠侯処、御秘蔵の馬給り痛入侯、只今首を取血祭せんとよばはる。小塩表に扣し中より芳賀内膳味方を援、旗を先立、川へ打入れば、寄手も中川へ出戦ふ。内膳旗を奪れ一町斗追行、旗持も無念に思ひ追返し旗を取返し馳戻す、旗持川端にて討れ内膳は追来、兵と引組川中へ落、上を下へと組合、馬場安房守は内膳討すなと下知す、四五人左右に立渡うちに内膳首を取立上る、寄手又川へ打入打入切掛る。内膳敵と組とて大河ゆへ押流され、遁(のがれ)川下に踏留、其間に馬場安房守川を渉ば、河原田馬場党打続川中にて戦、岸へ追上げ河原すすめば安房守制して内膳引れ引取、又青柳表にも川を隔弓鉄炮のせり合にて詞戦斗也しが、寄手剛兵多有ながら昨日今日はかば敷軍せずして帰も本意ならず、川を渡し一合戦して高名せんと轡をならべ、五十騎斗川へさつさつと打入渡る所を、河原田大学同左馬助椙岸右近進馬場蔵人佐同兵庫を始剛兵二十余騎、我先にと打入打入川中の防戦、元より川馴し伊南武者なれば、終に追上続て追大膳の旗持木伏内匠と云もの敵中へ乱入旗を追立る、味方喚てかかる所に小檜山勘解由と名乗切て入、左馬助火を出し戦しが、双方太刀の手利(てきき)なれば更に勝負なし、寄れ組ん、尤と馳並引組どうと落、左馬介上に成小檜山刎返さんとするを押て首を掻指上る、敵は見て二騎一同に切かかる、左馬介危く見へしかば、馬場蔵人打てかかり一人討取味方弥競追乱す、大膳見て引取れと下知し一度に引、盛秀あきれて今更引んも無念也、兎や角と大将柴田但馬守草野備中守に向、敵は城中に加勢多く働きよし、味方は大河にささえられ殊不案内也、いかか思召と云柴田草野は兼と御辺の詞に相違せり先城の右葉岨続なれども堀切土手を築逆茂木引て見ゆ、左は久川くじき流、後は谷逢也、離れ山あれども是も要害に構る由、たとへ川を渡共前は岸高して攻がたし、又長陣の叶まじ、第一粮の運送遠し、二には敵案内を知水陣也、夜討におびやかすへし、然に御辺は一分にて伊南を攻んと望まれしかど、大事と思召我々に大軍を遣さるれども、其甲斐なけれども引より外の事あらじと云ふ、盛秀時刻移ては長途引がたし、先此度は勢を打入攻亡んと、さいはひを跡へ振れば、前後左右一度に崩乱引、伊南方は敵退ば駒戸を越べしと、つまりつまりに二ヶ所伏勢を置けり、扨小塩表に有し河原田弾正・同下総同大学頭・同大炊助・同左衛門尉・芳賀内膳佐藤源助・羽染越中・星菅家辺見党七八十川を渉し追掛る。しかるに河原田大膳亮下田左京は青柳河原に有しが、今日させる高名せざれば、おくれ武者成とも打取んと馳行、寄手は道場小沼の方へ引退、後の山根へ付て木伏方へ越行、味方は山の尾先を遮んと道場の前本道を馳て追行、かかる所に南山折橋の住人星久三郎、心剛なるゆへにや跡を仕舞とかくせし間に、味方遁退過す、伊南勢に跡を取きられ為(し)方なく、只一騎小沼の末より引返、立岩を帰らんと心がけ馳行、大膳左京是を見て悦、馬に鞭打とみに繰て追掛る、三郎白沢に至川を渉所に、二騎にて追かけ戻せ此興(ひきょう)也勝負せよと云、星も聞る剛の者心得たりと太刀抜持て二騎も並て互に名乗突鑓を、切払受つ迦つ秘術を尽せども、久三郎大膳が鑓を受損じ突落さる。扨又青柳河原の勢は川西を直様に先を遮討んととて馳行ける、爰に山口若狭は四日以前小林にて両す手射られ痛手にて家に居けるが、昨日今日案じ暮して居しゆへ、不行歩なりとも馬上こらへざる事有まじと、鎧着太刀帯馬に乗り大新田より木伏の方を見れば大勢乱来、すは寄手敗北するぞと扣る所に先立兵来利何者ぞと云、是は馬場若狭とて伊南の剛者也と答れば、口過やつ哉、矢一筋取すべし矢坪は何所と云は、爰を能射よと物こりもなく膝を打たたく、射矢を切落さんと待かけたり、己人を賎み矢坪下るは憎けれども、望に任んとねらひすまして射れば左の膝をすつて通る、若狭打笑能敵をば射はづす習はしと河原を差て馳出す、敵無念に思ひ乙矢せんと追かくる、若狭聞て幾度の人任に射らるる者は有まじ、汝ごときの矢先に此若狭は叶まじとあざわらつて川へ打入味方の中へ馳加る、川西を追行伊南勢は大橋の上平岩の瀬を渡んと打入処に、伊達勢の鉄炮大新田の川端にささえ百余挺筒先を揃構しかば、引返し川下へ馳、川東を追伊南勢坂井周防を始として佐藤辺見星菅家追立々々追かくれば、我先にと迯行所に大橋の橋際上河原に足軽野武士一群ささえたり、川西を追来馬上も半ば踏留り、大新田の下川端を打列、迯行敵を鉄炮打かけ一騎打落、横矢射掛しほどに、手負死人多ありて馬噪て横切て山根を差て崩行。去共鉄炮四五挺踏止り向河原に支る敵を打んせしかば、伊南そこをも開退、扨山崎の天狗岩川岸はいらいが崎とて節所也、山根に付先は退けれども、漸二十歩斗成る所を大軍押合行、天狗岩の頂より時を作りかけ大石を転し、礫を投矢を射かけ、向川原よりも凱歌を会、敗軍僻易し袋の中のごとき所を押合々々迯行、川西方より馬場兵庫小林にての痛手いまだ止ざれども、抜馳せばやと馳出れば、同四郎左衛門同杢右衛門同蔵人兄弟木沢右衛門尉河原田杢之介同左馬介杉岸右京北原忠右衛門尉、其外の勇士先を争船渡の下広瀬打入々々兵庫先陣して馳上れば、二十余騎我劣じと乗上乗上追番、敵は本道味方は細道を追行、敵の跡間原(まばら)なる処へ追詰れば、敵もさすが剛の者、星玄番湯田妥女やさしや伊南武者ども夫討捕と星湯田脇へ開、大返しに引返す、伊南勢せんどと戦う中にも、馬場兵庫は赤革の鎧着て鹿毛成る馬に乗つたる武者と渡合戦しが、互に手利の大太刀、押並で引組どうと落、兵庫若年なれども早業にて、落より早く乗掛り首を取、舎人脇に警固し馬に乗る所に、伊達勢跡より落重なり、伊南勢を取入討んとす、危く見へし所に川東より坂井周防真先かけ佐藤源介逸見星菅家の兵、又跡より切かけしかば、伊達勢の殿りは前後の勢に取切られ、引立たる痛として引んと斗心掛しが、剛兵も多ければ、追つまくつつ四五度戦、伊達の弱兵ども裏崩して見ゆるゆへ南山剛兵もたまり兼、是を見て星湯田も叶ず思引取猶も追来る、又山口堰場は右は山屏風立一騎討の狭道なるに、其頂に伏勢待かけ大石大木落掛る、跡よりは追我先にと迯行、味方勝に乗押立々々山口入小屋の橋の上岩のかげ際迄切付る、敵も流石にて此節所へ追来らば打んと、鉄炮二百挺にて待かけしが、馬場蔵人云様、ケ様の節所を追行間原(まばら)成る所へ、敵に返し合さるれば多く討留者也、是より引返せと制し凱歌を上引にけり、去程に光明院塚といらいが崎の間の合戦、山口迄の追討に敵の甲首八雑兵五十余人討留、味方には大桃右京雑兵二十余人討死す。

〔伊南久川の城へ越後勢加勢来る事〕
只見水窪に越後加勢数千楯籠間、急ぎ久川へ加勢給様にと数度飛札を以乞けるに、加勢の大将木戸玄斎登坂甚兵衛尉云様、伊南河原田と南山盛秀義絶たるといへども、古来より入魂の中と聞及其手切の印を見ざれば覚束なし、とて加勢越さる間、両日の戦に討取名字首二十余もたせ、同二十九日上杉弾正殿へ書翰を認、川村彦右衛門尉披露として河原田下総馬場蔵人水窪へ遣し加勢早速給侯へ、押付大軍可参侯、一分にては難防侯と様々云けれ共延引す、扨南山大豆渡金井沢塩沢辺迄伊南武者十余騎雑兵召連夜中忍行、秣苅夜討にかかれとも用心厳故させる手柄もなし、又次の夜思ひ思ひに忍廻る、爰に馬場四郎左衛門大豆渡と金井沢の間にて敵待うけ鑓を突掛る、馬場鑓の上手にて打合突合勝負も付ざりしが、敵踏込突所を受払喉輪の下へ突込押倒し、馬より下り首を取んと太刀を抜ところ、敵の郎等走寄れば忽両すね薙落す、其間我郎等馳付主従の首を取鞍に取付帰、其首も水窪へ遣す、又其後馬場四郎左衛門同太郎右衛門同久内熊坂式部など、忍手利の者ども十四五人語ひ、南山と金山谷との山事路船が鼻へ行、待ぶせして居所に、南山より兵粮米種物など運送する小奉行と見へ、刀差間に吏数人通所を切ちらし首十三討取帰、盛次悦馬場杢右衛門を使として又水窪へ遣し手切れの印を見せしかば、景勝侍剣持市左衛門尉金玉左馬亟将として侍五十騎十匁筒五十挺足軽三百人召連、本道は敵地狭ゆへにや黒谷奥より山路を伊南へ来、其後は伊達勢終に伊南へ不来、是伊南武者の剛成るゆへ也。

〔伊南より立岩を攻る事〕
立岩と伊南は隣郷の間伊南へ心を寄、就中政宗乱入以後は伊南へ組せんと誓約せしに、盛秀語りつけ、鬼丸の謀もむなしく伊南を追立られ、無念にや思ひけん、恥風の取手陣小屋引破り朴木恥風残ず放火す。盛秀大に怒、立岩の奴原(やつばら)先日の企奇怪也、一々首を刎て可参と、河原田大学亮芳賀内膳将として、河原田党馬場党菅家父子逸見党星羽染越後其外越後加勢共に馬上五十余騎千余の軍兵にて伊南を打立けり、立岩にても長沼へ加勢を乞、弥七郎自身大将として福渡山に陣を取、福渡とちうが根とて左は岩山覆、右は切岸深淵に望岩の切間を掛、一騎打の節所也とて堀切木戸を立逆茂木引切ふさぐ、支る兵には井下田筑後・同佐渡精舎丹波八惣丹後阿久津主水同備後森戸備中伊予戸土佐熨斗戸周防木賊立岩弾正塩野原筑前同式部福渡左京内匠吉高讃岐角生因幡押戸大山淡路湯野又星大場同越後同越中道四郎右衛門一族郎等引具し扣たり、伊南勢節所を能知れば、前沢の方より攻付土築根向の原へ押寄互に鯨波を合、搦手の大将芳賀内膳川上山際の詰りへ鉄炮をつるべ敵陣の正中跡勢へ打かけ、夫より下の手は取手の向原に群鉄炮放し掛る、其間わづか的場たけ斗成れば立岩勢打すくめられ苦所へ大手の大将河原田大膳木戸際へよせ攻立る、川向よりは越後の大筒打かけ、射手は矢先を揃射ければ支兼引取所を、木戸打破追掛る、立岩勢又須石川を渉し川岸にささへ矢軍してしばし戦叶ずして引行、戸中岩間の橋際増沢の際能節所にて小を以大を防べき究竟の所なれ共、大筒に恐れ熨斗戸伊与戸を過佐倉の要害へ引上る、此丸急に立、四方切れ容易可責様なし、しばらく井下田原に扣る処に内膳曰、要害わずかの山也、頂上しばし味方は競敵は気後れたり、弓鉄炮にて大手搦手揉合ば、早速可攻伏と登る所に、阿久津主水の大将にて、中段に取手をかまへ大木大石落しかけ防戦、伊南勢無二無三に三方より攻登る、阿久津剛なる者にて三人張に十三束三ふせ差詰引つめ射ほどに、河原田大学乗たる馬の太腹にずんと立、馬は屏風がへしに倒、大学は下に立たり、是を始多くの敵を射、又滝原住君嶋弥市郎大兵にて射懸程に、彼か二人か矢先にて楯もたまらず、去共寄手に鉄炮多ければ、矢種尽楯に隠たり、伊南勢透間をねらつて射矢に、主水がむかばきの引合にしたたか当り不叶倒伏す、寄手競かかり攻上る、立岩勢不叶と思ひ主水をあんだに乗せ落行、南山盛秀も隣山に後詰して居たりしが、叶じと引退、伊南勢討留んと先を遮て跡よりも追ゆへに、岩下の城へ入得ず中山峠にかかり繰引に引行、扨又立岩勢岩下の要害へ楯籠、是は立岩の一の要害にして、左は岩屏風のごとく、右寄場せまり節所也、三方よりは寄べき様なし、芳賀内膳曰、搦手は山続たるべし、後へ廻れど真先に乗行所に何とか仕けん、越後の足軽の十匁筒空落して、内膳が背の只中へ打入れ即時に死、伊南勢躁爰は後日に攻んと勝どき上て帰陣す、扨盛次は勝利を得といへども、内膳は死、軍兵は多くうたれ、鬱憤止得ず、其後も押寄所々に放火しければ、岩下の要害にもはまり兼、湯西川辺へ落るも有又南山へ行も有思ひ思ひに散、立岩三十三村亡所と成にけり。

〔政宗勢重而横田へ攻来る事〕
同九月上旬横田を攻んと伊達勢又来る、此度は越後加勢来大軍のよしなれば、大勢遣べしと数千の軍兵金山谷へ推来、川口にて評儀しけるは、氏勝自横田を焼払立退けば、横田へ陣取て先大塩の城を責んとて山内党案内として打立、氏勝嫡子横田大学聞え、橋立節所大ふか荷中野沢小ふかに切ふさぎ、伏勢籠置待掛る所に、横田を立退は小細なしと、寄手油断し、西谷より細道を来り、大ふかを破れば、伏勢どつと起、弓鉄炮放掛る。去共大軍なれば、伏勢引取中野沢伏勢と一所に成防けり、夫より伊達勢上横田町高根沢越す、河大川辺迄明間なく前陣後陣扣しかども、只見川舟無して川幅広くして返べき便なし、去共伊達勢土倉舟渡の間より、舘の後弥彦の宮の際迄土手を築、所々に矢間を明鉄炮打しかども、川幅広して人を打殺さず、横田大学は敵横田へ入陣取し躰見んと、甲冑かため鹿毛成馬に乗供人少々召連土倉の先に馬をひかへ見渡ば、綺羅整々として大軍目を驚す処に、向の矢間より大筒にて打けるに、少し目当下りて馬のみつ見に当るやいなや、馬は屏風倒に成大学はどうと落つ、其身は子細なかりしかども、敵は笑ののしる、其後横田家中常井鉄炮の上手ゆへ、是を無念に思ひ土倉船渡に差かかり、栗の木の枝に矢倉を掻当に登り居る、或時伊達侍供人少々召連、松崎山本城寺の方へ行所を、其間五丁余隔けれども、ねらひすまして打しかば、彼侍の真中にあたり死す、常井備中主の恥辱を晴しと人弥美せり。横田水練の者多して、毎夜忍入敵をおひやかし、或は首を取、物を奪、追かくれば遁れ隠れ、叶ざれば川へ飛入游ぎ帰る、寄手もあきれ果、用心斗に九月の暮て十月に成しかと手行なく、早寒気余所より甚敷、就中此所大雪積ると聞、長陣不叶むなしく黒川へ帰陣す、本名川口宮崎等は横田を大敵と思ひ伊達勢を押へ用心すと聞えけり。


安永二年三月    湯田久福
              (田島町史  田島町大字永田大橋 朗所蔵文書より)


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