伊南合戦記



伊南合戦記は天正十七年における伊達政宗と奥会津の各武将との争いの諸記録で、いわゆる「天正記」とよばれる書き物のひとつです。文禄元年(1592)正月に、五十嵐宗左衛門惟道が口述し、その子推房が書残した物です。当地初代五十嵐筑後守惟良は、明応二年(1493)月岡城落城の時、伊南に移住したと言われています。
戦後まもなく、伊南郷土研究会の季刊「郷土研究」に伊達長沼来攻物語として尾城山人さんが紹介しています。
田島郷の領主長沼盛秀と伊南領主河原田盛次の事
多々石入牧の内に座して木沢玄蕃と云者あり
青柳の森九郎左衛門と云ふ剛者あり

五十嵐宗左衛門口述
爰に田島郷の領主長沼弥七郎盛秀と伊南領主河原田治部盛次は、領土をいどみ、争ふの内存有りと雖も今にして決らず、既に天正の始めに至る処に盛秀つらつら謀をめぐらして、河原田の家中木伏菊池紀伊に内縁有之をちなんで彼恰合の為め兼ての日過分の賄賂を以って荷担人に頼みて折節を窺ひ、あながちにいつはり、河原田と和解の旨を乞て已に首尾調へしかば、そのしるしには長沼の領地、糸沢村真言宗能蔵寺現住の法院を祈願所の為伊南に移して、行々久しく互に睦しく入魂となすべき堅く契約をなし、終には伊南を押領の謀り事を深くさしはさむに仍て新院を催し、法院の望みといいなし、旧地を選み、駒寄平の古蹟に経営の願ひ有りければ、盛次も此儀家中外様の面々に会談し数日を送る所に、前の後見たりし五十嵐宗左衛門惟道ひそかに盛政の御前に仕候して閑語に言上しけるに、愚老が身、当時は歴々の列参を憚り遁れ退き、世の有様を伺ひ身候に、聊か心得難き事共、且つは御家の禍ひ、とうかがひ盛次公へ再三諫言奉ると雖も、忠言は耳に逆ひ、あまつさへいらつて少しも承引之無く、さながらおもねつて口を塞ぐかと尊之公慮を辱る所存なりや。
仰ぎ歎旨は恐乍ら和漢の秘書にも遠く慮ぱからざれば則ち必ず近き愁あり、古今の良将肝要の数となす、是を慎み常に試みざる者詮なきに似たり、然るに長沼盛秀は歴代の鬱憤ひるがへし、和談を乞ひ願うこと、是心変りの程不審の第一也、抑漢韓非内儲之篇にいわく、人主は二日を以って一国を視す、己に駒寄の旧地は河原田御先祖初入の名跡、殊に屈竟の要害あり、是を塞ぎ新院を営むの企て覚束なきの二也、又良将は戯言せず、仮りにも妄語を用へず、是を用ば則人疑って必ずしも敗とあり、司馬温公が曰く、誠の道は因に難し、然れ共当に妄語せざるを以て始と云う、しばしば之を考へるに菊地は生得戯言、妄語数多く有之者、彼を用る側は事々必ず敗るべく、其の時に至って臍を噛むの後悔、益なく危きの三也、かれ云とこれ云と、此の儀に於ては理を非にまげ、唯遠慮是有て最も足るべし、と涙を流し忠言を尽しければ、盛政の感心ましまし頻りに停め給ひければ、盛次も是非なく父の仰に欲し暫く此の沙汰相延しける、盛んなる者必ず衰へるの諺は世の習ひ、さて灯火消えなんとしては光りを益すと云う、河原田家の繁昌九代に及ぶ、豊後守盛政は仁徳義道兼備也、若年明師に随ひ、武勇弓馬の妙術を授り、文学に秀で才智さとかりければ会津御屋形(葦名幕下)に於て、諸士の手本と賞し給う、如此有難き仁は何時迄も隠れ給はれず世上の灯と嬉しく国の為め臣の為め深き英雄なり、然れ共三界の果報は同じく必減の身なり、四世の依身は命に限り有りて有待の悲み、即ち是なり、盛政齢傾き給ひければ、家督は一子盛次へ譲り世を厭いて以来は聖教の窓へ入り、遂に弥陀の誓願をたのみ念仏に帰し給ひて独り秋の月を見、更にたけては月は西処に傾き跡の闇を悲む、春の花を眺るに風起て花箒索たり、散りなん後を恨む、移り行く無常は皆惜しめ共留まらず、人界のうたてさは愛別離苦の沙汰、口惜きは会者定離なり、是を以って盛政去る。
歳暮の頃より小脳小病あり、病気の始めより世の万境を投げ捨て一向弥名念仏三昧にして、天正九年巳年三月二十八日大往生、時に青天高く晴れて紫雲斜めに聳(そび)ひ、音楽は遙か西に、聖泉は東に来る、西方に向て単座し頭を垂れ、寂然として念仏と共に息絶えぬ、面色特に鮮かに形容咲けるが如く、凡そ其の平生の霊徳は臨終の寄端顕れ連綿として羅縷にいとまあらず、末法と雖も現身に霊儀を盛し、俗人と雖も眼前に変相預る弥陀一教利物偏増の利益尭秀尤もたのむべし、貴賎男女悲み愁い別離の雲厚く誰か跡の闇を歎かざらん、豈限の袖を綾(絞)らざらん、照国寺の境内に葬し賢阿普清大褝定門と号す、天正十八年推道は父の教への如く其の生涯其の契約を違ず、身に副ふ影の如く忠心を励み、葬礼の場に於て髪を切り、浮世厭ひけるは哀れとも頼母しきとも味気なき有様は朽ちぬ名ばかり留むなり。両虎去る時には傍らの野狐はこびるの本文あり、菊地は独り幸と喜び、先年の契約を急ぎ盛次へ勧めて内談を極め、やがて駒寄の平に新院を建立せしめ、早く法院を招ぎて惣社一之宮大明神の別当職として先規宮沢社領の外に今度木伏に於て新寄進を副え美々しき入院(真言三密之道城に一乗醍醐の法燈を顕し、壇上は胎臓金剛両部之曼荼羅)、花を折り香を焼き妙なる匂い薫放し、二六時中に真鈴の音、峯の嵐に響き、護摩の煙りは登りあいたいす、公土民家遠近の貴賎袖を連ね老若道に通う、流布し威験妙術を揮いければ諸人いつてかしづ、いささか菊地も共にはびこり肩を並べる者なく悠緩と暮しけり、天正十七己丑年に至りて関東おだやかならず所々に合戦起り、仙台、伊達正宗会津に乱入なし、責め来るべき企て、並によつて旗本の諸士に触れける間、盛次も急ぎ手勢を引卒し高田表に臨む所に、猪苗代盛国を始め平田、松本、佐瀬、富田が謀叛にて摺上原、日橋の合戦已に敗れ、義広公は直ちに常陸に赴き落ち給う故に、正宗黒川城に入り移せしかば、盛次は畑中村の台に勢を備え二頭の巴の旗を靡(なびか)し、伊南源助を使者となし正宗に言遣しけるは、盛次かくて罷りあらん程は安穏には置き奉るべからず候、又伊南へ御出馬をと、まとうに達て悠々と引帰りて、此の上は大敵を平場に請け難く如何せんと評議区々(まちまち)の処に、菊地遮つて、当所に駒寄の要害是有れ共祈願所となつて新院を経営、寄進の地なれば壊すこと恐れあり、唯地に御見分然るべし、と頻りに言ひければ皆々否にあくみける、盛次も黙し難く思召し、然らば青柳久川山前には大川漲りて早く渺々たり、後には又久川巻きて岸高く聳え、南を願れば平山続き滑かにして自由足りぬ、敵を見下し、比類なき城地たりと一決、急ぎ地普請を始め夜を日に次ぎ柴丸束を以つて塀を廻し、小屋を建て、追々に小瀧平の舘を壊りて皆々久川城に登り楯籠たる体たらく、昔には似ぬ世の風情、豈(あに)一独り一執をいだいて聖心を語らざらん、異説粉粉として他をして惑ひを致さしめんや。爾所に八月二十四日、正宗の家臣梅津藤兵衛、八代勘解由両大将にて布沢、小林、簗取の降参共を引卒して和泉田へ押寄せ、五十嵐和泉を攻めにける、道正も一族要害に楯籠り一日の戦に両大将を始め八百余を討つと雖も、味方は小勢なれば道正を前とし一族二百人皆々討死して落城したりけるは無念なりし事共なり。此の中に於て和泉が二男小市郎道忠は知勇無双の者にて、其の日は搦手の大将なりしが一人万死一生の難を免れ深手を負ひ乍ら、小塩内膳に縁を慕ひ落ち来る故、盛次直ちに聞き付け、今は会津に於て籠城は我ばかりに成るは大事に及ぶ思召、和泉田合戦落城の趣きなれ共久川堅固にして相守る條々、上田原河原田大膳を使者として八月二十六日に発足、太閤様御披露奉るに相州小田原へ指し登りにける、正宗近日当城に向ふべき也、田島長沼も降参と聞けば敵に加るべく、併し駒止山は難所多ければ中山立岩方に勢をくり入れ責め来るべし、味方にも兼ねて其の計いをし浜野大崩れの上、所々に石、木を積み置き蒲沢平の辺に伏兵をかくし遮つて、恥風に出向ひ、敵、川を渡らばあしらいの軍して逃げて帰るべし、敵勝に乗りおめきてまみ入る時、内川の者共は跡を閉ぢ伏兵と図を合せ、僧洞坂に臨む時分、一もみに捲り立て大崩れに来り集れば、木石を落し皆殺しに討取るべし、と戦の手配の面々其の筋を請け旗本の下知を相守りける、菊池は長沼と密談して兼々隙を考え居りければ此の趣きを速かに内通し、又それに付いて陰謀を謂遣はしければ、今度この方の図に乗り舘岩に出陣あつて穴原に放火して煙り見えなば、味方は恥風に出向ひ時に川端へ見えかくれる様に勢少々出し、相計りて川を渡らず押え置き、時刻を延して長沼盛秀は大勢を引卒し、森戸より只石へ通る山のかくし道これあるを忍び越えて留守の間に久川城に攻入り乗取り給うべし、此方好き程にたばかり申すべしと手に取る様に謂やりしかば、盛秀大いにうなずき正宗の権威以つて河原田を討亡し伊南を領すべき到来と喜び、大将に片倉小十郎を乞ひうけ、勢を舘岩に繰入れて両将九月十八日になびかし山に入りければ、含め置きし者共は穴原に放火して川端に臨みけるに煙ろを見て伊南勢も恥風に支へ川を渡るを待ちかけたり、盛次旗を□(靡ヵ)て内川へ馳せ向ひ給ひしは誠に危き共言方なし。
爰に多々石入牧の内に住して木沢玄蕃と云者あり、彼の先祖は多々石住固塁代にして聊か年暦知りがたし、建久の始め河原田家当郷入部より以来躬候の士となり其の身は山奥に居乍(いなが)ら舘の上なる小峯を造り、遠見の者を置き、兼ねて合図を定め郷の事を伺ひける程の忠義の勇士、此処を末の世に遠見の峯と云ひ伝う、其の子孫継ぎて代々馬乗りの名人にて名高く、近国からあぶれ駒を多数引受け、牧に飼ひ、のりをつけて諸士の貯へを調へける故に、伊南牧之内と称へける、一子右衛門は久川城に籠り、(玄蕃)老人なれば舘に在りしなり処に、長沼勢山を忍び越え来り、放逸を振舞けれ共、玄蕃は元来智仁勇備へたる老人なればなまじいに刃向つて悪かりならんと思へて両将につくばい、かがまり□まかになだめて剰(あまつさ)い繰り言ひけるは、久川城は用心厳しきに、白日に於て大勢押出し給はんには城に従い、早速討ち向ひ時には御味方は今は大山越しに労れ膝すくんで進退も覚束なければ、ここは人里遠くして知る者なし、暫く人馬の休息あつて競ひを償ひ責め寄せ給へては如何に、とひやかしければ諸卒は草臥(くたび)れ、又足もくじきたれば、皆尤もと同じたり、両将も滑かにさもあらばと地蔵堂に入りて緩々(ゆるゆる)とまどろみける。向応の体に紛はし、姥に此の旨を云含めければ、水汲みに行く風情に手桶を携て川に行き畔を下り久川へ知らしめたれば、城内周章上下の騒動たとへん方なし、流石台房は少しも驚き給はずして思ひもうけたり、と宮床江村兵庫に下知しまして、色衣をとき、或は長手拭、風呂敷等男女に限らず手に手に小播吹きぬきに張りし立並べ、風に吹き靡かしたる其の有様多くの籠ると見えけるは古の楠木正成が菊水御前に勝りけりとあつぱれ勇々しき軍術たり、遙かに時を移して玄蕃は林に隠れ行きければ知る者更になかりける。両将は晩景に騒ぎ玄蕃を探すに行方なく、されは巧みに逢ひこそ奇怪と大いに怒り、所専此の家を焼き払ひとて下知し放火しければ、一時の煙り忽ちに薩垂院に移りしに、尊像は雷の如くと成り、皓然と飛び出し、雲かくれして消え給うを、見る人身の毛よだつて両将も襲はるる体にして舌を巻き、奇異にうなだれ後を見ずに急ぎ、上田原に押出て久川城を見れば、大旗、小幡吹き流し夥(おびただし)く風に翻る、内川へ向ふ勢も帰り、継ぎ日は西山に入りければ叶うべからずとて、兼てたくみし事なれば、直ちに能化院に登り見れば、未明に逐電して行方知れず命ばかりは助かりて向い陣を備えけり。
この頃青柳の森九郎左衛門と云ふ剛者ありける、彼若き時大熊を手捕りにしたる故に熊捕えと云ふ異名し、又忍びの術を得たれば熊坂とも名乗りしなり、しかし今宵は天曇り、月は出れ共朧夜なれば類を以つて集る健気者五人組んで、能化院へ忍りて伺ひ見れば、両将と能化額を合して菊地が内通も相違し、今日の遅々奇異の事ひそかに語りけるをとくと聞き納めて厩に行つて伺ひば、舎人共高いびきにて寝入りたれば、駒を奪い引出し山を廻り白沢の前川を渡り、高屋敷に従ひ大音上げ片倉殿、長沼殿、御御大儀千万、それに御引馬に預り痛み入り候、と嘲りののしり手ばたきわめき笑ひければ、能化院にて是れを聞き厩を見れば駒を奪はれ怒りけれ共詮方なくあきれて口をひそめて居たりける、然るに久川より西側を上り塩田、小塩、高屋敷、雷ヶ原、宮沢川、別当川原の其の間を行違る炬数千灯し連れ、又要害に人音に数多く頻りに降り来る、両将は大いにおびえ胆を潰し夜討に囲れて叶はすと、夜半に紛れて木伏を指して退きける、菊地もうろたい悶着して一戦に及ばずして駒止の方へ退く、味方大橋の川畔に待つて答ヶ崎を通る所を鉄炮を打ちかけ逃れば、船場を渡り光明院塚の辺にて入り乱れて戦ひける、田島勢は散々に打ち負けてまばらになつて逃げ行きたり菊地が能化の謀叛、森が忍びにて露顕しければ紀伊を誅罰のため、伊南源助大将にて向ひし処に、菊地は長沼に附き従ひ、みつはらいして落ちけるを烈しく大新田にて追い詰め、前後を取り巻き討つて直ちに能化院に登り見れば未明に逐電して行方知れず命計りは助かりける、此の如く同士軍に紛れて両将は遙かに逃げのびて、危き難を免れ駒止山を越して帰る所に、小田原に使者に登りし河原田大膳、黒沢にて行逢ひたり、大膳思ひもかけざる事故に慇懃に膝まづきて言を尽し謂ひけれ共、負腹立し折節なれば多勢の中に取籠られたり、大膳とても免れ難しと大刀抜き秘術と励み戦ひけれ共味方は僅かの人数、殊に素肌なれば皆討れにけるはあたら惜しき事共なり。此の儀伊南に洩れ聞えければ盛次大いに憤り、早日正宗、長沼が悪逆責め来ると雖も籠城堅固の條々、今度は大新田酒井助兵衛を使者となし太閤様御披露に九月二十四日発足し沼山を越え上野国を通り指し登りける、今度は片倉、長沼責め来り云々、甲斐なく廃落したる味方は勝利を得る事、台房のさとき軍術、玄蕃が忠臣老功にあり、智謀足らずんば留守の間に城は一散に乗取られ故なく数多の人数討れべきか、おみぢき励みなり。然りと雖勿体なきは地蔵堂の焼失なり、此の尊といふは往古弘法大師黒滝に籠りましまして御作し木沢家に附随し黒滝山薩垂院と号し給ひ、星霜や遙けし、今濁世の兵乱長沼が真意の放火忽ち跡をくらましの酬ひ必ず子孫に来らんか、長沼、片倉のたけき両将尽地蔵堂に入りて闇閑と必定の図りをも抜けたる事も薩垂院加悲の請願還者応本人の囲に逢えり、一ノ宮大明神の応化威心の至す処也、又要害に人音聞え下り来る両将が耳を騒し引しりぞきし事は駒寄の鎮守勝軍大権現の加悲、神力演火光の照し生に叛逆の悪徒あらはし数軍謀略悉く破れて滅亡して河原田安穏なり、凡そ神明は験を顕し権現は理をなつかしみ給ひば応化の定る法か、先祖の隠徳天の明感御恵み盛次感肝に銘じ、諸士民家肝に命じ諸士民家領中貴族敬拝仰ぎ奉る信心頭を傾け喜びの詞幾千万坤札誠。



 文禄元年正月
五十嵐作右衛門椎房四十二歳
父  推道之請直語以
仙翁伝載書
(伊南村史、 南郷村木伏 菊地正昭所蔵文書)



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