伊達家の記録



性山公冶家記録(起永禄八年尽天正十三年)(抄)

 性山公、諱は輝宗、御童名は彦太郎、後総次郎と称するが、多くは略して次郎と称する。伊達家家譜によれば、初代から四代までいずれも次男が家督となっており、この由緒により長男でありながら次郎を称し、十六代輝宗は総次郎、一七代政宗は藤次郎を称し、以後伊達家の当主は総次郎・藤次郎を交互に襲名しています。

性山公冶家記録 巻之四(抄)
天正八年六月十七日 稙宗君の御婿奥州会津前主葦名修理大夫盛氏入道殿止々斎卒セラル瑞雲院殿ト号ス。
葦名氏ハ平族ナリ。三浦大介義明ノ七男佐原十郎左衛門尉義連ヲ元祖トス。義連始テ奥州会津ヲ領セシヨリ以来、子孫相嗣テ黒川城ニ住ス。盛氏ハ善連第十六代ノ嫡流ナリ。家ヲ嫡男盛興ニ譲テ岩崎ノ城ニ隠居シ、入道シテ止々斎ト称セラル。既ニシテ盛興卒シ、磐瀬ノ二階堂殿盛義ノ嫡男次郎殿盛隆ヲ養ヒ、盛興ノ北方ニ配シテ其家ヲ嗣シメラルト云。

政宗記 巻四(抄)
摺上合戦
去程に六月五日(天正十七年)卯刻に、万づ評定し給ふべきとて、各猪苗代の城へ召給へば、「会津より働なり」と申す。「昨日も働と申程に、新橋迄景綱・成実出けれども、偽りなり。今日も其分ならん」と申しければ、弥人数見けりと伝、さても迚、成実書院の西へ立寄みければ、備余多みへけり。政宗は摺上のみへける櫓に御坐を、成実参り「敵軍働とみえたり、勢を出されべきや」と申しければ、兼て伊達の備定を今度は引替、先陣をば猪苗代盛国、二陣は片倉景綱、三番伊達成実、四番白石若狭、五番旗本、左右は大内備前・片平助右衛門兄弟、跡をば浜田伊豆と備定を承り、景綱も成実も一度に立て罷り下れば、郎等共とくに仕度をなして待かけけるを、鎧堅めて打出けるに、会津・佐竹・岩城三家の勢雲霞の如く、新橋より北に段々備へ、夫より湖の方へ働出、近所の在家十間ばかり焼払、扨若狭と成実は、合戦にかまはず、双方の後へ相詰ければ、弾正と景綱人数足跡悪く、崩れそうにみへける程に、若狭も成実も敵中へ駈入ければ、敵崩れかかつて引除、摺上の上迄追付けるを、摺上の下に会津旗本の備扣けるが、押太鼓を打て守返されけるを、政宗旗本を以て助合押返し給へば、摺上の上迄は戦ながら引除けれども、摺上を追降給へば、敵悉く敗北して、夫より追討にし給へけるに、北方を差て迯散、新橋を引、中々人間の通ふべき川になけれども、為方なく飛入水に溺れて死しけるなり。又川鍛錬の者は越けるやらん、向の川岸湿てみへけり。成実は金川の方へ参り罷帰りに、川の様体見けるなり。成実は扨政宗大利を得られ、其夜は猪苗代の城へ引上給ふ。爰に旗本の中村八郎右衛門、御方各居ける前にて、「今日の御合戦乱合、敵にさながら太刀の付所みへざれども、物付なくては、日此の心かけ違と思い、見上と頬当の間に目を付物付けれが、手にこたへければ大方は切付ぬらん」と伝。是を聞程の者八郎右衛門事なれば向て申す者なく、かげにて「如何に八郎右衛門と伝ども、今日の程の乱合我人ともに眼に霧降て敵味方を見分難きに見上と頬当の間を物付なんどと伝事は余りに過たる荒言かな」とて、時の人々笑けれども、案の如く頬切付其場はのがれて引除けれども、やがて相果たりと、後に聞く今に始めぬ中村かなとて、追て人々感じけり。されば政宗猪苗代へ移し給ふ事一日おそかりせば、景綱と成実はたとへは袋の内へ物を入たるが如し、大勢に取込られ滅亡眼前の処に、人々思の外有無の疑を切手六月四日の夜半に猪苗代に乗入、明る五日の卯刻に大軍と取合勝利をえ給ひ、景綱も成実も不思議の命採(いのちとり)、毒蛇の口を遯れたる心地して、あまつさえ会津迄乗取給ふは、古城稀なるべしとて、舌をふるう事、政宗二十三の歳也。去ば其昔小田原北条氏、甲州武田信玄を頼み、越後の上杉輝虎の領分松山と云処を、両大将にて攻玉ふ、落城の二日目に、越後へ聞へ輝虎後詰に、前橋と云処迄出られけれども、六日の菖蒲節句に逢ず、華闘果てのちぎりきかなとて、輝虎腹立して小田原の領分に、山根と云要害を攻んとて、氏康・信玄へ使を以て、「松山後詰に出ざる事、輝虎不漲と批判有べし。如何に後詰に出会ずと云、流石に是迄出向ひ空しくかへらん事、氏康・信玄へ対し、軍の慮外にも相似たり、然ば御領分山根の要害を取詰ん、但し無益ならば両家を以て妨給へ、其ときは城を巻きほごし、退散申すが如何様にも、明日卯の刻に打立」とて二本木の船橋を打渡り、仕損じなば跡へ二度かへられじとて、船橋の綱を切せて、氏康・信玄の御坐陣場に向ひて押通り、彼要害へ押寄一日一夜に攻落し、男女三千撫切して本の道にかかり、以上三日目に越後への帰陣は、末代は知ず前代にも稀なるべしと云伝ふ。扨政宗猪苗代へ馬を入、会津まで乗取給ふは、輝虎の船綱にもあまり高下はあるまじ、きかと、家の者ども風聞す。然して後、其夜の御前所へ参りける頸どもの中に、会津親類金上遠江、成実郎等斎藤太郎右衛門、其年二十六歳にて、太刀共に討取持て参る、政宗其頸此方へと宣ふ。折敷にのせて差上るを、右の腋へ呼で持給へる箸を返し口を開、かねくろなりとて、斬口其箸を押込下より上へくるりと押返し、大きなる頸なり、一太刀に取たりとて引抜取直し、其箸にて物を聞召に、箸はさながら、紅に同じ、見る者興をさまし、誠に鬼神やらんとみへたり。惣じて首帳をしるけるに、会津の家老佐瀬平八郎を始め、都合三千五百八十余なり。同六日には、会津の内金川へ働き給へば、堅固にかかへける故、平攻には成難く、明る七日に近陣を仕給ふべしとて、六日には大寺前の原に野陣をし給ふ、然るに、六日跡の朔日に、大森より原田左馬介を米沢へつかわし、最上境と下長井の勢を差置、北条と上長井の人数を相具し、会津の大塩へ働き出、猪苗代より成実・景綱、北方辺を働くならば、末にて出会ける様にと遣し給へば、思ひの外政宗猪苗代へ乗入給ひ、摺上にて勝利を得、会津の衆敗軍と聞へるに、あまつさへ大塩の城は、引除残て金川・三つ橋・塩川と云、三ヶ所持抱ひ、扨其外北方の侍、地下人に至る迄、皆残りなく会津へ引除ける由、左馬介承り、六日の夜に働所へ参りけるなり。同七日に金川へ近陣を仕給ふべきため、先六日には惣手を引上、仕寄道具の仕度なれば、其夜に右の三ヶ所も、会津へ引込故に、政宗も三橋へうつし給ひ、人馬の息を休められ候事。


天正日記(抄)
 伊達の天正日記は、全十二冊から成り、この日記の編集整備は、江戸時代、十七世紀末元禄のころ伊達家の修史事業が推進された時期に出来たものと思われています。
 
奥会津の戦
天正十七年六月 金上殿はじめ、侍、徒士共二千五百人討取らせ、御前へ首際限なく参候、猪苗代麓より黒河近辺迄三十里追いかけことごとくうち申し候。
七月二三日 河口へ原田旧拙斎・七宮七伯・富田・伊藤大善はしめと申し各々自衆(じしゅう)指越(さしこさ)され候。
  七月二四日 布沢へは町鉄砲さしそえられ塩森六郎左衛門尉さしこされ候。
  七月二九日 川口より大町宮内小輔罷帰、原田旧拙も川口より罷帰る。
  八月二日  布沢より、高野壱岐守親兼罷帰、中嶋主膳・内馬場能登同前
  八月三日  野沢より御代官衆中村下野・遠藤将堅・山戸田右馬助・大波玄蕃止め帰管野信濃、布沢よりも塩森六郎罷帰。
  八月四日  布沢より悉く一戦にかち首おもての侍衆横田出羽守・横田日向守・横田安芸守三ッ参候。比ほか斬捨て三百あまり、うち申候也。
  八月四日  布沢より横田出申し候(横田城を破棄)川口より七宮七伯・伊藤大善・平田不林・罷帰
  八月十五日 横田より松木伊勢守・片倉紀伊守・屋代勘解由兵衛・塩森六郎左衛門尉・徳江出雲守・大町宮内小輔・前田河上総・大窪美濃守・皆川下野守罷帰
  八月弐弐日 布沢へ富塚近江守・七宮七伯・原田旧拙斎・屋代勘解由・湯目民部少輔・大町宮内・塩森六郎左衛門尉・中村肥前・梅津藤兵衛・片倉紀伊守・御働きの御代官に指越され候。
  八月弐五日 四保宗義、簗取罷出候(只見町簗取降伏させる)
  八月弐八日 横田より湯目民部少輔・其後富塚・七伯・旧拙・ぢしう各々罷帰
  九月弐四日 川口より首一ッ参候、太刀打申候者、御前にて玄蕃と名をつき候。
  十月二日  横田より伊藤大善・平田不林・中地治部太夫罷帰まいり候。布沢より生捕一人首一級贈り献す


戻る