山之内天正記 -上-



山ノ内天正記

山内天正記は、延宝五年九月(1677)に、檜原丸山城主横田豊前守俊範末葉俊次の子、横田三友俊益が天正十七年の伊達、山内の戦後、約九十年を経て金山谷、松坂峠等の戦跡を訪ねた時に、この天正記を作ると俊益の子、俊晴が「横田三友年譜」で述しています。此書は山内一族が奥州に領を受けて四百年に及んだが、天正年中に至って領地を失った顛末を山内の由来に始まり、伊北・伊南で伊達勢と戦い、一族本領を失う迄を記したものが本書です。本編は叶津長谷部保信家文書「山ノ内天正記」に依りました。



巻之上


山ノ内先祖併奥州の内を領する事
山ノ内一族葦名に属する事
横田刑部大輔氏政宗に不順事附、布沢・野尻・河口か事
南山長沼弥七郎簗取・泉田を攻る事
政宗勢を分て横田へ向わしむる事
政宗勢を柳津道に遣す事
氏勝兵川口の敵を防く事



山ノ内先祖併奥州の内を領する事
 山ノ内か一族封を奥州に受けてより、以来四百年に及ふといへとも、天命常なき故にや、天正年中に至て領地を失ひ、右往左往に漂白の身となる、子孫今に至て残るといえとも、無にひとしき有様なり、其頃のことを村里の老人共の語りしを知て、そのままにて捨置んもものくさし、人死し世遠く成るは誰か知て語り伝ん、誰か筆に記し置たるこそ末の世迄も残んと思ひて、耳に触たる物語をあらあら記して残し置伝るなり。そもそも山ノ内は古来申伝に首藤・滝口山ノ内有、又上杉山ノ内あり、山ノ内は相州鎌倉に有所の名なり、上杉を山ノ内と申は、嵯峨院一ノ宮宗尊親王を北条の代に時頼・重時か京都へ申、鎌倉へ下して将軍となす、時上杉重房と言人、宗尊親王の共奉して鎌倉へ下りしより関東に住せり、上杉も藤原氏にて勧修寺の後流なり、重房か子を頼重といふ、此頼重か娘を藤原清子といふ、尊氏・直義の母也、此よし身によりて、尊氏の時上杉一族威をふるふ、清子の兄弟を憲房・重顕と言、重顕の子孫は鎌倉にて扇か谷の上杉と言也、憲房の子を民部大輔憲顕と言、義詮の弟基氏・尊氏子を鎌倉の管領とす、上杉憲顕を其家老とす、是を山ノ内と言て上杉一家の棟梁なり、さて首藤・滝口を山内と言は、頼朝公以前より鎌倉山ノ内の庄を領せり、是も藤原を氏とす、遠く其先祖を尋ぬれは、大職冠(藤原鎌足)十五代の後胤資通いちには助道と言人始て八幡太郎義家に仕て、六条の判官為義の輔佐の臣となる、資通か子を親清と言、親清か子を義通と言、義通か子を山ノ内首藤刑部俊通と言、俊通か子を滝口俊綱と言、資通始に八幡殿に仕てより、以来代々忠義を源家につくすこと限りなし、中にも首藤刑部俊道・同滝口俊綱は、保元・平治の乱に義朝公に仕て、嫡子悪源太に隋て、忠戦の功は今に至るまで十七騎と言も俊通事也、俊通・俊綱父子共に河原にて討死してけり、俊綱か弟滝口三郎経俊は、平家一統の世に当て古平氏に属し、頼朝公発向之時に、御敵に成たる罪によりて山ノ内庄を相放され、一命既に危かりけれとも、第一には先祖以来の忠孝思召、第二には山ノ内尼とて経俊か母ありけるか、頼朝公の乳母にて嘆きを憐み給ひ、程なく其罪をゆるされ、あまつさへ後には武士の望所の伊賀・伊勢両国の守護職授らる、此時経俊も忠功度々顕はし頼朝公の御感に預れり、経俊か子の滝口六郎通基を将寿丸と申付、京都にて実朝将軍の世を奪んとたくみし武蔵守朝雅を討て名を揚たり、其後子孫相続して代々将軍家に仕へしとなり、さて又奥州の内を領せし事は、文治五年頼朝奥州藤原泰衡を退治し給ふとき、葦名氏の祖三浦義連、山ノ内経俊・長沼宗政・結城朝光か軍兵鎌倉を出、一千騎の内にて頼朝公の御共申奥州に下り、泰衡か一族を討亡し、頼朝公既に上洛し給はん時に、今度勲功ありし人々奥州出羽の郷を割分して給ふ、去は会津は此時迄多く大寺・高寺其外寺社の領地にして、武士の領する事なきこと也けるとなん、是より三浦義連の子孫は黒川に住居し、山内経俊の子孫は横田に住居す、是より鎌倉山内の名を移しけん、会津に山中多しといへとも、今に至迄伊北・金山谷の辺のみ山内と人言伝へるは全く此故なるへし、山ノ内の先祖近江国を領せし事ありといへは、近江にも横田と言里も有、また横田と言川もあれは、其古き名をうつして名付たるらん、又長沼氏は南山に住居す、今の田島に古城跡あり、是を秋山の城と言、長沼五郎宗政か築たる城也と申伝へり、又結城七郎朝光か子孫は伊南河原田氏也と申、野州に長沼河原田と言里有よしを申せす、宗政・朝光か昔居城せし所へし。

山ノ内一族葦名に属する事
 古来者の伝へたるは、昔は河原田も生茂り居民すくなかりけり、伊南・伊北の辺は越後の国へ近く、人の往来しけく賑ひけるとなん、葦名山ノ内の一族も、在々所々に城郭を構へて居りける也、然るに葦名威勢次第次第に盛なり、殊に盛氏の時に及んて、仙道白川迄盛氏か手に属しける程に、南山伊南は不申及、山ノ内か一族も大となく小となく盛氏に随へ、或は奉公の身と成者多くあり、然れとも山内は古来由有家なりとて、音信贈答も書礼往来座席の次第に至る迄、葦名の被官とは其例格別也、会津にて世話の言ならはしに、会津四郡に外六郡といへるも、四郡の外に又六郡あるにあらす、其家衰へ其段欠たりといへとも、古来より由緒有家にて葦名の被官にあらさる事、何の世にこの言出す事やらん、横田・川口・伊南・伊北・南山・猪代抔と、しとろに数え入て、四郡の内に六郡の名を立て言しなり。

横田刑部大輔氏政宗に不順事附、布沢・野尻・河口か事
 さて盛氏は武田信玄・上杉謙信なとと並ひ称せられたるほとの雄将たりといへども、盛衰時はのならいにて世継の盛興葉早世して葦名氏の血脈はてて、他人を養ひ其家を継しむ、盛氏逝去の後は佐竹義重の二男義広を養ひ、黒川の主と定めける、此時伊達政宗と黒川中悪くして、度々対陣に及ひける時、葦名の家族猪苗代の城主弾正盛国と言者義広を背き、政宗を城へ引入て黒川を攻んとす、義広此由を聞て急き馳向、両陣互に摺上原にて合戦す、時に天正十七年六月五日の事なるに、義広討負て黒川へ引退き、黒河累代の家臣等多く政宗に心を通しける故に、義広詮方なく黒川の城を去て落行、本国なれは父の義重を頼みて佐竹へそ被落遣る、政宗は摺上原の軍に打勝て、先三橋と言所に四五日逗留有しに、黒河普代の家老共政宗に随ひける、義広落失けれは、政宗は黒河の城へそ入られけり、然るに山内刑部大輔氏勝は横田に居れけるに、摺上原にて合戦有よしを聞て、山ノ内一族兵を催し摺上原にぞ打立けり、然るに柳津へかかり塔寺村迄来る所に、摺上原合戦義広打負て政宗黒河へ被入と聞て、今は行ても詮なしと、塔寺より横田へそ引返しける、其外山内の一族中にも黒川に居合たる者は、摺上原の合戦に出会たる者も有、滝谷内匠助は摺上原にて、馬上にて敵二人と戦ひ、逃る敵を追懸しに、内匠助か馬の口取大成沢の鈴木源兵衛と伝器量の者なりけるか、内匠之助に向て申様、この敗軍の折から高名して何かし給わん、早々引返し給へと云、内匠之助実に此上は我家の安否も心元なしとて、己か在所の滝谷へ引退きけるとなん、このごとく摺上原の敗軍の後は思ひ思ひに面々か在所へそ帰りける、然るに政宗黒川へ打入て後、山ノ内か一族又伊南の河原田にも早々黒河へ出仕せられよと下知す、山ノ内河原田も本意にはあらねとも、先一住政宗に随ひ、時を見合本意を達すへきと、横田刑部は一族と密に内談し、向後何事も一味たるへき由誓約立て、先黒河へ参り、先規より由緒有者共なれは、出仕之時階級を立て給らんと申により、社法座席の次第も伊南の郎等とは事替りて出仕す、又伊南の郎等盛次は横田刑部大輔妹聟なり、是も刑部大輔と同く仕出す、然るに南山長沼弥七郎盛秀は内々黒川葦名へ恨みありて、猪苗代盛国に心を通し、初より政宗に降参す、さて刑部大輔氏勝は政宗に悦はせて油断あらせん為に、重代の力を政宗に進入す、政宗喜悦すといえとも、渠等か心底始終覚束なしと思はれけれは、山ノ内か一族又河原田にも先面々か在所へ帰らす、このまま黒川に在府有へしと下知す、山ノ内思ふ様は是に付ても我身の行末を請思案するに、此分にて月日を移さは、何となく伊達家の被官となりて、先祖累代の名を汚さんも無念也、又は葦名代々の情にも背くへし、早々在所へ逃行要害に楯籠り、一族矢箭を取て、運を天に任せんものと思名して、政宗の宿老共に告たりしは、老母以の外相煩申すよし承候間、暫く逗留にて其様体を見て参らんと伝、宿老共申けるは、政宗下知も此頃の事御座候に、はや罷帰候事相叶申間敷候と強て申けれとも、是非一度帰城義申けれは、政宗聞て、然らは、一族の内を人質として一両人置、五日逗留にて罷帰へしと伝、依て氏勝か子成ける出羽と左馬之助と二人を質に残して、其身は横田へそ帰りけり、二人の者も隙を伺ひ、すまして両日有りて密に横田へ逃帰りぬ、又河原田も其日の晩景に伊南へ逃帰りけり、政宗は此由を聞きて安からぬことにおもひ、未着あにいたりし山ノ内か一族布沢上野介・野尻兵庫・川口佐衛門之佐に油断するなとて、急き渠等か宿所へ番を附られける、然るに布沢上野介内々刑部と不和の心有者と聞及はれけれは、急き布沢を呼寄事の様を被尋けるに、兼て刑部か心底を懇に語り、其等は御味方に参るへしと、一筋に奉公の志有由を申、政宗被申けるは、さらは横田へ追手を遣すへし、野尻・川口の御辺と同心ならは、此度の道の案内して、面々先懸を可致申被由けり、布沢上野申様、野尻・川口をよいよい語らひ申さては、横田を攻ん事難義に存る、彼等を語らひ、申事は某に御任せ有へしとて両人に談事合す、野尻も川口も無異儀政宗に相随ひて、横田を攻と申に寄、また伊南をも攻へき評義始りけり。

南山長沼弥七郎簗取・泉田を攻る事
 ここに長沼弥七郎盛秀は豊後守重国か子也、政宗申けるは、横田を攻んには、野尻・川口・布沢等か御味方に参候得も、御出陣安かるへく候得共、簗取・泉田と申にも、横田か郎従を籠置たる城なれは、先泉田・簗取を被攻候て可然と存候、此両所某に被仰付候へかし、某か在所より便宜に候へも、布沢・野尻などに談合して攻させんと云、さあらは攻よと下知せらる、弥七郎急き軍の支度して簗取を攻んとす、野尻兵庫は布沢上野か聟なりけれは、布沢・野尻も談合す、此とき布沢か郎等に久沢弾正と云者有、小さかしき者にてやありけん、布沢より南山の間を度々往来して談合の使者となり、さて弥七郎は南山を打立て、鉄炮四百挺持せて布沢へ懸り簗取の城を責ける、布沢・野尻も加勢してそ攻たりける、此よしを聞て、横田・河原田も簗取に力を合せんとて後詰しけれとも、簗取左馬之丞か一族は甲斐なく降人と成りて、七月七日に城を明渡しける、其後政宗より簗取か一族共に奉公の忠賞なりとて、永楽二百文或は一貫かえ三百文の地を永代安堵の証文に添へてそ与へられける、さて簗取は政宗より屋代勘ヶ由兵衛と言者を置れけり、此とき政宗は小田原北条に心を通せられけるによつて、兵糧等を此簗取に籠置、小田原へ運送の支度をせられけるとなん、簗取は手に入といへとも、泉田降参せさる故に、弥七郎泉田へ取懸り、泉田の五十嵐和泉・同其子掃部と言者を攻む、布沢・野尻も加勢して責るといへとも、一向降参せす故に悉く攻め亡し、泉田の者をは皆切にこそしたりけり、泉田掃部は大成働して討死す、此時野尻か郎等弥助と云者を討せけるとそ、兵庫是を惜みけるとそ、其後横田にも要害路筋軍の支配する由を聞て、長沼弥七郎か方より政宗へ飛札を遣し、布沢迄某はや打入候よし申す、政宗より返簡には太義千万に候、さながら横田口は悪所にて候へも、能々地形を見届け地の利に随ひ攻へし、また此方よりも指図申へしと、七月二十八日長沼弥七郎殿へ政宗とそ被書たり。

政宗勢を分て横田へ向わしむる事
 政宗横田を可攻路筋を先布沢上野介に談合せられける、上野介申けるは、横田へ御人数被遣候路筋を見案申に、まつ二筋御座候、柳津へ懸りて川口へ出る道筋有、又尾岐郷より博士峠を越て野尻へ懸り布沢へ入道あり、川口・布沢は横田へほと近く、其上佐衛門佐も某も御味方に参る上は、案内は御安心かるへし、さりながら柳津に懸り候半よりは、尾岐より野尻へ懸りて行なは味方の為に便宜にて候半と存る也、それをいかかと申に、柳津へ懸り候へは金山谷に入なり、金山谷には横田一族に滝谷檜原、又郎等共守りたる大登り幸の原などと申所に、砦を構へて氏勝に力を合する者有、其上駒鳴せの峠左りうつほなどと申難所も有、もつとも大軍の御事なれは、道すからの小城共を攻落して通るへけれとも、同暮ほどに彼難所へ行懸候は、万事に付て便宜を失ふへし、只尾岐郷より野尻へかかりたるか宣からんと存る也、此道筋にも山坂多しといへ共、柳津通より少し宣き路なり、其上野尻は既に兵庫か在所なれは、野尻へ御勢難なく着て、此所にて御勢を二手に分らるへし、野尻より直に布沢へ遣し、兵庫と某と案内仕、横田を攻可申一手は、野尻より内川通に懸り川口へ出て、左衛門佐を案内者として横田へ責被入候は、刑部を討取こと安かるへしと申、更は其儀に随ふへしとて、政宗伊達衆に黒河にて降参したる者共をましへ、都合其勢五百騎計りにて、政宗の家臣大波玄蕃允を大将として黒河を打立、尾岐郷へかかり野尻へうては被向けり、野尻に着ぬれは上野介か指南の如く、一手は布沢、一手は野尻・川口にそろふて川口へ向ふ、刑部も内々思ひ儲たる事也、布沢等か政宗に降参したる事も隠れなけれは、横田にても一族等を集めて軍評儀とりとりなり。

政宗勢を柳津道に遣す事
 政宗被思けるは、布沢上野介か指図にまかせ、尾岐・野尻へ勢を遣し、野尻にて二手に分て、布沢・川口より責入へしといへ共、柳津へ一向勢遣さるも如何なり、ここへも一手の勢を遣し西方へかかり、路すからの郷人共を語らひ勢を付て通し、川口への道をも開かんとて百余騎の勢を催し、柳津の此方なり、藤椿の辺より船に乗せ、只見川を向へ渡し、西方村之東に当り小勝と言里へ懸りて通りける、此とき西方道菴は小川の庄に居たりけれは、西方には敵対する者もなし、此小勝と言里は、只見川を隔といへとも、古来檜原の領地なり、滝谷・檜原は古来横田の一族にて、氏勝に力を合する者なれは、伊達勢小勝を通る由を聞て、滝谷・檜原も人数を催し、強弓の射手を揃へて、只見川より尾岐郷に懸りて、野尻より川口の手と一つに成けり。

氏勝兵川口の敵を防く事
 そもそも川口は山内か一族たりといへとも、古来葦名家へ心を通し、ややもすれは横田をねろふこころ有故に、兼て横田と川口の境なる高山の上に常に物見の者を置、此故高番山とそ申ける、殊更此度は左衛門佐も野尻・布沢と一味して政宗方に成たる上は、渠等案内者と成て此方へ寄来る事疑ひなし、油断すへからすとて、此山に番の者を数人添置、怪事あらは急き注進すへしとて差置ける、此山の嶺へ登りてみれは、本名西谷川口は申に及はす、太郎布辺まて残りなくみへけり、懸る所に伊達野尻より内川通りを経て川口に着ける時、上町・下町の男女あなたこなたへ走り廻り騒動する体、高番山の者見の者共、すわや敵寄来たりと急き横田へことと告たりけれは、横田にも内々期する事なれは、今更驚く気色なく、即時に勢を遣しける、横田丹後・同出羽・須佐大膳等を先として橋立村にそ打出ける、各せん儀しけるは、川口の敵をここ迄入れなは悪かりなん、切払峠は無類の難所なれは、此峠迄打登り、先つ弓鉄炮を峠の側の山に隠し置、敵難所を経て人馬共労れ候処を見済し、弓鉄炮を打懸打懸漂ふ処へ、味かた抜連打て懸る程ならは、敵は一こらへもこらふなし、急き敵の峠を越さる先進めや進めとて切払へそ打立けれ、此峠は川口分の西谷と言所を出て、小沢を経て坂を登るに、常に泥土甚だ粘り深けれは、此辺の者共是をねたと言所は、牛馬の通もなく歩行の行懸りては足蹈ひり、股没て進退叶はぬ所なりけるに、案に違わす、川口左衛門・同左兵衛・高崎右近か輩伊達勢を引連れ、都合其勢二百五十騎計にて出来りける、兼て設しことなれは、伏兵したる足軽共、弓鉄炮一度に打懸たり、敵思ひ寄さる事なれは、あはてふためき、引返、彼のねたへ打懸り、急き逃んとせしか共、泥ねはりにて足を引へき様もなく、一所にうこめり所へ、丹後・出羽・大膳か輩諸卒を下知して、一度にときを作り懸て打て懸りけれは、一返も返し不合両谷さしては逃行けり、此所にて伊達勢川口か手の者多く討れ、川口左次兵衛も討死したりける、横田勢左衛門佐を目懸、西谷の村の中迄追入たり、余り長追も益なしとて、西谷より取て返し橋立に陣取しける、川口の兵も其夜はに西谷に一宿して、翌日又打立切払峠へ責登り、横田か兵此由を聞て、捕物も取あへす出向、両方また切払峠にて待合ける、昨日は横田か兵先弓鉄炮を峠の山に立ならへ、敵を悪所へ引付、思うふままに弓鉄炮を以って、敵の足並崩れたる処を突て懸りける、敵思ひ寄さる逆寄に逢ふて敗軍したり、今日又横田か勢思ひ寄らさるに、敵昨日の敗軍にこりもせすして峠へ攻上りけれは、横田勢昨日の如し弓鉄炮の備もなく切払峠を打破られ、橋立迄そ引たりけり、川口勢勝に乗て責入る、さらは大布蟹小布蟹こそ究竟の悪所なれ、此谷にてささえんとて、横田勢は布蟹迄引たりける、此所を破られるは横田へ責入らんこと安かるへし、此処こそ大切なりとて防き戦ひける、此布蟹と申は左右の山高く大木茂りてよち登るへち所もなし、沢底深しふして入水常に流れて、道と言へき所もなく、右頭を踏て行所も有り、又切峰に九折路を付て坂となす、双脚並ふへき様もなし、岩に穴を穿て足の掛りとなして往来する程の難所なり、小布蟹は大布蟹より少し安き様に思ひとも、是も沢底深く、大勢馬に乗りなどして通るへき道にあらねは、つま〈 〉の山上に大木大石を集めて沢底へ転はし懸て、切峰の上には弓鉄炮を並へて、来る敵に打懸れは、寄手のみ手負死人出来て攻入へき様もなし、伊達の人々此体にてははか行へきに非すと思て、川口の者を案内者として、山の上を伝て林の中へ出るといへとも、布蟹の沢越へき様なくて、又元谷底へ落ぬれは、抜懸しても其甲斐なく、或は大布蟹をへたててよる所も有、此布蟹を隔てよる時も有、只敵も味方も是より後は失軍計にて、暫く時日を移しける。

氏勝松坂峠に向て敗軍附、伊達勢横田の城を攻る事
 横田には伊達勢既に布沢に着の由を聞て、いよいよ要害厳重に構へけるか、いさや逆寄にせんと先手を分て定めける、荒しまの布沢郷へは中丸新蔵人・十筒嶋四郎左衛門・矢沢近内・石伏茂八郎・佐藤岡左衛門・横山太郎左衛門・長浜興兵衛・下山小三郎・荒嶋右近・其他泉田乙沢の者共を先として、其勢二百騎にて馳向ふる、氏勝は横田を出て、大山の難所なる松坂へ社(こそ)向ひける、先手には横田日向・同安芸・矢沢河内・佐藤太郎左衛門・斎藤伊予か輩也、氏勝は松坂の此方なる大股に控へたる先手の兵共松坂へ攻登る、布沢の敵も此由を聞て急き出向ひ、松坂の峠を打過防き戦ふといへとも、味方厳敷攻登り勇み進んて戦ひけるか、敵もこらへす境の沢の西ひら迄引退ける、しかれ共敵はあら手を入替入替攻戦へは、味方進み兼てそ控へける、其後氏勝勝馬をすすめて息をもつかせす峠迄責上る、此松坂と申は、布沢の方は路広く、此方は路狭く、一騎打の坂なれは、荒手を入替へき様もなくようやく疲れてみへけるに、敵勝に乗て懸る、敵も味方も死人手負多かりける、横田か兵には中丸某矢沢か一家も討れける、氏勝も詮方なく引返し、氏勝か前後に相従ふ者二十七八騎有之も、松坂の麓の川端にては残り少なに討なさる、氏勝も疵を受る事三ヶ所なり、敵は是をみて我先にと責懸り、我討取んと思ひとも、狭道なれは進み得す、坂の上より鑓の穂先を揃へてなけかへる、氏勝も既に自害せんとせしかとも、漸々にして落延ける、此時迄踏止り戦ふ兵には、中丸新左衛門・須佐下野・高根沢左馬介・氏勝か弟右馬頭か輩也、其余の者共大股迄引ける、概に大股も過けるか、榧木杉木森辺迄返し合て厳敷戦ふ、氏勝いよいよ疲れてみへし所に、須佐下野か言様、此所こそ大事なれ、我と思ん人々働を給へと下知しけれは、横田安芸・伊藤十右衛門・目黒太郎左衛門・菅家太郎右衛門・小国隼人か輩取て返し防き戦ふ、其間に氏勝も落延ける、鮭立の里にて敵手繁く追来りけれるにより、又返し合せて暫く戦ふといえとも、利を失ふて終に横田迄引たりける、敵勝に乗て程なく付入に社したりけり、荒嶋布沢口より寄たりし横田勢も、松坂の合戦に味かた討負たりと聞て、すこすごと引返しぬ、氏勝さらは要害を保んとて、横田の山城へ籠りける、此所は其里よりみれはさのみ高くみへねとも、越後境浅草と言山はかたの如く高し、彼山に相対してみゆるは彼城山なり、此山の北に当り、只見川流僅に西に当て旦過と言川は、大股の里の辺より流れ出て、此城の北にて只見川へ流れ入る、東にはやた沢の流、是も只見川へ落合ふ、只見川へ傍ふて上るは、西の一方こそ陸地続きて渺々たりといへとも、敵の寄来る道に非す、布沢より横田迄は坂東路二十里有、皆旦過川に傍ふて行沢路有、横田へ入には松前守山の下に出て、旦過川を右になし、東に向て旦過川の橋を流る、かかる要害敵の為に駆行自由ならさるに、城中には兼て大石大木を二三の丸の城戸口集めて、一度に切り放つ様に仕かけ置たりける、伊達勢は松坂初度の合戦に打勝て、千軍の首途よしとて勝囲を作りて横田へ社は押寄たり、程なく横田へ着しかは、旦過の橋を打渡り城山下に小高き所の平場有、此を古来中丸と申、此所へ勢を打上け、しはらく人馬の息を休めける、城中には鳴を静めて寄来る敵を待懸たり、伊達勢勝に乗て何程の事有へる、是程の小城只一揉にもみ崩せよと曳や声を上て城山へ攻登る、二三の丸の木戸口何れもせまかりけるに、寄手大勢揉会ける所を見済し、高根沢左馬介三ノ丸の木戸口にはりかけたる石弓一度にはつと切はなちけれは、敵の真中へ山の崩るることく打懸けれは、甲の天辺を打ひしかれ、或るは手足を打くたかれ手負死人移し、敵四度路に成所を弓鉄炮討かけ討かけ散々に悩しける、敵不叶して中丸に馬を控へて居たりける、横田か郎等共内々上野介か挙動を憎みて、あはれ此軍の一番に上野野尻を討取はやと思ひけれは、須佐下野・中丸新蔵人・石伏監物か輩我討取んと進みける、布沢もとみて其意をさくりて駒を打はやめて旦過の橋を渡り、松前守山の方へ引て行、須佐・中丸・石伏等声かけ、ここを一番に逃るは正敷布沢上野とみるはひかめか、義理を忘れ一族を背て敵と成、今日案内者として先陣するには似合ぬふるまひ哉、急き引返して勝負せよと名乗りかけかけ追懸けれは、返答にも不及捨鞭打て逃帰る、続て追懸んと思ふ処に、旦過の橋の方をみれは、伊達勢の大将大波玄蕃と覚敷武士、或は深手負たるを介抱し、或は引取者を下知して控へたり、さらは、取て返し、玄蕃ならは勝負を決せんと旦過の橋に打向ひ、其外町口に控へたる味方の者共、路より少し北なる備蔵田の辺より廻り三方より攻懸れは、大波不叶とや思ひけん、西の方を打破りて引退ける、此とき伊達勢多く討れて、大波も此城を侮り不覚の破れを取たりと思ひ、いよいよ引色に成てみへけは、寄手の大勢も方々へ引退く、敵は道筋不案内なれは、此彼の詰りへ追かけ追かけ討取も有、此とき滝谷内匠介も横田の東高根沢と言所にて敵と戦ふ、夜に至る迄厳敷戦ひしと也、滝谷か郎等に越後と言し者、内匠介か供して参りけるか、勇敷戦ひけり、高根沢夜合戦してはけしき軍也とて後迄伝へ語りける、伊達の大将大波下知して曰、一先布沢へ引返し、重て打寄術を替て社攻へけれ、早々引也者共と下知して布沢をさして引返しける。


 安政3年(1856)十一月御城下仲七日町真船屋幸助宅滞留之砌、徒然之余此山ノ内記を写置申候  会津御倉入黒川組叶津村 長谷部保三郎 (叶津 長谷部保信家文書)


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