山之内天正記 -下-



巻之下


氏勝水窪大塩に楯籠 附、後詰を越後江請ふ事
横田大学介か事
氏勝飛札を伏見に奏る事附石田三成返札事(注)
後詰の勢越後より山内に来る事
氏勝勢を出事 附、横田の敵を追払ふ事
本名合戦并中丸新左衛門勇戦之事
氏勝二度松坂に向て敗軍 附、相図相違之事
政宗軍罷て小田原に参被事(注)
秀吉公会津御下向付会津を蒲生飛騨正氏郷に賜ふ(注)
山ノ内一族本領を失ふ事


氏勝水窪大塩に楯籠 附、後詰を越後江請ふ事
 横田にては、布沢より攻入たる伊達勢を思のままに安々と追返したりと悦て、大息付て居たりけれとも、行末之事また如何せんと一族郎等を集めて、面々か思案の程を向に各けん儀しけるは、一旦寄手を追散らし、城を堅固に持と言供、敵は布沢に陣を取、攻具をも支度し不日に又寄来らんこと必定也、味方にもまた用意の石弓など有、有といへとも敵も重て手便を替て来らん、又敵は黒河より荒手の加勢も有へし、兵糧の運送をも乏しかるまし、味方は無勢を以て、所詮此上は只見川を渡り、大塩・水窪の両城に楯籠り、船もりを切流し候は、敵いささかに寄来る事叶へからす、又越後は年末御懇意の事に候へも、助勢を請て後布沢へ此方より押寄敵数多討取、夫より黒河迄責入へし、又其内に政宗の身の上に珍事出来事も有へしと一同に評議定りけれは、さらは急けやとて、其日の申の刻計に氏勝は横田の城を立出て、大塩の城には、舎弟なりし横田大学之助を入置、氏勝は水窪の城をそ守りける、大塩へは敵寄んと思う供、船ならては叶へからす、船筏を引事は中々心安かるへし、水窪は歩行にて渡る浅瀬もあれは、此を天事と思ひて氏勝自ら守りける、去程に布沢に控へたる伊達勢は、氏勝横田を明て立退けるよしを聞て、さらはこそとて横田へ移りて、布蟹を捨て本名村に陣をそ移しける、さて氏勝は上杉景勝へ事の子細を委しく申遣し、今度の救難を御助被下度と、氏勝か一族なる左馬介子に弥次郎と言七歳成童部、後に兵左衛門と号す、家老須佐下野を添て人質に参らせ、あはれ不日に御勢を給はり候へかしとて、越後へ社は遣しける。

横田大学介か事
刑部舎弟に大学助と言者有りれか、刑部か父兵衛太夫舜通は刑部と父子の中あしく成る、其故舜通大学を愛して家を継しめんと思ふより、郎等共迄引分て中悪くなれけれは、刑部も先つ松前寺へ立退き、それより下山と言所に居たり、大学も山内を退き越後へ行、其後家康公の御許へ参り奉公して居たりける、此大学は此頃山ノ内一族に第一器用の仁、文武二道に達したりと人々申けると也、家康公の御気にも預るへきとて時の人も申けり、然るに山内にて兄の刑部は政宗と合戦し、ことに難儀に及ふ故に、刑部方より弟大学之助に御暇被下候へて、此度某か助成に仕度由を井伊侍従・大久保相模守・木田中務を以て申ける、家康公難なく御暇を被下、ことに大学には冑甲を賜り、また腰脇にせよとてからの頭の毛を賜り、刑部にも甲冑に馬を添て贈る、あまつさへぶつそうの折節なれは、道すから心元なしとて、鉄炮数多賜はり、何某といふ人に被仰付送らせ被下ける、刑部は不斜喜て大塩の城へそ籠らせけると也。

氏勝飛札を伏見へ奏る事 附、石田三成返状之事
氏勝飛札を伏見に奏る事附石田三成返札事(注)
葦名義廣此夏没落して以来刑部太輔氏勝は身の浮沈家の安否を思ふに付て天下の為軆をも竊かに考るに関白秀吉公伏見に御座ありて天下大形其武井威に随ふ、然るに相州小田原の北條は秀吉公の命にも随不関東八州を押領し東国迄も弁呑する勢ありといへとも来年に至らは秀吉公より大軍を以て攻らるへき由風聞す、然らは天下は全く秀吉公の御下知たるへし政宗は内々心を北条に通し剰え在々所々に於て狼藉の働ある由秀吉公の御耳にも達し葦名山内へも内々政宗追討の御下知もあり加様の折節にこそ我身の安危をも定むへけれと思案して此一大事を思立つ一つは義廣に対し信義を立一つは政宗に順不對陳に及ふ事は皆秀吉公の御気色にも叶可今は時至りぬと覚ゆる此方の様を委く伏見へ言上申さは向後の安堵にも成るへしと思て伏見へ飛脚を進上申申さんと一封の草案を認置くといへとも都鄙乱□の折からなれは遥かに奥州より諸国を打越へ大事の密書を伏見まて達せんも心許無如何すへきと思案しけるに横田か祈願の本成寺と云寺に其志不敵なる真言の僧ありけるが云様は今の折から使者としての武士を上被候事却て悪かるへし其沙門の身にて候へは人のあやしむる事よも有下し其如何にもして罷り上り候はんと云刑部斜不喜ひ頓て石田治部少輔の許へと書て飛脚を彼の僧にそ渡しける折しも冬の事なれは着たる紙子の綿の中へ刑部か文を縫入て廻国順礼の者の様に出立て極月に横田を出て伏見へとて上りけるに路すから関守の厳かりけるは彼僧の懐を捜り或は帯を解て着たる紙子を振ふて見て透す所もありやう々の事にて伏見につく兼て知たる同門の僧の所へ行て衣服袈裟を借りて着し石田治部少輔の許へ尋行き奥州会津山内刑部太輔か方より上せたる使の者にて御座候書状を持参申たる猶も事を御尋に於ては口上にも申し述候ん由を云入れけれは折節治部少輔は風呂に入り身を清めけるか軈て出会けるに髪をも結不袴をも着不童子に太刀を持せて出て此僧を見て山内か使とや僧にてありけるよと軽しめたる躰に申被ける此僧もとより臆せぬ者なりけれは治部少輔に向て申す様は使にもあれ飛脚にもあれ僧を上せたる故ある事と思食すへし僧なればとて角賎しめ給ふへきか此御ふるまいにては何事を披露申たりとも墓々敷事あるへしとも存不候へは山内か上せたる書状も出て詮なし持て還んと與なけに言けれは治部少輔□て最あやまり申候暫く待被へしとて奥の座敷へ僧を請し入れ我身も髪を結袴を着て礼儀を正く改て出たり僧は其時山内か書状を出して事の様を委く語る治部少輔急き御城へ登り御前を窺ひ次の間にひかへ居たりしに折しも上杉景勝佐野の天徳寺なとも同座なりしに治部少輔しか々の事なる由を語り侍りけれは景勝も天徳寺も横田か事は我々も内々能存たる事なり近代家□一身不肖なりといへとも由ある者なれは義を重んじ中々今度政宗なにとは随うまし去乍小身なれは政宗と對陳長くは叶ひがたかるへし宣く言上申被御かを添被然可と申されたり治部少輔は彼此者有り儘に秀吉公へ披露す秀吉公聞食されて返答の趣き治部少輔に仰渡さる其上山内は越後へ山一重を隔つる事なれは加勢せらるへき由を景勝へも仰せらる扨三成は御諚を承て自筆に返札を書て彼僧に授く僧はき嬉しく思て急き奥州会津に下り刑部に斯と語りける刑部返礼を開て見れは其文に云□
態と飛札預り快然至極候、抑去夏以来義廣に對被無二の御忠功之段誠に以比類無候、即言上し遂候処、御感斜不候、弥大夫に水窪大塩両城共に可相拘被事専一之旨御諚候、然者北條背御下地相、故来月中旬始家康景勝御人衆差遣被三月朔日御出勢有、北條御成敗議定候其自直黒川江御乱入、政宗被可首刎落着候、然時者今少之儀候間其元之義油断無事肝要候、将又大沼郡伊北地御舎弟大学助殿身上之事承候、條々得心令候、御透窺言上令重而御朱印相調へ之進可候、加様之義只今加相極候雖、其表之義御心元無候、殊飛脚急き候間返遣候、猶井口清右門申越可。候恐々謹言
  正月十三日                 三成判
   山内刑部太輔殿御返報
とそ書被たり刑部はこの文を見て大に喜ひ末頼もしくそ思ける


後詰の勢越後より山内に来る事
 越後ひて景勝は山内刑部□人質を遣し、後詰の勢を請ふ由を聞給ひて、山内は為景・輝虎代々入魂にて、此方へも度々助勢の事も有、其上秀吉公より此頃御下知も有は、彼と言是と言疎なしぬ事也とて越後勢を差添、甘粕備前守・次田大炊之介・三条右近・河村彦右衛門等を大将として、越後と会津の境なる八十里越越といふ山を歴て、山ノ内か楯籠たる水窪の城へそ被遣ける、又此とき秀吉公の仰には、領内と言なから居城を立退き籠城せは不如意たるへきとて、千人扶持の御朱印を被下けれは、兵糧も越後より運送せられける。

氏勝勢を出事 附、横田の敵を追払ふ事
 越後より後詰の勢概に水窪に着とひとしく、多勢の事なれは、勇み進事限りなし、何国に敵は有そと明かに成るは朝飼する迄もなし、伊達方の控へたる在所へ攻入、其大波とやらを蹴散らして呉んつと社ののしりける、刑部此由を聞ていやいや大を以て小を討も軍の道、軽々敷すへからす申事は、先人馬の足をも休め、よくよく敵の案内をも見届けらるへしと制しけれは、事を延々等するは臆したるとつふやきけるを刑部か一族等聞て、越後勢思ふ処口惜候、早々布沢へ押寄一合戦し給ひとてしきりに申せは、刑部も其義ならはとも角も、異見に随ふへし、更は手分け定むへしと言、刑部か郎等に荒嶋右近・石伏監物申けるは、水窪より先直に只見川を渡り、某か在所の荒嶋へ懸り、大勢一度に泥嶋より脇目もふらす布澤へ攻入候は、敵思被寄らさる事にて、度々迷わん所をことごとく討散すへしと是非なく申ける、刑部申けるは、其元か申所尤に候へ共、我等横田を立退き、以来伊達の者共布澤より横田へ入込、鼻の先に心安けに居たるを差添、泥嶋より攻入らん事先差当り本意なく覚候、又川口より寄たる敵も、我等横田を去て大塩・水窪に楯籠ると聞、布蟹をうかがうと見へたり、かようの所も手当もなく、布沢の敵のみを目かけ、大軍只一手に成て攻ん事謀りなきに似たりと申けれは、越後衆も更は手分なし候へ、我々は敵の道筋も不案内に候と申、刑部重て言けるは、先つ我等は一族の手の者のみ引連れ先陣に進み、越後衆は後陣に加わり、我等か在所にかかり、横田に居たる敵を追払、それより松坂へかかり布沢へ攻入るへし、また一手は越後衆に此近辺の者共を差添、先程右近等か申様に、此水窪より真直に只見川を渡り、荒嶋より泥嶋に至て勢を揃へ、図を以て布沢口より急に攻入へし、我等松坂辺まて攻寄候時、放火の者を申付、脇道より先布沢へ遣し、彼の近辺の在家に火の手を揚て、火の手見へなは、泥嶋辺に控たる味方の勢布沢へ攻入、追手搦手一度に切て入なは、何程の敵なりとも打破らん事いと安かるへし、又川口へも二手に分て向わせ候へし、先我か一族等を一手にして切払、峠の下なる只見川を下り船にて本名へ押寄へし、今一手は越後勢に我か一族少々差添、橋立村より只見川を横に渡す、湯倉へ掛り押寄、是も追手搦手より攻入程ならは、味かた利を得ん事必定也と申、さらは勢を分て打立んとて、諸卒そぞろに進みける、さりなから布沢へ恩を入て敵陣の体を見せしむ、布沢にても水窪・大塩へ越後勢数多来る由を聞て急きけん議しけるは、敵大勢んれは、時日移差さす此方へ押寄へし、軍の勝負は必勢の多少には寄るへからす、よくよく手当を定め謀を専一とすへし、少も油断するへからす、敵より物見を遣し、此方の目章をうかがふへし、先一向に無勢の様にみせて侮らせよ下知す故、荒嶋・泥嶋へは越後大将三条右近諸卒を引連れ、横田には塩田・十筒嶋・柳津・只見・石伏・長浜・荒嶋・乙沢・泉田・下山の者共差添ふて向ひける、刑部は如此手分を定め、其身は一日先達して水窪を打立て大塩へ行、其夜は大塩に一宿して、大塩より渡る只見川の渡りに土倉とと言渡り有、右の方へ十四五丁か間にわかに小懸を懸て勢を分ち、三ヶ一を小家に入置、此土倉を渡す様に見せける、横田に居たる伊達勢すわや敵は土倉を渡すそと急き駆向ひ、只見川の南岸にそきへける、刑部は宵より方々の大船・小船を呼寄集置、翌日大塩を打立て、毘沙門堂の前にて旗を揚、土倉をは渡さすして、十四五町引上て大塩の前を渡しける、先陣の兵共先四五十騎も渡す処に、伊達勢是を身るよりもすは、敵は此所を渡さすして土倉を捨て、上横田の北なる古館の跡へ陣を取てそ向ひける、刑部か先陣四五十騎の者は、既に船より上ると等しく馬引寄ひたひたと打乗て懸向ふ、両陣互に巳午も刻迄失軍して時を移しぬ、其間に刑部か勢不残舟をそ渡しける、先陣の者とも打物に成て攻戦ふ、敵も味方も手負多く、ようやく戦ひ労れてみへける所へ、横田大学之助と越後の大将河村彦右衛門と一手に成て打て懸りけれは、敵叶わすとや思ひけん、臑打橋迄引退き橋を隔て通し合少々戦ふ処に、須佐大膳に越後勢打交り、只見川に添て横田の方へ行かとみへしか、とみて二手に成て、一手は臑打橋の敵にそ向ひける、臑打橋にて戦ひける伊達は、東西より責立られこらふへき様なかりけれは、臑打橋の南なる岩寄と言所をさして引退く、大学之助は力も人に勝れ、常に柄ふとき壱丈に余る程の長刀を遣ふ事也、此ときも彼長刀を水車の如く振回し振回し、敵四五人なき伏大勢に手負せけれは、敵はここをも破られて、早坂と言坂を引上ヶ四十九陰へかかり、石塚村の直道へ出て、這々の体にて布沢え社は引たりけれ、横田の川に陣を取て居たりし敵も叶わしとおもいて、皆布沢をさして引退く、刑部は此度の首途に敵を安々と追払ひ、我か住馴たる横田に二度入ぬる事の嬉しやとて、斜ならすよろこひける。

本名合戦并中丸新左衛門勇戦之事
 刑部大輔は横田に居りたる敵を早速追払ふて、道を不塞く者もなかりけれは、先川口の方へ勢を遣し、本名西谷の敵を追払ひ、滝谷檜の原西方の道をも開くへしとて、須佐の大膳・石伏監物・中丸新左衛門軍を先として、横田より、橋立村へ懸り、只見川を下り舟に乗て切払峠の下より本名村へ漕寄ける、又湯倉へ懸り本名へ向ふ人々には、越後の河村彦右衛門と横田大学之助か軍也、兼て相図を定めける高番山の上人を置赤き幣を為持、切払峠の下を舟に乗て味方の本名に着す時、此幣をふるへしそ約束してけり、河村彦右衛門・横田大学之助、湯倉より高番山の下少々小高き所の平場有ける所へ伏兵を置ける、合図の時刻を今や今やと待所に、案のことく高番山にて幣を振る、さては味方の船の着すとて、面々打立支度をしたりける、味方の舟程なく本名の川岸に着舟し上らんとせし所へ、本名村に陣を取て居たる敵の兵共是をみて出合、弓鉄炮を雨のふることく放けれは、味かたの者共舟より上り、兼て居たる所へ河村彦右衛門・横田大学此体をみて、本名村を見下しおびただしき鉄炮打懸けれは、敵散々に成て引退く、其時須佐・石伏・中丸か軍勢難なく舟より上り、岸の上なる平場に一息継て居たる所へ、又切払峠の下より船にて押寄る味かたの勢も段々に着、高番山の麓に伏たる兵共馳来り、追手搦手一つに成攻入ける、本名に陣を取て居たる伊達川口の者共多く討る、中丸新左衛門は伊達勢の中へ切て入、当る幸と切伏る所に、敵鑓を以て中丸か太股をつふと突、鑓を引んとする所を突なから、鑓をたとりて敵の手元へつと入、終に其敵を討取て、後に鑓を股より引抜ける、此如く横田か兵共粉骨を砕きて戦ふけれは、河口か勢もこらへかねて引退く所を名乗懸々互に近き、横田川口の者共面を知らす名を知らさる者もなし、ここにて臆病ふるまはば後日に面前成へからす、返せ戻せと口々に喚き叫んて攻懸れは、川口か勢もようやく戦ひ労れて引立、ここにや彼所に打散控へたる所に、弓鉄炮打懸打懸攻懸り、壱人も逃すなと攻立ける程に、不案内成伊達の人々何国ともなく足に任せて引て行、此とき鉄炮の音鬨の声河口の在家迄ただしき手に取様に聞て、女童は肝をけけると也、又横田の者共は河口左衛門を目に懸、ややもすれは危かりける、只見川を横に渡り西谷へ引取隙さへなかりける、さすが此辺の案内者なれは、山奥へ逃入て危き命を逃れけるとかや。

氏勝二度松坂に向て敗軍 附、相図相違之事
 刑部太輔か布沢へ遣したる忍の者馳帰りて申様は、布沢の敵は一向無勢にみえへ候、其上人馬疲れたる有様にて、爰や彼所に徘徊す体にて、はかはか敷働きし到す様子には相身へ候はすと申けれは、刑部は横田に一宿して打立松坂の辺へ押寄ける、布沢にては横田の勢寄来るを聞、布沢の里の役口成館山に物見の者を登せて、松坂より寄来る敵を見下して、其様を段々に注進せしむ、横田の兵共旄のほかをさして寄来る由を申、又放火の者と覚へて六七人松坂の直路へ懸り、同勢先立て懸る布沢の向なる在家一軒在しを目懸、火放せんと山より下りけるを布沢の者共見付て、急き追散らいけれは、放火する事不叶して逃去りぬ、横田の勢遥々と松坂の険岨をよち登り、程なく布沢を見下し攻入所を、下なる坂塚の如なる陰に鉄炮を揃へて待懸る、横田第一の郎等日向守一番に進みて坂を乗下す処を、鉄炮五十挺つるへかけて放ちける、布沢の勘七郎と言者の打ける鉄炮に当て、日向守空敷成にける、是を始として横田兵庫・同周防・同安芸など言者、皆此所にて討れ死す、布沢の主上野介は此所案内なれは、布沢の端村浮嶋と言所より川を渡、横合に松坂へ乗上け、大勢を境の沢へ隠し置、横田の勢過る程を見済し置、後口より吐と喚て、弓鉄炮を打懸け切て懸る、また布沢より伊達勢の相図を立、鬨をとつと作りて打て懸りけれは、坂は険岨にして道狭し、思ひ寄さる前後の敵に包まれて進退叶わす、開き合せん様なく、刑部が郎等一族六七十騎討れにけれは、泥嶋は布沢の西南に当て、坂東路十四五里有に、殊に相図の火の手違しぬれは、来りて助合する兵もなし、松坂の後陣に控たりし越後勢も、先左馬介か言様は、返し合て先陣に入替り働き候へと言けれは、越後衆は返せと言は引と言事かとて、耳にも聞入すして引たりけるこそ詮なけれ、凡越後の雇勢は身にもしまさる働也と言伝へけり、刑部も危くみへけれ共、不意の虎口の難遁れて、敗軍の残党を引連て、横田をさして引退く、此時横田出羽も深手を負ひけれは、松坂の脇たりより沢辺に下れて、長刀を突に突き沢水を持て疵を洗ひて居たりしに、何者共知らす沢水に血の交り流れけるを手負落人有と噴て尋行、みれは太刀長刀のこしらえ鎧の毛に至る迄際きらきらしけれは、奪取んと思ひ色々介抱して、終には討取鎧迄も剥取けると也、刑部後迄此出羽を深く惜みけると也、又布沢の善次郎と言者は、刑部と言武者と組て遥の谷底へ転ひ落けるか、終に刑部を討取てける、其褒美に善次郎か名を刑部と改めける、又勘七郎も横田日向を先鉄炮にて打落す、伊達の者共同時に放つ鉄炮なれは、後に我々と争ひけれとも、勘七郎早く声を懸て己か名を名乗りけるより勘七郎か手柄と成り、是も褒美に大蔵と名を改となり、日向か塚は今度布沢の坂口に有、さても泥嶋布沢口へ詰懸たる大勢たかわす攻入なは、布沢は撫切に逢ふへきなるに、相図の火の手相違したるは、布沢の幸ひ横田の不幸と後迄言あへり、其頃越後にも小田原へ軍勢登させられよと秀吉公の御下知なれは、山内へ後詰の勢も程なく本国へ帰りける。
 布沢より越後へ出る道に吉尾と言所有、其間に伊達沢と言所有、伊達衆此沢にて多く討れたる故に名付たると里人語りけれは、氏勝破れて後、泥嶋の勢布沢へ攻入伊達勢を追懸け、此沢にて討取けるにやと推量り待りぬ。

政宗軍を止て小田原に被参る事
政宗軍罷て小田原に参被事(注)
去程に秀吉公関東へ御下向有て小田原の城を攻落し給へは既に天下は秀吉公一統の御政務と成りける伊達政宗は内々北條に心を通し其上出羽奥州にて恣に武威を振ひ狼藉度々に及ふ事秀吉公の御耳にも達しけれは近き此会津へ御下向ありて萬事の御成敗あるへしと風聞ありける政宗大きに恐れさらは召被不さきに此方より小田原へ罷上り陳し申すへし此上は横田と對陳も無益なり急き引退へしと下知せられは山内在陳したる伊達勢も残不黒川へ引返しける扨政宗は今度小田原に参り秀吉公の御憤を宥め罪科を遁れん事をのみ諸事につけて思はれけれは馬物具に至るまて竒廉を用不又郎等数多召具し候事も無用なりとて片倉小十郎計を召具如何にもしどけなき躰にて忍ひてこそは上被けれ此は天正十八年甲寅四月下旬の事なりしに会津黒川の城を立出南山高原峠を経て上らんとて大内の宿迄打出られけれとも行くさきいまた北條方の諸将多く候て路を差し塞きたる由聞へけれは扨は叶不と思て越後信濃へかかりて小田原へこそ参被けれ秀吉公其旧悪を責給ひて先つ塔澤と云山中へ召籠給ふ浅野弾正少弼を頼て様々御侘言上けれは其咎を御赦し候早々切取り候黒川の地を立退長井の庄へ移り居るへしと仰出被れは政宗は危き難儀を免れて同七月十三日長井の庄へそ移られける


秀吉公会津御下向并会津を蒲生飛騨正氏郷に賜ふ事

小田原の城攻落され北條すてに亡けれは関東北条方の諸将も皆秀吉公に帰服しける秀吉公は是より奥州へ御下向ありて出羽奥州の政道を執行れんとて先つ木村伊勢守を会津に遣被黒川の城を警固せしめ八月五日には黄門秀次公黒川に入り給ふ同十日に秀吉公も黒川の城に入らせ給て先つ会津をは蒲生飛騨守氏郷にそ賜りける又岩瀬を田丸中務太輔白河を関右兵衛尉に賜る此二人は氏郷の妹聟なり又葛西大崎等の数郡をは木村伊勢守に賜りて氏郷に力を合せて東夷を合せて鎮へしとそ御下知ありける同十四日秀吉公は速に会津を御出有て御上洛九月五日には氏郷黒かわの城へ入被けるとそ聞へし

山ノ内一族本領を失ふ事
 去は葦名の家族猪苗代弾正は利欲に迷ひ、伊達へ返忠の者と成故に、政宗摺上原の一戦にて容易黒河の城に被入所に、又葦名譜代の郎等共皆政宗に降参して、敵対する者なかりけるに、山内は政宗と合戦し、剰秀吉公迄此事達し、景勝よりも加勢を請て、当年勝負つかす、当時給可所を知り、義を重しると言へし、然者義広没落後、義広より山ノ内へ書礼を賜り、喜悦礼謝有しと也、さて刑部は秀吉公会津御下向の由を聞て、義広の佐竹に居られを黒河へ返し、本領をも申賜、我か一族も代々の領地を安堵せんと内々心を尽しけれとも、小田原より秀吉公の御共申て下向有し氏郷以下の面々に、早速奥州の郡懸を分て賜り、所々に守護定たる上は、滞在すへきにあらすとて、四百年に及ひ住馴たる伊北横田の城を立出て、牢浪の身と成、金山谷小川の庄に居たる山内か一族、滝谷檜原西方等の輩も思ひ思ひに旧里を立て、東漂西泊して諸国の億信と成、わすかの録を求て落付も有、又農人買人と成て一向に沈淪せるも有、中にもあさましきは野尻兵庫守・布沢上野介也、是等は代々葦名家に代々属する好みを返りみず、又一族を背き当座の難を遁れ、政宗の味かたして本領安堵せんと思ひしかとも、甚だ天性に違けるにや、政宗にも扶持せられす、兵庫は袋を頭に懸け、丐人と成、黒川の寺院をさまよひ、或は横田の辺にたたすみけるか、後には末子の沙門布沢の龍泉寺に居たりけるを頼みて口をもろふて死す、上野介は一飯を求、兼て古里なれは布沢の里へ行飢て死けれるとなり、そもそも頼朝文治年中には、三浦・山ノ内・結城・長沼四家一同に奥州郡分て賜しに、秀吉公の天正年中〔   〕は四家一同奥州本領を失ひける、天運興廃期一時に来りけるにや、不思義成けることともなり。

 安政3年(1856)十一月御城下仲七日町真船屋幸助宅滞留之砌、徒然之余此山ノ内記を写置申候  会津御倉入黒川組叶津村 長谷部保三郎 (叶津 長谷部保信家文書)


(注)
氏勝飛札を伏見に奏る事附石田三成返札事
政宗軍罷て小田原に参被事
秀吉公会津御下向付会津を蒲生飛騨正氏郷に賜ふ
以上三項は
(山内天正記全 中丸正七後當)会津若松市 河原田久雄氏所有本により補充。



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