伊北軍記



伊北軍記
本書は天正十七年(1589)、福島磐梯の摺上原合戦で葦名氏敗軍の後、奥会津の伊北金山谷山ノ内一党の事、伊達政宗勢が横田に責来て、山ノ内七騎党との事、又伊達勢と梁取城、和泉城での攻防を記したいわゆる「天正記」と呼ばれる軍記物語です。特に和泉田の五十嵐一族と伊達勢との戦いは、詳しく書かれています。この他の類書として「泉忠記」があります。内容はほぼ変わりありません。本書巻末に安永二年(1773)三月とあり、「泉忠記」が宝暦十一年(1761)に書かれた「里雑交」に引用が在ることから、江戸時代のかなり早い時期に書かれたものと思われます。




政宗金山谷の山内党を手に入られるる事
布沢上野介・小林駿河守、政宗へ属する事
政宗勢横田へ責来る事
越後景勝の御加勢伊北へ来る事
横田勢布沢を責て敗北の事
政宗勢簗取へ寄来る事
簗取城攻西勝扱を以左馬丞降参の事
泉田城人数楯籠付り三人順礼下着の事
伊達勢和泉田城へ寄る事
泉田城攻初合戦寄手敗軍の事
泉田城攻敵味方打死の事
和泉守最期附落居の事
掃部助道忠計略を以落助る事
岳山要害へ斎藤堀金楯籠事


 伊南伊北の二郷は奥の西南の隅にして、西は越後南は上野へ続て大山をへたてたり。累代葦名家の幕下にして、伊南の城主河原田治部少輔盛次、和泉田に五十嵐和泉守道正、簗取に山ノ内左馬丞、小林には二瓶駿河守、布沢に山ノ内上野介、横田は山ノ内刑部太輔氏勝各当時の城主たり。摺上の合戦葦名家敗軍に及びしかども、伊南伊北の武士等忠誠を尽すの意あり。しかるに葦名家佐竹へ御退なされ、面々無力居城へ引籠、伊達家へ敵対の慮ありといへども、各小身にしてこらゆべしとも覚さかりかば、伊南伊北の城主簗取へ参会し評儀して曰、伊達政宗乱入して会津中かすめ猛威を振ふ、降参せずは定て大軍をもって責らるへき事必然也、昨日迄葦名の幕下として忠勤無二の佳名をあらはし、今日は早怨敵たる伊達へ降参する事武士の恥辱末代の瑕瑾たり。他所はともあれかくもあれ降参はよもせじと評儀一決し誓紙血判取かはしぬ、さて又金山谷西方治部少輔、川口佐右衛門尉、宮崎右近、野尻兵庫助、砂子原四郎左衛門尉、坂下し沼沢本名等、皆山ノ内七騎党とて横田を総領家として其下知に随ふ事なれば、異義に及ず一味せり。しかれども小をもつて大に敵せん事孫呉が外に出るとも勝利を得事難かるべし。幸いには越後へ山一重なれば上杉景勝を頼まいらせ御加勢を受、伊達勢を防べしと極め、越後へ使者をぞ遣しけり。伊南よりは馬場蔵人、同杢右衛門、横田よりは一族左馬助、泉田よりは二男掃部助其外一族ぞくぞく使者として越後下田ノ城主川村彦右衛門披露を以景勝へ言上す。景勝御悦気あり、各忠信の志し深し、政宗は天下に逆心あり、又葦名の敵たり、降参せずして我に加勢を請ふ随分政宗を防がるべし、人質越れ次第加勢遣し可申也と引出もの等賜り、使者の面々川村彦右衛門としめし合て帰りぬ。

政宗金山谷の山内党を手に入られるる事〕
 政宗は黒川の城を乗とり威を振われければ佐瀬松本平田を始逆徒の輩はいかめし顔に見へしかと、葦名其族の末あるひは義を重んじて忠死をとげし者の老親祖子母妻子等、身をうき草の根を絶てここにさまよひかしこにただずみ人目忍ぶの浮涙ほすまもなしとうらみわび、日頃したがう下部等に軽き財宝荷せて、そことも知らず落行と、ここにてはずし、かしこにてうせ、たまたま随ふ奴にも心を沖の石なれや、かわく袂のなけれども、みどり子懐にして老たるを肩に掛、かなしみの声々街に満つ。しかのみならず、賎ノ男賎ノ女に至るまで、親に別れ子を失い夫妻兄弟所を異にして、うれい涙袖をうるほすの外更に安き心はなかりけり。しかるに伊南伊北の城主、金山谷の面々所々の詰りを伐ふさぎ、籠城の支度あるよし黒川へ聞へければ、政宗諸士に仰らるる様は、会津四郡皆降参する所に伊南伊北の城主等越後景勝が幕下を望む段奇怪千万也、さりながら景勝後詰ならばいささかはむつかしかるべし、早速押寄降参するは免は降参せざるをは責伏よとて、先手寄金山谷へ軍勢を遣さんと、八代勘解由兵衛、大波玄番を大将として、会津新降の武士を先として八月始に柳津を通り太郎布草の原に出張して、先つ使を以申遣けるは、政宗会津をしたがえ給ひ四郡不残御手に入処に、当地諸士いまだ降参せず攻亡さんが為発向せしむる也、屹度返辞あるべしと云。山内党西方治部少輔・宮崎右近・川口佐右衛門尉・本名右衛門尉・砂子原四郎左衛門尉・野尻信濃守・坂下等会して曰、生死此節也、一命を軽するも時によるべし、葦名家代々厚恩の歴々さへ政宗の御手に属す、我等今更降参す共義広へ対し不忠にあらずと降人と成にけり、横田刑部太輔は、兼て一味の誓約なれば後詰として、川口すつほう沢を前に当伐払と云所へ出張して扣たり。しかるに山内一党一戦にも及ばづしてことごとく降参のよしを聞、さても無念の次第也。腰抜の者共也、其上今よりは我に敵対すへし、此方より仕掛け一当あてて掌の程を見せんとためらふ所に、伊達方是を聞、横田刑部を討取忠賞に預らばやと、案内者川口本名先かけにて推むかふ。横田氏勝兼て用意のことなれば、すつほう沢を隔て待かけたり。先手向の坂を推下る所を矢先を揃射かくれば、寄手すすみ得ず、かかる所へ伊達方より鉄砲二三百挺放立るにより、氏勝不叶して大ふか迄引退伊達勢も相引に引退。

〔布沢上野介・小林駿河守、政宗へ属する事〕
 政宗会津四郡を打したがへ給へば、威勢追日たくまし。然とも伊南伊北の城主等一味して出仕せず。さによって、一々攻ほさるべきよし評定のおもむき手寄々々伊南伊北へ告知らす、しかれども義を重くするものともなれば、あはれ掌の程を見せんとて弥勇気を励しけり。其中に布沢上野助思ひけるは、金山谷党何れも一家のちなみなれば、山八郷したかひつく中にも心を改めず、景勝へ誓約しぬれども早うらがえり、政宗幕下に属す、不肖の身として敵対せばせめほされんは治定也。侍輩一味の義理はともあれ降参せば本領は申に及ばず恩賞を受んと思ひ、小林の二瓶駿河は近辺と云縁者なれば、密に内談し進物に馬をひかせ黒川へ行。南山盛秀を以言上いたす所に、政宗対面あって仰けるは、我義広を追出し諸士ことごとくしたかふといへども、伊南伊北のものども敵対せしむる事奇怪也。一々に攻ほさんと思ふ折節、其方能分別にて出仕満足せり、追付軍勢を差越間案内可致也。本領は中布沢滝原布沢口泥嶋也、此度の忠賞に蒲生寄岩塩沢楢戸加増するもの也と御書を賜る。此上は伊南伊北打随、忠勤によるべきと御慮給りけり。上野介不斜悦言上致様二瓶駿河も可然上旨に候へしか共、近辺の者共子細を存押寄責られては無詮存且穏密にしくはなしと、わざと留置申候。御勢被遣候はば某一同に先かけ可仕候と申上しかば、政宗御悦あつて盛秀西勝などに伊北攻入の評議しめし合、金山谷の山内党へ内通し上野介は布沢へ帰りぬ。

〔政宗勢横田へ責来る事〕
金山谷の城主川口左右衛門尉・宮崎右近丞・本名右衛門尉・野尻兵庫助・砂子原四郎左衛門其外山内党横田を総領家として下知に添ひしが、政宗の逆威を恐れ一味を変じ、却て横田へ伊達勢を引入る由其聞へあり。其中に、西方治部は横田縁者にて家来新国和泉は横田川向西部に住居せし故彼是義理を重し志深し、坂下は西方弟の末にして同意也、滝谷檜野原名入大登は元来横田一族家来也、然に氏勝は一家の大身にして武勇勝れ一族家来多く有しかば、金山谷のやつばら不義企、怪奇也、伊達勢を引入さる先に本名は館より一々攻亡し鬱憤を散せんと軍勢を催す。金山谷にて云聞黒川へ急告、去程に八月中旬政宗勢差遣さる、侍大将には八代勘解由兵衛・大波玄番丞二千余の軍兵を率し金山谷へ着陣す。軍評議して、先かけには河口左右衛門尉、家来には栗木長谷川渡部出雲先として打立也、宮崎右近も家臣目黒其外大石の軍兵引率し、砂子原四郎左衛門尉本名と相加り、都合三千五百余相催、西谷口より攻寄る。横田よりも兼て本名川向大ふかにと云切所を伐ふさぎ、氏勝二男横田大学頭一族左馬介仲丸・新蔵人大将横田紀伊守・同掃部丞須佐下総・同帯刀・菅谷対馬・同太郎左衛門尉・横田日向・同淡路・須佐大膳亮・谷沢式部・宇津野雅楽允・横田清左衛門・常井備中を始として軍兵率し待構、又山云へに寄来る事もあらんかと中野沢小ふかに伏勢を籠置けり。去程に寄手足軽大将鉄砲千挺弓二百挺を先立、馬上四百拾余騎、手に手に旗差物家々の馬印をひるがえし襲来る物とも、弓手は山急につらなり、馬手は大河を見うろし、只細道一筋にして一騎打なれば、先陣は木戸近く寄れども後陣はいまだ西谷にささへたり。先手鯨波を作りかけしかば後陣も一度に叫び、横田も時を合せつつ山も崩るると也。寄手筒先を揃へ一段高き所に土手を築上け柵へ柴抱結立しかば、弓鉄炮一つもあたらず、楯のかげ透間より射払ふ程に寄手すすみ得ず、横田家中常井備中鉄炮の上手にて打倒せば先手進みかねしかども、跡よりは詰寄る脇へ開く所はなし、進退途を失ひ持楯の陰にすくむ斗也。かく日を暮し立並べども責べき様もなし、横田笠山へ射手をすぐつてのぼせ寄手の真中へ射懸れば、色めき立て先陣より後陣退けとよばばる。大波玄番是を見て先後とも引け引けと下知すれば我先にと引返す、横田勢勝に乗木戸開、返せ戻せと押詰少々追討、伊達方手負死人多くして無念には思へども西方表へ引返す。陣を固め其夜所々かがりを焼用心厳しき所、横田の若武者共案内は知り敵陣へ忍ひ入、夜討して首三つ討取おびやかして引返す、ここにて三日責攻戦。去とも、横田は薄手も負ず大ふかを堅固に持。次の夜又首三つ討取、三日目には寄手余り無念にや思ひけん夜明より寄来、木戸際に近付ときをどつと作り無二無三に木戸を引破らんとす、横田勢打払射払少しひるむ所を木戸を開撞て出おめきさけんで突崩す、寄手たまらす引返せば、大波玄番云此攻口は大河を右にして嶮岨を左にし路せまくして平地なし、一騎打にて馬懸引自由ならざれば数日を経とも攻入事叶べからず。先此度は退、重て計略を以攻べし、と黒川へ引返す。横田勢も大ふかには警護の武士と残し横田の要害堅固の構けり。

〔越後景勝の御加勢伊北へ来る事〕
 横田刑部太輔は伊達の大軍を追返し勢ひ猛成しかば、本名宮崎等一味に背き、伊達方を引入るる事奇怪也、一々攻亡さんと評議せしを、金山谷へ聞へ黒川より加勢を乞用心構へし故横田より攻る事延引に及びけり。さて又越後へ証人として、氏勝従弟横田左馬助長男仙太郎を遣す。伊達来るよし越後へ飛脚を遣しければ、景勝の御加勢大将は木戸玄斎、是は弓箭執行として諸国を廻武功の人也。あわせて高梨勘解由・登坂甚兵衛尉・下田七手組の大将には川村彦右衛門尉・篠井弥七郎三千五百の勢を率し、八十里の大山を越伊北只見村に着陣す。また塩谷栃尾大将には丸田伊豆一千五百の勢を率し、六十里の嶮難つたひ着陣す。只見水窪の要害をこしらへ、また大塩に城を築、両城に越後加勢およそ五千有余籠ゆへ氏勝猛威甚振ふ。さて又伊南より人質として川原田家臣馬場蔵人長子文蔵を先横田へ遣し置、かさねて越後へ越すべきと也。しかるとも簗取和泉田の証人は何かと延引しいまだ遣せずとぞ聞えし。

〔横田勢布沢を責て敗北の事〕
 山内刑部太輔は威勢いよいよ増ければ、此上は金山谷へ攻入らんと思ひしが、つくづく考るに大ふか口は敵数万騎寄るとも小勢にても防つべし。いかるに布沢小林政宗勢を伊北へ引入るるよし聞ゆ。しからば松坂打越大ふか三口防がん事安からじ。伊達勢を不引入先に布沢小林を誅し、簗取和泉田と心を合、此方より布沢へ番手を据へ置ならば、伊達勢を入立じと案内として前日より布沢へ物見を遣し置所に、南山長沼弥七郎盛秀は政宗勢を伊北へ入るる内談として、辺見大竹星室井児山猪股湯田渡部二十余騎を召連れ布沢へ入、物見是を見て氏勝に告知らす。又翌日早天に物見遣す処に、上野助妻を離別し親のもとへ送り返すとて、わざと手立にや余多の人を付盛秀帰る躰にもてなし、中途より忍び忍びに帰りけり。横田の物見是を見て、盛秀帰らせ給ふと心得急き立帰、今日早天に南山殿は帰られ候と云。氏勝聞て我等布沢へ寄る事敵ゆめゆめ不知油断して有べし。時刻を移さず押寄よとて、横田党其外家来横山須佐菅家仲丸矢沢等を始として手勢七拾余騎、雑兵千余、越後足軽鉄炮二百挺余氏勝自身大将として出馬す。布沢上野介かねて聞に山城あれ共高して進退自由ならざるゆへ常の館を堅め、一族山内新蔵人・布沢豊後家来菅家丹波・小林周防・吉村出羽・横山和泉・同杢之助・湯田四郎兵衛差かためけり。此館は切岸にして川流れ橋を渡し、後は谷山列り実城を頂上にいただく。右はせまりせまりて、山岸に深田有り、左はすぐれて深田也、敵大勢細道に列る時鉄炮打掛け弓にて射払ならば落べき出城にあらず、其上盛秀加勢して楯籠、上野武功才覚能、浮島の道に射手伏勢数多、又寺沢には鉄炮弓の足軽を隠し置寄手坂に列る時横矢に射ん為也、又坂の下口ひきし所の松の木陰に鉄炮をかまえ、数輩待懸る。また篠坂に弓鑓をもたせ伏勢を籠置、出城の矢倉には精兵とも矢束ねいて待かくる所に、是とは知らず横田精大俣より松坂にかかり押入、布沢の地へ先陣乗下れは後陣も押て来る所を、坂下りにためらひ打ほどに、横田日向仲丸出羽須佐大蔵やにわに三騎打落す。其外雑兵多く打倒す。横田勢案に相違し、あわれさわぐ、上野盛秀下知して曰、敵を思ふ図に引受打しらます事心地よし、早今日の軍は勝也、いざや打て出よと云ままに館を払つて出喚叫で掛りしかば、寺沢よりも打て出、横矢を射掛鑓長刀にて攻かかる、横田勢坂なり道は狭し働得すして敗北す、布沢勢勝に乗時を作りかけ坂を追上る、浮島の伏勢も横矢を攻かかり三方よりもみ合、射伏突伏百余人打取、氏勝心たけしといへ共無為方、只一騎士卒に離れ引んとすれば横矢の伏兵後を遮る、続く郎等もなし、前後の敵に囲れ危く見へけるに、馬取甲斐々々敷ものともにて、くづはみを取、左の又四郎沢の谷合に乗おろし退所、又伏の勢太刀長刀の切先を揃へ待懸たり、氏勝十死一生の事なれば大音声をあげ、我は山内の嫡々たり汝等雑兵の分として高家にむかふ奇怪也、望ならば突て見よ、と云儘に太刀抜持て駆あほり逸足に飛せけり、よく鎧や着たりけん鑓や弱かりけん威にや恐けん鑓五六本にて突とも不通、すくえども不落、元より氏勝剛なる乗手也、口取菅家文左衛門左右を切払ひ、ばつと蹴立一の草を駆ぬけ二の草を蹴ちらし、牛つなぎ沢を乗ぬけ大俣と藤倉との間へ駆け出る所へ、布沢勢大将打留よと松坂を下り遮んと小高き所に待かくる、足立急にして走り寄て突難かりしかば、鑓三本まで投突に突ともあたらず、此時両度迄落馬す、口取抱上乗間に押手近付ば、切払切払遁れけるとそ名誉なれ。去程に布沢勢勝に乗じ難所に押詰、ここにて三人かしこにて五人討れ宛大俣字津野鮭立新遠路まで追討す。横田勢以上百五十余人討れけり。布沢勢は薄手も負ず勝鬨どつと上ヶ引返す。此時越後加勢の者とも打ならば、か程には討れ間敷所に、一支もささえへず敗北帰る、大敵と知らず侮りし故也。其後横田は三方より寄口有はとて要害を焼払ひ、水窪の城へ越後加勢を引入楯籠、大塩城は二男大学として籠る也。

〔政宗勢簗取へ寄来る事〕
 去程に屋代勘解由兵衛、原田左馬之助を政宗の御前へ召連仰けるは、伊南伊北の端城主の内布沢斗降参し、其外の者共越後より加勢を乞籠城の支度専の由、先達て長沼弥七郎布沢へ遣す間、両将相加り一々攻ほすべしと有しかば、両人数千の軍兵を率し、黒川より尾俣はかせ峠にかかり野尻より布沢へ打て入、大沼郡金山谷の降参武士相加夥敷也、小林の二瓶駿河舎弟主水布沢へ加りけれ、簗取左馬丞は父山内上総介時代は近辺八騎の旗頭たりしが若くして病死す。左馬丞幼少たる故伯父豊前名代を勤、左馬丞近頃成長して城主分たり。然間一族多く義をおもんず。かねてより常の館をば引上、後の山を要害に拵けれ共、搦手は山続き東に柵を据柴束を並べ、観音堂の縁の坂を掻楯として搦手を堀切、東南に大石大木を釣下ヶ黒一文字の旗を立四方を堅たり、布沢上野介屋代原田にむかい、簗取の城手勢少からず横田加勢近辺の武士等楯籠と承れば味方多く討るべし其計略仕らんと、びさ沢の住簗取弾正は左馬丞家来なれば、招寄降参有べき由再三云遣すといへども、左馬丞承引せずして弾正をいかり、伯父山内備前守・同下野一族・山内治部・同大蔵・同右衛門佐・同善五郎家来菊池丹波・同河内・大倉住上田出雲守・其子縫殿・同姓新助・八乙女住馬場丹波嫡子助兵衛尉・同姓信濃・二間住家塩の岐の野武士共駆集横田加勢・須佐横山土倉主馬丞軍兵を率来、乙沢住星右近舎弟助兵衛・渡辺兄弟下山馬場清左衛門・同文蔵舎弟杢之助雅楽・仲丸彦右衛門・目黒与三兵衛・富山住小塩丹後・古館住小林雅楽舎弟式部を始として五百余にて堅めけり。頃は天正十七年八月二十三日伊達勢布沢を打立、追手の先陣二瓶駿河守・同主水佐・西勝小次郎也。搦手は上野、先陣致さんとてびさ沢に入鷹鵜巣見山の腰を経押寄る、左馬丞豊前評議して曰、わずかの地へ大軍を引受ては叶まじ、急き駆向小林境火明曾根の際を伐塞防べし、敵一騎つづ打がけ路に列らば、小勢を以大勢を防べき節所也。時刻移、其隙に越後加勢も来るべし。其時打て出は、すなわち押返すべし。はやばやと下知すれば、同姓治部大蔵承り、騎兵二十余人雑兵百余人打出る所に、寄手の先勢は、早小林堀内坂に至る。簗取より遣す物見の中にも、上田出雲か嫡子縫殿助・菊池与七郎は飛が如く駆ぬけ小林の方をみれば、寄手早矢頃近く来り打かけんとす。両人取て返す所にころび岩の陰に鎧武者五人隠て居しが、両人さえぎる跡よりは追たりかけ、右は切岸左は山急にして脇へ開くべき様なければ、両人太刀を抜戦しかども、大勢落重り討れにけり、寄手血祭よしと鬨を作り寄来る簗取勢二十騎仏井路よりかけ合歩、武者少々打捕けり、和泉田の山城より是を見、五十嵐和泉守、二男掃部助を呼あれ見よ簗取勢は僅也、敵は雲霞のごとし、急ぎ打立越後加勢来らば行向てうじあわせ横鑓に掛り、敵を左右へ追乱せと云、かねて用意の事なれば、五十嵐目黒雑兵百斗騎兵二十余騎馬に白泡をかませ赤岩へ駆寄見るに越後勢は不来、掃部助手勢斗にて横鑓を入んとすれば皆押とどめて云様、此小勢にて大軍に掛ること覚束なし、もし勢をわけ和泉田へ押寄られは大事たるべしと云、掃部助理に服し遠鉄炮斗うたせひかえたり、去程に寄手数千の軍兵仏井路に推入簗取の小勢を取包んとする、治部大蔵下知して面も振ず切懸りしかば、敵五人打取る向敵を追ちらし城中へ引入けり。

〔簗取城攻西勝扱を以左馬丞降参の事〕
 寄手の勢要害の西南に群、しばらくひかえ休居る、さて又城中東の大手は山内豊前・同下野、大将として下山馬場目黒仲丸富山丹後古館雅楽兄弟横田加勢相かたむ。搦手山内治部・星右近大将として固む。西口は山内右衛門尉・同大蔵大将として堅む。南口は菊地兄弟馬場丹後相かためり。寄手要害の西南に押寄鯨波(とき)を掲れば、城中一同に鬨を合せ山谷に響震動す。寄手鉄炮をつるべ放事雨霧のごとくなれども、要害高く掻楯を立れば城中少しも苦しまざる間、二瓶主水先駆にて東の高坂へ推寄る。原田左馬助も同高坂を打上げ、歩にて後の山へわけ登、搦手推寄る。大手よりも、是計なる僅の要一もみにもみつぶさんと責登。ここに布沢の郎等飯塚近内と云もの、城中に親類多ければ、実見せばやと布沢責口は、搦手なれども、わざと大手へ廻り真先かけて進登大音揚、某は飯塚近内にて候、乍推参、城中へ申上候、平に降参なされ可然候、御内同然某、御為存申上候と云。横田家中大倉主馬聞て、以前布沢にて横田勢多くうたれ無念に思ひ、布沢郎等と聞て能引兵と放せば、近内が高股のぶかに射、是を始差詰引つめ大勢射倒しけれども、伊達勢ひるまず攻登所を、横田武者布沢勢と心得、いしゆみ大木切落し転かくれば、七八十人打倒す。寄手こらへず退、鉄炮大将梅津藤兵衛下知して西革籠岩へのぼり、南の麓より筒先を揃え打上れば、菊地藤左衛門日丸の小旗を差立廻りしが、鉄炮にあたり死す。西の手は巌石峙ち漸したひ登、鉄炮三丁ねらひすまして打しかば、山内大蔵の嫡子善太郎打れ死す。其外も打すくめられ苦しむ所搦手よりも矢先を揃へ射入けり。城中にも星右近半月に三星の指物さし、太との矢続早にて寄手近付得ず、原田左馬助下知して曰、勢も少く堀切残し、只柵一重也、柵を切のけ塀を打破れどひたひたと押寄柵に付、破ん、やぶらせじと柵を隔防戦ふ、中にも星右近おめき声を上いどみ戦へば破べくも見えず、原田余りに労れやしけん、心見にや云けん、右近にむかひ、いかに半月殿今日は酒をもたずして渇する也、侍は互の事酒成共水成共賜り候へと乞、よくこそ望給ふとて濁酒を錫に入、盃を洗矢倉より釣下、清酒は不持合恥しながら濁酒をまいらせ候と云、原田悦び賜たり、半月どのかたじけなしとこれをのむ、さて右近、御所望叶へ参らせ候、厳しく責給へ随分防ぎ可申と云。原田聞もあへず前代未聞のやさおのこや、御礼に付命を賜るかまいらするか前の子細あるべからずと云、右近も敵に渇を助よと云、誠に勇士也とたがひに褒美し却て義理のあだと成、命を惜ず責戦。しかる所に大手より主従三人名乗様、是は西勝小次郎也、先つ双方弓鉄炮止給へと近付、城中にては推参也、西勝縁者なれはとて今は敵也、引退けとよばばる。元より此小次郎は左馬丞妻の伯父也、門外に近付豊前殿に対面申度出給へと云、城中にはや怒り、西勝なればとて、寄手より来る法やある、退け退けといへば、むかしより陣中にも使者等入る法也、流石の旁法を知らずや、御用心あらば太刀脇指まいらせんと城中へ投入るる。豊前立出、何事ぞや、先づ降参も儀ならば思ひもよらずと帰られよと云、西勝あざわらひ、夫程大剛の人の肘のほど見申度とおかし気に云、豊前立腹し、やあ小次郎我を侮か、見たくば見せんと飛かかる。小次郎太刀なれば、豊前の肘を取放さずして怒つなだめつ降参をすすむれども承引せず、とにかく時刻移す間に布沢上野岨伝ひに来り原田に加り搦手を責敗、旗竿城中へ投入しかば、大手色めき騒ぐ所を西勝小次郎城中へ入左馬丞が妹を拘捕、西勝扱を以此城降参いさせたりと声高に呼り走出しかば、左馬丞無是非降人と成にけり。

〔泉田城人数楯籠付り三人順礼下着の事〕
 政宗の勢簗取に陣取、翌日泉田を攻べしと評定す、五十嵐和泉守道正は一族多しといへども手勢少く向陣張かたし。また常の居の館は平場にして叶まじと、未申に当り山城を築土手を築塀をかけ柵もがりを結、掻楯柴束立かけて、北向の大手と西口に、いしゆみどうづき張掛させ、東は険しくして攻がたし。南の搦手は岨つづきなれ共大勢寄がたし。柵を結外を堀切逆茂木を引、井げたの内にならび、柏葉の紋付たる旗押立嫡子忠右衛門尉道家・二男掃部介道忠・三男勝助・四男彦七郎何れも器量の勇士也。一族雅楽允其弟藤助其弟藤次左衛門同姓藤兵衛其子弥九郎同姓越中福田平兵衛尉道正聟目黒内膳亮同新助其弟庄三郎同姓弥三右衛門尉渡辺孫左衛門尉大竹兵右衛門入道玄清目黒党福田党一族共甲冑の兵七拾五人、歩足軽共に凡二百余人、義を金石よりも重し一致して楯籠。ここに道正末子聟馬場源七郎二十七才是は八乙女丹波が二男也。道家長子清八郎二十一才、道忠長子小市郎二十才三人同道して上方参詣し越後六十里越しして、八月二十三日暮只見村に着し泉田籠城由聞よりも今宵うち泉田へ行んと立出る。亭主是を見云様、伊達勢今日簗取を攻るにより越後加勢千四五百行候へども遅く候ひし間、定て簗取も落城か降参の内也。しからば明日は泉田を攻べし。是も落城せんは治定也。各加り給へばとて負べき軍に勝もすまじ。ことには長途の旅やつれなり、ここもとは皆味方なれば平に止り給へといさむ。三人曰、弓矢取るものの子孫に生れ大事の節にはつれべきや、と暮方より只見を出闇夜にたどりたどりて泉田城に入しかは親子一門集、遅く来るかせめて早くも来るべきに今宵もこよひ極たる命哉と涙せきあへず、人々云様、汝等は旅づかれにて明日軍叶べからず。清八郎小市郎は伊南の伯母か元へ行、労を直し時刻を待べし、源七郎は妻子を連、八乙女へ帰べし、疾々とすすむ、皆々答て云様、愚の仰にて候、かかる大事を見捨生きのび候ては後日後ゆびさされ先祖の佳名をくたし候べし、又落居の後下着し果させ給ふ跡など尋廻り腹切んより、今宵参候こそ幸なれと、太刀腹巻乞受源七は父丹波の元より物具取寄ければ城中皆感激にむすびけれ。さて又越後の加勢一里半西大倉の道祖神にひかへ簗取降参の聞和泉田をも疑て入ず。伊南の加勢もいまだ不来、翌朝に至河原田杢之助芳賀内膳和泉守聟なる故真先をかけ坂井周防大橋左馬馬場若狭同兵庫同四郎右衛門同蔵人木沢式部を始二十余騎雑兵二百余率し、小野島を通富沢口より泉田表を見わたせば、寄手雲霞のごとし、杢之助内膳福田駆来りしが、敵に隔てられ入べき様なく、和泉守手勢斗にて籠りけり。

〔伊達勢和泉田城へ寄る事〕
 天正十七己丑八月二四日辰刻斗に伊達勢簗取を打立、侍大将屋代勘由兵衛尉原田左馬助弓大将鮎貝喜兵衛鉄炮大将梅津藤兵衛柴田何某足軽大将六七騎、其外会津方侍大将には長沼弥七郎盛秀家来湯田采女同仁右衛門児山丹波星玄番辺見大竹室井渡辺猪股を始として手勢五十余騎、又松本伊豆守手回廻大槻渡辺屋代荒川谷沢吉津本田四倉石井なとど云名字の兵二十余騎、西勝小次郎も近辺の軍兵引率す。野尻兵庫助手には一族山内佐渡同太郎左衛門岸内膳同孫左衛門家来五ノ井隼人渡部河内小林与次右衛門木伏内匠也。伊北降参の先駆には布沢上野一族山内新蔵人家来角田長谷部菅家吉村湯田横山等を相具す。小林二瓶主水も家臣堀金助左衛門角田党相従ふ。簗取も一族菊池兄弟手廻引率して真先に打、以上直甲五百余騎、長柄百筋、弓二百挺、鉄炮五百挺雑兵三千五百伊北川を二瀬に渡泉田の地へ打上。先陣は根岸若宮沖熊野宮辺迄着、後陣はいまだ川端にささへ十町四方計に充満す。簗取和泉田の間わづか十八丁計也。先駆簗取左馬丞小林主水佐布沢上野屋代原田長沼の三将にむかひ、泉田の城は高さ三丁余要害能勇士多し、いささか楽に攻かからば寄手大勢亡べし、先我等三人いいなだめ降参させんと存る也。しばらく待せ給へと云しかば、其儀に同じ各根岸上村熊野宮前三ヶ所にひかへたり。

〔泉田城攻初合戦寄手敗軍の事〕
 去程に城主道正一族郎等にむかひ、此度越後加勢か伊南の加勢か入ならば、先づ堂平に出城をかまえへ、水を前にあて敵を川向に陣取せ変化を見て戦ものならば、老の名残若武者どもの手すさみたらんに、小勢をもつて此城に閉籠事無念なり。全く勝利を得べきにあらねども、数代葦名家につかへ今又怨敵たる政宗へ降参すべきや、景勝の御加勢見聞する所と云、伊南横田一味の人々思ひ嘲処と云、被是義理ある事なれば討死する外はなし、呉子曰死を必とする時は生くとかや、十死一生とさだめ戦べしと云、嫡子忠右衛門始、仰御尤に存候、命限に働申さん、御心易かるべしと一族家臣一同に答けり。道家は大手の大将、赤華の鎧に月毛の甲、三尺三寸の太刀に二尺壱寸の差添三人張の弓を持先に進て出、舎弟彦七郎同姓雅楽馬場源七其外思ひ思ひに出、搦手の大将は掃部介道忠、紺糸縅の腹巻に五枚甲の緒をしめ、三尺壱寸の太刀に壱尺九寸の打刀三人張の弓に小森ことく矢をとり付嫡子小市郎并一族郎等引つれ立出る。西の手は三男勝助同姓藤兵衛目黒内膳等固けり。寄手の陣より先駆三騎乗出し城の艮の泉田沢へ馬乗寄せ、是は布沢上野小林主水簗取左馬丞にて候、兼て各々と一味いたすといえども政宗の御手に属し侍る也、和泉守にも伊達の御手につき給べし、扱として我々三人罷向御異見申候也、今日の軍大将は長沼弥七郎盛秀屋代勘解由兵衛原田左馬介にて候へども、御異見為諸勢押留候也、真平降参あるべしと高声に呼る。城にて是を聞、さすが生死の事なれば又内談するに、道忠は老体也、馬上のみにて行歩は叶ず、武功をはげますとも狭き山城也、先々子共一門の心中しつかと究んと云もあへぬに、道家すすみ出云様、彼三騎の者共一味を変じ降参する事士の本意にあらず、たやすく降参せば河原田山内の人々に腰ぬけなどと笑われては家の瑕瑾たり。越後加勢の見る目もはづかし、又其儀ならず共葦名の怨敵へ降参する事存もよらずと云。道忠曰、舎兄申さるるごとく所存究候得ば、今更内談にも及候はずと申。道正聞て心を引見ん為内談とは云つる也、いづれも勇々敷申様也、さらば返辞せよと道家大手の門外に出、降参の事思ひもよらず候、義を重じ命を軽ずるは武士の法也、急ぎ攻給へ、手なみ見せ申さんとののしる。又ここに福田藤内と云者大手へすすみ出各能き馬に乗たる姿はあつぱれ弓取達とみゆる所に腰の抜たる人々哉、其方等の様成るらつこの皮此方には是あらじ、取分布沢殿は睾丸なし、ふぐりなくは我等ものまいらせん、臆病異見無益也、見れば中々気かさがる手並の程を見すべしと散々悪口す。三人大に詞なく引返す、如期雑兵迄忠節深事日頃大将の情や深かりけん。さて三人引返急ぎ責給へと有しかば、先在家へ火をかけよと上村の居館より民屋迄焼立れば、城中の女わらは肝を消、螺を吹立鼓を打、ときをどつと揚れば、城中にも鬨を会山谷震動す。長沼盛秀は和泉田沢に旗を立、矢代勘由原田左馬介は信濃口へ旗を立、松本伊豆守は堂平に馬乗上旗を立、金山谷の軍兵ひきいる四人の鉄炮大将は信濃沢党平泉田沢へ引廻し、八百挺の鉄炮放立るいるい声にて攻上れ共、道具にすがり柴手を取登る所をおびき上、いしゆみとうつき伐落せば、寄手おしに打れ石にあたり即時に多く死す。残る軍兵あはてさわぐ所を槍長刀にて突立る、嶮岨になやまされ飛下り飛下り大に逃る。

〔泉田城攻敵味方打死の事〕
 やがて伊達勢あきれ果、堂寺へ下り集る、屋代・原田、長沼にむかひ此城たやすく落べき手立いかが有んと云。長沼今に思ひ出たり、泉田より頃日降人に出し福田勘助に案内させんと云、此勘助は先日同士軍に兄福田新兵衛を渡辺八郎右衛門に討れ勘助渡辺を討んとす、依之扱を入渡辺か子次郎を解死人に取新兵衛を葬る、其場へ双方出けるを出し抜て渡辺を切殺す、一類の者とも狼藉也とて勘助討るべかりしゆへ欠落して三日以前布沢へ走入、上野始は謀計也と思ひ縛置しが子細聞届甲斐々々敷者也とて召連たり。則呼出し案内を聞に、一旦に攻給いて中々落城すべからず、三方急にそびえ高さ三四丁も有べし、離れ山なれども西山高ければ其間大鉄炮届べきか、先西山の腰へ四五十挺登せ城へ打入らるべし、就中西手は片下り也、城中以外苦しむべし、又後ろ岨(そば)つづき有、搦手より攻掛はこらへ兼可申、其時方々より攻られば落城仕べしと申。さらば案内せよと原田大将にて信乃沢より後へ打越、岨伝ひに攻よせ弓鉄炮にて責る、城よりも鉄炮少々打、掃部介精兵を繰出し、むだ矢なく射る程に寄手近付得ず。然処に西山より鉄炮隙なく打入しかば、城中ことごとく打すくめられ困処を、大手西の手より又攻登、前左右箕輪に引廻次替次替に打上る。味方は無勢替らずして防ぎ戦程に、五十嵐藤兵衛同平兵衛目黒弥三右衛門大竹与右衛門渡辺孫左衛門所々にて鉄炮にうたれ死す。福田藤内我意にまかせ振舞ほどに、人より先に打倒され城中過半打れ鉄炮矢疵こうむらざるなし。西の手の大将勝助目黒内膳数ヶ所手負つぶやき云様、此まま死ならば未来の障たるべし、敵を近付思ふ程働能武士と引組打死せんと、石ゆみ張直し大木釣下ヶ掻楯の陰にしづまりかへつて待処に、大将屋代勘由兵衛西の手に有しが、城中を伺ふに人音もせず、さては城中討死すと心得押入打つぶせと下知して七八十騎前後左右に攻登、早半腹を上り柵近く寄来る、勝助内膳是を見て得たり賢し是ぞ最後の望む所と大将を目掛れば、夘花縅にてきらめき渡る金物打たる鎧を着五枚かぶとに富士山の前立、寸の延たる太刀帯たり、能大将と見定、いしゆみ大木一度に切て放せば、先達武者三人打倒し勘解由兵衛を打伏前後左右に十七八人打しかば、残軍兵あわてさわぐ所を、勝助長刀振て出、内膳は槍持て走り出、中段足立よき所へ飛下、ここを最後と薙伏突伏せ十四五人二人が手にかけ差つらぬく。なおも追下る所に、西山より雨のことく鉄炮打懸しかば、胸板胴腹腰股足迄あたらざる所なし。勝助内膳同枕に死にけり。さて大手にては、忠右衛門云様、平地の軍ならば大勢へ入大将と組打死すべきに、鉄炮に打れかく手を負闇々と死なん事無念也と云。源七郎聞て就中某と清八郎小市郎は夕方下向し長途の労れも何ならず、得道具にて掛ちらし最後の軍せんと思ひし甲斐もなく此まま死せんは無念也と、清八一所に楯の陰に忍所へ彦七郎来り、西の手にて勝助内膳は寄手の大将を始大勢亡し討死せり、舎兄は手を負給はずや、源七清八はいかにと云、忠右衛門聞我鉄炮に打るれども、物具能きゆへ深手ならず、敵を近付けんと父子兄弟一戦していさぎよく討死せん、彦七云様、討死したる真似して敵を近付んと四人打伏待処に、敵段々攻上り塀を破り乱入んとする所を、がばと起上り城戸押開き、道家鑓の上手にて大身の鑓引さげ、是は城主嫡子忠右衛門道家也、さびしさに昼寝する所を起させ給ふゆへ罷出候也、何れも会津四郡山八郷の面々傍輩也、見知る人多かるべし、我を宇土高名せよと百騎計こぞりし中へ突掛る、清八も脇に立太刀を抜切かかる、彦七も十文字鑓引堤、源七は痛手負しかども長刀振て出道家が左に立並て戦ふ程に、道家端的に十三人突倒す、其子清八郎敵二人切伏せ打死す、源七郎は五人薙倒し鉄炮にて胸板を打れ死す也。彦七郎十文字鑓にて八人突倒し伏木につまずきころぶ所を大勢にて突殺さる、行年三十一才也。忠右衛門今は我か死番と思ひ、鑓を捨太刀抜敵の中へ飛下る中に取入打んとするを十四人切伏る、寄手驚逃下る所に西山より大筒を打事雨のごとし、四十四才にして討死す。梅津藤兵衛は城中を見すかし乱入んと大勢を率し攻登る、梅津出立には黒華縅の鎧鹿目打たる甲を猪首に着、黒地白き階の紋黒吹切小旗を指、若武者の軽業にて一陣駈上り柵に手をかけ兜をかたむけ城中を見入れたる、五十嵐雅楽允道成の柳葉の大根にて真中したたかに射られ手負居けるが、矢押取走出る、梅津半弓打つかい射んとする所を走り掛て突、藤兵衛へ少し開くれば、草摺すべつて突はづす、梅津太刀抜雅楽の真甲を打んと振上る所を、五十嵐弥九郎二十五才梅津脇つぼすんど突通、柄をひねり一えぐる、雅楽又鑓にて突梅津真逆に落て死す、いまだ三十に過ざる侍也。寄手大将討れ無念の思ひ、我先にと柵打破り四五十人込入二人を討んとす、雅楽允たちまち五人突倒す、弥九郎も太刀にて渡り合新手弥上に重りしかば、弥九郎とても叶まじと東の岨を飛下り遁れ助る也、雅楽允は痛手負立去ずして討死す。五十嵐藤次左衛門も東の手にて敵五人と渡りあひ二人討留一人に手を負せ、二人は追下しけれ共肩先を切込まれ嶮き厳を飛下隠忍助る也。又福田越中はここかしこ立廻りしが寄手の相定を聞知て弓を言葉をかはす、しばらく敵に紛終に遁助る也。五十嵐藤助は今朝伊南勢の迎に行、冨沢屋敷に用事有て時刻をうつす隙に敵に帰られ城へ入得ず、東の林の中に忍居て心計はすずめども、叶はずして落居の後伊南久川の城に籠けり。

〔和泉守最期附落居の事〕
 道正は子供一族家臣ことごとく討死す、我身も鉄炮矢疵数ヶ所負腹切んと思ひしが、二男掃部助搦手を能防いまだ恙なし、彼を呼寄云置事ありと云遣しければ、跡をば悴小市郎と郎等共に防がせ父の前に行御手疵はいかんと云、道正曰、我は只今最期也、汝何とぞ簗取左馬丞が陣所へ落行命を全し、幼もの共の行方を見届べしと被申るる。道忠承り御最期と仰候上は某とても落行候事思ひもよらず候、御共可仕と涙せきあへず、道正曰、子供一族不残討死しては、子孫絶果べし、理を非に曲生残り先祖の名をも残さん事却て孝行たるべし、父が命に随べしと也。道忠理に伏し畏候、御安心かるへしと云、折節搦手より乱入んとす、道正腹切内、あれ防べしと有ば、道忠取て返して見るに、堀切を埋草し平地となし、逆茂木引退矢を射事雨のごとし、郎等皆打伏られ小市郎計防けれども二十才を一期として討死す。道忠涙ながら敵五六人塀を乗んとする所を突落し突落し馳廻る其隙に道正は腹十文字に掻切り臓をつまみて繰出す、内室も追付申べしと介錯し切先ふくんでうつぶし夫婦一所に自害せり。又大勢寄来るを道忠三人張に十三束切て放し矢庭に八人射倒す、寄手僻易し近付ず、道正城戸を閉小市郎が屍に抱付、しばし泣居たり。さて大手西の手石ゆみ投くさ早尽て、臼杵石臼茶磨投尽し、熱湯を汲かけ、又は熱灰炭燼さりなど高き所より抛かくれば、さのみ死事なけれども苦痛す。城中女童まで命を惜まず希代の働也。三方より段々攻登り乱入、ここに大竹与右衛門が妻美しき女にて二十三才なりしが、夫の死骸に近付手拭にて鉢巻し居る所を、我捕ん人とらんと掛寄者共八人迄切殺し大勢に討れけり。寄手は勝時有て引おろす、長沼実検して首数武士百二十七騎雑兵七十余根岸若宮前鬼渡の森の際迄一々懸並実検す。以上城中二百余人討死す。道忠は簗取へ落、其外すはたのもの六人東の険難を下り遁る也。残はことごとく討死す。寄手には屋代勘解由兵衛尉梅津藤兵衛尉と云大将二人武士三百余雑兵五百余人およそ八百余人と聞へけり。

〔掃部助道忠計略を以落助る事〕
 道正と山内左馬丞とは縁者にして入魂也。故に道正が子供の内一人とも助度おもい家臣河内に能云含めしかば、畏候と城中へ入あたりを見れば幸道忠息を休居たり。河内小声に成左馬丞より貴殿を囲み落し、申せとの使者に菊地河内と参候と云。道忠の曰、我命を惜にはあらねども父の遺言と云志の程かたじけなしと、菊地を頼首一つ引提城中より走下りる。大将落ると見ゆ遁ましと呼る、道忠是は左馬丞手の者也、何をあやしむぞと腹立気に云、菊池の同詞にあらそひ左馬丞も見て、あれは我等者共也、手柄を致帰ると覚ゆ、とがめ給ふなと云により重てはとがむるものなし。さて城中落居し皆々上村へ下り休居折節、雷電しきりにして大雨降来、はや晩日と成ぬ。皆々騒水増さる前に引かずんば、洪水出し士率も労れし上、越後伊南前後より攻はあやうし、新手に逢鉄炮の薬はしめる火縄も消たり。いざや引んとて一度に引、道忠も左馬丞が手にまじり落行けり。政宗勢簗取にも留らず布沢へ引入けり。道忠妹聟古館雅楽介簗取に有しかば、たがひに手を取さてもさても時計也。最早此所に敵一人もなし心安かれと具足脱せれば、具足膚着の間より鉄炮玉十二三落れり。其夜は思の通計に休、明る日身の内を見るに鉄炮玉三つあり、肘の玉は切て取、股の玉深く入て取得ず、肩の玉は手に及ず、道忠常に愛宕を信じ奉り、しかも二十四日断食にて働し御加護と知れたり。さて簗取も敵地也、青柳河原田杢之助小塩芳賀内膳何れも妹聟なれば、落行養生し無程平愈す。伊南領主河原田治部少輔は元来一味と云忠義の勇士也と感して饗応有しかば、久川の城に籠けり。

〔岳山要害へ斎藤堀金楯籠事〕
 其頃伊北の境の村主斎藤近右衛門は、小池の長なれ共伊南合壁にして縁者あり、伊北は同郷にして親類因多し、元より葦名家へ十二騎づつ軍役を勤ければ、嫡子彦右衛門尉実俊、其弟助兵衛掃部助、甚右衛門などとて六人有。一族郎等等を率、岳山に要害を構楯籠、小島長作も加り片貝堀金弾正も一家郎等等を率し加り、伊達勢今や来ると待けれ共、政宗の軍兵泉田にて討れ手負多く有しかば、よせずして黒川へ帰、布沢小林簗取へは政宗より警固を置かるるなり。


(田島町史 大橋朗所有文書より)


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