山内氏之事



伊達家の家紋を調べていて、偶然武鑑の中に「山内瀧口三郎経俊之事」の記述を見つけ、吾妻鑑にも同じような記載があるので参考に載せました。
源平盛衰記にも「宇治合戦附頼政最後事」「佐殿大場勢汰事」など同じような記載がありこれも載せました。「城太郎平資職之事」は越後に勢力のあった城氏が恵日寺の侍達を引連れ、木曽勢と戦い敗れて、奥会津の勢力図が変り、越後・奥会津での勢力を失う原因となった巻第二十七「信濃横田川原軍事」を載せてあります。


@「鎌倉武鑑」
山内瀧口三郎経俊之事
A「吾妻鏡」
治承四年・七月十日(山内首藤瀧口の三郎経俊、條々の過言を吐く)
治承四年・十月二十三日(瀧口の三郎経俊、山内庄召放事)
治承四年・十一月二十六日(山内瀧口三郎經俊之事)
文治二年・八月十五日(西行法師之事)
文治二年・八月十六日(銀の猫之事)
B「源平盛衰記」
巻第十五(宇治合戦附頼政最後事)
巻第二十(佐殿大場勢汰事)
巻第二十七信濃横田川原軍事(城太郎平資職之事)

@鎌倉武鑑
山内瀧口三郎経俊之事
秀郷四代首藤左衛門尉公清四代権守助道男刑部丞俊通長男
藤原俊綱首藤瀧口子瀧口三郎経俊子山内六郎通基
経俊の祖助道は義家朝臣出羽の国の逆徒武衡家衡を征罰の時十三歳にて御供にしたがひ戦功をあらはせしより其子俊通又保元の軍に功あり父俊綱は平治の軍に義朝に随ひ義平十六騎の一人也武勇父祖に劣らず此時に源三位頼政卿も手勢を卒して打出給ひが勅命にしたがえば一家を亡しまた義朝に興すれば反逆の同類也いかがはせんと猶像給ふを義平心短き人なればいかに方々頼政此所へ出張しなから運を両端に見て打てかゝらざるこそ心えねと大に怒り頼政の備に切て懸り入乱れて戦へば俊綱真先にすゝみ敵数多討取り頼政の御内に渡邊の綱が末孫播摩二郎省が射る矢俊綱が喉輪に中りてどうど臥す義平見給ひ俊綱ほどの勇士を敵に首をわたすなとの詞の下より斉藤實盛畏候とて走り寄り俊綱が首取て味方の陣へ引帰す三郎経俊は其子なれば佐殿も無二の者とたのみ給ひ治承四年義兵の御催のとき一番に藤九郎盛長をもつて御書を遣はされ味方に招き玉ふ折節経俊は弟俊秀と双六をうちてゐたりけるが此由を聞て嘲笑ひ佐殿流人の身をもつて義兵などとはかたはらいたし当時平家の勢ひに対せんちは鶏卵を磐石に投るにひとしとさまざ悪口してとりあはねば盛長も心中に怒れども大事の前の小事と胸おしさすりて堪忍し夫より三浦が許へぞおもむきけるかくて経俊は大庭侯野が催促にしたがい石橋山の合戦に佐殿に矢を射かけたり其後東国平均して石橋の御敵或は囚人と成りし時経俊も捕はれて土肥の實平に預け給ふ實平彼が父祖の忠義を申て御赦免をねがへど御許容なし此経俊が母は佐殿の乳母なれば御前へ出ていろいろと御詫申父が討死又一つには君の幼きより随きしたがひ奉りし老たる姥が未来の土産と思し給ひまげて経俊を給はらんと愁訴刻をうつす其時佐殿左右に命じて御着長を召寄給ひて彼女性に見よとの御諚なり是を見るに胸板に矢一筋あり沓巻の際に漆をもつて山内瀧口三郎経俊とありければ女性も涙双眼に満て詞なし其時佐殿此矢後の為にとそのまゝに差置たり故に日あらずして経俊が首を見んと思へども父祖の忠節且は女性の歎も不便なれば命は御身に参らすとて御免しありて追放せられけるが後に召出され本領安堵の上に伊勢の国の守護となし給ふ是より経俊君恩に感じて精忠を盡し子孫栄ゆ武蔵守朝雅京都にありて反逆の聞えありし時討手として五條判官有範後藤右兵衛尉基清佐々木左兵衛尉盛綱同左衛門尉廣綱同彌太郎判官高重等朝雅を追ひ討つ時経俊の息持寿丸衆に勝れて先に進み朝雅を討おとしたり後に六郎通基といひは是也始め左衛門尉公清が子助清主馬首となりしより首藤といふ其後相州領地の名によりて代々山内と稱す佐藤尾藤も皆公清を祖とす因にいふ公清は河内守頼信朝臣に仕ふ公清が長男を佐伯右兵衛尉季清といふよりて佐藤と稱す其子康清康清が嫡子を右兵衛尉義清といふ是西行法師也法名圓位と号す鳥羽院の北面に候じて君寵を蒙れりされども義清常に仏法に帰依して厭離の心を忘れず或とき一族なる者と打連て御所を出遣すがら何くれとものがたり翌も共に院参せばやなど約して立わかれぬ次の日いまだ東雲の頃なりしが外の一族来りていかにや某どのは夜べ俄に病おこりて忽に身まがり給ひぬ今朝は野辺おくりの事どもいとなみ給ふ山足下にも告てよと申越候ひぬいざ給へといふ義清聞てうち驚きまさしくきのふ駒をならべて帰り来し共人のけふははやなき人と成ける事電光石火の理り今更おどろくべきにあらざれどもあまりにあはただしき告なりとなほも無常迅速の教を感じしきりに遁世の心おこれど面にもあらはさず供佛佐善かたのごとく終りつれば又の日本院の御方へ参りて何となく昔今の御もの語など聞えまゐらせけふをかぎりの御所の名残とおもひとれば胸ふさがりて落る涙おしとどめて我家に帰り妻なるものと雅き女を側へまねぎて申すやうは人世のはかなき事泡影夢幻のごとしと我もとより生死を出て佛門へ入らんとかねて願ひゐたれども時至らずきのふありし人のけふは泉下の客となれり誰か百年の寿を保つべき早く輪廻をはなれて平生の素懐を遂ん今時節到来せりおことらかならず歎き給ひそと自ら髷おし切れば妻と女は左右にすがりこはそも物に狂ひ給ふかと止むる袂をふりはらひいづちともなく立出たりもとよりも名刹に心を留ざれば是より専や佛道を修し猶如火宅と観念し一所不在の発心者と成りひとつには多年好める道なれば至れる所にて歌を詠じ山水を友として国々を経廻す一とせ四国の方へ志し讃岐の松山に至り崇徳新院の白嶺の御廟に詣けるに荊棘道に繁老悔槐巨松日陰を遮り雉兎の径もさだかならず西行は御陵の御前に跪きて此君かたじけなくも萬乗の主として御果報美じくましましなからかゝる邊土に遷され給ひ参り仕ふる人もなく配所の露と置替り給ひしも前世の宿縁にこそあらめ今夜は御廟の御宿直と八重葎しげれる中に笠うち嘆き静に稱名念佛して法施奉るに人跡絶たる白嶺の松ふく風谷川の音ものさびしさにありし事ども思ひ続け涙とどめかねたるをりからあやしや御廟の内よりも圓位圓位と召し給ふ西行心おとろき我来しかたを思ふのあまり神散じて魂虚し夫に乗じて狐狸なんとの誰かすにやと心に忘想を拂ひ豁然として眼を開けばこはいかに世をさり給ひし新院のありし昔に引かへて龍顔ことに憔悴し御眼中光ありて朱を濺ぎたるごとく逆憐の有さまにて汝世に在し事を思ひ忘れず此所に来りて訪ふ事感ずるにあまりあり朕が不徳とは云ながら皆是実福紋院が謔言を本院御用ひありしよりかく左遷の鬼となる事永劫を経るとても此怨み消すべき時あらず見よ見よ近きうちに世は又乱れぬへし其とき朕につらかりし者どもはことごとく思ひ知らせんと怒れる御聲高らかに「はまちどり跡は都にかよへども身は松山に音をのぞみなく」と吟じ給ひて御姿は霧にかくれて失せ給ふ西行は恐しくもあさましくも今日前の不思議に感じて「よしや君むかしの玉の床とてもかゝらん後は何にかはせん」と心ばかりに御諌を申して既に横雲の空も近づけば麓へ下りて四国の舊跡おがみ巡り夫より東国へ志し鎌倉殿へ参上し右幕下の御前にて先祖秀郷よりの弓馬の古實武道の物語りして御感に預りことに歌道の達者故止めたまへども固く辞して退出す右幕下とりあへず御側にありし白銀にて造れる猫を給はる西行頂戴して御所を出後世ねがふものゝかゝる物もちて詮なしと御門の外にあそび居たる童にうちくれて奥州の方へぞ下りける實にありがたき発心者なり此外に西行の事は多けれども略してこゝに翌ク別に傳記を見て其行状を知るべし
(名著刊行会篇大武鑑)

A吾妻鏡
治承四年・七月十日(山内首藤瀧口の三郎経俊、條々の過言を吐く)
十日△庚申△藤九郎盛長申云、從嚴命之趣、先相摸國内、進奉之輩多之。而波多野右馬允義常。山内首藤瀧三郎經俊等者、曽以不應恩喚、剰吐條々過言〈云云〉

治承四年・十月二十三日(瀧口の三郎経俊、山内庄召放事)
廿三日△壬寅△著于相摸國府給、始被行勲功賞。北條殿、及△△信義△義定△常胤△義澄△廣常義盛△實平△盛長△宗遠△義實△親光△定綱經高△盛綱△高綱△景光△遠景△景義△祐茂行房△景員入道△△實政△家秀△家義以下或安堵本領、或令浴新恩。亦義澄爲三浦介。行平、如元可爲下河邊庄司之由、被仰〈云云〉。大庭三郎景親、遂以爲降人、參此所。即被召預上総權介廣常。長尾新五爲宗、召預岡崎四郎義實。同新六定景被召預義澄。河村三郎義秀、被收公河村郷、被預景義。又瀧口三郎經俊、召放山内庄、被召預實平。此外、石橋合戰餘黨、雖有數輩。及刑法、之僅十之一歟〈云云〉

治承四年・十一月二十六日(山内瀧口三郎經俊之事)
廿六日△甲戌△山内瀧口三郎經俊、可被處斬罪之由、内々有其沙汰、彼老母〈武衛御乳母〉聞之、爲救愛息之命、泣參上申云、資通入道、仕八幡殿、爲廷尉禪室御乳母以降、代々間、竭微忠於源家、不可勝計。就中俊通、臨平治戰場、曝骸於六條河原訖。而經俊令與景親之條、其科責而雖有餘、是一旦所憚平家之後聞也。凡張軍陣於石橋邊之者、多預恩赦歟。經俊亦盍被優曩時之功者哉。武衛無殊御旨、可進所預置鎧之由、被仰實平、々々持參之、開櫃盖、取出之、置于山内尼前、是石橋合戰之日、經俊箭、所立于此御鎧袖也。件箭口巻之上、注瀧口三郎藤原經俊、自此字之際、切箆乍立御鎧袖、于今被置之、大以掲焉也。仍直令讀聞給。尼不能重申子細、拭雙涙退出。兼依鑒後事給、被殘此箭〈云云〉。於經俊罪科者、雖難遁刑法、優老母之悲歎慕先祖之勞効、忽被宥梟罪〈云云〉

文治二年・八月十五日(西行法師之事)
十五日△己丑△二品、御參詣鶴岡宮。而老僧一人徘徊鳥居邊。恠之、以景季令問名字給之處、佐藤兵衛尉憲清法師也。今號西行〈云々〉。仍奉幣以後心靜遂謁見、可談和歌事之由、被仰遣。西行令申承之由、廻宮寺、奉法施。二品爲召彼人、早速還御。則招引營中及御芳談。此間、就歌道並弓馬事、條々有被尋仰事。西行申云、弓馬事者在俗之當初、憖雖傳家風、保延三年八月遁世之時、秀郷朝臣以來。九代嫡家相承兵法焼失。依爲罪業因、其事曽以不殘留心底。皆忘却了。詠歌者、對花月、動感之折節、僅作卅一字許也。全不知奥旨、然者是彼無所欲報申〈云々〉。然而恩問、不等閑之間、於弓馬事者、具以申之。即令俊兼、記置其詞給。縡被専終夜〈云々〉。

文治二年・八月十六日(銀の猫之事)
十六日△庚寅△午尅、西行上人退出。頻雖抑留、敢不拘之。二品、以銀作猫、被充贈物。上人、乍拝領之、於門外、與放遊嬰兒〈云々〉。是請重源上人約諾、東大寺料爲勸進沙金、赴奥州、以此便路、巡礼鶴岡〈云々〉。陸奥守秀衡入道者、上人一族也。
国文学研究資料館吾妻鏡データベース

B『源平盛衰記』
巻第十五 宇治合戦附頼政最後事
宮は御馬に召て、既に寺を出させ給けり。児共大衆行歩叶はぬ老僧までも、此程の御なごりを奉惜て、墨染袖を絞りけり。中にも乗円坊阿闍梨慶秀は、七十有余の老僧也。腰二重にて鳩杖に係り、御前に進て奏けるは、慶秀齢己に八旬に及て行歩に力なし、御志はいかにもと存ずれ共、御伴に不叶、弟子にて侍る、刑部房俊秀は、相模国住人、山内須藤刑部丞俊通と申し者が子息に侍、彼俊通は、去し平治の合戦に義朝が伴して、六条川原の軍に討死して、孤子にて侍しを、慶秀跡懐より生し立てて、心の中も身の力もよく/\知て候、不敵の僧にて心際悪からぬ者にて侍り、慶秀御伴仕と思召して、御前近く召仕はせ給べしとて、涙を流し墨染の袖を絞ければ、宮も聞し召し御覧じて、仮そめのなじみに、加程に思覧事よと思召ければ、御涙ぞ進みける。宮は御浄衣にて御馬に召、三位入道の一類、并寺法師、都合三百余騎御伴に候けり。新羅社の御前にては御心計に再拝して、大関通に御出なる。東を望めば湖水茫々として波清く、西を顧ば嶺松鬱々として風冷じ。関寺関山打つゞき、住人来人会坂や、一叢杉木下より、筧の妙美井絶々也。くゞ井坂、神無の森、醍醐路に懸て、木幡の里を伝つゝ、宇治へぞ入せ給ける。宇治と寺との間、行程纔に三里計也、六箇度まで御落馬あり。御馬に合期せさせ給はぬ故にや、又此程打解御寝ならぬ故にや、是も然べき御運の際とは申ながら、加程の御大事の中に、睡落させ給ける御事云かひなし。加様に度々御落馬在ければ、暫く休め進せんとて、宇治の平等院に入進て御寝あり。其間に宇治橋三間引て、衆徒も武士も宮をぞ奉守護。平家は宮南都へ入せ給由聞て、追討使を被差遣に、左兵衛督知盛卿、蔵人頭重衡朝臣、中宮亮通盛朝臣、薩摩守忠度朝臣、左馬頭行盛朝臣、淡路守清房朝臣、侍には上総忠清、上総大夫判官忠綱、摂津判官盛澄、高橋判官長綱、河内判官季国、飛騨守景家、飛騨判官景高、都合二万余騎、宇治路より南都を差て追て懸。平等院に敵ありと見ければ、平家の兵共雲霞の如くに馳集て、河の東の端に引へて、時を造る事三箇度、夥しとも不斜。宮の兵共も時の音を合て、橋爪に打立て禦矢射けり。其中に寺法師に、大矢の秀定、渡辺清、究竟の手だり也けるが、矢面に進んで、差詰/\射けるにぞ、楯も鎧も不叶して多の者も討れける。平家の先陣も、始は橋を隔て射合けるが、後には橋上に進上て散々に射。其中に信濃国住人、吉田安藤馬允、笠原平五、常葉江三郎を始として、二百余騎進出て戦けるに、常葉江三郎内甲射させて引退く。宮の兵は橋の西爪にて、差詰々々射ければ、面を向がたし。平家の軍兵は、東の爪に轡を並て如雲霞。橋は狭し人は多、我劣らじ/\と上が上に籠入けり。未暁の事なるに、上川霧立て暗さは闇し、橋をさへ引たりければ、先陣に進者、橋を引たるぞ/\と、口々によばはりけれ共、指もどゞめく中なれば、唯我先にと馳こみける程に、先陣二百余騎をば川の中へぞ推落す。夜もほの/゛\と明ければ、寺法師は筒井の浄妙明春と云者あり、自門他門に被免たる悪僧也、橋の手にぞ向ける。明春今日は事を好てぞ装束したる、しかまの褐の冑直垂に、紺の頭巾に黒糸威の大荒目の冑の一枚交なるを、草摺長にゆり下し、三枚甲の緒を強くしめて、黒ぬりの太刀の、三尺五寸あるに、練つば入て熊皮の尻鞘をさす。同毛色のつらぬきをぞ帯たりける。黒塗の箙に、塗篦に黒つ羽を以てはぎたる矢を、廿四差たるを、頭だかに負なしつつ、七もちりなるまゆみのしめ塗にぬりたるに、塗づる懸て真中を取、烏黒の馬の七寸にはづみたる黒鞍置て、熊皮泥障指てぞ乗たりける。同宿廿人、同毛色に真黒にぞ出立たる。三尺五寸の長刀童に持せて具足せり。明春云けるは、殿原暫軍止め給へ、其故は敵の楯に我箭を射立て、我楯に敵の箭をのみ射立られて、勝負有べきとも不見、橋の上の軍は、明春命を捨てぞ事行べき、続かんと思人は連やと云儘に、馬より飛下てつらぬき抜捨、橋桁の上に挙りて申けるは、者その者にあらざれば、音にはよも聞給はじ、園城寺には隠れなし、筒井浄妙明春とて一人当千の兵なり、手なみ見給へとて、散々に射ければ、敵十二騎射殺して十一人に手負て、一は残して箙にあり。箭種尽ければ、弓をばかしこに投捨ぬ。彼はいかにと見処に、箙も解て打すて、童に持せたる長刀取、左の脇にかい挟みて、射向の袖をゆり合せ、しころを傾、橋桁の上を走渡る。橋桁は僅に七八寸の広さ也。川深して底見えざれば、普通の者は渡べきにあらざれ共、走渡りける有様、浄妙が心には、一条二条の大路とこそ振舞けれ。廿人の堂衆等も続ざりける。其中に十七になる一来法師計こそ少しも劣らず連けれ。明春元より好所也ければ、今日を限と四方四角振舞て飛廻りければ、面を向る者なかりけり、電光の如にひらめきけり。立に敵九騎討捕て、十人と申けるに、甲の鉢にしたゝかに打当て、長刀こらへずして折ければ、河へからと投入て、太刀抜て戦けり。太刀にて七騎討捕て、六騎に手負て休居たり。平家の方より、悪き法師の振舞哉、さのみ一人に多者討れたるこそ安からねとて、しころを傾けて、ながえを指出たる兵あり。明春是を見て、面白し、東門五色の熟瓜ぞやとて、甲の鉢を打破て、喉笛まで打さかんと打たりけるに、太刀もこらへずして、目貫穴のもとより折にけり。太刀は折たれ共、甲も頭も打破れて、真逆に川中へぞ落にける。憑処は腰刀計也、腰刀を抜持てはねて係りて戦けり。死狂とぞ見えたりける。見之浄妙討すな者共とて、後中院但馬、金剛院六天狗、鬼土佐、佐渡、備中、備後、能登、加賀、小蔵尊月、尊養、慈行、楽住、金拳玄永等命を不惜戦たり。橋桁はせばし、そばより通にも非ず、明春に並たりける一来、今は暫く休給へ浄妙房、一来進て合戦せんと云ければ、尤然べしとて、行桁の上に、ちと平みたる処を、無礼に候とて、一来法師兎ばねにぞ越たりける。敵も御方も是を見て、はねたり/\あつはねたり、越たり越たりよつ越たりと、美ぬ者こそなかりけれ。此一来法師は、普通の人より長ひきく、勢ちひさし、肝神の太き事、万人に勝れたり。さればこそ甲冑をよろひ、弓矢兵仗を帯しながら、身の惜事をも顧みず、あれ程狭き行桁を走渡、大の法師をかけずはね越たりけめ、太刀のかげ天にも在地にもあり、雷などのひらめくが如し。切落し切伏らるゝ者、其数を不知、上下万人目を澄てぞ侍りける。明春、一来師、弟子二人に討るゝもの、八十三人也。誠に一人当千の兵也、あたら者共討すな、荒手の軍兵入替よや/\と、源三位入道下知しければ、渡辺党に、省、連、至、覚、授、与、競、唱、列、配、早、清、進、なんどを始として、各一文字声々名乗て、三十余騎馬より飛下飛下、橋桁渡て戦けり。明春は此等を後陣に従へて弥力付て、忠清が三百余騎の勢に向て、死生不知にぞ戦ける。三百余騎と見しかども、明春一来が手に懸り、渡辺党に討れて、百騎計に成て引退く。平家の大将是を見て、橋の手こそしらみて見れ、返合よ/\と下知しければ、我も/\と橋の上にぞ走重。橋は二間引れたり、後より御方に推れて、心ならず七十余騎川へ落て流けり。三位入道見之て、世を宇治川の橋下さへ、落入ぬれば難堪、況冥途の三途川こそ思やらるれとて、思やれくらき暗路のみつせ川瀬々の白浪払あへじを筒井浄妙俄に弥陀願力の舟に心を係て、宇治川にしづむを見れば弥陀仏誓の舟ぞいとゞ恋しき 明春心は猛く思へども、手負ければ引退て、平等院の門外、芝の上にて物具ぬぎ置、冑甲に立所の矢六十三、大事の手は五所也、閑所に立寄て、彼是炙治し、頭はからげ弓打切杖につき、平足駄著て独言して云けるは、法師等が外は軍心に入たる者はみえず、いかにも始終墓々しからじとて、阿弥陀仏と申て奈良の方へぞ落行ける。円満院大輔慶秀、矢切但馬明禅と云ふ者あり。是又、武勇の道人にゆるされたる兵也。慶秀は白帷の脇かきたるに、黄大口著て、萌黄の腹巻に袖付たり。明禅は脇かきたりける褐の帷に、白大口に、洗革の腹巻に、射向の袖をぞ付たりける。各長刀脇に挟て、しころを傾て、又行桁を渡けるを、平家の軍兵矢衾を作て射ければ、射すくめられて渡えざりけるに、長刀を振上て、水車を廻ければ、雨の降如くに射けれども、長刀にたゝかれて、箭四方にちる、春の野に蜻蜒の飛散が如くなり。敵も御方も皆興に入て、ほめぬ者こそなかりけれ。中にも後中院の但馬房を矢切と申けるは、左の脇に長刀を挟、右の手には三尺二寸の太刀抜持て、敵の射箭を切落す。下る矢をば踊越え、上矢をばついくゞり、向矢をば伐落す。懸ければ、身に立矢こそなかりけれ。其間に敵八人討捕て引退。さてこそ矢切の但馬とも申けれ。橋を引てければ、敵数千騎ありといへ共渡えず、明春等に被禦て、合戦時をぞ移しける。矢切但馬、浄妙、一来、此等三人橋桁を渡ける。敵共残り少く被切落ければ、後には渡る兵なし。平等院の前西岸の上、橋の爪に打立たる宮の御方の軍兵共、我も/\と扇を揚て、渡せや渡せやと召てけるは、其程臆病なる軍将やはある、太政入道心おとりせり、懸不覚の者共を合戦の庭に差遣す条、非一門恥辱やと云て、舞かなづる者もあり、踊はぬる者もあり、されども進兵なかりけり。寺法師、法輪院荒土佐鏡をば、雷房とぞ申ける。雷は卅六町を響かす音あり、此土佐も三十六町の外にある者を呼驚す大音声なれば、さだかにはよも聞えじとて、岸の上の松木に上て、一期の大音声今日を限とぞ呼ける。一切衆生法界円満輪皆是身命為第一宝とて、生ある者は皆命を惜習なれ共、致奉公忠勤輩、更に以て身命を惜事あるべからず、況合戦の庭に敵を目に懸けながら、轡を押へて馬に鞭打さる条、致大臆病処也、平家の軍将心おとりせり、源家の一門ならましかば、今は此河を渡なまし、栄花を一天に開く、臆病を宇治川の橋の畔に現す、禁物好物自在にして、四百四病はなけれ共、一人当千兵に会ぬれば、臆病計は身に余りけり。良平家の公達聞給へ、此には源三位入道殿の矢筈を取て待給ぞ、源平両門の中に選れて、射給たりし大将軍ぞや、臆する処尤道理也、爰に一来法師太刀を振ば、二万余騎こそ引へたれ、尾籠也見苦見苦、思切て渡や/\とぞ呼ける。左兵衛督知盛聞之、不安事かな、加様に笑れぬるこそ後代の恥と覚ゆれ、橋桁を渡せばこそ無勢にて多兵をば射落さるれ、大勢を川に打ひたして渡とぞ宣ける。平家方より伊勢国住人古市の白児党とて、さゞめきて押寄たり。宮御方より渡辺者共、省、授、与、列、競、唱、清、濯と名乗合て、散々に射。白児党に先陣に進戦ける内に、三人共に赤威の鎧に、赤注付たりける武者、馬を射させて川中へはね入られて、浮ぬ沈ぬ流て宇治の網代による。秋の紅葉の竜田川の浪に浮に異ならず。網代に懸て、弓筈を岩のはざまにゆり立て、希有にしてこそあがりけれ。源氏これを見て、
  白児党皆火威の鎧きて宇治の網代に懸りけるかな 
と、平家の侍に、上総守忠清、此有様を見て申けるは、橋は引たれば難渡、河は水早して底不見、人種は尽とも渡すべしとも不覚、追手の勢少々を此に置て敵にあひしらひ、搦手を淀路河内路へ廻て、敵の前を塞て戦はんと云ければ、下野国住人、足利又太郎忠綱進出でて、淀路河内路も我等が大事、全く余の武者の向べきに非ず、橋を引れ河を阻たればとて、目にかけたる敵を見捨て、時刻をへるならば、芳野法師奈良法師参集てゆゝしき大事、此川は近江湖水の末なれば、旱事更にあるべからず、武蔵と上野との境に、利根川と云大河あり、其にはよも過じ物を、昔秩父と足利と、中悪て、度々合戦しけるに、寄時には瀬を蹈舟に乗て渡りけれども、軍に負て落けるには、舟にも乗らず淵瀬を嫌事なし、され共馬も殺さず人も死なず、又足利より秩父へ寄けるに、上野の新田入道を語て、搦手に憑、大手は古野杉の渡をしけり。搦手は長井の渡と定たりける程に、秩父に舟を破れて、新田入道河の端に引へたり。入道申けるは、人に憑れて搦手に向ひながら、船なしとて暫も此にやすらふならば、大手軍に負なんず、去ば永く弓矢の道に別べし、縦骸を底のみくづと成とも、名を此川に流せやとて、長井の渡を越けり。同は我等も水溺れては死とも、争か敵を余所に見るべき、況や此河は浪早しといへ共、底深からず、岩高しといへ共、渡瀬多し、河を渡し岸を落す事は、鐙の蹈様手綱のあやつりにあり、馬の足をかぞへて浪間を分よ者共とて進みければ、然べきとて伴者ども、一門には小野寺の禅師太郎、戸屋子七郎太郎、佐貫四郎大夫弘綱、応護、高屋、ふかず、山上、那波太郎、郎等には金子の舟次郎、大岡の安五郎、戸根四郎、田中藤太、小衾二郎、鎮西八切宇の六郎、産小野次郎を始として、三百余騎を伴ける。足利又太郎、真先係て下知しけり。此川は流荒して底深し、大事の川ぞ過すな、肩を並て手を取り組、さがらん者をば弓筈に取付せよ、強馬をば上手に立よ、弱馬をば下手に並よ、馬の足のとづかん程は、手綱をすくうて歩ませよ、馬の足はづまば、手綱をくれておよがせよ、前輪には多くかゝれ、水越ば馬の草頭に乗さがれ、水には多く力を入よ、馬には軽く身をかくべし、手綱に実をあらせよ、去ばとて引かづくな、敵に目をかけよ、余りに仰のき内甲射さすな、余りにうつぶきててへん射すな、鎧の袖を真額にあてよ、水の上にて身繕すな、我馬弱とて、人の馬にかゝりて、二人ながら推流るな、我等渡すと見るならば、敵は矢衾つくりて射ずらん、敵は射とも各返し矢いんとて、河の中にて弓引て推流されて笑はるな、弓の本はず童すがりに打かけよ、あまたが心を一になし、曳声出して渡すべし、金に渡て過すな、水に従て流渡に渡べしとて、橋より上へ三段計打あげて、三百余騎さと打入、曳々とをめき叫て渡たり。橋の下へ一段さがらず、三百余騎一騎も流さず皆具して向の岸へざと上る。見之て千騎二千騎、打入打入渡たり。二万余騎、馬と人とに防がれて、漏る水こそ見えざりけれ。自ら前後の勢に連かずして、十騎廿騎渡しける者は、一人もたまらず押流さる。大勢河を渡しければ、宮の兵共暫平等院に引退。足利又太郎は、西の岸に打上て、鐙蹈ばり弓杖突、物具の水はしらかし、鎧突す。鎧は緋威に金物を打、未己の時とぞ見えし。白星の甲居頸に著なし、大中黒の廿四差たる矢、頭高に負、滋籐の弓の真中取、紅のほろ懸て、連銭葦毛の馬の太逞に、金覆輪の鞍置てぞ乗つたりける。平等院の惣門の前に打寄て、皆紅の扇ひらき仕ひ、鐙蹈張弓杖つきて申けるは、只今宇治川の先陣渡せるは、昔朱雀院御宇、承平に将門を討、勧賞に預し下野国住人俵藤太秀郷が五代の苗裔、足利太郎俊綱が子に、又太郎忠綱、生年十七歳、童名王法師、小事は不知、大事の軍は三箇度、未不覚仕、係無官無位の遠国の夷の身として、忝も宮に向進て、弓を引矢を放侍ん事、天の恐候へ共、是も私の宿意に非ず、平家の下知にて侍れば、果報冥加は太政入道殿の御身に侍べしと。名を得たらん兵、忠綱打捕やと云て懸ければ、大夫判官兼綱申けるは、秀郷朝臣は含綸旨朝敵を誅しき、彼朝臣が後胤として、今宗盛卿が郎徒と名乗、何の面目有てか先賢を顕して其恥をしめす、甚拙なしとぞ咲ける。忠綱不取敢申けるは、秀郷朝臣が将門を誅せし時も、征夷の大将軍は参議右衛門督藤原の忠文朝臣也き。宗盛卿今征夷将軍也、依勅定随将軍、是兵の法也。汝は摂津守頼光朝臣非遺孫や、将軍次将の作法を不存歟、尤不便也と云係て、兼綱に組んとて懸ければ、飛騨兵衛尉景康、上総次郎友綱を始として、三百余騎轡を並て兼綱にかゝる。大夫判官郎等小源太嗣、内藤太守助、小藤太重助、源次加を始として五十余騎、折塞て戦けり。或は組で落もあり、或は互に被射落もあり、何れ隙有共不見、此にて源平両氏の名を得たる郎等被多討けり。源三位入道は、薄墨染の長絹直垂に、品革威の鎧を著、今日を限とや思けん、態甲は不著けり。紫革威とは、藍皮に文にしたをぞ付たりける。嫡子伊豆守仲綱は、赤地の錦直垂に、黒糸威の鎧著たり、是も甲は不著けり。矢束を長く引んと也。同舎弟源大夫判官兼綱は、萌黄の生絹直垂に、緋威の鎧著て、白星の甲に、芦毛の馬にぞ乗たりける。父子兄弟矢先を揃て散々に射。其間に宮は南を指て延させ給へば、三位入道も続て落行けり。上総太郎判官忠綱、七百余騎を引率して、勝に乗てぞ追懸ける。源大夫判官兼綱は、父の入道を延さんと、只一人引返引返散々に戦ける程に、痛手を負、今は叶はじと思て、鞭を揚て落行けり。太郎判官忠綱申けるは、兼綱と見は僻事か、逃ばいづくまで延べきぞ、弓矢取身は我も人も、死の後の名こそ惜けれ、うたてくも後を見する物哉、返せや/\とて責懸たり。兼綱は宮の御伴に参也とて馳けれども、無下に間近く追係たれば、思切、馬の鼻を引返て宮を延し進せんと、七百余騎が中に蒐入つゝ、蛛手十文字に狂ければ、寄て組者はなかりけり。唯中を開てぞ通しける。上総太郎判官、弓を引儲て、箭所のしづまるを待処に、忠綱に組んと志て馳て懸けるを、能引放つ箭に、源大夫判官が内甲を射たりければ、箭尻はうなじへつと通り、血は眼にぞ流入。判官今は世間掻暗て、弓を引太刀を抜事不叶けるを、太郎判官が童に、二郎丸とて大力有けり。兼綱が頸をとらんとて打て懸けるを、播磨二郎省と云者、主の首を取れじと立塞て戦けるが、兼綱いかにも難遁見えければ、省主の首を掻落し、泣々暫しは持たりけれ共、三位入道も伊豆守も、皆自害し給ひぬと聞ける後は、石を本どりに結付て、河の中へ投入つゝ、我も御伴申さんとて、
  君故に身をば省とせしかども名は宇治川に流しぬる哉 
と思つゞけて、腹かい切て、同く河にぞ入にける。三位入道は右の膝を射させたりけれ共、宮の御伴に落行けるが、子息の判官が討るゝを見て申けるは、兼綱こそ入道を延さんとて討死仕ぬれば、若き子が討るるを見て、老たる入道がいつまで命を生とて、いづくまでか落行べし、禦矢を仕べし、急南都へ入せ給て、深く衆徒を御憑有べし、今こそ今生の最後に侍れ、さらば暇給べしとて引返ければ、宮も御遺惜く思召、御涙に咽ばせ給ふ。入道は養由をも欺ける程の弓の上手也ければ、年闌たれども引とり/\、散々に射ければあだ矢は一もなし。平家の大勢射しらまされて、度々河耳へ引退。右の膝も痛手也、矢種も既に尽ければ、郎等の肩に懸、平等院の釣殿におり居て、唱法師源八副を招いて宣けるは、身仕六代之賢君、齢及八旬之衰老、官位己越列祖武略不慙等倫、為道為家有慶無恨、偏為天下今挙義兵、雖亡命於此時、留名於後世、是勇士所庶、武将非幸哉、各防矢射て、閑に自害を進めよと申ければ、源蔵人仲家、足利判官代義清、源次加を始として三十余人、皆甲を脱、矢先を調て射ければ、飛騨守景家、上総介忠清、飛騨判官景高を始として、三百余騎前を諍て懸けり。伊勢国住人、堀六郎貞保、同七郎貞俊、緋威冑に白き幌係て、楼門のきはまで攻寄たりけるを、唱法師勝たる弓の上手也ければ、一の矢に貞保が内甲をいて落してけり。貞俊是を見て太刀を抜、唱を討とらんと懸けるを、二の矢に貞俊頸骨を被射て、馬の弓手に落にけり。伊賀国住人森小兵太利宗と名乗て懸けるが、源次加につるばしりの板を筋違様に射ぬかれて、馬の前に落にけり。此外或はあきまを被射落者もあり、或は馬の腹をいさせてはね落さるゝ者もあり、敵をいとるたびには、声を調て嘲り咲けり。敵もおくしぬべくぞ聞えける。三位入道此有様を見て申ける、軍敗をけやけくたゝかふ事は敵による事なり、此奴原は近国の者共にこそ有ぬれ、さのみ罪な作そ、今は弓を収て各自害をすべしとて、我身も鎧脱捨、下総国住人下河部藤三清恒と云郎等を招き宣けるは、敵の中にて討死をもすべかりつれ共、老衰たる首をとられて、是ぞ三位入道が頸とて、敵の中にて取渡されん事、心憂思つれば、心閑にと存て是へ来れり、我首敵にうたすな、人手にかくな、急ぎ伐ていづくにも隠し棄よと宣ふ。清恒目もくれ心も迷ければ是を辞申。因幡国住人弥太郎盛兼に被仰けれ共、同是を辞す。渡辺の丁七唱を召て、今は限と覚る也、敵に知せで急頸を討と宣へば、唱も年来の主君を伐奉らん事の哀しさに、御自害候へかし、御頸をば給候はんとて、太刀を差やりたりければ、入道池の水にて手口をすゝぎ西に向て念仏三百返計申て、最後の言ぞ哀なる。
   埋木は花咲事もなかりしに身のなるはてぞ哀なりける 
と云も果ぬに、太刀の先を腹に取当て倒懸り、貫てぞ死にける。此時歌など読べしとは覚ねども、若より心に懸好みければ、最後にも思出けるにこそ、哀にやさしき事也。入道の首をば下河部藤三郎取て、平等院の後戸の板敷の壁をつき破て隠し入る。同子息伊豆守仲綱も散々に戦ひて後、入道の跡を尋て、平等院の御堂に立入て、物具脱捨腹掻切て死にけり。弥太郎盛兼其頸を掻落して、入道の首と一所に隠し置、人不知之。後日に竹格子の下より、血の流出たりけるを恠て、御堂を開て見ければ、頸もなき死人あり、誰と云事を不知、後にこそ伊豆守とも披露しけれ。其よりしてこそ、其名をば自害の間とも申也。弥太郎盛兼走廻て、入道殿も伊豆守殿も御自害也と申したりければ、さてはかうにこそとて、入道の養子にしたりける木曾が兄に六条蔵人仲家、其子の蔵人太郎父子二人、太刀を抜き、腹と腹とにさし違てぞ死にける。宮の兵共かように宗徒の者討死しければ、恥を思輩は同死ぬ。渡辺党の宗徒の者三十余有けるも、入道父子亡にければ、此彼に馳合馳合討死するもあり、蒙疵自害するも有りければ、遁は少く死は多し。其中に競が事をば、右大将不安被思ければ、兵共に相構て虜て進せよ、鋸にて頸きらんと下知し給ければ、官兵其意を得て、競と名乗ば弓を引かず、太刀をぬかず、辺に廻て伺ける間に、滝口は先に心得て射廻り切廻りければ、人は討れ手負けれ共、競は身に恙なし。侍ども今は只討とれ、人一人生どらんとて多兵を失べきに非ずとて、中に取籠散々に戦ければ、競も終に打死して失にけり。伊豆守仲綱の郎等に、公藤四郎、同五郎兄弟は、御室戸より伊勢路に向て落にけり。円満院大輔は、赤威の鎧に、そり返りたる長刀持て、平等院の門外に進出て、高倉宮未これに御座あり、参て見参に入者共とて、持て開て走出ければ、馬の足薙れじとて、百騎計馬より下、太刀を抜てぞ懸ける。大輔は長刀打振て、しころを傾て向ふ。敵に刎て懸ければ、左右へさと引退き、中を開て通しけり。大輔は河を下に落て、行足はやくして飛が如し。馬も人も追付かざりければ、唯遠矢にのみぞ射ける。大輔は川の耳に物具ぬぎ捨て、しづ/\と川を渡り、向の岸におよぎ付、いかに殿原渡し給へ/\と申て、我寺へこそ帰にけれ。

巻第二十 佐殿大場勢汰事
兵衛佐謀叛起し、兼隆判官討れぬと聞えければ、伊豆国には、公藤介茂光、子息狩野五郎親光、宇佐美平太、弟の平六、平三資茂、藤九郎盛長、藤内遠景、弟の六郎、新田四郎忠経、義藤房成尋、堀藤次親家、七郎武者宣親、中四郎惟重、中八惟平、橘次頼時、鮫島四郎宗房、近藤七国平、大江平次家秀、新藤次俊長、小中太光家、沢六郎宗家、城平太等馳参、相模国には土肥次郎真平、子息太郎遠平、岡崎四郎義真、子息与一義貞、土屋三郎宗遠、同二郎義清、中林太郎、同次郎、築井次郎義行、同八郎義安、新開荒太郎実重、平左近太郎為重、多毛三郎義国、安田三郎明益等馳集る。廿日は兵衛佐彼輩を相具して、相模の土肥へ越え給ひ、此にて軍の談義あり。真平申けるは、軍は謀と申ながら、いかにも勢により侍べし、先廻文の御教書を以て、御家人を召るべしと奉進ければ、然るべきとて、藤九郎盛長を使にて、院宣の案に佐殿の施行書を副へて、方々へ触遣はす。盛長是を給て、先相模国住人波多野馬允に触るるに、良案じて是非の御返事不申、源平共に兼て勝負を知ざれば、後悔を存ずる故也。同国懐島の平権頭景義に相触たり。此景義と申は、保元の合戦に、八郎為朝に膝の節射られたる大場平太が事也。弟の三郎景親が許へ行て、かゝる院宣の案と御教書を給たり。和殿はいかゞ思と問ふに、景親申けるは、源氏は重代の主にて御座ば、尤可参なれ共、一年囚に成て既にきらるべかりしを、平家に奉被宥、其恩如山、又東国の御後見し、妻子を養事も争か可奉忘なれば、平家へこそと云。和殿は誠に平家の恩にて世にある人なれば、さもし給へ、景義は源氏へ参らんと存ず、但軍の勝負兼て難知、平家猶も栄え給はば和殿を憑べし、若又源氏世に出給はば我をも憑給へとて、弟の豊田次郎景俊を相具して、佐殿へ参じ加りける也。大場は俣野五郎と二人平家に付ぬ。同国山内須藤刑部丞俊通が孫滝口俊綱が子に、滝口三郎利氏、同四郎利宗兄弟二人に相触たり。折節一所に双六打て居たり。烏帽子子に手綱うたせて筒手に把、御使にも不憚、弟の四郎に向て云けるは、是聞給へ、人の至て貧に成ぬれば、あらぬ心もつき給けり、佐殿の当時の寸法を以て、平家の世をとらんとし給はん事は、いざ/\富士の峯と長け並べ、猫の額の物を鼠の伺ふ喩へにや、身もなき人に同意せんと得申さじ、恐し/\、南無阿弥陀仏/\とぞ嘲ける。利宗不知逆順之分、不弁利害之用、只恐強大之敵、忽背真旧之主、口吐妄言、心無誠信、頗非勇士之法、偏似狂人之体けり。三浦介義明が許へ相触たり。折節風気ありて平臥したりけるが、佐殿の御使と聞て、悦起て、白き浄衣に立烏帽子著て、出合たり。廻文の御教書とて被出たりければ、手洗嗽なんどして、御文披、老眼より涙をはら/\と流して申けるは、故左馬頭殿の御末は、果て給ひぬるやらんと心憂く思ひつるに、此殿ばかり生残御座て、七十有余の義明が世に、源氏の家を起し給はん事の嬉しさよ、唯是一身の悦也、子孫催し聚て、御教書拝み奉るべしとて、三浦別当義澄、太田三郎義成、佐原十郎義連、和田太郎義盛、同次郎義茂、同三郎宗真、多々良三郎義春、同四郎明季、佐野平太等を始として、郎等雑色に至まで催集て、是を拝しむ。各聞給へ、義明今年七十九、老病身を侵して、余命旦暮を待、今此仰を蒙事、老後の悦也、我家の繁昌也、倩事の心を案ずるに、廿一年を一昔とす、それ過ぬれば、淵は瀬と成、瀬は淵となる、而を平家日本一州を押領して既に廿余年、非分の官位任心、過分の俸禄思の如なり、梟悪年を積、狼藉日を重たり、其運末に臨で、滅亡期極れり、源氏繁昌の折節、何疑か有べし、一味同心して兵衛佐殿へ参べし、御冥加なくして、討死し給はば、各首を並べ奉りて、冥途の御伴仕れ、山賊海賊して死にたらば瑕瑾恥辱なるべし、相伝の主の逆臣追討の院宣を給て、軍し給はん御伴申て、身を亡さん事、為家為君、永代の面目也、佐殿又御冥加ありて世に立給ならば、子も孫も被打残たらん輩は誇恩賞、などか繁昌せざるべきと申ければ、口々に子細にや/\とて皆憑もしげにぞ申ける。いか様にも悦の御使なれば、可奉祝とて、酒肴尋常にして、馬一匹に太刀一振相副て引き、可参上仕とて、内々其用意あり。義明教訓之趣、有義無私、有勇無戻ければ、聞者感之けり。昔晏嬰発勇於崔杼、程嬰顕義於趙武、今義明為頼朝忽報旧恩、遂立新功、彰誉於四方、奮名於百代けり。藤九郎盛長其より下総に越て、千葉介に相触たり。院宣の案御教書披見て、此事上総介に申合て、是より御返事申べしとて盛長を返す。千葉介が嫡子小太郎は生年十七に成けるが、折節鷹狩に出て帰けるが、道にて盛長に行合たり。互に馬を引へて対面して、如何にと問。盛長しか/゛\と答たり。小太郎不心得思て、盛長を相具して館に帰り、向父云けるは、恐ある事に候へ共、院宣の上御教書成侍ぬ。先度の御催促に参上の由御返事申されぬ、其上上総介に随たる非御身、彼が参らばまゐらん、不参は参らじと仰候べき歟、全不可依其下知、只急度可参由御返事申させ給ふべしと云ければ、賢々しく計者哉と思て、実に可然とて、可参と御返事申けり。其より上総介に相触ければ、生て此事を奉る身の幸にあらずや、忠を表し名を留ん事、此時にありとぞ申ける。昔魯連弁言以退燕色単辞以存楚。盛長已全使節於戦術動三寸之舌、深蕩二人之心、経胤等振威勢於興衆窟、八箇国之兵遂治四夷之乱けり。夫弁士は国之良薬、智者は朝之明鏡也といへり。此事誠哉、各馳向はんとしけれ共、廻れば渡あまたあり、直には海を隔たり、八月下旬の比なれば、浪荒風烈して、心の外にぞ遅参しける。

巻第二十七 信濃横田川原軍事(城太郎平資職之事
越後国住人に、城太郎平資職と云者あり、後には資永と改名す。是は与五将軍維茂が四代の後胤、奥山太郎永家が孫、城鬼九郎資国が子也。国中の者共相従へて多勢也ければ、木曾冠者義仲を追討のために、同庁下文あり。同六月二十五日、資永御下文の旨に任せて、越後、出羽、両国の兵を招と披露しければ、信濃国住人なれ共、源氏を背く輩は、越後へ越て資永に付、其勢六万余騎也。同国住人、小沢左衛門尉景俊を先として信濃へ越けるが、六万余騎を三手に分つ。筑摩越には、浜小平太、橋田の太郎大将軍にて、一万余騎を差遣す。上田越には、津波田庄司大夫宗親大将軍にて、一万余騎を差遣す。資永は四万余騎を相具して、今日は越後国府に著、明日は当国と信濃との境なる関の山を越さんとす。先陣を諍者共、勝湛房が子息に、藤新大夫、奥山権守、其子の横新大夫伴藤、別当家子には、立川承賀将軍三郎、信濃武者には、笠原平五、其甥に平四郎、星名権八等を始として、五百余騎こそ進けれ。信濃国へ打越て、筑摩河の耳、横田川原に陣をとる。城太郎資永、前後の勢を見渡して奢心出来つゝ、急ぎ寄合せて聞ゆる木曾を目に見ばやとぞける。木曾は、落合五郎兼行、塩田八郎高光、望月太郎、同次郎、八島四郎行忠、今井四郎兼平、樋口次郎兼光、楯六郎親忠、高梨根井大室小室を先として、信濃、上野、両国の勢催集め、二千余騎を相具して、白鳥川原に陣をとる。楯六郎親忠馬より下り甲を脱弓脇挟み、木曾が前に畏て申けるは、親忠先づ横田川原に打向て、敵の勢を見て参らんと申。然るべきとて被免たり。親忠乗替ばかり打具して、白鳥川原を打出て塩尻さまへ歩せ行て見渡せば、横田篠野井石川さまに火を懸て焼払ひ、軍場の料に城四郎が結構と見えたり。親忠大法堂の前にして馬より下り、甲を脱で八幡社を伏拝み、南無八幡大菩薩、我君先祖崇霊神也、願は木曾殿、今度の軍に勝事をえせしめ給へ、御悦には、六十六箇国に六十六箇所の八幡社領を立て、大宮に御神楽、若宮に仁王講、蜂児の御前に左右に八人宛の神楽女、同神楽男退転なく、神事勤て進んとぞ祈念しける。乗替を使にて木曾殿へ申けるは、城太郎所々に火を放て、横田篠野井石川辺を焼払ふ。角あらば八幡の御宝殿も如何と危く覚候、急寄給へとぞ申たる。木曾取敢ず、通夜大法堂に馳付て、甲を脱ぎ腰を屈て八幡社を伏拝み、様々願を被立けり。明ぬれば朝日隈なく差出て、鎧の袖をぞ照ける。義仲遥に伏拝み、弥勒竜華の朝まで、義仲が日本国を知行せんずる軍の縁日と成給へ、今日は八幡大菩薩の、結て給たる吉日也とぞ勇みける。養和元年六月十四日の辰の一点也。源氏方より進む輩、上野国には、那和太郎、物井五郎、小角六郎、西七郎、信濃国には、根井小弥太、其子楯六郎親忠、八島四郎行忠、落合五郎兼行、根津泰平が子息、根津次郎貞行、同三郎信貞、海野弥平四郎行弘、小室太郎、望月次郎、同三郎、志賀七郎、同八郎、桜井太郎、同次郎石突次郎、平原次郎景能、諏訪上宮には、諏方次郎、千野太郎、下宮には、手塚別当、同太郎、木曾党には、中三権頭兼遠が子息、樋口次郎兼光、今井四郎兼平、与次与三、木曾中太、弥中太、検非違所八郎、東十郎進士禅師、金剛禅師を始として、郎等乗替しらず、棟人の兵百騎轡を並て、一騎も先に立ず一騎もさがらず、筑摩河をさと渡して、西の河原に北へ向てぞ懸たりける。城太郎が四万余騎、入替々々戦けれども、百騎の勢に被懸立て、二三度までこそ引退り。百騎の者共は、馬をも人をも休めんとて、河を渡して本陣に帰にけり。城太郎安からず思て、信濃国住人笠原平五頼直と云ふ者を招て云けるは、僅の勢に大勢が、三箇度まで被懸散たる事面目なし、当国には御辺をこそ深く憑み奉れ、河を渡し、敵の陣を蒐散して雪恥給へかし、平家の見参に入奉らんと申ければ、笠原鐙蹈張弓杖突て、越後信濃は境近国なれば伝にも聞給けん、頼直今年五十三、合戦する事二十六度、未不覚の名を取らず。但年闌盛過ぬれば、力と心と不相叶、今此仰を蒙る事面目也、今日の先蒐て見参に入んとて、我勢三百余騎が中に、事に合べき兵八十五騎すぐり出して、太く高く、曲進退の逸物共に撰び乗て、筑摩河をざと渡して名乗けり。当国の人々は、或は縁者或は親類、知らぬはよも御座せじ、上野国の殿原は見参するは少けれ共、さすが音にも聞給らん、昔は信濃国住人、今は牢人笠原平五頼直と云者也、信濃上野に我と思はん人々は、押並て組や/\と云懸て、敵の陣をぞ睨たる。上野国住人高山党三百余騎にてをめきてかく。笠原は八十余騎にて三百余騎をかけ散さんと、中に破入て面を振らず散々に戦ふ。高山は大勢にて小勢を取籠、一人も不漏討留んと、辺に廻て透間もあらせず戦たり。蒐てはひき引てはかけ、寄ては返、返しては寄せ、入組入替戦ける有様は、胡人が虎狩、縛多王が鬼狩とぞ覚えたる。又飆の木葉を廻すに似たりけり。程なしと見程に、高山党が三百余騎、九十三騎に討なさる。笠原が八十五騎、四十二騎にぞ成にける。両方本陣に引退。源平互に不感者はなかりけり。中にも笠原、城太郎が前に進て、軍の先陣如何が見給ぬると云ければ、資永は兼ての自称、今の振舞、実に一人当千とぞ嘆たりける。上野国住人西七郎広助は、火威の鎧に白星の甲著て、白葦毛の馬の太逞に、白伏輪の鞍置て乗たりけり。同国高山の者共が、笠原平五に多討れたる事を安からず思て、五十騎の勢にて河を渡して引へたり。敵の陣より十三騎にて進出づ。大将軍は赤地の錦の鎧直垂に、黒糸威の鎧に、鍬形打たる甲著て、連銭葦毛の馬に金覆輪の鞍置て乗たりけり。主は不知、よき敵と思ければ、西七郎二段計に歩せより、和君は誰そ、信濃国住人富部三郎家俊。問は誰そ。上野国住人七郎広助、音にも聞くらん目にも見よ、昔朱雀院御宇、承平に将門を討平て勧賞を蒙りたりし俵藤太秀郷が八代の末葉、高山党に西七郎広助とは我事也、家俊ならば引退け、合ぬ敵と嫌たり。富部三郎申けるは、和君は軍のあれかし、氏文読まんと思ひけるか、家俊が祖父下総左衛門大夫正弘は、鳥羽院の北面也、子息左衛門大夫家弘は、保元の乱に讃岐院に被召て仙洞を守護し奉き、但御方の軍破て、父正弘は陸奥国へ被流、子息家弘は奉被伐けれども、源平の兵の数に嫌れず、正弘が子に布施三郎惟俊、其子に富部三郎家俊也、合や合ずや組で見よとて、十三騎轡並てをめきて蒐。十三騎と五十騎と散々に乱合て戦ければ、富部が十三騎、四騎討れて九騎になる。西七郎が五十騎、引つ討れつ十五騎になる。大将軍は互に組ん組んと寄合けれ共、家の子郎等推隔々々て防ぐ程に、共に隙こそなかりけれ。去程に同僚共が敵の頸取て下人に持せ、手に捧たりけるを見て、我も/\分捕せんと、寄合々々戦けり。軍に隙はなし、両方の旗差は射殺切殺されぬ、主の行方を不知けり。其間に西七郎と富部三郎と寄合せて、引組んでどうど落て、上になり下になり、弓手へころび妻手へころびて、遥に勝負ぞなかりける。富部三郎は笠原が八十五騎の勢に具して、軍に疲たりければ、終には西七郎に被討けり。爰に富部が郎等に、杵淵小源太重光と云者あり。此間主に被勘当て召具する事も無れば、城太郎の催促に、主は越後へ越けれ共杵淵は信濃にあり。去ば今の十三騎にも不具けるが、主の富部、城四郎の手に成て軍し給ふと聞き、徐にても主の有様見奉り、又よき敵取て勘当許れんと思て、辺に廻て待見けれども、主の旗の見えざりければ、余りの覚束なさに陣を打廻て、知たる者に尋ければ、西七郎と戦ひ給つるが、旗差は討殺されぬ、富部殿も討れ給ぬとこそ聞つれ、冑も馬もしるし有らん、軍場を見給へと云。杵淵小源太穴心うやとて馳廻て見ければ、馬は放れて主もなし、頸は取れて敵の鞍の取付にあり。杵淵是を見て歩せ寄せ、あれに御座は、上野の西七郎殿と見奉は僻事か、是は富部殿の郎等に、杵淵小源太重光と申者にて候。軍以前に大事の御使に罷たりつるが、遅く帰参候て御返事を申さぬに、御頸に向奉て最後の御返事申さんとて進ければ、荒手の奴に叶はじと思て、鞭を打てぞ逃行ける。まなさし七郎殿、目に懸たる主の敵、遁すまじきぞ七郎殿とて追て行。七郎は我身も馬も弱りたり、杵淵は馬も我身も疲れねば、二段計先立て逃けれども、六七段にて馳詰て、引組でどうど落つ。重光大力の剛の者也、西七郎を取て押て首を掻。杵淵主の首を敵の鞍の取付より切落し、七郎が頸に並居ゑて泣々云けるは、身になしといへ共、人の讒言によりて御勘当聞も直させ給はず、又始て人に仕て今参といはれん事も口惜くて、さてこそ過候つるに、今度軍と承れば、よき敵取て見参に入、御不審をも晴さんとこそ存つるに、遅参仕て先立奉ぬる事心うく覚ゆ。さりとも此様を御覧ぜば、いかばかりかは悦給はんと、後悔すれ共今は力なし、乍去敵の首は取りぬ、冥途安く思召せ、軍場に披露申べき事あり、やがて御伴と云て馬に乗り、二の首を左の手に差上、右の手に太刀を抜持て高声に、敵も御方も是を見よ、西七郎の手に懸けて、主の富部殿討れ給ぬ、郎等に杵淵小源太重光、主の敵をば角こそとれやとぞたる。西七郎が家子郎等轡を返して、三十七騎をめきて蒐。重光存ずる処ぞ和殿原とて、只一騎にて敵の中に馳入て、人をば嫌はず直切にこそ切廻れ。敵十余騎切落し、我身も数多手負ければ、今は不叶と思て、主の共に、剛者自害するを見給へとて、七郎が頸をば抛て、なほ富部三郎が頸を抱、太刀を口に含て、馬より大地に飛落て、貫かれてぞ死にける。敵も御方も惜まぬ者こそなかりけれ。中にも木曾は、あはれ剛の奴哉、弓矢取身は加様の者をこそ召仕ふべけれと、返々ぞ惜まれける。両陣軍にし疲て、暫く互に休み居たり。木曾は謀をぞ構たる。信濃源氏に井上九郎光基と云者を招て、加様の馳合の軍は勢による事なれば、御方の勢は少なし、如何にも軍兵数尽ぬと覚ゆ、されば敵を謀落さん為に、御辺赤旗赤符付て、城太郎が陣に向ひ給へ、さあらば敵御方に勢付たりとて、荒手の武者を指向て軍せよとて休み居べし、其間に白旗白符取替て蒐給はん処に、義仲河を渡して、北南より指挟で蒐立ば、などか追落さゞるべきと云ければ、可然とて井上九郎光基は、星名党を相具して三百余騎、赤旗俄に作出し、赤符を白符の上に付隠して、木曾が陣を引下て、静々と筑摩河を打渡して、城太郎が陣に向ふ。案の如く城太郎は、御方に勢付たり、余勢は定て後馳にぞ来るらんとて、使を立て云けるは、只今被参人は誰人ぞ、返々神妙、御方の兵軍に疲たり、河を渡して敵の陣に向給へと云ければ、光基馬の鼻を引返す様にして赤符かなぐり捨て、白旗さと差挙て、又馬の鼻を引向て、信濃国住人井上九郎光基と名乗てをめきて蒐る処に、木曾討もらされたる勢一千五百余騎にて、河をさと渡して音を合て、北より南より、揉に揉てぞ攻たりける。城太郎が兵は、軍に疲て有けるに、只今の勢を憑て、物具くつろげて休まんとする処に、俄に上下より責ければ、甲冑を捨て逃もあり、親子を知らで落もあり、山に追籠られ水に責入られ、此にては打殺され、彼にては被切殺、落ぬ討れぬせし程に、城太郎資永は、僅に三百余騎にて、越後の国府に引退てぞ息突居たる。当国住人等も悉く木曾に従付ければ、資永国中に安堵せずして、出羽国に越て金沢と云所に有と聞えければ、木曾は関山を固て、暫く越後の国府にやすらひけり。
内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)


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