備中守山ノ内俊祐二男 山ノ内俊行 ・野尻氏信濃守童名鶴松若名源助延元元年丙子三月廿四日生永徳三年癸亥十一月三日死四十九歳常猷院殿禅瀧雪山居士と号 去は文和三年甲午大沼郡横深庄野尻男圓山に城を築牛首ノ城と号す俊行二十歳入城す東西北三方岩岨にして草木漸生人足不叶嶮岨成麓より十丈も高く山の頂に城を築南一方山続少緩有て其形如牛城内は如牛ノ首因茲牛ノ首と名付頂より少下て清水あり東西五十一間南北七十間又常住は麓の平野に住す野尻川を用堀深く四方一町あり舘ノ内と云 山ノ内俊實(俊行男) ・左馬丞童名傳五郎文和四年乙未八月廿八日生応永三十一年甲辰九月十七日七十歳死常松院殿竹岩萬柏庵信士と号葬南泉寺 女(俊行女) ・延文二年丁酉三月十日生田嶋長沼三郎左衛門常則に嫁す 女(俊行女) ・延文四年己亥六月廿日生二本松家老杉田河内守常隆に嫁す 女(俊行女) ・貞治三年甲辰三月二日生葦名家中立野尾張守に嫁す 山ノ内行長(俊實男) ・遠江守童名亀之丞永和三年丁丑五月六日生永享六年甲寅四月廿七日五十八歳死 月広院殿花屋常性大信士と号葬南泉寺 九十郎(俊實男) ・山崎を家名とす光長康暦二年庚申十一月廿日生家来小林越後か婿に成山崎に住 女(俊實女) ・家来渡部但馬に嫁す 女(行長女) ・応永四年丁丑八月十八日生葦名家中富田近江守に嫁 女(行長女) ・同六年己卯五月九日生河原田家中馬場源十郎に嫁 山ノ内元氏(行長男) ・遠江守若名万五郎応永八年辛巳九月九日生文明二年庚寅五月廿八日七十歳死 緑相院殿雲山法姓大信士と号葬南泉寺 山ノ内詮盈(元氏男) ・信濃守若名長太郎応永三十四年丁未三月廿日生明応四年乙卯九月七日六十九歳死葬徳林寺円照院殿光山道一信士と号亦文明五年癸巳黒川小田寳積寺の住僧衆芸建立の一字を号多寳山徳林寺開祖は俊詮也 源九郎(元氏男) ・永享二年庚戌四月三日生同八年丙辰七歳死 女(元氏女) ・同七年乙卯八月廿十九日生長嶺政秀弟杉原石見守栗林入道道庵に嫁 山ノ内俊詮(詮盈男) ・信濃守若名清九郎享徳元年壬申二月廿一日生天文五年丙申五月三日八十五歳死 横広院殿常姓居士と号但文明五年城大破を修覆す 女(詮盈男) ・康正元年乙亥三月九日生河原田家中青柳大和守に嫁 女(詮盈男) ・寛正二年辛巳八月廿八日生葦名家中濱野内記に嫁 山ノ内俊之(俊詮男) ・信濃守若名七三郎文明十三年辛丑八月二日生天文十一年壬寅三月十四日六十二歳死磬運院殿一夢居士と号但妻は高根沢左馬丞女俊之子無故に横田治部太輔山ノ内俊清四男を養子とす 山ノ内氏基(俊之男) ・信濃守若名四郎九郎大永四年甲申八月廿九日生天正四年丙子四月二日五十三歳死 實照院殿栄光一風大信士と号又一女二女早世す 山ノ内實良(氏基男) ・兵庫頭若名右門天文二十二年癸丑五月廿日生文禄元年壬辰十二月廿六日四十歳布沢龍泉寺にて死妻は布沢河内女上野介姉也亦實良弟右馬亮 弟右馬亮(氏基男) ・天正四年丙子二月十日生同十八年十五歳牢人す子孫鵜巣村に住す 五郎太夫(實良男) ・天正七年己卯三月六日生文禄元年壬辰十四歳にて四月中田村弘安寺にて出家に成り其行方不知 兵三郎(實良男) ・天正十年壬午八月十二日生 一、山ノ内俊行牛ヶ首入城の砌文和三年甲午十月横田本城寺の弟子周懐法印を同連す領内中向に一寺を建立し猿立山南泉寺と号 一、同祈願所は中向に音蟹山大楽院と号 ・或諺に曰野尻領間方と云処に大山有り其麓広野にて東西東西百余間南北三百間有り横雲山高野寺と云是は大同二年丁亥沙門空海東に下り磐梯山恵日寺を建立し則其末流とし同年此の寺を空海建立して本尊に大日如来を自彫作す脇寮三十六坊法相を造営し彼の大山を客殿の前に用因茲前坪山と名付四方山離其高きこと百丈に余る嶺は白雲に入古木生茂月日の光を不請常に天狗の集りて斯て住すと云其頂の宮司藤原中納言友則と云人開基なり此の処を会津五高野と云●大寺高寺間方大石田八葉寺又寺の前に一町四方の池有り常に水不出又流も不入日々午の時に此池の中、計雨降十分に水有りと云故に時雨ヵ池と名く中に海老(なまず)文□(とびうお)雑喉(ざつこ)鮒鯉大に住其後仁平元年辛未人皇七十六代近衛院の御宇平氏忠盛の下知として寺院坊舎不残焼失いけるとなり其時右の本尊大日如来は火の中より自飛出て前坪山の岩の間に自立し給然とも人力の及処故に其侭に捨置処に天文三年甲午三月廿一日の夜大沼郡逆瀬川と云処の山飛移り給ふと云此の年の月日は弘法大師入定より七百年に当ると云 右の説岐(よ)に満て而も實否不分明或葉實説とも云又虚説とも云孰を為是孰を為非と今爰許に記す惟俟後の人是正耳(のみ) |