山ノ内氏とは(会津下向迄)



 山内というのは本姓藤原で、山内首藤ともよばれる。相模国鎌倉郡に山内庄と呼ばれる処があり、後の鎌倉幕府が置かれた所で、ここ鎌倉雪下山ノ内に始祖俊道が住み山内氏を称するようになった。もっとも山内氏の起こりについて二通りの系図があり「秀郷流山内系図」と「師尹流山内系図」で前者は藤原氏のうち魚名流、後者は真楯流に属する。続群書類従本は通家条に「通家は秀郷五代の孫、相模守公光の子となり武士と成」と記している。これは山内の生家にかけるか、養子先にかけるかで異なる名になったと思われる。秀郷流藤原氏は坂東武門の名家で、山内氏の武門としてのスタートはここにあった。この通家(助清)は美濃国蓆田郡司守部資信の養子となり、所領を譲られ、伊与守源頼義の郎等となり、守藤大夫と号し名を資清と改めた、資清の娘が、頼義の子八幡太郎義家の乳人となったという、その弟が資通で滝口の武士となった、この資通の孫が俊通であり、「保元物語」によると、源義朝に従う東国勢に、山内須藤刑部丞俊道と子滝口俊綱が在り、三条河原の先陣をかけたのが、この滝口俊綱であった。源平相見えたる平治の乱に山内須藤刑部丞俊道と子滝口俊綱は、源義朝麾下の郎等に名をつらね、待賢門に攻寄せる平重盛が五百余騎を義朝の嫡子悪源太義平のもとわずか十七騎の主従で蹴散らした。その中に俊道も入っていたが、俊綱は六条河原にて戦死、俊道もまた三条河原にて戦死した。
 「吾妻鑑」によれば、俊綱と兄弟の山内首藤滝口三郎経俊は、頼朝の挙兵に敵対し斬罪の内命が下ったが、頼朝の乳母であった経俊の母の助命により一命を助けられた。鎌倉雪下の山ノ内を本貫とし、近江国横田川城を居城として、近江国五郡、伊勢国二郡、伊賀国一郡を領したが、治承四年石橋山の合戦の砌、平家に属したため文治元年本領を失い、下総国豊田郡中丸城に移ったのが伊賀国守護、山ノ内首藤経俊であった。
 「会津四家合全」山ノ内家系併せ家頼名の条に「近江横田立退き下総国中丸城に移る、後佐倉に改、文治五年八月、奥州、秀衡国衡、征伐の後頼朝公より会津郡外六郡を佐原十郎義連、河原田近江守盛光、長沼五郎入道宗政、山内季基、四人に賜る云々」とある。
 佐原十郎義連は、三浦大助義明の子で、葦名六郎左衛門時連の祖父にあたる。河原田盛光は天正年中伊達政宗の会津侵攻の際、山内氏勝とともに戦い天正十八年三月南会津大豆渡にて討死した河原田盛次の祖である。長沼宗政は、伊達政宗に属し、山内・河原田勢と戦い続け天正十八年三月大豆渡にて討死した長沼盛秀の祖であり、いずれも「会津四家」とよばれ、領地は、佐原義連に会津郡北部、大沼郡東部及麻耶・河沼郡、山ノ内氏は会津郡伊北郷及大沼郡金山谷を与えられた。
 「会津鑑」は山ノ内会津入国について、「山内氏保元の乱に、武功十七騎の内にて名を顕したる山内刑部俊通が裔なりと云、何頃会津ヘ来ること詳ならず、按ずるに義連会津へ下向の時、山内庶子幕下に属せられ、下りてより累代国人となりたるべし」と記している。


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