会津の山ノ内氏(会津下向)



 山内一族が、いつ会津に下向したかはっきりしていない。しかし、山内最後の惣領が刑部大輔氏勝で横田城に住したことは間違ないが、鎌倉以降の史料に乏しく奥会津での活動は戦国時代まではっきりしない。会津下向後、各所に一族を配し領地の拡大をはかり、城を築き支配を強めた。「山内七騎党」といわれるのは、おそらく中世末、出来上った同族組織でその時代は葦名氏の勢力下に入った天文期以降とみられる、これらの山内一族の系図関係は明らかでないものが多く、また七党の居所築城の時代も異なるものがあって、確定的なことはいえない。

 宮崎(俊通)嫡男・川口(俊元)二男・野尻(俊光)三男・横田(道次)四男西方(道直)五男・布沢(道清)六男・本名(道吉)七男 

七騎党の内瀧谷岩谷城が一番新しく、永禄元年(1558)山内攝津守俊政と弟豊前守俊範が松本図書の領を取り、其後檜原丸山城へ弟俊範が入った(山内家譜古文書)四家合考によれば山内七騎党は山内一族(横田・野尻・川口・沼沢・西方・滝谷・桧原)で山内季基本領八百八十貫文、押領譲地二百貫計千八十貫領していた。

横田中丸城主  山内刑部大輔藤原氏勝        四百十貫
野尻牛首城主  山内兵庫頭藤原實良          八十貫
瀧谷岩谷城主  山内内匠藤原俊基 其子治部少輔俊之  二十貫
                                 他八十貫
桧野原丸山城主 山内左京亮藤原俊知          二十貫
                                 他五十貫
沼澤領 百五十貫内
   沼澤丸山城主  山内出雲守藤原政重           百二十貫
   西方鴫城主   山内右近太夫藤原重勝           三十貫
                                 他七十貫
川口領                        二百貫内
川口玉縄城主  山内左衛門佐藤原俊満 其子川口四郎盛俊   百貫
布沢                         三十貫
本名 二十貫
宮崎                         三十貫
中井                         二十貫


 石田三成の書状でも、氏勝をもって横田山内氏が山内の宗家とみなされていた。氏勝は季基十二代の後裔にして、会津・大沼、越後魚沼三郡を領していた。天正十七年六月、葦名義広が伊達政宗と摺上原で戦い、義広敗れて常陸佐竹に走り、政宗黒川城にはいるや、氏勝横田に帰り、三成の縁で太閤に訴え応援を請う。氏勝堅固に支えるも、伊達勢との対陣にて小田原に参候出来ず、領地没収城され、山内一族は牢郎の身となった。


山ノ内会津年表

文和三年(1354)
野尻信濃守俊行が丸山城(牛首城)築。(合全)松本右馬允日光山より伊南河原田大夫重直を頼て、横田城主山内大和守俊光が臣小林邑堀金左京が館を責落。(異本)  
長禄二年(1458)
葦名七千騎で伊達攻めるも金上敗れる、山内越中山内衆五百騎にて南山敷鴫山の城攻め破る、葦名本隊にて越中父子三人生害す。  
(塔寺長帳)
文明五年(1473)
山内信濃守俊詮が横田野尻に牛首城を修復。(長帳)
文亀三年(1503)
山内左近が葦名に逆き伊達尚宗に内応、長井に兵動す。尚宗、越後守護上杉房能に救援依頼す。
享禄三年(1530)
長尾為景は山内三郎舜道に上条定憲の誅伐を依頼。葦名・上杉とも両方に独立を保った緩い臣従関係があった事が窺える。
享禄四年(1531)
山内権大補俊安と子彦次郎俊興が沼沢に丸山城築。

天文十二年(1543)
横田くずれ 盛舜種橋藤十郎大将として横田中丸城攻る、杉岸因幡種橋藤十郎討取る。(長帳、旧事、異本)
天文十三年(1544)
山内俊清が川口に城築後玉縄城と改、末子俊甫住。(異本)
天文十四年(1545)
沼沢輔安の孫山内左馬助氏信(沼沢山内政家弟)が西方に鴫城を築。(異本)
天文二十一年(1552)
西方鴫城主山内信重は家臣飯岡遠江と謀り、大石田大高寺の宿坊を夜討攻め落す。(会津鑑)
永禄元年(1558)
横田中丸山内俊清の二男摂津守俊政・弟豊前守俊範が滝谷岩谷攻め、芦名家老松本図書の城代井上河内殺害俊範檜原丸山城治める、沼沢出雲守政清取計いにより、兄弟葦名旗下になる、弟俊範檜原丸山城主俊景の名跡と成す。(異本)
天正四年(1576)
会津横田中丸城主氏勝弟大覚介、家康公に仕え伊右衛門豊政と改、後に山内対馬守一豊と伝、秀吉公より掛川五万石拝の末土佐国賜。(異本)

天正六年(1578)山内重勝(西方鴫城主)が義父大槻政通(野沢村大槻城主)と謀り、葦名盛氏に叛く。
天正四年、大槻太郎左衛門、西方山内右近叛す(旧事雑考)
沼沢氏信三男右近大夫重勝若名右馬介、天正六年二月十五日自害妻大槻太郎左衛門政道女。(合全)
葦名家臣大槻太郎左衛政通盛氏に反旗、婿西方鴫城主山内右近大夫重勝を頼り、山内葦名を戦う、大槻敗れ川口に討れる(異本)
大登の館には布沢城主渡部長門が移る。(新編)

天正十五年(1587)
豊臣秀吉、関東・奥州領国の惣撫事令を命る。
天正十七年(1589)
摺上原合戦
伊達正宗、相馬を攻める、葦名義広、佐竹の兵岩瀬、安積境で猪苗代盛国の謀叛聞く黒川に戻り、磐梯山麓、摺上原で合戦する、義広夜に入り葦名経て佐竹に走る、富田将監・沼沢出雲・川助左衛門等相従う。(旧事)
天正十七年(1589)
七月七日伊北簗取合戦、七月九日伊北和泉田合戦、七月十九日稲川庄麻生合戦七月弐拾日西谷切払合戦、八月中まで松坂横田合戦有、長沼弥七郎盛秀と河原田治部大輔盛次、駒戸合戦、九月二十二日本名合戦中丸新左衛門勇力高名す、七月二十二日伊北橋立合戦。(異本)
天正十七年(1589)
左靭戦い
大波玄蕃を先鋒とする五百騎が柳津から只見川沿いに進攻、名入高清水から船渡しで南岸の宮下村阿手良沢に集結、沼沢丸山城を落し一気に横田を討ちにでたが、左靭坂に陣取る瀧谷の山内俊政、大登の渡部長門、大谷の五十嵐豊後、宮下の宮下大膳、桑原二瓶安左衛門ら七十余騎に阻まれ、野尻牛首城に入る。(山内天正記)
 
文禄元年(1592)
蒲生氏郷、黒川を若松と改称。


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