山ノ内動員数



 戦国期の家臣団は知行地を与えられ、その知行高に応じた軍役を負担した。その軍役賦課の基準とされたのが、貫高又は石高である。貫高・石高は、田畑の課税額を表したもので、のちに秀吉が全国一律に実施した。貫高は年貢額を銭で、石高は年貢額を米の量で表したものですが、実際の年貢が、銭や米で納められたかは別の問題です。小田原北条家では、六〜七貫文で一人の軍役賦課であった。天正十二年小牧・長久手の戦では、家康は国中の郷村に対し、十五歳から六十歳までの全ての男を徴発している、奥会津で、この天正の時代から二百年近く経った寛政三年に宮下近右衛門が宮下村の旧家臣を訪ねた折に村人が、「万一出陣之節ハ私共子弟十六歳以上七十歳巳下之者共御共仕」と連判状を書いています。
 山内氏の軍事動員力も、いわゆる「一領具足」型で戦力の中心は、平生は農耕に従い合戦があると駆付ける、軍事的にみれば兵農未分離の旧態依然だったと思われ、小田原北条家「小田原衆所領役帳」による貫高「七万貫」の兵力動員数は、約一万人程度で、この会津山内一族の動員数はかなり大目で、記録にある人名と口伝えに残った人名を全て合せ構成したものと思われ、この作者の並々ならぬ努力に心うたれます。

山内一族の軍事動員力は天正中頃(四家合全)で

横田山内氏勝家臣
野尻山内氏基・同実良家臣
沼沢山内政清・同清重家臣
川口山内俊甫・同俊満家臣
瀧谷山内俊政・同俊基家臣
檜原山内俊範・同俊知家臣
西方山内重勝家臣
 二千騎
 百五十騎
 二百騎
 五百余騎
 二百騎
 百五十騎
 二百騎


         
   


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