山ノ内雑記帳


【1】


首藤って何

 古代に馬寮(めりよう)という馬を司る役所があった、一時主馬寮(しゅめりょう)と改称され、長官を主馬首(しゅめのかみ)という、祖資清はその主馬首に任れられその号により主馬首藤原、首藤と称した、資清は父上野守通家が免官となり、美濃国むしろだ蓆田郡司の大和介部資信の養子となり伊予守源頼義の郎等となり守藤大夫と称したといわれています。


横田・中丸の地名は

 義通の子俊通が近江国横田川城(後彦根城)を居城し、近江五郡伊勢二郡伊勢一郡を領したが、石橋山合戦の砌、平家方に属したため子経俊は下総国豊田郡中丸城(後佐倉)に移り、其の後山ノ内一族が会津の地に同じ名前を付けたと思われます。
 平治元年(1159)平治の乱にて、山内須藤刑部丞俊通と其子滝口俊綱、義朝の郎等にて悪源太義平のもと、十七騎にて平重盛五百騎と戦う、また山ノ内先祖之覚によれば、和田の乱の折、経俊は一族山内先二郎左衛門を討つ、経俊六男通基は元久二年北条時政の謀叛の時、頼朝の子平賀雅朝を討ち、父経俊と共に功あり実朝から左衛門尉を賜ってる。経俊は後実朝の時北条の諫言により鎌倉を追われ子通基の領地越後国山本に移り其後伊北山入の里に至り鷹巣山に城を築き横田と改たと云れています。


鎌倉アジサイ寺を建てたのは

鎌倉明月院の由緒によれば、福源山と号し、由緒永暦元年創建、開祖は首藤刑部丞経俊、中興開基・上杉安房守憲方は密室守巌を請して開山とした。もと明月庵と称し、禅興寺子院となっています。


山ノ内氏の菩提寺は

 新潟県南蒲原郡下田村下大浦の真言宗智山派小谷山西光院延命寺に、会津横田山内氏勝の子といわれている朝道のお墓(朝道詳不明)が有ります。
 会津横田一党史補遺(横田昌男編著)によれば、栃尾郡郷田代山内忠左衛門家の系図由緒書上帳に、山ノ内氏勝公の御戒名として覚翁院殿前四品一山了心大居士と書かれており、この戒名の御墓は下田村下大浦延命寺脇にあり、このお墓の主が氏勝その人であるとしています。以前の下田村長刈屋氏は、延命寺地内にある「覚翁院殿前四品一山了心大居士」と記された墓碑を、「殿様の墓」または「刑部様の墓」として、村人から親しまれでおり、この事は子供の頃からよく聞かされていたと述べています。同名の最初の位牌は上大浦の曹洞宗三大寺に有り、宗旨の関係で葬儀等佛事一切を三大寺で行ったと言れています。
 氏勝の終焉の地には諸説有り、新編会津風土記は「白河病死説」、異本塔寺長帳は「越後国魚沼郡上田庄浦佐説」と分れています。


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