「三方ヶ原の偵察」は、元亀三年(1572)十二月、上洛を目指した甲斐の武田勢と遠江国三方ヶ原で徳川・織田勢とが戦い、徳川勢が大敗した戦で、徳川家臣内藤三左衛門が三方ヶ原の物見にでて、参戦諸将の旗印を端から読み尽くしの形式を取った軍談で、一席がほとんど旗馬印の羅列で、明治の講談師、神田伯山さんが発表しています。「三方ヶ原軍記・内藤三左衛門三十六段の物見」ともいわれ、立川談志さんが、昭和41年の第6回ひとり会で発表しており、今、落語CD全集の中に残っています。この時、途中でパンパンと合いの手を入れているのが、二つ目に昇進した頃の林家こん平さんだそうです。本編は明治37年10月の定期増刊第14号「文芸倶楽部」記載の「神田伯山・三方ヶ原の偵察」によりました。 三方ヶ原の偵察(抄) さてまっ先に見えたるは、赤地に金を以て正八幡大武神と書いたる旗、赤地に白く桔梗の紋付きたる旗、銀の二股大根、狒々緋、一段幡連の馬印を押し立て、雑兵に至るまで、皆茜色の陣羽織を一着なし、鶴翼に備え、その勢三千余人、これ甲陽名代の赤備え、山県三郎兵衛昌景なり。それより右手の方に少々離れて、白地に大山道段々染の旗、銀の十六葉枝菊に、金短冊十八枚付いたる馬印を押し立て、足軽小者に至るまで、皆白木綿の羽織を着なし、三千余人一隊の白備え、旗下に立ったる大将は、甲陽にて智者と知られたる、源三位兵庫頭頼政の末孫、信州槇の島の城主たる、馬場美濃守信房なり。その次は紺地に白く、四ッ石畳の旗、銀輪違いに朱の一段幡連の馬印、小者に至るまで皆一様の黒備えにて、その勢二千余人は、これ信玄秘蔵の勇士、二十歳の時に国家の政治を司り、家老の列に加わりたる前名金森平八郎、当時土屋の家名をつぎ、土屋右衛門尉直村とこそ知られたり。それと相並んで黄地に藤の丸の大旗、金の亀甲に、黄羅紗の幡連の馬印を押し立て総うこんの備え、同勢二千余人は内藤修理介昌豊、浅黄地に六文銭の旗一ト流、唐人笠の馬印を押し立て、総浅黄地の備えせし二千余人は、海野小太郎幸氏より十七代の後胤にて真田源左衛門信綱なり。これを甲陽先鋒五色備えと号すなり。引き続いて浅黄地に三ッ山形に洲浜の旗、銀の菅笠に狒々緋二段幡連の馬印、その勢二千人は穴山伊豆入道梅雪なり。相備えとして浅黄地に葦の葉の紋打ったる旗一ト流、葦の葉に狒々緋幡連の馬印は、葦田下野守義綱なり。紺地無地の旗、二段鳥毛の馬印は、小山田備中守信俊なり。白地に刻み花菱の旗、金の柔竹(しないだけ)の馬印は、武田右馬介信豊なり。白地に黒く立花の旗、銀蛇籠の馬印は、秋山伯耆信親なり。紺地に赤く花菱の旗、金三光の馬印は、仁科上野介信次なり。五枚根笹の旗、金団扇の馬印は、小幡山城守虎盛入道なり。白地に三蓋菱の旗、金二ッ団子の馬印は、小笠原信濃守政長なり。紺地に白く九曜の星の旗、銀の五枚柏に角取紙の馬印は、保科弾正忠正道なり。金にて鶴の丸の旗、銀の丸竜に狒々緋のぶらぶらの馬印は、諏訪安芸守頼忠とこそ知られたり。紺地に白く五三の桐の旗、赤地に黒く山道の大幟半に、金にて卍の馬印は、葦田上野介教行なり。水色に白く立波の旗、三本薄に金の三ッ団子の馬印は、望月石見守晴時なり。赤地に千羽鶴の大幟半、八尺の大外輪に南無阿弥陀仏と書いたる馬印は、安中左近繁国なり。白地に三蓋菱の旗、金芭蕉の馬印は、三枝勘解由左衛門晴高なり。浅黄地に白色の紋付いたる旗、狒々緋五段幡連の馬印は、曹根下野守信久なり。赤地に大文字の旗、狒々緋銀三方面武田菱二段幡連の馬印は、これ中軍の大将新屋形、わが朝にて項羽と聞こえたる無双の勇士、武田伊奈四郎源勝頼なり。同勢およそ三千余人、以上前備えとして、人数一万八千余人なり、後陣先鋒の大将には、栃葉色の旗二タ流れ、赤熊の大纏を押し立てしは、甲斐の国にて古今の采配取と呼ばれたる、信州海津の城主高坂弾正昌信なり。白絹に武田菱の旗、金三本竹刀の馬印は、武田孫六入道逍遥軒なり、水色に剣花菱の旗、金の扇に白縮緬の吹流付けたる馬印は、小山田兵衛尉信重なり。赤地に六文銭の旗、銀の大わらび手の馬印は、真田兵部昌輝、同じく六文銭の旗、銀の唐人笠の馬印は、真田安房守昌幸なり。丸に六ッ引両の旗、金の手鉾の馬印は、原隼人正昌勝なり。角取紙に三文字の旗、銀の銀杏の馬印は、一条右衛門大夫信盛なり。五枚笹の旗に朱の傘、金の短冊六十枚付いたる大馬印、朱の輪法印車の小纏を押し立てしは、根岸山城守信幸なり。九曜の星の旗、槌車の大幡半に、金の三俵たわらの馬印は、落合伊勢守虎正なり。この手柏の旗、金の蛇籠の上に蜻蛉の馬印は、市川和泉守信孝なり。白絹に朱をもって、熊野三社大権現と大筆に書いたる旗、黒地に白く帆掛船の幟半に、銀の御幣の馬印は、清野常陸介正純なり。紺地に白く丸に上の字の旗、白紙の大幟半に運在天と書いたる馬印は、屋代安芸守信貞なり。白絹に六文銭の旗、金鎧蝶に狒々緋二段幡連の馬印は、海野常陸介幸秀なり。紺地に赤く鷹の羽打違の旗、藤巴の幟半に髑髏の馬印は、布施大和守晴房なり。赤地に金をもって、丸に上の字の旗、青黄赤白黒の吹流は、室賀出羽守昌高なり。水色に立浪の旗、金鍬形の馬印は、桂山治部少輔昌勝にして、以上後陣の配備なり。さてそれより信玄の御本陣は、およそ五千人と相見えたり。八門遁甲の備えを立つる。実は門を立つるが定法なれども、これは心ばかりの門なり。子の方に、丸に三蓋菱の旗押し立てしは跡部大炊助なり。丑寅の方に、五枚笹の旗押し立てしは、小幡上総助なり。卯の方に、三蓋菱の旗押し立てしは、小笠原掃部助時幸なり。辰巳の方に、太輪蔦の旗押し立てしは長坂長閑斎なり。午の方に、角切角に三文字の旗は、一条信濃守なり。未申の方に、松皮菱の旗押し立てしは、逸見山城守なり。酉の方に、桔梗の紋打ったる旗は、小田切行部少輔なり。戌亥の方に、花輪違の旗押し立てしは、日向大蔵助なり、右八方の備えを立て、一手五百人ずつ、五八、四千人なり。そのまん中に床几を据え、前後左右にきらめきわたって見えたるは、孫子の旗、勝軍地蔵の旗、南無諏訪南宮法性上下大明神と書いたる旗、白地に武田菱を染め抜いたる旗ばかり七流、総じて旗数二十八流なり。相並んで金武田菱三方見込狒々緋幡連の馬印、白地に金をもって「天上天下唯我独尊」と刺繍をなしたる旗、なおまた白綸子に武田菱を銀糸を以て刺繍をなしたる旗、その下に「甲斐源氏棟梁弓矢智識武田大膳大夫兼信濃守源晴信入道法性院殿大僧正徳永軒機山信玄大居士」その日のいでたちを見てあれば、、、、、、、、とまだ続きますが、武田晴信は、院号、逆修戒名、順修戒名すべて並べた名前になっています。 |