家紋の話Y(左巴紋と右巴紋)


会津雑記家紋の話U(長倉追罰記)で「巴紋の左右について」にふれましたが、沼田頼輔先生は「江談抄」「四天王寺聖霊絵巻」の例をあげ、「見聞諸家紋」の宇都宮氏、小山氏の巴の左右は間違いだとしています。著書「紋章の知識100」の中でも、巴は水の渦に象ったもので、頭は太き部分をいい、尾は細き部分をいい、頭の左に向かっているのは左巴であり(図1)、頭の右に向かっているのが右巴と述べています。(図2)「見聞諸家紋」に間違いが在るのだろうかと、漠然と考えていました。

(図1)  (図2) 

昔、京都に行ったとき、京都駅から御所を見て左側が右京区、右側が左京区である事を知りました。南から御所を見れば左右が逆、北から御所を見れば順になってしまいます。御所のある今の丸太町通を挟んで、一条、二条と北の玄武から南の朱雀方向に増えていくので、御所(内裏)から南に向って左右を考えるが普通だと思われます。舞楽に用いる大太鼓について明治神宮のHPの説明文によれば「大太鼓は「だだいこ」と呼び、舞楽に用いる太鼓です。ご社殿の大太鼓の巴紋を見ると向かって右側(左方)は巴が三つ描かれてあり、左側(右方)は巴が二つ描かれています。そして渦巻の方向も違う事に気がつきます。大太鼓はかならず対になっていますので、その左右の太鼓を区別するために巴の数と渦巻の方向を別にしている事が『江談抄』に出ています。『江談抄』では右方の太鼓は二巴で右巴(時計回りに廻っているもの)左方は三巴で左巴(「右巴」の反対方向に廻っているもの)と決められています。次に各部分の名称ですが、先ずてっぺんにある飾りは「日形」(ひがた)と呼びます。また輪状に放射している部分は「御光」です。左方は「日」(日像)を表していて色は金色、右方は「月」(月像)を表していて色は銀色です。左右の太鼓にはそれぞれ龍(左太鼓)と鳳凰(右太鼓)が描かれています。太鼓の中心に渦巻の文様が描かれています。またその外側には剣先のような文様があります。渦巻の文様は「巴」(ともえ)といい、この巴紋と外側の剣を合わせた文様を「剣巴」(けんどもえ)と呼ばれています。そして左方の太鼓には三巴(巴が三つあるから)で左巴(左側に渦が巻いているから)、右方の太鼓には二巴(巴が二つだから)で右巴(右側に渦が巻いているから)です」とあります。「江談抄」第三、六十八「左右の太鼓の分前の事」によれば「太鼓の左右を知る事は、左には鞆絵の数三筋なり。また筒も赤く色採るなり。右は鞆絵の数二筋。また筒も青く色採るなり」とあり、沼田先生は三筋は左巴(図1)、二筋は右巴(図2)としていますが、しかし、江談抄の「太鼓の左右の見分け方」というのは、巴の向きではなく、太鼓を置く場所の右、左ではないでしょうか?舞楽では左方(さほう)・右方(うほう)の管方(かんがた)も天子の視点からみての左・右で、その中間部分の正方形の舞台は、古代東アジア天文学の「天円地方」(天は円形で地は方形)という形而上学を形象化したものと言われています。
宮内庁雅楽部(図3)や天王寺方(図4)の舞楽の舞台写真をみると客席からみて右側の大太鼓が二ッ巴、左側の大太鼓が三ッ巴になっています。ただ困った事に、宮内庁雅楽部と天王寺方では巴の向きが反対になっています。天王寺方の巴の向きは、四天王寺聖画絵巻と同じ向きです(図5)、江戸後期に朝廷の公事や祭祀を記録した「公事録」の恒例編付図の「南庭舞御覧振鉾之図」は、御覧している側からみて左側に三巴の大太鼓があります(図6)。この巴の模様は今の宮内庁で使って煎る大太鼓の巴の向きと同じです。この舞楽は左側から舞台をみています。
(図3) 

(図4)

(図5)  (図6)

早速、明治神宮に行き本殿にいた神職の方に聞いてみた。明治神宮では、神殿からからみて、だ太鼓を置くので、左方は神殿に向って右側に置いており、宮内庁雅楽部の一般向け舞楽の場合、主体を観客の置いているため三ッ巴の大太鼓は左側に置いて、演舞しているとの事、また宮内庁の大太鼓と明治神宮・四天王寺の大太鼓と巴の向きについては、巴の向きで、朝廷とその他の神社仏閣の大太鼓を区別しているとの事で、太鼓の裏表の文様は対称形とのことでした。
拓殖大学加藤教授は平成18年発行の別冊歴史読本「英雄たちの家紋」の中で「巴紋の左右の呼称の誤りを正す」の記述のなかで「困ったことに、近世以降衰微・廃絶していた朝廷の行事儀式を復活再興するについて、よるべき資料が亡失しており、調査が行きとどかず、まま正確な復元がなされなかったこともあった。雅楽の大太鼓の文様の復元も参考になる巨大な太鼓の実物はなく、世間の呼称の誤りに従い、左右を誤ったようである、しかしながら幸いなことに、四天王寺楽所は古式を正しく今に伝えている」としています。
天王寺寺方楽人のルーツが、味摩之による伎楽伝来の頃にあるとの伝承があるが、加藤教授は朝廷の行事儀式を復活再興するについて、正確な復元がなされなかったこともあったと述べています。四天王寺楽所は古式を正しく今に伝えているかどうかは不明です。
見聞諸家紋に記載の巴紋は、曽我氏・雲三ッ巴(図7)、赤松氏・二引ニ三ッ巴(図8)、宇都宮氏・右巴(図9)、小山・結城・土肥・山下氏・三ッ巴(図10)、杉原氏・角三ッ巴(図11)、香河・長尾氏・九曜巴(図12)、山田氏・鱗巴(図13)、丸氏・三盛巴(図14)、芝山氏・三積巴(図15)、山下氏・桝形ニ三ッ巴(図16)、金山氏・一引ニ並三ッ巴(図17)、太平氏・三ッ巴(図18)、小早川・新開氏・三ッ巴(図19)、名なし・三ッ巴(図20)の14の巴の記載があり、沼田先生はその著書「日本紋章学」の中では、全ての巴に右・左を記載していますが、見聞諸家紋(新井白石筆)によれば、左右の記載ある巴紋は右巴・宇都宮だけです、あとは紋図だけで雲三ッ巴、二引ニ三ッ巴等の名前の記載はありません。
(図7) (図8)(図9)
(図10) (図11) (図12)
(図13) (図14) (図15)
(図16) (図17) (図18)
(図19) (図20)

このサイトの左右の位置の表記は、左方(さほう)・右方(うほう)は舞台から観客にむかって、観客から舞台を見た場合は右側・左側を使用しています。(図21)右側(反対側から見ると左方)が二つ巴、左側が三つ巴です。
問題なのは「四天王寺聖画絵巻」(図22)の大太鼓の巴紋の位置です。
(図21) (図22)

この文様が沼田先生の巴紋の向きの根拠の1つになっています。このことから巴紋の頭が時計廻りになるのを右巴、反対廻りを左巴として、見聞諸家紋の巴紋の左右が間違いと判断しています。新選組研究の歴史作家釣洋一氏が「土方歳三の家紋」の中で巴の左右について、「寛政重修諸家譜」の複数の例をひいて沼田先生の論点に反論しています。
また、四天王寺を訪ねた釣氏によれば、宝物館の太鼓の巴の向きは、右側に三巴、左側の二巴で、其の挿絵では宮内庁雅楽部の太鼓の巴の向きと同じになっています。ただ釣氏が確認したところによると、根拠はなかったとの事でした。今、天王寺方舞楽で使用している太鼓は、宝物館の太鼓の巴の向き逆になっています。舞楽の太鼓の配置は、舞を奉納する主体に向って定めており、「四天王寺聖画絵巻」は、やはり本殿からみた太鼓の位置で描いていると思われます。釣氏は絵巻の太鼓は裏面を描いたもので、建物を描き太鼓の巴を逆向きにすることで、裏側であることを強調していると述べています。しかし、雅楽や舞楽が宮廷音楽として継承されていることを考えれば、この絵巻が裏側から描く必要もなく、正殿から見た形で描いたと考えるのが普通だと思います。左方にあるから左巻き、右方にあるから右巻きと云うのも納得出来きません。左に渦まくといっても、右から左、そして右に戻ってきます。「見聞諸家紋」が間違っているとの根拠もありません。右巻き、左巻きを決定的に断定する材料はありません。会津雑記家紋の話U(長倉追罰記)の中で巴紋の左右について触れたとおり、上絵師の泡坂妻夫著「家紋の話」の中で、巴の左右は、渦の巻き方による名称ではなく、卍と同じく、鉤が出た方向が左なら左卍、右なら右卍で、巴も同類型としています。上絵師の口伝によれば左掌を握って手首を見て、その形が左巴の形になり、右掌を握れば、その形が右巴の形としているそうです。したがってまだこのサイトでは、巴紋(図23・図24)が左巴、巴紋(図25・図26)を右巴としています。
(図23) (図24)
(図25) (図26)
迷った時に便利な見分け方ですが、時代により右巴になったり、左巴となったりよく解らないのが巴紋です。


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