前田慶次郎という人



前田慶次郎という名前を始めて目にしたのは一昔も二昔も前の週間少年雑誌で、実在の人とは思っていませんでした。上杉将士書上を眺めていた時、上方牢人前田慶次郎を見つけビックリしました。上杉将士書上(上杉家の記録)には「慶次郎、加賀利家の従弟に候。景勝へ初めて礼の節、穀蔵院ひつと斎と名乗る。此時夏なりしが、高宮の二幅袖の帷子に、褊しゃ(ピッタリした綿入)を着し、異形なる体なり。詩歌の達者なり。直江山城守兼継も学者故、仲好し。山城守宅にて、最上へ出陣の節、慶次郎は、黒具足に、猩々緋の陣羽織、金のひら高の珠数を首に懸けて、珠数の房、金の瓢箪、背へ下るやうに懸けて、河原毛の野髪大したの馬、金の兜巾を冠らせて打乗り、三寸計りの黒馬に、緞子の(二字欠)にて、味噌・乾糒を入れ、鞍坪に置き、種子島二挺付けて、乗替に付けさす。最上陣の退口に鎗を合せ。高名誠に目を驚かす。異形の風情なるも、(一字欠)て敵味方感じけり。此時の姓名は、一番ひつと斎・水野藤兵衛・藤田森右衛門・宇佐美弥五左衛門・韮塚理右衛門・宇佐美弥五右衛門、以下五人、一所に合する。此時に、最上義光、伊達政宗を一手に合せ、上杉勢の退を附慕ふに付、中々大事の退口にて、杉原常陸・溝口左馬助、種子島八百挺にて、防ぎ戦ふと雖も、最上勢、強く突立つる故、直江怒りて、味方押立てられ、足を乱し、追討に逢はん事、唯今の事なり。扨も口惜し。腹を切らんといひけるを、慶次郎押し留め、言語同断、左程の心弱くて、大将のなす事にてなし。心せはしき人かな。少し待(二字欠)我等に御任せ候へとて、返し合せて、右の通り五人にて鎗を合せ、最上勢を突返し、能く引払ひ申候。後関ヶ原一戦、景勝、米沢へ移り候節、諸家にて招き候へども、望なしと申して、妻子も持たず、寺住持の如く、在郷へ引込み、弾正大弼定勝の代に病死仕候」とあります。さらに会津陣物語は「前田慶次郎は加賀大納言利家の従弟なり無隠兵なれとも不断の行迹をとけ者故加州を立除浪人足り此者の事語るに言なく記するに筆に及はさる事ともなり景勝へ奉公に出る時は法體にて穀蔵院ひよつと斎と名付着物二幅袖にして長袖なりと稱す白四半に大ふへん者と書たり其上皆朱(かいしゅ)の鑓を持せたる故に人々是を咎め直江山城守組になりしに其比は玳瑁(たいまい・べっ甲)の鑓皆朱の鎗は覚の士ならては持せさりし故皆々上杉古参の兵とも是を咎しなり去れとも慶次に朱柄の鎗無用とも云かたしとて右の咎かかりし兵韮塚理右衛門水野藤兵衛藤田森右衛門宇佐美弥五左衛門四人にも朱柄の鎗赦免せしか最上長谷堂合戦に此四人と慶次と一同に鎗を合せ高名せし故世の人称美不斜又白四半に大ふへん者書たるを上杉家中平井出雲守金子次郎右衛門咎て謙信以来武士の花の本と天下にて唱ふる当家中に押出たる大武辺者とは中々指物に指まし踏折て捨んとののしりけるを慶次は目もあやに打笑ひさすか田舎衆なり文字の仮名遣い清濁弁へられす我永浪人にて貧故に大ふへんのもと申事なりへんをは清て読みふを濁りて読まる故に皆々腹を立らる我指物は大ふへん者と申て笑けんは上杉家中の士とも興をさましけるとかや」と紹介しています。織田信長の家臣滝川一益の子とも伝えられるがあきらかではなく、前田利家の兄利久の養子となる。その後信長の意向により利久は家督を利家に譲った。慶次郎は一時、利家に仕えたが前田家を出奔し京に出た後、慶長三年上杉氏に仕え伊達勢との戦いに活躍し、米沢でその生涯を終ったといわれています。



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