家紋の話T・余話



講談「曾我物語 夜討曽我紋づくし」


講談の六代目宝井馬琴さんが演じた「曾我物語 夜討曽我紋づくし」の一部を参考に載せておきます。この講談「曾我物語 夜討曽我紋づくし」は、幸若舞曲の「夜討曽我」と同じ物語から取っていますが、講談の紋づくしは、富士の裾野の巻狩りで、頼朝公近習の武蔵国住人、御所の五郎丸が、各武将の狩屋の幕紋を「我が長刀の尻手をよおく御覧あれや」と曾我兄弟に教えるところから始まります。

「あれ御覧ぜよな御兄弟、五月雨の小止む晴れ間より、一際高く北山に、添いたる御館こそ、一天計る二十八宿、間取り斑なく打廻す、笹竜胆の幔幕は源二位頼朝殿の御御所なり。御館の左に当たって三鱗せし幔幕はこれぞ桓武天皇の後胤、常陸の大掾国香が末孫、当時鎌倉に時めく有様は金竜の昇天なすばかり、北条遠江守時政にて、御館の右に続いて白地に三つ引両は虎も恐れる三浦なる、九十三騎の大頭領、和田左衛門尉義盛なり。後へ三十六間離れて建てたる狩屋こそ、玄武を形取る亀甲に黒山道を染出したるは愛甲三郎是俊なり。続いて西に入相の月星出せし紫に並んで白地に黒き駒、二疋繋ぎし定紋は千葉が次男の相馬六郎。同じく東の上の方、出づる日の丸に五本骨招く扇の幕張りは佐竹の冠者義元なり。この三頭の大名は皆、二位殿の後ろを御守護の狩屋なり。御座所の前に見えたるは、お館守る別朱雀、夜明けに近き紅に竹に雀は、中村念斎、続く左の宿り木に鳩の八文字、紺地に白く出せしは武蔵国にさる人ありといわれたる篠党の旗頭、熊谷小次郎直家にて。右の上がりに総黒へ白く引両見せたるは里見の冠者が狩屋なり。又、目の下なる一の木戸、固め厳しき東なる角に打ったる幕張りに花菱繁く、出せしは大内冠者義広なり。向こうの隅は大一、大万、大吉と白く抜いたる大幕は石田判官為久なり。浅黄に白き釘抜きと黒釘抜き出せしは三浦が党に猛勇の聞こえたる名も荒次郎義澄なり。立ち並んだる柿色に松川菱を付けたるは三浦平六義村なり。庵の中に男竜、女竜向かい会わして付けたるは、竹下孫八左衛門。菱四つ寄せて菱成るは甲斐源氏の武田太郎信義なり。一条、板垣、逸見、南部、葛山、仁科、高梨、諏訪、小笠原、是皆、武田の一門なり。紋も同じく武田菱、紺地に日の丸の大紋は寺尾の新田大炊介。白一文字、黒一文字、浅黄の内に出せしは須藤、滝口の兄弟なり。大砂垣は安田の三郎、三蓋松は加賀見の次郎と知り賜え。さて、二の木戸の柵際に左巴して山道を付けたるは、関東に勇名とどろきたる宇都宮弥三郎友綱にて。左の隅の水色に仄めき渡る弓張月、露の玉散る乱れ星、きらびやかなる狩屋こそ千葉介常胤なり。赤地に五七の桐を付けたるは、御主人の嫡男、六郎重泰。白地にかしこき軍配は児玉の一族庄野の太郎。又も降り来る五月雨に濡るる燕の宿なるや、三本組みし傘は、名高き名古屋尾張守。開き扇は浅利の与市。二つ瓶子は川越太郎。三つ瓶子は宇佐美の三郎。四つ大筋を出したるは金子の十郎近家なり。右の巴は小山判官。左巴は岡部六弥太。3ツ石畳は同じく十郎。浅黄に紺の流れ尽きせぬ水車は土肥の弥太郎遠平なり。御免と見えて総白へ一文字出したるは久下権守の狩屋にて。龍胆車は信田の太郎、近島、行方、藁科なり。さて、又固き三の木戸、紺地に三つの大文字、二枚の矢筈を付けたるは梶原源太景季にて、木戸の内なる同じ紋、白地へ黒く出せしは、父の平三平景時なり、親子で前後を固めしは非常の為と知られたり。それに並んで柿色にいたら貝を出せしは岩永左衛門宗連なり。六連銭の定紋は海野小太郎行氏なり。立鳥帽子は豊島の冠者。紺地に立つ浪出せしは須藤、滝口の兄弟なり。相馬に見まごう二疋駒は仁田四郎忠常なり。朽葉に菊を付けたるは関の太郎と知り給え。割りし桔梗は玉井の十郎。牡丹に獅子は秋田の流れ。白地に車を見せたるは、浜の竜王の末孫にて斉藤一家なり。菊一文字は那須与一。浅黄に白く大文字は江戸の太郎、三つ巴は結城の七郎、花橘は柏木判官、沢潟流しは上総介、引両違いの定紋は津島の冠者と思われよ。剣花菱は名取の八郎。山道三筋出せしは三島の入道、海野五郎。亀甲、輪違、そして雪折笹は八田、小野寺、岩槻の十郎なり。さて御座所の左なる向こうの隅の紫に白く四つ目を細輪の内に出せしは、宇多天皇の後胤、近江源氏、源三秀義の四男、従五位の上、佐々木四郎左衛門、源高綱と知り給え。御館の左、浅黄に桐の墓は御身等御兄弟の御主人、畠山次郎秩父の庄司重忠なり。畠山殿の地尻、和田殿と向かい合わせて、装い優しき蝶々の幕張りは、安達藤九郎盛長にて、さて、畠山殿の地尻、和田殿と向かい合わせ、白地に黒く山形の庵の内に木瓜を染出せしは、これぞ伊豆の国の住人、工藤左衛門祐経なり。必ず狩屋を御間違えあるなよ御兄弟」と、まだ富士の裾野の物語は続きますが、このあと兄弟は工藤の狩屋へ乗り込み、目出度く本懐を遂げます。



戻る