本書の表題となっている大沼郡西方の由来起源については、「会津正統記」に弘仁二年(811)聖徳太子の尊像を西方邑稲荷森に安置したとの記述があり(もっとも聖徳太子が存在したかどうか疑問は残りますが)府城の西方という、府城西方説も妥当性を欠き、山内為之輔は自著「西方部落之成立と構成」の中で、府城西方説を取消し、附近の寺院等西の字が付く所から、西方浄土的思想からの村名起源とも考えたが、氏自身もこの説にも肯定出来ないとしており、結局村名の由来起源は不明としています。会津正統記にも「大同二年(802)、僧空海の弟子徳一法師御坂山に大高寺を建立し、大寺恵日寺に属せり、坊舎三十六あり附近十五ヶ村を領し、貞元二年(977)西方邑藤原保祐は大福にして俗に銭森長者と云、稲荷大明神を銭森山に建て近隣の鎮守と為す」とあり、西方郷は、御坂山大高寺荘園と藤原荘園が支配力を持っていたと考えられますが、城四郎に加勢した大寺恵日寺僧侍も木曽義仲に敗れ、多数討死して、会津での寺領の支配力が急速に弱まり、其後伊北で山ノ内氏との勢力争いが激しくなったと思われます。この御坂山大高寺と山ノ内氏の興亡を記述されているのが「西方正統記」です。 西方正統記 此書は元和元年(1615)依り伝来有りと雖も、年数を経て損じ元禄二年(1689)再び書之写す。然れども星風辰霜重なり大に破損す。之依後代の為め諸人子孫に書き残し、来世に相伝ふものなり。件如。時に文化五年(1808)正月吉日。佐藤栄松之を写す。伝云、奥州大沼郡金山谷御坂山縁起曰く、人皇五十代平城天皇之御宇大同元年(808)丙戌空海当国に下向あり、勅宣に依り磐梯山の悪魔を平治し玉ふ。時に五仏の薬師並びに五ヶ所の高寺を建立有り、其内御坂山大高寺は山の頂きに伊佐須美の神社御神楽嶽水昌峯より勧請し奉る、多賀於呂志高尾伊夜日子の宮殿、山麓には本地光堂虚空蔵大菩薩之尊像を安置寺院坊舎三十六宇あり、亦豊前より明王院法残と云う聖来り、笈仏鬼渡尊を安置し、当山の先達と成る。大高寺の寺領千石の朱印地なり、郷士地頭役は、高尾若狭、飯塚丹波、二瓶帯刀、並に坂内民部、佐藤頼信、領村十五ヶ村。佐藤頼信は大織冠内大臣鎌足公の後胤左大臣魚名公の末流出羽之官領庄司昌信の孫、鎌倉執権佐藤民部太夫より九代の苗胤代々鎌倉に住居す、然るに北条早雲入道の乱により鎌倉を落ち下り、佐藤頼信当国に来り御坂山大高寺に入り、永正元年(1504)甲子五月地頭役となり、菅沼(注1)の辺りに小舘を築き、西方国井太郎左衛門の息女を妻と為し、此所に住居す。男子あり佐藤太郎丸と称す、藤内左衛門頼信は大祖の本国なる羽州羽黒山大権現を勧請奉り、別当役僧浄行院附き来り、神体を舘の鬼門に建てたる宮殿に安置し、此地に住居す、即ちこれ佐藤氏の大鎮守なり。延命菩薩は鎌倉建長寺門前より守り来って舘の北に小堂を建て是を安置す、菩薩の座中に承和二年(835)三月、沙門満慶之作と刻まる。天満宮は深沢の神体を遷すと云ふ、永正四年(1507)六月二十四日遷宮するもの也、佐藤内左衛門の沿世四十二年繁昌す。山内家は御坂山大高寺と不和にて、度々領分の堺論舌戦の後果して合戦に及ぶ、是に依り大高寺の地頭郷士を集め、其外川沼郡の寺院高寺(注2)の大衆に助力加勢を願ふと雖も、火急の合戦故助力に及ばず、其上不意を打たれ、又山先達は帰り忠(注3)となり、大敵を案内して一山の寺院坊舎是れが為め炎上し、大衆地頭一時に滅亡せり、是時風雨起り天地振動して一山に黒雲みなぎり闇夜の如く、伊佐須美大明神白蛇と化し雲に乗って博士の峯に飛び去り玉ふと云う。多賀於呂志之神は神体白猪に乗り東の山の頂きに飛び遷り、高尾伊夜彦の神は山麓に敵を追ひ下り玉ふ、今猪の嶽と云ふは此故也。 山内右衛門信重は氏重の子にして、此軍の大将なりしが寺領の城々舘々を打ち取る、此時佐藤藤左衛門頼信は深手を負ひ、菅沼の舘に帰り妻子郎党を追退け、其身一人自害す、後に丑寅の方同じ平に葬れり、羽黒の別当二代浄光院は越後路に落ち行く佐藤家重代の藤丸の太刀は沼の辺りに埋め、塚を築き藤塚と云伝ふ。山内信重は太守葦名修理太夫盛高公の下知により寺領残らず押領せり、時に天文二十一年(1552)五月十一日也、神威を恐れ、高尾大明神は山麓に祀る、即ち伊夜日子大明神は当所の大鎮守也、稲荷大明神は鴫ヶ城の東の山上にあり、山麓に聖徳太子の御堂あり、この像は人王五十一代平城天皇御宇弘仁二年(811)八月之作と刻まる。又安竹と云ふ者妻帯にて常州より来り松竹庵を立て太子堂を守護す、これ法相宗也、山内信重公是を寺として鴫ヶ城の南に遷す。信重公に二男あり、兄を右近と云ふ。元服して家督を相続し山内右近太夫重勝と称す、妻は大庭太郎左衛門正道之息女なり、弟左京元服して檜ノ原に行き住居す、山内左京亮と号す、然るに左衛門佐信重公奇病にて大いに苦を受けらる、是れ御坂山大高寺を亡す所の神崇なり、依って是に信重公高尾社を祭り正観音堂を大石田に建立す、又、寺を居平に遷し誓願寺と号、城郭を寺の北平に築き出丸と号す、諸士屋敷を定め信重公神仏に祈り誓願有れども不可なり、これ大高寺を亡す月日に当りて狂死有と云、依如山内右近太夫重勝公の治世となり二十六年繁栄す。然るに大庭太郎左衛門正道は会津小田山の城主葦名に意恨有て逆心を全す時、縁に引かれ正道の味方に引き入れられ、又山内一類を味方に招く為め、座頭竹安に廻文を持たせしに、左うつぼと云所にて廻文を落せしより事顕われ、本城小田山城に訟となる、是れにより太守盛氏公並びに四天之宿老はじめ、大軍にて御発足あり、此時山内重勝公小勢にて柳津向小巻原にて打負、本城に引退き自害ある故に後誓願寺之南原に葬す、墓の印に十一面観音の石像を立つ、此時天正六年二月十五日、未だ雪中の合戦なり。 宝沢山西隆寺は天寧寺七世正元禅師勧請開山とて、曹洞宗と改め、古天文年中に稲荷山之麓より太子尊像を遷せし岩倉山の下を法地と定め当寺建立す、大檀那銭盛長者藤原保祐位牌を当寺に納む、当時貞享四卯年西隆寺殿萃雲浄清大禅定門銭盛長者、法名、巣合本山坊舎一宇後に会津南岳院末山となる、高巌山西泉寺と号す、先祖は御坂山先達小松法残之末孫也、地頭亡びて後菅沼を埋め田地とす、依て所を沼田村と名づく、鎮守羽黒大権現を村の北山に遷す、時に寛永二十年六月二十五日、地蔵堂丑の方に建立す、時に延宝三年三月二十三日、願主佐藤仙右衛門四十二才、同久之丞二十五才。西町正観世音の堂((注4)村民持と云ふ、元禄元年六月十六日当地に遷す、願主五十嵐兵吉。天正、文禄、慶長、元和年中人民住居場、寺沢、舘下、高倉、巣合、蟇田、中田、沼田、中舟渡、上川原、下川原、是を西方郷と云う、延宝年中諸所の民家一所に集り居住の故西方村と云う。 (注1) 今の沼田 (注2) 恵隆寺 (注3) 謀反 (注4) 古中舟渡村之西山観音平に有 (山内為之輔写本、三島町史収録) |