越後国南蒲原郡飯田村に、五十足日彦命御山陵(イカタラシヒコノミコト)ありて五十嵐神社と仰ぎ延喜式の御神也抑、命は人皇十一代、垂仁帝第八皇子に御座まし越君となり玉ひて初め現今頸城と称する地に御降り拾余人臣随従して穀物農具まても持せ玉ふと云庶民を率ひ開墾民に業を授け上沼地今の魚沼郡之に御移り同開拓業を授け給ふ是を上田と云下沼に地に御移り則当所也同下沼を切落し流れを堰留(せきとめ)川筋を替田畑を開き下田と改め養水を引給ふ地を江口と云飯田村は命御住居を営み給ひし地にして越の国内を遍(あまね)く巡り同田畑を墾り庶民に授け亦漁猟を教え国造の大功を奉し当村に於て薨御せられぬ宮沢の高岡に御山陵を築き則御陵を、御神体とし拜殿而己を設置、五十足日命の御名かたを反すれば□に帰す故に五十嵐御神と崇め奉り、御神徳を慕ひ地名を五十嵐、川を五十嵐と唱ふ古事記に古志池君之祖とあり後世諸侯の封となる故に縄引竿入等の為に五十嵐邑の内小字を以て数十ヶ村に分離し又本村は往古五十嵐邑元にして御宮居近き処を以て小名御飯田とも御めし田とも唱へたりし因にて中古飯田と改称す亦、命(みこと)開拓地御巡りの節御小憩の為に仮庵を営みたるを俗に田屋とも畑屋とも呼後上田屋は分裂田屋村となり下田屋は飯田村に属す中古神職数軒ありて御供田を分ち耕し所有せしより追々民地になりぬとぞ。五十嵐邑記に昔鶴春渡り来る初めに御陵の上に舞ふて各地に散じ亦秋に至り御陵の上に舞ふて帰去故に舞鶴の陵と云。古額一面あり五十嵐神社小野道風筆一面若一王子沙門空海筆と云外に一面、嵯峨天皇御宸筆額ありし旨村老の説のみ残れり。石階を挟み杉老樹双立注連掛杉と唱ふ1は囲三丈二尺一は同二丈七尺往古当郷に五十嵐小文治吉辰と云勇士有力試に投打たりと云石幹に孕みて今にあり小文治は五十嵐左衛門の男にて頼朝公に仕へて荘司となり和田合戦に討死す子孫一は同郡中新村五十嵐三五左衛門一は頸城郡玄蔵村五十嵐貫一郎一は上杉家に仕ふ三家共に現存す当村儀神代より土人住居致し来りしと五十嵐邑記に載てありぬ御陵より寅の方四五丁隔宮沢と呼び清冷の水出るあり右の沢延(ひい)て御社の傍を涯(めぐり)命御飯料水なりしと云宮は御住居は澤の出口の辺なりしとぞ亦宮沢の峡に穴居の跡ありしと見えて土器の缺たる出るあり御陵の傍より土器の缺神代石の類出る種々収蔵してあり□五十嵐邑記は、円融帝之御宇天禄元年帳簿に綴り其以前の事より一つ車に致し御陵墓及天変地妖其他種々記載追々紙を足し来たる旧簿にて当村旧家渡邊瀬兵衛より当家へ傳はりたるも戊辰の際一揆動揺の節鳥有となる壮年の折屡閲したるき。此土の者姓氏数派ありと雖も他郷に出て家を立る者は御神徳を慕ひ不忘の一念より皆五十嵐を氏とす又故郷に帰住する者は則五十嵐氏を冒す是期せずして自然に出る者也本国旧奥羽関東辺へ転居或は子弟にて出て一家を立る者多くありて五十嵐を氏とす折々当社へ参拝す亦御陵墓五十嵐姓の由緒等の儀諸国より照会あり。三島郡寺泊駅菊屋五十嵐某は昔当邑より出寺泊を開きたる位の旧家にして民に漁業を教へしとぞ西蒲原郡五十嵐浜は往古当邑の者相移り開き中蒲原郡五十嵐新田は五十嵐英三祖先茂左衛門某同当邑より出て開きたる村也と五十嵐邑記に載てありぬ因曰岩代国南会津郡旧蒲生村は過半五十嵐を氏とするありとぞ亦同国耶麻郡旧瀧坂村は十九戸の内十二戸五十嵐を氏とす亦羽前の国西田川郡由浜村十九戸五十嵐を氏として何(いづ)れも、御神の余光を仰ぐと云。随従の臣の中に一幣より五幣に至る兄弟あり中古氏に改めしとの伝説あり今本村の中に三瓶を唱るあり恐くは幣を瓶に改めし者ならんか、命は皇族明鑑、皇統略図に、景行帝の御字為越君(こしのきみとなす)とありて越の国を造り給ふものにして国強く民富人民増長するは皆、命は預託也亦五穀は豊に熟(みの)り訳て安産を守り玉ふ其下物産繁殖漁漁猟利益益万民に幸福を賜ふ洪大の御神徳敬ふべく貴ぶべき事になん然るに物換(かは)り星移り久遠を経さる儀にて此国を経営せられし御洪恩衆人の知るを由無きを歎き亦千七八百年埋もれ給へし御陵の顕はれ玉ふべき聖世の恭(かたじけな)きに感じぬる余り概略を摘みて国内の諸君に忠告に及び候也。 宮城三平校 小柳傳平撰 (北越史料叢書二 収録) |