家伝の裏話



「偽書『武功夜話』の研究」のまえがきで、著者の藤本正行氏は、史料価値を疑わざるをえない史料が一級の史料として、一史料の真偽を問うといった段階を超えて、一般の人々の歴史認識を変えるまでになったのは、専門家の認識が「史料価値が乏しいと思っているものを研究し、実際に史料価値が乏しいことを証明したとしても、意味がないのではないか」という考え方が大方の見解であろうと述べています。
戦国時代の乱世は家康によって統一が完成され、その実力と権威が確立されると幕府は諸大名及び旗本の士に命じて系譜を出させ諸家の系図編纂を始めた。寛永十八年諸家の系図を集め、諸大小名御譜代御近習御番衆等、およそ恩禄を受けるもの大小となく、みなその家譜を差し出させた。その名を寛永諸家系図伝といいます。その目的は、諸家の祖先を明らかにし将来の奉公を期待したもので、さらに寛政十一年寛永諸家系図伝を修正増補の事業を始め、十四年の歳月を費やして寛政重修諸家譜一五三五巻を文化九年(1812)完成させた。このため旗本だけでなく大藩・小藩に至るまで、すべての武士の家系を備えなければならなかった。そのため当時の全ての武士が系図を必要としその先祖の不詳なものを、辻褄を合わせようとして、系図作者・系図家に依頼して祖々の名を作り上げ、あるいは他人の系図に組み入れてわが先祖とする者も多かったといわれています。この幕府の諸家系図編纂が偽系図の横行を増長させ、この系図の作成の過程で家系に信憑性を持たせるため、家々の歴史・一族の武功の記録・切実な合戦の場面・絶望的な悲惨な現場・自己犠牲の行動など適時に織り交ぜながら家伝を創ったのではないでしょうか。一族の家伝書・先祖系図等の古文書、併せて戦いの目撃者、体験者の事件に関する覚書、古老の伝承があり、ひとたび成立した物語もそのまま固定せず、後世の人々が加筆又は削除して多数の異本が創られ進化していったと思われます。
もっとも徳川家自身も、永禄九年(1566)家康が従五位下三河守に叙任された時に加茂姓松平氏から徳川氏に改めたといわれ「源氏にて二流の惣領の筋に藤氏にまかりなる」と系図を朝廷に提出しています。この源氏にて二流の惣領の筋とは、源氏嫡流の足利、新田の二流の事で、足利一族の名跡を受継ぐ吉良家より、義国よりの系図を譲り受け源氏惣領の筋が源義国子義重(新田氏)、義重四男義季(上州得川氏)と続き、家康へと移行していった。この系図により家康は源氏の惣領の筋を継承して征夷大将軍の道を切開いたといえます。
第一級の資料価値の有る家記・家伝も多く存在しますが、本来、家伝は一族の出来事を子孫に伝えるもので、全てが良質の資料価値を生じるわけでもなく、また必要もないと思います。歴史を楽しむ者にとっては、先人の残した労力・努力には大きな感謝の念を持たざるを得ないと思います。特に会津においては、戦国の戦いに明け暮れ、資料も少なく、しかも戊辰戦争の折に消滅した原本資料も多く残念な事です。


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