家紋の話X(伊達家の家紋)



伊達家の家紋は何種類あるのでしょう?
伊達邦宗著、伊達家史叢談によれば伊達家家紋は、「家紋は三引両竹雀牡丹(十六ノ)菊(五七ノ)桐九曜雪薄なり、今は菊及び桐を用ひず、又九曜、雪薄は用揺る場合少なく、常用のものは三引両、竹雀、及び牡丹なり、三引両一に竪引両と云う、右大将源頼朝より太祖念西の戦功を賞し、幕の紋を賜はりしを、三引両即ち竪引両改められしと云う」もう少し引用します「作州津山の伊達氏の紋は撓(しない・俗に竹袋)引両と唱へ、引両撓ひ居れり、念西公の尊像に付する紋も、同じく撓引両なり、竹雀は、元来越後の国王、上杉定實の家紋なり、第十四世直山公の第二子實元君天文十一年外祖父越後の主、上杉兵庫定實、諱字を授け、長光の刀及び竹雀の徽章を贈り、養子の約を為す、故あり果さず、後ち分家す、第十五世保山公の時より、之を家紋に用ひられたるものにして、是れ天文年中の事なり、されど今我家にて用ふるものは、当時のものの如く単純ならず、實元の後裔一門男爵伊達基の用ふるものは、即当時のものなり、我家にて用ふるものは、竹の葉五十二、(内二十二、外三十)露十六、(内四、外十二)節八あり、竹雀は俗に、竹に雀と称し」
と記述していますが、弘化三年(1846)、幕府提出「御家之御紋譜」による伊達家の家紋は、三引両紋竹に雀紋牡丹紋蟹牡丹紋菊紋桐紋九曜紋雪薄紋の8種類となっています。伊達邦宗氏は伊達家史叢談の中で、「牡丹は、堅牡丹 一に(「ギョヨウ」は「魚綾」にはあらじか)と称するものにして、肯山公の時、近衛公より賜はりたるものなり、一に近衛牡丹と称す、是れ近衛家の家紋なるを以ての故なり、蟹牡丹は我家にて之を崩したるものなりと云ふ、恐く俗称なるべし」と伊達家家紋を7種類にして、常用は三引両、竹雀、及び牡丹の3種と述べらています。
他方、藩臣須加(別本)伊達御家紋之事に、
一、両引三段頭 頼朝公以来御用
一、九曜 細川殿 義山様御代よりとあり、此細川は足利の時細川頼之等の執権より歟
一、桐  菊 太閤より御拝領
一、竹雀 晴宗様より御用葉数安房殿と同し
一、牡丹 蟹牡丹也延寳八年八月廿五日、近衛様より以御書右御紋并国綱之御太刀御御拝領、右御紋に付御家中獅子の牡丹之紋相付候義被相禁之明和二年六月被 仰出
一、立牡丹 近衛様家紋なり是者近衛様より観心院様御養女被為成、徹山様江御入輿に付右之御釣合に而、徹山様桂山様紹山様并英山様迄は稀に御用被遊候哉、正山様より御用不被遊候御続き遠に付之譯に可被為在尤、紹山様者鷹司様より之御釣合も可在之事、右立牡丹者常之御紋に無之に付奥向に而も勤柄により被下候尤拝領之節は右御紋少し直し着用可申由に付莖なと少し墨に而も細く書入着用候得は宣候尤立牡丹被下候節は相直し用可申段被、仰付候、右御紋に限り次男三男弟等は着用仕間敷由に候立木牡丹は無御構但御紋に相用申間敷候事
右之外
一、陽徳院様御用田村様桐に
一、孝勝寺様淨眼院様は雪薄
一、長松院様は笹りんとう、久我様御紋也
一、萬寿寺様は稲葉様御紋
一、雲松院様は葵御紋
一、観心院様は立牡丹
一、信證院様、立牡丹 鷹司家
一、信恭院様は是又紀州家御紋葵
一、徹山様御隠居後阿吽之雀御用被遊候
一、或手控に被、仰出と相記す左之通、三段頭御免之輩御一家は幕二反に相通し御一族は三反に可相通事
一、雪薄は相用候義可致遠慮候菊桐九曜は不苦候
 以上
一、雪薄はつれ雪并雪之内に何やかや別段之物相附候は無御構薄に相紛れ候は相用申間敷候、享保十年二月被、仰出
一、竹雀三ッ引両雪薄馬道具等へ用申間敷候尤馬道具江附候御紋付之御道具拝領似ても遠慮仕相用申間敷候、享保六年被、仰出
一、御紋付拝領致其家にて着用之次第子供迄差支無之義は別冊に有
 御紋拝領之家 御家柄之外
三引両 
猪苗代石見、藤澤幾之助、鮎貝次郎平、横尾辰五郎、堀越源左衛門
雪薄
田中助左衛門、大松澤郡記、椙原十太夫、上郡山兵蔵
富田権六郎、大松澤甚右衛門
幕小旗書出心得に「幕は五幅三所紋也、但本家は上幅に掛庶流は上幅を除き下幅江懸て紋を付る定法之由也」
寛政重修諸家譜によれば、「伊達家家紋は三引両、竹に雀、牡丹、菊、桐、九曜、雪薄で、寛永系図はじめ二段頭を家紋とし、晴宗かとき、あらためて竹に雀を用ふといふ、家伝に朝宗かとき頼朝将軍より幕の紋二端頭をたまはりのち三引両に改めて家紋とし晴宗また竹に雀を用ひ綱村にいたりて近衛基熈より牡丹の紋をあたへられ菊桐は陸奥守政宗かとき豊臣太閤よりゆるされ九曜雪薄の紋も政宗より用ふといふ。實元(さねもと、時宗丸、藤五郎)の項に、上杉兵庫頭定實が養子とならむことを約し、諱字をあたへ、宇佐美長光の太刀、竹に雀の幕をあたへらる、其のち故ありて果さず」とあり、さらに、伊達正統世次考には、「天文十一年壬寅六月、越後より直江大楽両使を令、公子五郎殿を迎へ来り、贈るに重代の腰刀宇佐美長光竹に雀の幕を以し、且つ実の一字をり、約して上杉兵庫の頭定実養子と為、因て六月廿三日を以発遣を定む、然るに廿日不意に内乱起り、終に果さ不。文書旧記等に見へたり」。続いて「旧記に曰、稙宗公晴宗公与、父子弓箭に及ぶ、其自(よ)る所を原(たずね)るに、越後の国主上杉定義、女子有て、而男子無し、因て約す稙宗公の三男兵部の少輔実元を以其女に配し其家督と為、天文十一年六月、越後より大楽・直江・新発田・柿崎四人使して公子迎へ来り」とあり伊達稙宗子五郎実元を、越後の国主上杉定実の養子とすることで、稙宗、晴宗父子が争う天文の乱が起きてますが、贈られた竹に雀紋はそのまま家紋として使用したものと思われます。
高橋 あけみ氏が仙台市博物館調査研究報告で、貞享三年(1686)伊達綱村による「御紋之事吟味仕候覚」と、宝永二年(1705)遊佐佐次郎の家紋についての調査、収集した情報とを対比させ、伊達氏家紋の由来や形態とその変化を詳細に述べていられます。

参考文献
寛政重修諸藩譜 第七百六十二(藤原氏山陰流伊達)
宮城県史 第32資料編9 (藩臣須知、藩臣須知(別本))
伊達家史叢談 伊達邦宗著全16巻 
 伊達家15代当主伊達邦宗(明治3〜大正12)が大正10年秋まで十数年の歳月をかけ完成したものです。
仙台市博物館調査研究報告 No.19 高橋 あけみ
 伊達家の家紋に関する一考察家紋の覚書と美術資料に見る伊達家の家紋及びその変遷



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