戦国合戦年表



戦国合戦年表

1467年応仁元年一月、畠山政長と畠山義就とが家督を巡って争う「上御霊社の戦い」に始まり、1615年慶長二十年「豊臣家滅亡」まで約150年間の戦国合戦の歴史です



応仁〜慶長 西暦 @合戦名A対戦者B戦場C記録・参考文献


応仁元年(1467) @上御霊社の戦いA畠山政長vs畠山義就B洛中C応仁記
@相国寺の戦いA山名持豊vs細川義就B洛中C吉川家文書
各大名の家督争いが「応仁の乱」に発展、以後十余年国内各地で騒乱が続く
文明九年(1477) @五十子の戦いA長尾景春vs上杉顕定B本庄市C鎌倉大草紙
@石神井の戦いA太田道灌vs豊島泰経B東京練馬C太田道灌状
@用土原の戦いA太田道灌vs長尾景春B埼玉県寄居C松蔭私語
畠山義就・土岐成頼ら東西両軍の将領国に戻り、足利義視京を離れ「応仁の乱」終焉
文明十三年(1481) @田屋河原の戦いA石黒光義vs一向一揆B富山県東礪浪C三州誌
足利義政、夫人日野富子と不仲となる。緒将義政に従わず、義政閉居する
長享二年(1488) @実蒔原の戦いA上杉定正vs上杉顕定B神奈川伊勢原C上杉定文書
@高尾城の戦いA富樫政親vs一向一揆B石川県金沢C陰凉軒日録
@高見原の戦いA上杉定正vs上杉顕定B埼玉県比企C梅花無尽蔵
加賀一向一揆蜂起、守護富樫政親を自殺させる。赤松政則、山名政豊を破る
延徳三年(1491) @堀越御所の戦いA北条早雲vs足利茶々丸B静岡県田方C妙法寺記
幕府、天沢等恩を遣明使とする。早雲、堀越の茶々丸を攻め自殺させ、伊豆攻略する
明応二年 (1493) @深根城の戦いA北条早雲vs関戸吉信B静岡県下田C北条五代記
近江徳政一揆、延暦寺・日吉社を焼く。足利義澄、十一代将軍に就く
永正元年(1504) @立河原の戦いA北条早雲vs上杉顕定B東京立川C相州兵乱記
京都土一揆蜂起、幕府徳政を行う
永正三年(1506) @九頭龍川の戦いA朝倉貞景vs一向一揆B越前九頭龍C朝倉始末記
@般若野の戦いA長尾能景vs一向一揆B富山砺波C越佐史料 
加賀・能登・越中一向一揆、越前にて朝倉貞景に敗れる。越後守護長尾能景敗死する
永正七年(1510) @長森原の戦いA上杉顕定vs長尾為景B新潟県南魚沼C相州兵乱記
@権現山の戦いA北条早雲vs上杉憲房B神奈川県横浜C鎌倉九代記
幕府、撰銭の罰法を定める
永正八年(1511) @船岡山の戦いA足利義稙vs細川澄元B山城C細川両家記
@刑部の戦いA今川氏親vs斯波義達B静岡県引佐郡C飯尾文書
島津忠治「識鷹秘訳集」を編纂
永正九年(1512) @岡崎城の戦いA北条早雲vs三浦義同B神奈川県平塚C相州兵乱記
足利政氏、古河から逃れ下野小山氏を頼る。幕府、撰銭令を出す
永正十年 (1513) @引馬城の戦いA今川氏親vs大河内貞綱B静岡県浜松C獄南記
足利義稙、義澄の子義晴と和す
永正十三年(1516) @新井城の戦いA北条早雲vs三浦義同B神奈川県三浦C北条五代記
琉球の使船、薩摩に来る
永正十四年(1517) @有田川の戦いA毛利元就vs武田元繁B安芸国有田C毛利家文書
土佐光信「清水寺縁起絵巻」成る
大永元年(1521) @上条河原の戦いA武田信虎vs福島正成B山梨県甲府C勝山記
越後守護代長尾為景、一向宗を禁じる。高野山金剛寺焼ける
大永四年(1524) @高縄台の戦いA北条氏綱vs上杉朝興B東京港区C相州兵乱記
@猿橋の戦いA上杉憲房vs武田信虎B山梨県大月C上杉家文書
「御成敗式目」初めて刊行される
大永五年(1525) @岩付城の戦いA北条氏綱vs太田資頼B埼玉県岩槻C北条記
ポルトガル、ニューギニヤを発見
大永六年(1526) @鎌倉の戦いA北条氏綱vs里見実堯B神奈川県鎌倉C相州兵乱記
今川氏親没す
享禄三年(1530) @小沢原の戦いA上杉朝興vs北条氏康B東京府中C相州兵乱記
@田手畷の戦いA杉 興運vs竜造寺家兼B佐賀県神崎C九州治乱記
幕府大内義隆に遣明船の復活を許す
享禄四年(1531) @天王寺の戦いA細川高国vs細川晴元B大坂天王寺C細川両家記
@塩川河原の戦いA武田信虎vs諏訪頼満B山梨県韮崎C勝山記
足利政氏没す
天文三年(1534) @勢場ヶ原の戦いA陶興房vs吉弘氏直B豊後大村C大村陣勢場合戦記
イエズス会創立
天文四年(1535) @井野田の戦いA織田信秀vs松平広忠B愛知県尾張旭C参河国聞書
足利高基没す
天文五年(1536) @花倉の戦いA今川義元vs玄広恵探B静岡県藤枝C妙法寺記
@中ノ島の戦いA木沢長政vs一向一揆B大阪府大坂C細川両家記
伊達稙宗「塵芥集」を制定
天文七年(1538) @国府台の戦いA北条氏綱vs足利義明B千葉県市川C国府台戦記
北条氏綱、下総葛西城を落す
天文九年(1540) @安芸郡山城の戦いA毛利元就vs尼子晴久B広島県高田C房顕記
武田信虎、信濃佐久間郡を攻略
天文十一年(1542) @瀬沢の戦いA武田信玄vs諏訪頼重B長野県諏訪C高白斎記
@小豆坂の戦いA織田信秀vs今川義元B愛知県岡崎C松平記
@赤穴城の戦いA赤穴光清vs大内義隆B島根県飯石C雲陽軍実記
@桑原城の戦いA武田信玄vs諏訪頼重B長野県諏訪C守矢頼真書留
@藤沢口の戦いA駒井高白斎vs藤沢頼親B長野県上伊那C高白斎記
池坊専応、花道の口伝を記す
天文十三年(1544) @箕輪城の戦いA武田信玄vs藤沢頼親B長野県上伊奈郡C高白斎記
@河越の夜戦いA北条氏康vs上杉朝定B埼玉県川越C北条記
京都土一揆蜂起、朝廷に徳政を訴える
天文十六年(1547) @加納口の戦いA織田信秀vs斎藤道三B岐阜県岐阜C信長公記
武田晴信、家法五十五ヶ条を定める
天文十七年(1548) @上田原の戦いA武田信玄vs村上義清B長野県上田C妙法寺記
@塩尻峠の戦いA武田信玄vs小笠原長時B長野県岡谷C妙法寺記
長尾景虎、越後春日城に入る
天文十八年(1549) @安祥城の戦いA織田信広vs太原崇孚B愛知県安城C参河国聞書
ザビエル、鹿児島に来る
天文十九年(1550) @戸石城の戦いA武田信玄vs村上義清B信濃国小県C高白斎記
足利義晴没す
天文二十二年(1553) @川中島の戦いA武田信玄vs上杉謙信B長野県長野C甲陽軍鑑
今川義元、家法追加令を定める
天文二十三年(1554) @三本松城の戦いA陶晴賢vs吉見正頼B島根県鹿足C大内義隆記
北条氏康、下総古河城を落す
弘治元年(1555) @大聖寺表の戦いA朝倉教景vs一向一揆B石川加賀C禅昌寺明叙録
@厳島の戦いA毛利元就vs陶 晴賢B広島県佐伯C毛利家文書
相良晴広、相良家法度を定める
弘治二年(1556) @長良川の戦いA斎藤道三vs斎藤義龍B岐阜県岐阜C信長公記
結城政勝、結城家法度を定める
永禄三年(1560) @桶狭間の戦いA織田信長vs今川義元B愛知県名古屋C信長公記 
@土佐長浜の戦いA長宗我部vs本山茂辰B高知県高知C元親記
足利晴氏没す
永禄四年(1561) @森辺の戦いA織田信長vs斎藤龍興B岐阜県安八C信長公記
斎藤義竜没す
永禄五年(1562) @久米田の戦いA三好実休vs畠山高政B大坂府岸和田C三好記
@朝倉城の戦いA長宗我部元親vs本山茂辰B高知県高知C土佐物語
織田信長、松平元康と盟約
永禄六年(1563) @三河一向一揆A徳川家康vs一向一揆B愛知県岡崎C三河物語
毛利元就、岩見銀山を御料所に献上
永禄七年(1564) @月山富田城の戦A毛利元就vs尼子義久B島根県能義郡C老翁物語
三河一向一揆、家康に降る
永禄十年(1567) @三船山の戦いA北条氏政vs里見義弘B千葉県富津C関八州古戦場
@稲葉山城の戦いA織田信長vs斎藤龍興B岐阜C端龍寺紫衣輪番世代
松永久秀、三好三人衆を東大寺に破る、大仏兵火にかかる
永禄十一年(1568) @懸川城の戦いA今川氏真vs徳川家康B遠江佐野郡C家忠日記増補
織田信長、諸国関所を撤廃する
永禄十二年(1569) @蒲原合戦A武田晴信vs北条氏政B駿河庵原郡C北条記
@三増峠の戦いA武田信玄vs北条氏照B神奈川愛甲郡C甲陽軍鑑
@安芸城の戦いA長宗我部元親vs安芸国虎B高知県安芸C元親記
織田信長、撰銭令をだす
元亀元年(1570) @天筒山の戦いA織田信長vs朝倉義景B福井県敦賀C朝倉始末記
@姉川の戦いA浅井・朝倉vs織田・徳川B近江浅井郡C毛利家文書
@滋賀の陣A織田信長vs浅井長政B滋賀県大津C信長公記
@石山本願寺の戦いA織田信長vs本願寺顕如B本願寺C多聞院日記
大仏殿の再建始まる
元亀二年(1571) @野田城の戦いA武田信玄vs菅沼貞盈B愛知県新城C甲陽軍鑑
@高天神城の戦いA武田勝頼vs小笠原長忠B静岡県小笠C真田文書
毛利元就没す
元亀三年(1572) @可久藤城の戦いA島津義弘vs伊東義祐B宮崎県えびのC日向紀
@木崎原の戦いA島津義弘vs伊東義祐B宮崎えびのC薩藩旧記雑録
@石倉の戦いA武田信玄vs上杉謙信B群馬県前橋C歴代古案
@二俣城の戦いA武田信玄vs中根正照B静岡県天竜C依田記
@三方ヶ原の戦いA武田信玄vs徳川家康B静岡県浜松C甲陽軍鑑
阿波三好長治、家法を制定する
天正元年(1573) @小谷城の戦いA織田信長vs浅井長政B近江国浅井C小早川家文書
@刀禰坂の戦いA織田信長vs朝倉義景B福井県敦賀C朝倉始末記
武田信玄没す
天正二年(1574) @長島一向一揆A織田信長vs長島願証寺B三重県桑名C信長公記
狩野永徳「洛中洛外図屏風」を画す
天正三年(1575) @四万十川の戦いA長宗我部vs一条兼定B高知県中村C四国軍記
@長篠の戦いA織田信長vs武田勝頼B愛知県南設楽C信長公記
@越前一向一揆A織田信長vs下間和泉守B越前国C弥名寺分書
阿波三好長治、国中に法華宗を信仰させる
天正四年(1576) @木津川沖の戦いA織田信長vs毛利輝元B大坂木津川C信長公記
織田信長、安土城を築き移る
天正五年(1577) @七尾城の戦いA上杉謙信vs長 綱連B能登国七尾C越佐史料
@雑賀攻めA織田信長vs雑賀孫一B和歌山県C信長公記
松永久秀自害する
天正六年(1578) @三木城の戦いA羽柴秀吉vs別所長治B兵庫県三木C別所長治記
@八上城の戦いA明智光秀vs波多野秀治B兵庫多紀C細川家文書
@松尾城の戦いA土持親成vs大友宗麟B日向国延岡C延陵旧記
@上月城の戦いA吉川元春vs尼子勝久B兵庫県佐用C陰徳記
@浪岡城の戦いA津軽為信vs北畠顕村B陸奥国南津軽C津軽一統誌
@耳川の戦いA大友宗麟vs島津義久B宮崎日向C大友御合戦御日記
上杉謙信没す
天正七年(1579) @鮫ヶ尾城の戦いA上杉景勝vs上杉景虎B新潟県新井C北越軍記
@三間表の戦いA久武親信vs土居清良B北宇和C土佐遍年紀事略
@金沢御坊の戦いA柴田勝家vs一向一揆B石川県金沢C天文日記
山科言継没す
天正八年(1580) @重須の戦A武田勝頼vs北条氏直B静岡県沼津C北条五代記
本願寺光佐、織田信長と和す
天正九年(1581) @鳥取城の戦A羽柴秀吉vs吉川経家B鳥取県鳥取C信長記
@高天神城の戦A徳川家康vs岡部真幸B静岡県小笠C家忠日記
藤堂高虎、但馬の一向一揆を平定する
天正十年(1582) @高松城の戦いA羽柴秀吉vs清水宗治B岡山県岡山C高松記
@本能寺の変A織田信長vs明智光秀B京都府京都C日々記
@山崎の戦いA羽柴秀吉vs明智光秀B京都府大山崎C太閤記
@魚津城の戦いA柴田勝家vs中条景泰B富山県魚津C越佐史料
@勝端城の戦いA長宗我部元親vs三好存保B板野C昔阿波物語
@神流川の戦いA北条氏直vs滝川一益B埼玉県児玉C当代記
@田野の戦いA竹蛇蠍よりvs滝川1益B東山梨C活より滅亡記
@大沢山の戦いA小野寺義道vs由利十二党B秋田C語伝仙北之次第
大友・大村・有馬三氏、ローマ法王に使者派遣する
天正十一年(1583) @賤ヶ岳の戦いA羽柴秀吉vs柴田勝家B滋賀県伊香C賤岳合戦記
@引田の戦いA長宗我部vs仙石秀久B香川県大川C改撰仙石家譜
羽柴秀吉、大阪城を築く
天正十二年(1584) @沖田畷の戦いA島津晴久vs龍造寺隆信B長崎県島原C肥薩軍記
@小牧の戦いA羽柴秀吉vs徳川家康B愛知県名古屋C家忠日記
@犬山城の戦いA池田恒興vs中山定成B愛知県犬山C大仙寺文書
@羽黒の戦いA酒井忠次vs森 長可B愛知県犬山C総見寺文書
@長久手の戦いA三好秀次vs徳川家康B愛知県名古屋C大日本史料
@末森城の戦いA前田利家vs佐々成政B石川県羽咋C菅君雑録
ポルトガル商船、平戸に来航する
天正十三年(1585) @人取橋の戦いA佐竹義広vs伊達政宗B福島県安達C政宗公軍記
@太田城の戦いA羽柴秀吉vs根来雑賀一揆B和歌山C宇野主水日記
@根来寺の戦いA羽柴秀吉vs根来寺B那智C根来破滅因縁
@一宮の戦いA羽柴秀長vs谷忠澄B徳島県徳島C丈六寺文書
@神川の戦いA真田昌幸vs鳥居元忠B長野県上田C恩田文書
秀吉、関白となり姓を藤原に改める
天正十四年(1586) @岩屋城の戦いA島津忠長vs高橋紹運B福岡県太宰C島津家文書
@戸次川の戦いA仙石秀久vs島津義久B大分県大分C島津世録記
秀吉、太政大臣となり豊臣の姓をうける
天正十五年(1587) @唐松野の戦いA安東愛季vs戸沢盛安B秋田県仙北C秋田家文書
聚楽第成り、秀吉移る
天正十六年(1588) @十五里原の戦いA本庄繁長vs中山玄蕃B山形県鶴岡C最上記
秀吉、諸国に刀狩をはじめる
天正十七年(1589) @摺上原の戦いA葦名義広vs伊達政宗B福島県耶麻C仙道記
秀吉、方広寺大仏殿造営を完成
天正十八年(1590) @小田原合戦A豊臣秀吉vs北条氏直B神奈川県小田原C太閤記
@葛西大崎一揆A伊達政宗vs葛西大崎旧臣B宮城加美C葛西真記録
@下田城の戦いA清水康英vs脇坂安治B下田C康英宛起請文
@山中城の戦いA羽柴秀次vs松田康長B静岡県三島C吉川家文書
家康、江戸城に入る
天正十九年(1591) @九戸政実の乱A蒲生氏郷vs九戸政実B岩手県二戸C聞老遺事
千利休自殺する
慶長五年 (1600) @和賀岩崎城の戦A南部利直vs和賀忠親B岩手県和賀C南部根元記
@関ヶ原の戦A徳川家康vs石田三成B岐阜県不破C関ヶ原記
@伏見城の戦A石田三成vs鳥居元忠B京都伏見C御湯殿上日記
@大聖寺城の戦A前田利長vs山口宗永C石川加賀C織田軍記
@浅井縄手の戦A前田李朝vs庭長重B石川県小松C前だけ雑録
@長谷堂城の戦A最上義光vs直江兼続B山形県山形C慶長聞書
@石垣原の戦A黒田如水vs大友吉統B大分県別府C如水水軍記
家康、ウィリアムアダムスと大阪で謁見する







戦国合戦年表
応仁〜慶長 西暦 
@合戦名A対戦者B戦場C記録・参考文献


1、 応仁元年(1467)
@上御霊社の戦いA畠山政長vs.畠山義就B洛中C応仁記
室町幕府を確立した三代将軍足利義満であったが、六代義教のとき、厳しい公家・武家対策をとり、嘉吉元年、赤松一族の総領争いに巻き込まれ、義教は赤松満祐に暗殺された。管領畠山持国は子がなく、弟持富の子政長を養子に迎えたが、実子義就が生まれ、義就に家督を継がせた。持国と政長は対立し、政長は細川勝元を頼り、管領職にも就いたが、応仁元年、細川勝元と対立する山名宗全により、管領職の解任を受け、屋敷の空け渡しを命じられた。政長は、細川勝元に応援を求めたが、将軍義政はこの抗争が大きくなるのを恐れ、細川勝元と山名宗全に兵を動かすのを禁止した。政長は屋敷を焼いて上御霊社に布陣した。義就は、山名政豊らと攻め、政長は上御霊社を焼いて、奥野に逃げた。細川勢の山名勢の集めた軍勢をそれぞれ戻した。

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2、 応仁元年(1467)
@相国寺の戦いA山名持豊vs.細川義就B洛中C吉川家文書
東岩倉で勝利した山名勢は、細川勢を相国寺に攻めた。細川勢は相国寺を放棄、敗走したが、畠山政長勢が駆けつけ相国寺を奪い返した。この戦いで、京へ入る諸口の内御霊口を除きて全て山名勢に押えられ、細川勢は山名勢に囲まれた。

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3、 文明九年(1477)
@五十子の戦いA長尾景春vs.上杉顕定B本庄市C鎌倉大草紙
関東管領上杉顕定は長尾景信が病死した後、その弟忠景を山内上杉氏の家宰にしたため、景信の嫡子景春が上杉顕定に背き、文明八年(1478)、武蔵鉢形城の景春は、五十子に本陣を置いた上杉勢と戦った。景春は翌九年、再度五十子(いらこ)の上杉勢と戦い、これを打破り上杉勢は利根川を越え上野国へ敗走した。太田道灌と争っていた武蔵国の豊島氏は、石神井・練馬両城にて長尾勢に与し、上杉勢の河越城と江戸城の連絡を絶った。

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4、 文明九年(1477)
@石神井の戦いA太田道灌vs.豊島泰経B東京練馬C太田道灌状
石神井城の長尾勢豊島泰経を上杉勢の太田道灌が攻落した。文明十年、両上杉と古河公方足利成氏との間に和議が成立したが、その後も豊島氏は長尾景春に与し、上杉氏と戦った。

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5、 文明九年(1477)
@用土原の戦いA太田道灌vs.長尾景春B埼玉県寄居C松蔭私語
文明五年、山内上杉氏の執事長尾景信が死去、景信の弟忠景が執事となり、景信の嫡子景春が上杉氏に反した。両上杉氏・長尾忠景・太田道灌等の軍勢が用土原に押寄せ、合戦がなされ、景春勢敗れ鉢形城に撤退した。道灌・忠景勢は景春勢を打破り富田に陣を張ったが、景春を救援するため足利成氏が数千騎で押寄せたため、上杉勢も退いた。

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6、 文明十三年(1481)
@田屋河原の戦いA石黒光義vs.一向一揆B富山県東礪浪C三州誌
越中砺波地方の一向宗徒の拠点、瑞泉寺を中心とした井波城は、蓮乗公寺院の周囲に塁濠を巡らし城郭としたもので、石黒光義勢の福光城と対時していた。一向宗(浄土真宗)を武装した農民の惣的結合を利用して、村ごとに講を開き、講をいくつか集め、道場を築いていった。この門徒衆と守護勢との争いは激化して、加賀の富樫政親勢は北陸の拠点吉崎御坊を攻落し、一向宗徒は越中の瑞泉寺に逃げ延びた。砺波郡の領主石黒光義は井波へ出陣した。瑞泉寺の一向宗徒は、山田川田屋河原で待受けた。一揆の別働隊が手薄の福光城を焼落し、居城を失った石黒光義は敗走、安居寺にて自害した。この合戦後、山田川を境として、東を瑞泉寺、西を安養寺として分割して砺波郡を治めた。

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7、 長享二年(1488)
@実蒔原の戦いA上杉定正vs.上杉顕定B神奈川伊勢原C上杉定文書
文明十三年、扇谷上杉氏家宰太田道灌は山内上杉氏に反した長尾景春を討つため、秩父日野城に出陣、景春は下総古河口の足利成氏を頼って逃れた。文明十四年、足利成氏と室町幕府との間に和議が成立したが、扇谷上杉定正はこの和議に反対であったため、山内上杉顕定との間に溝ができた。長享二年、扇谷上杉定正は古河足利成氏と手を結び長尾景晴も加勢した。この勢力の増加を恐れた武蔵鉢形城の山内上杉顕定は、相模七沢城を一千余の兵で攻めた。河越にいた扇谷上杉定正はわずか二百余騎で相模七沢城に駆けつけ、七沢城南方の実蒔原(さねまきはら)に布陣していた山内上杉顕定勢と戦い打破った。

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8、 長享二年(1488)
@高尾城の戦いA富樫政親vs.一向一揆B石川県金沢C陰凉軒日録
文明十三年(1481)、田屋河原の戦で砺波の石黒光義を一向宗徒が破った。一族に内紛の有った加賀守護職、富樫氏は前守護職教家と実弟泰高とが争い、泰高は隠居して、教家の孫政親に守護職を譲り、争いを避けたが争いは続き、政親は一向宗徒と組んで、加賀統一の成功したが、一向宗徒も力を貯えていった。将軍義尚の命により近江守護職六角高頼征伐に出陣した政親は、加賀一向宗徒の一揆を懸念し、加賀国高尾城に着陣した。国高尾城を一向一揆衆に完全に囲まれ政親は自刃した。この後加賀の守護職には一向宗徒と手を結んだ富樫泰高がなったが、享禄四年(1538)一向宗徒に殺された。

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9、長享二年(1488)
@高見原の戦いA上杉定正vs.上杉顕定B埼玉県比企C梅花無尽蔵
文明十八年、太田道灌は相模国糟屋の上杉定正に、山内上杉顕定に謀叛を企てたとして誅殺された。顕定は越後国守上杉家から山内上杉氏の養子に入り関東管領となったが、執事の長尾景信の死後、弟忠景を執事として、景信の嫡子景春が山内上杉氏に反した。上杉顕定と執事忠景の子長尾顕忠は上野国国府に出陣し、長尾景春勢の長野業尚と対陣した。山内扇谷両氏は相模国実蒔原で衝突、上杉顕定・憲房父子は一千余騎で実蒔原に出陣、同地の上杉定正と対陣した。その時定正は河越城にいたが、二百余の軍勢で駆けつけ、顕定勢の七十余騎討取った。顕定・憲房は二千余の軍勢で鉢形城を出陣、定正・朝良父子は河越城から七百余の軍勢で勝呂に陣した。長尾景春も顕定に加勢し、両陣は須賀谷原で合戦、緒戦は顕定勢が優勢であったが、定正勢、景春勢に両側から攻められ顕定は敗れて退いた。公方政氏に出陣を要請して定正は、高見原に二千余騎にて出陣、顕定も三千余騎で戦ったが、顕定勢が敗れて鉢形城に退いた。

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10、延徳三年(1491)
@堀越御所の戦いA北条早雲vs.足利茶々丸B静岡田方C妙法寺記
延徳三年、伊豆の堀越公方の足利政知が病死した。政知に廃嫡されそうだった長男茶々丸が、継母円満院とその子を殺し、堀越公方の家督を継いだが、茶々丸と政知の部将とが不和となり内紛状態となっていた。そこを駿河の北条早雲が、今川氏親の後詰を得て、堀越御所を急襲し茶々丸を自刃させた。この戦いが北条氏の関東進出の足がかりとなった。

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11、明応二年(1493)
@深根城の戦いA北条早雲vs.関戸吉信B静岡県下田C北条五代記
北条早雲の堀越御所攻めは、堀越公方足利茶々丸の自刃により、堀越公方滅亡で終ったが、重臣関戸吉信は居城の深根城に楯籠り抵抗した。早雲は伊豆国の地侍に、見せしめのため過酷な城攻めを行い、吉信以下ことごとく撫切りにして、切った首を城の周りに並べたと「北条五代記」は伝えています。

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12、永正元年(1504)
@立河原の戦いA北条早雲vs.上杉顕定B東京立川C相州兵乱記
明応三年、関東管領上杉顕定と対立していた扇谷上杉定正が死んだ。扇谷上杉氏の一族大森氏頼も病死し子藤頼が相模国小田原城主となった。また同じ扇谷上杉氏の三浦時高は養子義同に三浦の新井城で殺された。永正元年、上杉顕定は上杉朝良の河越城攻めた。朝良後詰のため北条早雲が小田原城、今川氏親が駿河国府中から出陣した。山内上杉方の公方政氏、上杉顕定、同憲房勢と扇谷上杉方の上杉朝良、北条早雲、今川氏親勢が多摩川の立河原で合戦した。二千余人が討死して、敗れた顕定勢は鉢形城に退いたが越後勢が加わり、河越城の朝良を顕定、顕定弟越後国守護上杉房能、守護代長尾能景が攻めた。形勢は逆転朝良の引退を条件に和睦成立し朝良は江戸城に入った。

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13、永正三年(1506)
@九頭龍川の戦いA朝倉貞景vs.一向一揆B越前九頭龍C朝倉始末記
長享二年(1488)、加賀の一向一揆により守護職富樫政親は敗死した。翌年の延徳元年、将軍足利義尚が亡くなり、管領細川政元と畠山政長とが将軍継続で争っていたが、義材が新将軍になった。明応二年、畠山一族の抗争が激しくなり、政長は畠山義豊を攻めるため、義材と河内に出陣した。この隙に細川政元は政長の屋敷等を焼討ちした。そして堀越公方政知の子清晃を新将軍に仕立て兵を起こした。政元は政長・義材を河内の正覚寺城を攻め、政長は自刃、義材(義稙)は越中神保長誠を頼り逃れた。明応三年、清晃は義澄と改名して、将軍となった。越中の神保氏に逃れた義稙は、加賀から越前の前田貞景を頼った。明応八年、義稙は義尹と改名し、細川打倒の兵を起こしたが、細川勢に敗れ、周防の大内氏を頼り逃れた。永正三年、朝倉一族の内紛により、加賀の一向宗徒は、蓮如を助けていた細川政元に敵対する朝倉貞景に対抗した。越前に侵入した一向一揆は、九頭龍川で朝倉貞景勢と対陣した。貞景の叔父の朝倉教景が一向一揆勢に攻め懸り、一揆勢を散々に打ち負かした。大勝した貞景は、本願寺の吉崎道場、末寺を壊し、門徒をことごとく追放した。

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14、永正三年(1506)
@般若野の戦いA長尾能景vs.一向一揆B富山砺波C越佐史料
永正三年、加賀に一向一揆が起き、越中の国へ広がった。越中の武士団は戦い敗れ、越後の守護代長尾能景に助けを求めた。越後守護上杉房能は、守護代長尾能景を越中に侵入させた。長尾勢は一揆勢、魚津城鈴木国重、岩瀬城赤川出雲等を打破り、一向一揆の本拠地、砺波へ攻め込んだ。越中の一揆勢は、加賀の宗徒へ応援を依頼、一揆勢は神保良衡、遊佐慶親などとりこみ、増山城麓の般若野で対陣した。能景は、神保・遊佐と蓮台寺に戦い、また般若野で戦い、敗死した。この後、能景の子為景は、上杉房能の養子定実を担ぎ出し、
房能を討取り、定実は越後守護になった。

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15、永正七年(1510)
@長森原の戦いA上杉顕定vs.長尾為景B新潟南魚沼C相州兵乱記
永正四年、越後守護上杉房能は守護代長尾為景に天水越で敗れ自刃した。房能の兄の関東管領上杉顕定は、為景打倒のため越後に入った。長尾一族の上田長尾房長は顕定に味方した。顕定勢は揚北衆も味方につけ、為景勢を破り越後府中に入った。為景は越中に逃れた。各地で顕定勢と為景勢が戦い、為景勢が優勢となり、国人の寝返りも多く、関東へ退ぞく顕定勢を寝返った坂戸城主長尾房長等、為景勢が長森原(南魚沼郡六日町)に包囲して顕定を討取った。

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16、永正七年(1510)
@権現山の戦いA北条早雲vs.上杉憲房B神奈川県横浜C鎌倉九代記
永正二年、山内上杉顕定は扇谷上杉朝良を武蔵河越城に攻めたが和睦した。永正四年、越後守護代長尾為景が守護上杉房能を殺害、房能の兄上杉顕定は憲房とともに越後に出陣したが、越後長森原の戦いで討死、家督は憲房が継いだ。北条早雲は扇谷上杉氏家臣、上田政盛を味方につけ、政盛は武蔵神奈川権現山に立て籠った。扇谷上杉朝良、上杉憲房勢は権現山に出陣して政盛を打破った。

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17、永正八年(1511)
@船岡山の戦いA足利義稙vs.細川澄元B山城C細川両家記
足利義稙方の大内義興勢に追われた前将軍足利義澄は近江に、細川澄元・三好之長は阿波に逃れていた。永正八年、細川澄元・三好勢は兵を堺から細川政賢と摂津に進め、京都に迫った。細川澄元は京に入り、船岡山で細川高国勢と対陣した。細川高国・大内義興勢は政賢ら三千八百余を討取り、澄元は攝津に逃れた。

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18、永正八年(1511)
@刑部の戦いA今川氏親vs.斯波義達B静岡県引佐郡C飯尾文書
永正五年、将軍交代により、遠江守護職が斯波氏から今川氏親に代わり、斯波氏は遠江を失い、この後斯波氏は遠江国人と共に今川氏に抵抗した。永正七年、今川氏は、斯波氏の拠点引間城を奪い入城した。斯波義達は井伊谷の井伊氏、引間の大河原氏と連合して遠江井伊谷に出陣、刑部城を攻め、今川勢と対陣した。小競合いで大きな合戦は無かったようで、永正九年に武衛衆・井伊衆・引間衆が新津城を攻めたが、刑部城から応援を出てきて、逆に井伊谷へ朝がけされて敗北した。

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19、永正九年(1512)
@岡崎城の戦いA北条早雲vs.三浦義同B神奈川平塚C相州兵乱記
永正七年、扇谷上杉朝良、山内上杉憲房勢は武蔵権現山(横浜市神奈川)の上田政盛を攻落し、その後北条勢が守る鴨沢要害(足柄中井)を攻め、三浦義同勢が北条勢と激しく戦った。三浦義同は子義意を新井城主として義同自身は相模の中部の岡崎城(神奈川平塚)に入った。永正九年、北条早雲は岡崎城を攻め、岡崎台にて合戦、三浦義同勢は城を出て三浦の住吉城に逃れた。

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20、永正十年(1513)
@引馬城の戦いA今川氏親vs.大河内貞綱B静岡県浜松C獄南記
引馬城は曵馬城とも書かれ、後に徳川家康が浜松城とした。永正十年、引馬城の大河内貞綱が今川氏に反し兵を挙げた。今川氏親は直ちに出陣し、大河内貞綱の後詰、斯波義達と合流する前に城攻めして、引馬城を落した。この時今川氏と同族の吉良氏の取なしで貞綱の命を助けた。永正十一年、今川氏親が駿河の引上げると、大河内貞綱は吉良氏家臣飯尾賢連を討って引馬城に籠城した。氏親勢は引馬城を攻落したが、大河内貞綱は逃げ落ちた。永正十三年、氏親は甲斐に出陣して、駿河、遠江が手薄になった隙に、大河内貞綱が斯波義達と計り謀叛、引馬城に入った。氏親は武田信虎と講和し、引馬城攻めを開始した。
氏親は引馬城の水の手を絶ち、ようやく城を落した。宗長手記は「大河内兄弟父子、楯籠傍輩数輩、あるは討死、あるは討捨、あるは生捕、男女落行躰目もあてられずぞ有し」とそのすさまじさを記しています。

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21、永正十三年(1516)
@新井城の戦いA北条早雲vs.三浦義同B神奈川三浦C北条五代記
明応三年、相模新井城の三浦時高が養子の義同に攻め殺された。この義同は扇谷上杉持朝の孫で、鎌倉公方足利持氏を滅ぼすのに軍功があった三浦時高に子がなく、請われて三浦家に養子に入ったが、時高の晩年に子が生まれたため争いとなった。永正八年、義同が城主である岡崎城を北条早雲に攻められ、三浦の新井城に退いた。永正十三年、北条早雲は三浦義同、子義意の新井城を攻め、三浦勢全て討死にしたといわれています。

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22、永正十四年(1517)
@有田川の戦いA毛利元就vs.武田元繁B安芸国有田C毛利家文書
永正十三年、毛利興元が亡くなり、幼少幸松丸が家督を継いだ。永正十四年、安芸の旧守護であった武田元繁は有田城を攻めた。この有田城はもともと武田勢の城で、元繁が己斐城を攻めた時、後詰の毛利興元に攻落され、吉川氏の居城になっていた。毛利元就は、有田城に出陣、武田勢副将熊谷元直を討取った。元繁は興元勢に攻め懸ったが、矢に打落とされ、討死した。この戦いは、毛利元就の初陣であったと言われています。

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23、大永元年 (1521)
@上条河原の戦いA武田信虎vs.福島正成B山梨県甲府C勝山記
大永元年、今川氏親は遠江土方城主福島正成に一万五千の兵で甲斐に侵攻させた。福島勢は武田信虎の居舘である躑躅ヶ崎の西方竜地台に布陣した。福島勢が飯田口(甲府市飯田)に向かったため、荒川河原で激戦となったが、武田勢がかろうじて勝利した、この後福島勢は曽根の勝山城で陣を整えて、再度荒川を北上した。飯田河原の上流の上条河原で再び戦った。駿河福島勢六百討死、福島一門皆々打死し武田勢が大勝した。

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24、大永四年(1524)
@高縄台の戦いA北条氏綱vs.上杉朝興B東京港区C相州兵乱記
永正七年、関東管領上杉顕定は越後国守護代長尾為景を討つため、越後に出陣中に討死した。上杉憲房は関東管領職を争い、武蔵国鉢形城(埼玉寄居)の上杉顕実を攻めた。顕実は敗れ、下総国古河城(茨城古河)へ逃れた。北条早雲は相模国岡崎城を攻め、城主三浦義同は三浦新井城に逃れた。その後北条氏は三浦氏を滅ぼし、伊豆、相模両国を平定し、武蔵国に進出していった。古河公方政氏は子高基の嫡子晴氏が北条氏綱の娘を迎え北条氏に通じた事により高基と対立していて、下野国小山にいた政氏は、上杉朝良を頼り岩付城へ移った。永政十五年、上杉朝良は江戸城にて病死し、甥朝興が名代として扇谷上杉氏の家宰と成った。大永四年、北条氏綱は武蔵国に侵入、江戸城に迫った。上杉朝興は品川へ出陣した。上杉勢の先鋒曽我神四郎と北条勢の先陣多米六郎が高縄の原(港高輪)で合戦した。北条勢の二陣大道寺勢が上杉勢を東西から攻立て上杉勢は崩れ、太田資高・資貞兄弟が北条勢に内通して江戸城を開城し、朝興は河越城(埼玉川越)へ逃れた。

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25、大永四年(1524)
@猿橋の戦いA北条氏綱vs.武田信虎B山梨県大月C勝山記
大永四年、北条氏綱は甲斐に侵入、武田信虎が大月猿橋に出陣これを迎え撃った。この後小猿橋と云処において度々合戦があったと勝山記は伝えています。この戦いは、氏綱が扇谷上杉朝興を江戸に攻め、その後直ちに甲斐に侵入したことから、武蔵をめぐって両上杉勢と戦っていた北条氏綱が、扇扇谷上杉朝興を助けていた武田信虎を牽制するため甲斐に侵入したものと思われます。

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26、大永五年(1525)
@岩付城の戦いA北条氏綱vs.太田資頼B埼玉県岩槻C北条記
大永四年、北条氏綱は武蔵国江戸城を攻め、城主上杉朝興は河越城に逃れた。上野国平井城の関東管領上杉憲房は北条方の毛呂要害を攻めたが、江戸城から毛呂城の後詰めに向かった氏綱と和談した。大永五年、氏綱は太田資頼の岩付城(岩槻城)を攻落し、資頼は上野国石戸へ逃れた。

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27、大永六年(1526)
@鎌倉の戦いA北条氏綱vs.里見実堯B神奈川県鎌倉C相州兵乱記
大永五年、北条氏綱は、扇谷上杉朝興勢の武蔵国江戸城、岩城城を攻め、関東侵略を進めていた。上杉勢も関東に出陣、北条勢を白子原に破り、関東で奮戦していた。安房の里見実尭も相模鎌倉に侵入、鶴岡八幡宮始め、鎌倉が灰燼に帰した。これは小弓御所の足利義明の指示とも言われています。

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28、享禄三年(1530)
@小沢原の戦いA上杉朝興vs.北条氏康B東京府中C相州兵乱記
大永四年、江戸城主扇谷上杉朝興は北条氏綱に攻められ、河越城に逃れた。上杉朝興は北条氏綱と和睦したが、大永六年に朝興は北条勢の武蔵蕨城を落し、さらに武蔵小沢城をも落した。享禄三年、河越城の上杉朝興は兵五百騎で武蔵府中に出陣した。北条氏綱の子氏康が出陣して武蔵府中多摩川の小沢原にて朝興勢を打破った。

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29、享禄三年(1530)
@田手畷の戦いA杉 興運vs.竜造寺家兼B佐賀神崎C九州治乱記
享禄三年、討死した少弐政資の三男資元は、肥前の有力国人竜造寺勢と大宰府に向け出陣した。大内義隆は、筑前守護代杉興運に出陣を命じた。竜造寺胤久は先鋒に竜造寺家兼をあて、筑後川支流田手川で杉勢をせめた。この時、家兼家臣鍋島清久が動物の毛を赤く染めた「赤熊」をかぶり、杉勢を打破ったと言われています。少弐資元は大宰府岩屋城を落したが、あと竜造寺家兼が大内義隆に寝返り、少弐資元は大内義隆に殺された。

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30、享禄四年(1531)
@天王寺の戦いA細川高国vs.細川晴元B大坂天王寺C細川両家記
享禄三年、桂川原の戦いに敗れ、近江に逃れていた細川高国は摂津に出陣し、細川晴元勢の伊丹・池田など諸城を囲んだ。高国勢は池田城などを攻落し各所で攻勢をかけた。劣勢の晴元は三好元長に応援を依頼した。享禄四年、摂津中島に布陣した三好元長は、住吉で高国勢先鋒を破り、高国勢を天王寺まで後退させ対陣した。高国に組する浦上村宗と対立する赤松政村が晴元勢に味方し、天王寺の高国勢を攻めた。高国勢は七千余の兵を失い、尼崎まで逃れたが、大物の広井徳寺で自刃した。この戦いで、三好元長に支えられた足利義維を支持する細川晴元の政権、堺公方府が動きだした。

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31、享禄四年(1531)
@塩川河原の戦いA武田信虎vs.諏訪頼満B山梨県韮崎C勝山記
享禄元年、諏訪上社大祝諏訪頼満と諏訪下社大祝金刺昌春との諏訪一族の争いの中、武田信虎は諏訪に侵入した。青柳(長野茅野)で諏訪頼満・頼隆父子と対陣し、神戸(諏訪郡富士見)、堺川(神戸北)で合戦があり、信虎は神戸の戦いは勝ったが夕方での堺川の合戦では大敗して退いた。享禄四年、栗原氏・今井氏・大井氏等甲斐国人が信虎に反して諏訪頼満を頼った、侵入してきた諏訪勢を韮崎塩川の河原辺で信虎が迎え撃ち諏訪勢三百人討取りこれを破った。この後、武田氏と諏訪氏は和睦、武田信玄が天文十一年諏訪に侵入するまで同盟は続いた。

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32、天文三年(1534)
@勢場ヶ原の戦いA陶興房vs.吉弘氏直B豊後大村C大村陣勢場合戦記
大内義隆は、肥後の菊池氏に豊後の大友義鑑を牽制させ、大内勢は陶興房に豊前と豊後の国堺勢場ヶ原に出陣させた。大友勢は吉弘氏直に大村山に布陣したが、大内勢に背後に廻られ、戦いが始まった。大内勢は氏直を討取り緒戦を飾ったが、立石峠、地蔵峠の大友勢が駆けつけ、安心していた大内勢は散々に敗けて周防に引上げた。この戦いで、大友氏は豊後における大内氏の影響力を排除した。

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33、天文四年(1535)
@井野田の戦いA織田信秀vs.松平広忠B愛知尾張C参河国聞書
天文四年、松平清康が尾張守山で阿部弥七郎に殺された(森山崩れ)。これにより織田信秀は三河に打出、大拾寺に旗をたてた。松平勢は岡崎城を出て井田で織田勢と合戦した。織田勢が、敵を小勢とあなどり思い思いに戦い、必死の松平勢に責められ逃走した

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34、天文五年(1536)
@花倉の戦いA今川義元vs.玄広恵探B静岡県藤枝C妙法寺記
天文五年、今川氏輝と弟彦五郎が同じ日に没した。この戦いは花倉の乱、丙申の乱ともいう。氏輝に子はなく、二人の弟、上を玄広恵探といい、下を梅岳承芳(後義元)といった。恵探は駿河国志太郡花倉(静岡県藤沢)の遍照光院の住持で、承芳は駿河国富士郡瀬古(富士市)の善徳寺の喝食となっていた。この二人が家督相続で争った。正室の子承芳は九英承菊(後太原崇孚)の応援を得て、遍照光院の後にある花倉城の恵探を攻落し、恵探は瀬戸谷普門寺にて自害した。

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35、天文五年(1536)
@中ノ島の戦いA木沢長政vs.一向一揆B大阪府大坂C細川両家記
細川高国が三好元長らに摂津天王寺で敗れ自害すると、細川晴元と三好元長は対立した。細川晴元勢には三好政長・河内守護代木沢長政、三好元長勢には足利義維・阿波守護細川持隆らが味方した。天文元年、細川晴元は本願寺の証如と内応し、門徒衆を味方にして三好元長を亡ぼしますが、本願寺の一向宗門徒と法華宗の衆徒との確執が表面化してくる。勢力を増した一向宗門徒に対抗するため法華宗徒と手を結び、各地で一向宗門徒と戦った。近畿一向一揆の大将は本願寺家宰の下間頼秀・頼盛兄弟であったが、畠山遊佐勢に大敗、その後、下間頼秀は攝津の一向一揆に加担したが、木沢長政が中島で一向一揆勢を破り、一揆は壊滅した。

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36、天文七年(1538)
@国府台の戦いA北条氏綱vs.足利義明B千葉県市川C国府台戦記
天文七年、小弓御所足利義明は里見義堯と江戸川東側国府台(こうのだい)に出陣、北条氏綱は江戸城より下総に出陣、氏綱先陣が小弓衆を打負かし、足利義明、弟基頼公、小弓義純は討死した。この戦いにより北条氏は房総に勢力を拡げた。

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37、天文九年(1540)
@安芸郡山城の戦いA毛利元就vs.尼子晴久B広島県高田C房顕記
天文九年、尼子晴久は多治比に出雲・伯耆・因幡・備前・美作・備中・備後・石見・安芸の兵で出陣、毛利元就の郡山城を攻めた。毛利勢も多治比川を挟んで対陣、小競合いの戦いの後、尼子勢は青三井山に布陣した。陶興房の大内勢が加勢に加わり、尼子勢の宮崎長尾を攻め崩した。大内勢は尼子本陣に攻込み、尼子久幸を討取った。敗れた尼子勢は、出雲に撤退した。

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38、天文十一年(1542)
@瀬沢の戦いA武田信玄vs.諏訪頼重B長野県諏訪C高白斎記
天文八年、諏訪頼満が病死し、孫の頼重が家督を継いだ。一族の高遠頼継、下社金刺氏、上社矢嶋氏らが頼重に反目していた。天文十年、武田家内部も当主の交代があり、諏訪頼重は、この期をついて小笠原長時・村上義清らと甲斐国に攻め込み、武田勢が反撃して、諏訪に攻め込んだとも言われていますが、瀬沢での合戦があったかどうかは疑問視されています。

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39、天文十一年(1542)
@小豆坂の戦いA織田信秀vs.今川義元B愛知県岡崎C松平記
天文十一年、駿河今川義元が三河国正田原へ出陣、織田信秀が城将の安城城を攻める。駿河衆の太原崇孚を先懸りとして、岡崎東の小豆坂(あずきさか)で合戦が行われた。ただし、今川方の史料によると、義元の東三河侵攻が天文十二年からと考えられるため、この合戦が有ったのかは明確ではない。

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40、天文十一年(1542)
@赤穴城の戦いA赤穴光清vs.大内義隆B島根県飯石C雲陽軍実記
安芸郡山合戦に負けた尼子氏を攻めるため、大内義隆は陶興房勢と安芸・備後の兵で出雲に出陣した。尼子十旗の一つで、出雲境の赤穴光清が守る赤穴城は、二千余の兵で籠城したが、大内勢の猛攻で、赤穴光清が討死して開城した。

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41、天文十一年(1542)
@桑原城の戦いA武田信玄vs.諏訪頼重B長野諏訪C守矢頼真書留
天文九年、諏訪頼満の孫頼重は武田信虎の娘を妻にした。天文十年、武田晴信が当主となり、天文十一年、諏訪に出陣し御射山に着陣した。両軍は筒口原で対陣したが、高遠頼継が杖突峠から諏訪に攻込み、諏訪勢は上原城から桑原城に撤退した。桑原城は武田勢・高遠勢に攻められ、和睦したが信玄に裏切られ自害した。

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42、天文十一年(1542)
@藤沢口の戦いA駒井高白斎vs.藤沢頼親B長野県伊那C高白斎記
武田信玄は諏訪頼重を滅ぼし、諏訪領を高遠頼継と二分したが、これに不満を持った頼継は、上社矢嶋氏、伊那箕輪城の藤沢氏などと、武田勢の上原城を攻めた。武田勢は諏訪頼重の遺子寅王を擁護して出陣した。諏訪旧臣は寅王を諏訪正嫡として武田勢に参陣して、高嶋城で高遠勢と対陣した。安国寺前宮川橋で合戦が行われ、高遠頼継の弟蓮芳を討取っている。高遠勢は七百余討取られ、杖突峠から高遠へ敗走した。武田勢駒井高白斎は、それを追って伊那口に侵入、藤沢口に放火し、福与城の藤沢頼親を攻め、攻落している。

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43、天文十三年(1544)
@箕輪城の戦いA武田信玄vs.藤沢頼親B長野上伊奈郡C高白斎記
天文十一年、福与城主藤沢頼親を追って、武田晴信は上伊那郡に兵を進め、福与城を落している。高遠城主高遠頼親は藤沢頼親と計り、武田氏に謀叛した。晴信勢は伊那口の有賀に着陣し、荒神山砦を攻めた。武田勢は福与城(箕輪城)に迫り松嶋原で合戦を行い、感状に首二十六討取ったとある。高遠から頼継の後詰で、晴信は甲府に帰った。

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44、天文十五年(1546)
@河越の夜戦A北条氏康vs.上杉朝定B埼玉県川越C北条記
天文六年、北条氏康・氏康は上杉朝定・朝成の武蔵国河越城を攻落し、さらに下総国葛西城、武蔵国岩付城を攻めた。同七年下総国小弓城の足利義明を討取り、相模、武蔵、上総、下総の国を制圧した。天文十一年北条為昌が病死し、北条綱成が河越城に入った。天文十四年、駿河国今川義元と武田晴信も義元後詰のため、駿河国の出陣した。今川勢の後詰として両上杉勢が河越城を囲み、古河公方足利晴氏も上杉方加勢として出陣した。北条綱成の後詰として氏康勢も出陣、謀略で上杉勢を安心させ砂久保の上杉勢に八千余騎にて夜戦を仕掛け、三千余騎討取り北条勢が圧勝した

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45、天文十六年(1547)
@加納口の戦いA織田信秀vs.斎藤道三B岐阜岐阜C信長公記
天文十六年、織田信秀は、土岐頼芸の美濃守護復帰にも関らず、依然として勢力を強めていた斎藤道三を討つため、美濃に進攻した。稲葉山城に迫ったが、斎藤勢の夜討ちに合い、加納口荒田川付近で大敗した。

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46、天文十七年(1548)
@上田原の戦いA武田信玄vs.村上義清B長野県上田C妙法寺記
天文十七年、武田信玄は村上義清が支配する小県郡葛尾城へ出陣し、上田原に陣を敷いた。村上勢も千曲川を挟んで対陣した。村上勢は千曲川を渡り、室賀峠を越え上田原で戦った。武田勢は板垣信方、甘利虎泰など討死して大敗し、この戦いで、武田勢の信濃佐久間郡の勢力も失うことになった。一方村上勢壱千七百余人の討死で、兵力損害も大きく勢力が減少していった。

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47、天文十七年(1548)
@塩尻峠の戦いA武田信玄vs.小笠原長時B長野岡谷C妙法寺記
天文十七年、武田晴信は小県郡上田原で村上義清に大敗した。信濃府中林城の小笠原長時が反攻にでて、諏訪郡に侵攻したが諏訪衆に撃退された。小笠原衆は西方衆と内応して上諏訪を攻めた。武田勢は諏訪上原城を経て塩尻峠に出陣して、小笠原勢を急襲してことごとく討取ったとあるが、小笠原方の山家・三村氏の裏切りにより勝負が決まったようで、大した戦いは無かったようである。

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48、天文十八年(1549)
@安祥城の戦いA織田信広vs太原崇孚B愛知安城C参河国聞書
天文九年、三河岡崎松平氏は二分して、尾張織田信秀と計り、今川勢の安祥城を攻落した。天文十一年、松平広忠の応援のため、今川義元は生田原に出陣、織田信秀は安祥城、矢作川の小豆川で戦い敗北した。天文十七年、今川勢は織田勢を攻めるため西三河に侵入、雪斎(太原崇孚)を大将に矢作川から小豆川に布陣した。織田勢は織田信広・津田信光を安祥城に配し、小豆川で合戦、今川勢が勝利して、織田信秀は上和田の砦まで退いた。天文十八年、岡崎城主松平広忠が没し、嫡子竹千代を今川氏に人質に送る途中で、尾張勢に襲われ竹千代を奪われた。今川勢は、雪斎(太原崇孚)を総大将として、織田勢の根拠地安祥城に出陣した。今川勢は安祥城の織田信広を捕まえ、竹千代と人質交換した。今川勢は、三河を領して尾張東部なで勢力を伸ばした。

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49、天文十九年(1550)
@戸石城の戦いA武田信玄vs村上義清B信濃国小県C高白斎記
天文十九年、武田晴信は松本平に小笠原長時の林城を攻め、長時は葛尾城の村上義清を頼り逃れた。晴信勢はこれを追って海野口向ノ原に陣を進め、戸石城を包囲した。村上義清勢が武田勢の背後から脅かし、武田勢の退却が始まり、義清勢が追撃し、武田勢は千余人が討死した。この追撃戦を「戸石崩れ」と呼んでいます。戸石城はその後、真田幸隆が落城させ小県郡支配の拠点となった。

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50、天文二十二年(1553)
@川中島の戦いA武田信玄vs上杉謙信B長野県長野C甲陽軍鑑
天文二十一年、信濃の葛尾城主村上義清は武田信玄に城を追われ、越後春日山城の上杉謙信の元に逃れた。上杉謙信は越後の内乱を治めた時期で、関東の主家筋の関東管領上杉憲政も北条氏康に敗れて越後に逃れてきている。川中島は信濃の交通の中心で対岸には善光寺があります。

一回、天文二十二年の戦い
天文二十二年、葛尾城が落ち、川中島南部は武田勢領になった。川中島は千曲川と犀川の合流する盆地でその北側は善光寺平と呼ばれている。葛尾城を落した武田勢の先鋒は八幡で北信濃勢と越後勢五千余と対陣した。葛尾城は越後勢に奪還され、武田勢は深志城に退いて、甲府に戻った。同年再度、信濃に出陣、和田城、高鳥屋城などことごとく撫で切りにして、村上義清の本城塩田城も落ちて、塩田平一帯の城を一日で十六も落したといいます。信玄は再び川中島南に進出した。武田勢は越後勢と小競合いのあと深志城に入り甲府に帰陣している。

二回、弘治元年の戦い
天文二十三年、信玄は下伊那・木曽地方を占領し、信濃も川中島以北を除き、武田領となった。弘治元年、刈羽郡の北条高広が信玄に応じて兵を起こした。謙信は信濃善光寺に陣を張った。信玄も善光寺南の大塚に陣を張り、犀川を挟んで対陣した。信玄は旭山城の栗田氏に兵を送り、謙信に対抗させた。この合戦は、越後衆が出張したが、さしたることもなく退散と大した戦いは無かった様です。今川義元の仲介で講和が成立し両軍とも兵を引いた。この講和内容は、旭山城を破却し信濃の味方の旧地を安泰とした謙信に有利な条件であった。

三回、弘治三年の戦い
弘治元年の講和は有名無実化され、弘治三年、謙信は川中島に兵を送り、葛山衆落合一族に働きかけ葛山城を攻落した。謙信は直ちに出陣し、旭山城を本陣したが、謙信は深志城に着陣し、そこから動こうとしなかった。上野原で合戦が有ったことが感状に残っているが場所は不明です。大した合戦のなく両陣との退陣した。この葛山城(桂山)には、白米城伝説が残っています。城には兵糧の米はたくさんあっても、飲水は欠乏していた。それで寄手が水攻めにしょうとするのに対して、山の中腹から盛んに白米を落して、大きな滝があるように見せかけて居ると、麓の或寺の住持が、あんな処に滝は無い筈だと言ったので、謀計であることが知れて、とうとう火を掛けて城を攻落したと言う、今でも山上に戦死者の墓がある。寺の僧はその祟りを受けて死に、寺も焼けて色々の不思議が続いた。このような伝説は日本各地に伝わっていて、武田勢に落された信濃の城で同じような伝説が残っているそうです。(柳田国男、白米城伝説について)

四回、永禄四年の戦い
謙信は、永禄三年、関東に出陣、小田原城も囲んだ。上杉憲政から上杉家を譲られ、鎌倉鶴岡八幡宮で報告を行い、名を長尾景虎から上杉政虎と改め関東管領になった。謙信の関東出陣中も、武田信玄の信濃征服は着々と進んでおり、川中島の東に海津城を築き、北信濃の拠点とした。永禄四年、謙信はこの海津城を攻めるため、海津城を見下ろす妻女山に陣を張った。信玄も甲府を出陣し,千曲川の雨宮の渡しで布陣した。この戦の具体的な経過はほとんど伝わっていない。甲陽軍鑑によれば、信玄は兵を二手に分け、一軍を妻女山にむけ、本陣は八幡原に向かった。謙信は妻女山を下山して、八幡原で両軍の遭遇戦となり、大激戦となった。謙信勢の撤退で、その後川中島一帯は信玄が押えた。この合戦で信玄の弟信繁、山本勘助など討死しています。

五回、永禄七年の戦い
永禄五年、謙信は関東に出陣、その間信玄は奥信濃の飯山城を攻めた。永禄七年、信玄は会津黒川城の葦名盛氏と同盟、上杉氏の背後を衝かせ信越境に出陣した。謙信も佐竹義昭に武蔵・上野境で北条勢に対する後詰を依頼して、川中島に出陣しています。信玄も深志から塩崎に出陣し対陣したが、目立った合戦もなく越後に帰った。永禄七年の対陣後、上杉氏は飯山城、野尻城を保つだけで信濃はほとんど武田氏に制圧された。

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51、天文二十三年(1554)
@三本松城の戦いA陶晴賢vs吉見正頼B島根鹿足C大内義隆記
天文二十年、陶晴賢は大内義隆を自刃させ、豊後の大友義鎮の弟義長に大内氏を継がせた。津和野城主吉見正頼は隣国の益田氏と代々境を争っており、この益田氏は陶氏と親戚関係であった。益田勢が能登呂城を攻め、乃美賢勝勢が津和野三本松城に迫り、吉見正頼勢と小競合いがあり、天文二十三年、大内勢は陶晴賢を先鋒として長門勝山城に出陣した。陶晴賢と益田藤益勢は津和野三本松城を囲んだ。大内勢に津和野三本松城の支城を落されたが、本城は落ちなかった。吉見正頼も毛利氏に援軍を依頼したが、毛利氏も大内勢に敵対を表したものの、後詰の兵は送らなかったため、陶氏と吉見氏は和議を結び、兵をひいた。

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52、弘治元年(1555)
@大聖寺表の戦いA朝倉教景vs一向一揆B石川加賀C禅昌寺明叙録
一乗谷城主朝倉義景の命により、朝倉教景は一向一揆鎮圧のため、加賀橘まで出陣した。藤島超勝寺、和田本覚寺を中心としった一向一揆勢は加賀南郷、大聖寺城に布陣した。朝倉勢の猛攻に一向一揆勢は打ち負かされた。翌日の一向一揆勢の反撃の各所で打ち敗れてバラバラになったが、教景の発病により、この後朝倉勢と一向一揆衆は一進一退で、足利義昭の仲介で永禄三年(1560)和議がすすめられた。

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53、弘治元年(1555)
@厳島の戦いA毛利元就vs陶 晴賢B広島県佐伯C毛利家文書
天文二十年、大内義隆家臣陶晴賢は義隆に謀叛、義隆を倒した。安芸は代々、大内氏と尼子氏が勢力二分しており、毛利元就も尼子経久から大内勢に替っている。天文二十二年、大内勢の吉見正頼が三本松城にて陶晴賢に反旗、毛利元就も陶晴賢と対決を決めた。弘治元年、毛利元就は厳島に城を築き、陶勢を厳島に誘き出した。悪天候の中、毛利勢も厳島に渡り、博奕尾の峰から一気に陶勢に攻め懸り、晴賢は自刃し、陶勢を壊滅させた。

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54、弘治二年(1556)
@長良川の戦いA斎藤道三vs斎藤義龍B岐阜県岐阜C信長公記
斎藤道三は守護土岐頼芸の愛妾を賜り妻として、義龍が生まれたが、父親は頼芸とされており、家督を義龍に譲ったものの、道三は実子に家督を譲りたいと思っていた。弘治元年、斎藤義龍は弟竜重・竜定を稲葉山城で謀殺したため、道三勢二千七百余人と義龍勢一万七千余人は長良川にて対陣した。弘治二年、道三勢は城田城を本拠地として、長良川井ノ口に出陣、義龍勢に大敗し城田城に逃げる途中で、義龍勢に討たれた。

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55、永禄三年(1560)
@桶狭間の戦いA織田信長vs今川義元B愛知県名古屋C信長公記
三河、遠江、駿河三国の戦国大名の今川義元は三河守に任ぜられ、尾張に二万五千余の兵で出陣した。永禄三年、丸根砦、鷲津砦を落し、沓掛から大高に向かった。途中の桶狭間の田楽ヶ窪で織田信長勢二千が今川義元本陣に攻め懸った。義元が討たれ、岡崎城から退き、その後岡崎城に徳川家康が入った。家康は西三河、東三河と勢力を大きく伸ばした。

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56、永禄三年(1560
@土佐長浜の戦いA長宗我部vs本山茂辰B高知県高知C元親記
本山氏は土佐七守護の一人で、長岡郡の本山城を本拠地としていた。本山茂辰は本山清茂の嫡男で、清茂の高知侵攻を支えていた。清茂の死後、突然長宗我部元親に土佐中央の朝倉城を狙われ、長浜表の木ノ本での合戦に敗れ、長宗我部勢は長浜城を取り戻した。この戦いが、長宗我部元親の初陣だったと言われています。

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57、永禄四年(1561)
@森辺の戦いA織田信長vs斎藤龍興B岐阜県安八C信長公記
永禄四年、美濃の斎藤義龍が病死、嫡子龍興が継いだ。織田信長はこの期に、西美濃に千五、六百人で侵入、長良川右岸森辺(森部)に布陣した。龍興勢は六千騎で攻め懸ったが、織田勢の先鋒に追い捲られ大敗した。稲葉山城から後詰の兵が応援に駆けつけたため、信長も尾張に帰陣した。

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58、永禄五年(1562)
@久米田の戦いA三好実休vs畠山高政B大坂府岸和田C三好記
永禄四年、畠山高政勢は、三好長慶勢の和泉岸和田城に迫り、六角義賢は、勝軍地蔵山城に布陣した。三好勢は、弟の河内高屋城主実休を高政勢に備え、子の義興を義賢勢に備えさせた。両戦線とも三好勢が劣勢であった。永禄五年、三好実休の和泉久米田の陣に畠山高政勢が攻め込んだ。実休以下、若党三十余人討死した。

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59、永禄五年(1562)
@朝倉城の戦いA長宗我部元親vs本山茂辰B高知県高知C土佐物語
永禄三年、長浜の戦いに勝利した長宗我部氏は、国親の病死で元親が家を継いだ。元親は本山勢の城を落し、永禄五年、元親は本山勢の朝倉城を攻めた。本山茂辰の嫡子親茂の働きで、長宗我部勢は、神田城に敗走した。元親は軍勢を立直し、朝倉城を攻めのため神田城を出陣した。鴨部に宮での戦いで、長宗我部勢は五百十一人が討死、本山勢は本山一族郎等百八人、軍勢二百三十五人討死している。永禄六年、本山勢は朝倉城を焼き、本山城に撤退した。

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60、永禄六年 (1563)
@三河一向一揆A徳川家康vs一向一揆B愛知岡崎C三河物語
本願寺派蓮如の布教より、西三河から尾張にかけ一向宗の勢力は力を増加、今川氏の支配を排して三河一国を領する強力な国人もいなかった事から、有力寺院に対する寺内権が旧態のまま温存されていた。永禄三年、松平元康は今川義元の武将として尾張に出陣、義元が桶狭間にて織田信長に敗死したため、元康は今川氏の支配から離れ、祖父の地三河の岡崎城に帰った。一向宗が発展した地域の農民に共通した思想は「武士を地頭にして、手強き仕置にあわんよりは、一向坊主を領主にして、我ままを言いて生きること」であり、請うによって組織された本願寺派惣村の特徴であった。永禄六年、家康家臣酒井正親の家来菅沼定顕が、一向宗佐々木上宮寺の近くに砦を築いて、上宮寺との間に小競合いが一揆の端緒になったと言われています。あるいは、野寺本証寺の寺内が酒井正親に検断されて一揆が起きたとも言われています。いずれにしても、寺側が「寺内不入権」をもって、家康側に反抗した事に戦いが始まった。三河一向一揆は、「寺内権」を守ろうとする勢力、家康の三河統一に反抗する国人勢力、農民とともに門徒化した在地小領主などの一揆側と、三河一国の武家支配を進める家康との戦いであった。各地の戦いは、小規模な局地戦に始終したが、永禄七年、一揆側の家臣士卒を赦免し、本領安堵を条件に和議をおこなった。この後、家康は、有力国人を掃討し、本願寺派の寺々に対して、他宗への転宗を命じ、転宗しなければ寺を壊すという烈しいものであった。さらに家康は、領内における一向宗を永代禁止にしてしまった。

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61、永禄七年(1564)
@月山富田城の戦いA毛利元就vs尼子義久B島根能義郡C老翁物語
天文二十三年、尼子晴久と叔父国久が率いる新宮党が、毛利方の謀略により国久謀叛として晴久に討伐されてしまった。これにより尼子勢の軍事力は低下した。弘治三年、毛利元就は大内義長を滅ぼし、芸備防長を制した。永禄三年尼子晴久が急死、永禄五年、石見銀山の制し、尼子氏攻略に出雲に出陣した。永禄六年、松江の白鹿城を攻落した。この時の白鹿城救援に山中鹿之介の出陣して、尼子勢の富山城へ退却の殿を務めたと言われています。毛利勢は月山富田城を囲み、登口三ヶ所から攻めたが、城を落すことは出来ず、毛利勢は兵を引き安芸に帰陣した。永禄九年、元就は再び月山富田城を包囲して落城させた。

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62、永禄十年(1567)
@三船山の戦いA北条氏政vs里見義弘B千葉県富津C関八州古戦場国府台の合戦に敗れた、里見義堯・義弘父子は上総の大部分を失い、久留里を義堯、佐貫を義弘が居城として、越後の上杉氏を頼っていた。永禄十年、北条氏照が安房に攻め込んだ。久留里城の西方にある三船山まで氏康の子北条氏政が三千の兵を進めたが、三船山にて北条勢は混乱して約三千余人が討死・負傷したといわれ、この戦いで、北条勢に参陣した岩村の太田氏資はわずか五十二騎にてしんがりを負い、三船山の城外にて戦い、全員討死したといわれている。

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63、永禄十年(1567)
@稲葉山城の戦いA織田信長vs斎藤龍興B岐阜C端龍寺紫衣輪番世代
永禄六年、斎藤龍興家臣不破郡岩手菩提山城主竹中半兵衛は、美濃三人衆の一人、安藤守就と計り、龍興の稲葉山城を占拠した。龍興は祐向山に逃れたが、半兵衛との和議が成立し稲葉山城に戻った。龍興に器量が無く、稲葉一鉄・安藤守就・氏家卜全など美濃三人衆は信長方に通じた。永禄十年、織田信長は、竹中勢と郡上八幡遠藤氏との争いに乗じて、美濃に侵入した。大した戦いも無く稲葉山城を落し、龍興は居城、長井関城も攻められ、国外に逃れた。

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65、永禄十一年(1568)
@懸川城の戦いA今川氏真vs徳川家康B遠江佐野C家忠日記増補
永禄十一年、今川氏真は武田信玄に駿府今川舘を攻められ、朝比奈泰朝の懸河城に逃れたが、翌年初め今度は徳川家康に掛川城を攻められたが、武田秋山勢が遠江に侵入したため、家康は今川勢と講和をすすめ、掛川城を開き、氏真は伊豆戸倉城に落ちていった。掛川城開城で今川氏は滅亡したといわれる。

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66、永禄十二年(1569)
@蒲原合戦いA武田晴信vs北条氏政B駿河庵原郡C北条記
今川氏真との同盟により駿河に出陣していた北条氏政は、一族の北条綱重を蒲原城主として武田信玄の抑えとした。永禄十二年、武田信玄は駿河侵攻のため蒲原城を攻め北条勢の北条綱重、弟箱根別当の長順等討死し落城した。この戦いで北条勢は駿河での重要拠点をうしなった。

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67、永禄十二年(1569)
@三増峠の戦いA武田信玄vs北条氏照B神奈川愛甲C甲陽軍鑑
永禄十一年、甲斐の武田信玄は駿河国駿府に出陣、北条氏康は今川氏真に与して信玄と対陣し打破るが、再び信玄は南下、北条氏邦の鉢形城、北条氏照の滝山城を攻めながら、小田原城を囲んだ。小田原城の北条氏康は籠城作戦をとった。小田原城下で小競合いの後、信玄勢は退却した。北条勢は信玄勢の退路の三増峠(みませとうげ)に鉢形城の北条氏邦、滝山城の北条氏照を進ませた。武田勢の浅利信種、浦野重秀が討死したものの、北条勢二千余人討取られ北条勢は大敗した。信玄が浦野重秀の相州見増坂戦功討死に対して香典を送った事が新編会津風土記(巻之六)浦野勝平所蔵文書として記載しています。

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68、永禄十二年(1569)
@安芸城の戦いA長宗我部元親vs安芸国虎B高知県安芸C元親記
安芸氏は壬申の乱で土佐に流された蘇我赤兄の子孫といわれており、土佐七守護にも数えられ代々土佐安芸郡を領していた。永禄三年、長宗我部元親が本山氏本山城を攻めたとき、国虎は長宗我部勢岡豊城を攻めるため出陣した。夜須城主吉田重俊に後詰され、国虎は退却して、国虎妻方の中村一条兼定の斡旋により元親と和睦した。この和睦も一時的で永禄十二年、元親は安芸氏攻めのため出陣して安芸城に迫った。国虎勢は矢流で元親勢に敗れ、浄貞寺で自害したと言われています。

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69、元亀元年(1570)
@天筒山の戦いA織田信長vs朝倉義景B福井県敦賀C朝倉始末記
元亀元年、織田信長は朝倉義景討伐に若狭に出陣した。信長は佐柿の国吉城に入り、金ヶ崎城の朝倉勢と対陣した。信長は天筒山城と金ヶ崎城を攻めた。金ヶ崎城主朝倉景恒を天筒山城の後詰に出したが、信長勢に天筒山城の水脈を止められ城兵1千三百余人討取られて落城した。

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70、元亀元年(1570)
@姉川の戦いA浅井・朝倉vs織田・徳川B近江浅井C毛利家文書
永禄十三年春(1570)、将軍足利義昭の命を受け、織田信長に反した朝倉義景を討つため、信長は、木の芽峠から越前に侵入した。小谷城の浅井長政が信長に背き、背後から迫った。信長は朽木峠から京都に逃れ、軍を立直した。同年の元亀元年(1570)夏、美濃と近江との境のある鎌刃城、長比城が浅井長政に加勢し、信長勢は江北に侵入、虎御前山に布陣した。背後から朝倉勢が後詰に迫ってきたため、信長は本陣を姉川竜ヶ鼻に移した。浅井長政勢に朝倉勢先陣が加わり、信長勢先陣徳川家康の軍に攻め込んだ。徳川勢の榊原・本多勢が朝倉景健の右翼を攻め、朝倉勢を敗走させた。信長勢と戦っていた浅井勢も右翼を攻められ、総崩れて小谷城に逃れた。この戦いで、浅井勢は千百余人、朝倉勢は五千余人、討死したと言われています。信長は姉川で浅井・朝倉勢を破ったものの、小谷城を落すことは出来ずに陣を引いた。

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71、元亀元年(1570)
@石山本願寺の戦いA織田信長vs本願寺顕如B本願寺C多聞院日記
近江姉川の合戦で、浅井・朝倉勢を破った織田信長は、岐阜に戻ると三好長逸ら三好三人衆が石山本願寺の顕如光佐と内応して挙兵し摂津の中島に布陣した。出陣した信長を門徒に武装蜂起を促した顕如勢が攻めた。「夜半に本願寺の早鐘つかせられ候へば、即ち人数集まりけり、信長方仰天なりと云」。本願寺門徒衆が森口で刈田をしたため、織田勢佐々木・林・井上らと合戦があった。本願寺顕如と内応した浅井長政・朝倉義景の大津出陣を知った信長は本願寺勢を打破れず、浅井・朝倉勢に応戦するため京に戻った。

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72、元亀元年(1570)
@滋賀の陣A織田信長vs浅井長政B滋賀県大津C信長公記
元亀元年、姉川の合戦で浅井・朝倉勢を破った織田信長は、三好三人衆が摂津で兵を起こしたため、岐阜に兵を引いた。本願寺顕如と内応した浅井長政と朝倉義景は大津坂本口に出陣した。長政、義景勢は京都に迫ったが、信長勢の出陣をみて、叡山に逃れ布陣した。信長は宇佐山城に本陣をおき、叡山を囲み対陣した。信長は六角氏と和議を結び、堅田城は信長勢に寝返り、越前、江北との連絡を絶った。対陣が長期にわたり、朝廷の講和綸旨で天皇の和解調停で両軍とも兵を引いた。

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73、元亀二年(1571)
@野田城の戦いA武田信玄vs菅沼貞盈B愛知県新城C甲陽軍鑑
元亀二年、武田信玄は奥三河に侵攻、足助城(愛知豊田)を落し、周りの安利城、大沼城、田代城を降し、田峯の菅沼定忠を案内として東三河に進み、野田城を攻落した。野田城主は菅沼貞盈で田峯の菅沼とは同じ一族であった。信玄が城方の名手、村松芳休の笛の音色に聞き惚れ、城に近付いたところ、鉄炮で撃たれたという伝説があるのがこの城です。

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74、元亀二年(1571)
@高天神城の戦いA武田勝頼vs小笠原長忠B静岡県小笠C真田文書
今川氏没落後、高天神城の小笠原長忠は徳川家康に属していたが、元亀二年、武田信玄は内藤昌豊に高天神城を攻めさせたが、城を落すことは出来なかった。信玄の死後、勝頼は再び高天神城を攻めた。小笠原長忠(真興)は徳川家康に後詰を依頼したが、家康も織田信長に応援を依頼したが、織田氏も余裕なく、高天神城は援軍なく開城した。この時城を出て徳川方につかえた者を「西退組」、長忠とともに武田方に従った者を「東退組」といったそうです。

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75、元亀三年(1572)
@可久藤城の戦いA島津義弘vs伊東義祐B宮崎えびのC日向紀
伊東氏は、藤原氏の氏流工藤氏を祖とした伊豆国伊東を本拠地とした名門で、伊東祐持は日向に下向して土着したと言われています。この伊東氏は島津氏と抗争を繰返しており、永禄十一年、島津忠親から飫肥城を奪い、飫肥南部を手に入れ、日向西南の真幸院を巡って戦いが始まり、元亀三年、伊東勢は可久藤城を攻落した。

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76、元亀三年(1572)
@木崎原の戦いA島津義弘vs伊東義祐B宮崎えびのC薩藩旧記雑録
元亀三年、伊東義祐勢に可久藤城を攻められた島津義弘勢は飯野城から出陣した。伊東勢は島津勢が出陣したことを知り、可久藤城から白鳥山方面に撤退した。この白鳥山で白鳥権現の氏子を島津の伏兵と見間違い、山を下った所で島津勢と合戦になり、島津勢を木崎原に追った伊東勢は、三角田で兵を立直した義弘勢に散々に打ち負かされた。

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77、元亀三年、(1572)
@石倉の戦いA武田信玄vs上杉謙信B群馬県前橋C歴代古案
元亀二年、相模北条氏康死去後、武田信玄は西上野へ侵攻、利根川の南を武田領、北側が上杉領となった。上杉謙信が信玄方石倉城を攻略して利根川を挟んで武田勢と対陣したが、お互いに兵を引いて、武田勢が再度石倉城を修築したと言われている。

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78、元亀三年(1572)
@二俣城の戦いA武田信玄vs中根正照B静岡県天竜C依田記
武田信玄は遠江に乱入、浜松城の支城である二俣とする城を攻めた。この二俣城は、家康家臣中根正照が城将で天竜川を堀とした要害の地であったが、武田勢は城の水の手を絶つことに成功し、二俣城を落した。武田勢はこの城を依田信守・信蕃に任せた。家康は四つの付城を築き、武田勢の光明城・諏訪原城が落城、二俣城を孤立させた。依田勢は高天神城に落ちて二俣城は開城された

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79、元亀三年(1572)
@三方ヶ原の戦いA武田信玄vs徳川家康B静岡県浜松C甲陽軍鑑
武田信玄は北条氏政と同盟を復活させ、遠江へ侵入した。二俣城を落し、浜松城に迫った。祝田の坂で合戦が始まった。先陣山県勢は家康旗本の猛攻で三町余退却し、三川山家三方衆は日頃の家康衆の手並みを知っていたため、戦うことなく四町余も退却した。山県勢大崩になるところに勝頼大文字の小旗を押立、横から攻めかかり、家康を切り崩した。信長の援軍の将、平手汎秀は三方ヶ原台地の稲場で討死、佐久間信盛は戦いに参加せず退いた。信玄は浜松城を攻めなかったのは信玄が、織田信長・上杉謙信らの後詰を恐れたのかもしれません。

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80、天正元年(1573)
@小谷城の戦いA織田信長vs浅井長政B近江浅井C小早川家文書
元亀元年(1570)、姉川の戦いで、信長は浅井・朝倉勢を打破ったが、小谷城を落すことは出来なかった。信長は小谷城を攻略するため、虎御前砦を築いた。元亀三年(1572)、織田・徳川勢が三方ヶ原で武田信玄に大敗したが、信玄の突然の死によって、武田勢も信長を滅ぼすことは出来なかった。天正元年(1573)、浅井勢の阿閉貞征が信長に内応、信長は直ちに小谷城に出陣した。朝倉義景は浅井勢の後詰のため余呉・木之本まで陣を進めていた。小谷城の浅井勢と木之本の朝倉勢とは連絡が途絶え、信長勢は朝倉勢を攻め、敗走する朝倉勢を追って、木ノ芽峠から越前に乱入、一乗谷を落城させた。この後直ちに小谷城を攻め、浅井久政・長政父子は自刃しました。

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81、天正元年(1573)
@刀禰坂の戦いA織田信長vs朝倉義景B福井県敦賀C朝倉始末記
元亀元年(1570)、織田信長は越前に攻込み、天筒山城と金ヶ崎城を落したが、朝倉義景を討つことは出来なかった。天正元年、信長勢は近江湖北に侵入、刀根坂で朝倉勢は兵三千を討たれて、敗走した。この戦いは越前朝倉氏滅亡の遠因となった合戦だと言われています。

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82、天正二年(1574)
@長島一向一揆A織田信長vs長島願証寺B三重桑名C信長公記
元亀元年、長島の一向一揆が蜂起、織田信興を自害させ、翌二年、織田信長が伊勢に出陣したが大敗した。天正元年、桑名に出陣した信長は多芸山で一揆衆に襲われ大きな損害をだした。天正二年、信長は長島制圧のため、津島に着陣、一揆衆は本拠地の長島に逃げ込んだ。長島を守る砦を攻めた信長は「種々一揆ども懇望つかまつり候へども、この刻根切るべき事に候の間、その咎を免ぜず候」と根絶やしにすることを命じている。一揆の最後の拠点となった中江・屋長島の両城も信長勢に囲まれ、過半餓死したと言われています。

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83、天正三年(1575)
@長篠の戦いA織田信長vs武田勝頼B愛知県南設楽C信長公記
天正二年、高天神城を武田勝頼に奪われた徳川家康は、武田勢の備えとして長篠城を固めた。天正三年、勝頼が長篠城を攻めた。家康は織田信長の後詰を依頼し、信長が岡崎城に着陣し、家康とともに設楽ヶ原に本陣を張った。この時武田騎馬隊の突撃を鉄炮三千挺の三段撃ちで壊滅したとゆう話は、後世の作り話とされている。壊滅的打撃をうけた武田勢は、高天神城を残して三河から一掃されてしまった。

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84、天正三年(1575)
@越前一向一揆A織田信長vs下間和泉守B越前国C弥名寺分書
天正二年、朝倉義景滅亡後、織田信長に本領安堵された朝倉景綱は、織田城を越前の一向一揆勢に攻められ、景綱は敦賀に逃げた。しかし宗徒も本願寺派と高田派で争っていた。天正三年、信長は岐阜城から敦賀に出陣した。信長のもろもろの軍勢、越前に侵入、越前一向一揆の大将下間和泉守を攻め破り、神社仏閣までことごとく焼き、加賀に侵攻した。「府中死がい計(ばかり)にて、一円あき所なく」といわれたように、ことごとく斬捨てたと言われています。

84-1、天正三年(1575)
@四万十川の戦いA長宗我部vs一条兼定B高知中村C四国軍記
藤原北家で摂関家の九条家から別れた一条氏は、一条教房を土佐一条氏祖として土佐中村に土着したといわれ、下向後も中村を京風に築いていった。天正元年、兼定は家臣に土佐中村城を追われ、妻の実家豊後の大友氏を頼った。天正十三年、兼定は大友勢の応援を受け伊予に上陸、中村城の西南の栗本城に布陣した。中村城は長宗我部元親の弟吉良親貞が城将で、元親も後詰して渡川(現四万十川)に布陣した。長宗我部勢は兵を二手に分け、一条勢を攻め崩し敗走させた。多門院日記に「土佐大将は長曽我部と云人也、土佐の一条殿の内一段武者也と云」とあり、長宗我部氏が名門一条氏を立てて、四国統一を進めたのかは、はっきりしない。


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85、天正四年(1576)
@木津川沖の戦いA織田信長vs毛利輝元B大坂木津川C信長公記
天正四年、本願寺顕如は将軍足利義昭の手引きにより、毛利輝元と手を結び、織田信長に対抗した。信長は石山本願寺城を囲んだが、本願寺は木津口を抑え難波口からの海上での補給路を確保していた。織田勢は先鋒三好勢に木津口から攻撃させたが、塙直政・喜三郎など討死して、本願寺勢に天王寺まで攻寄せられた。信長自身が出陣して本願寺勢を後退させ石山城の城戸口まで追い崩して、石山本願寺を兵糧攻めに包囲した。本願寺応援を明確にした毛利勢は、水軍を内海水上の要である淡路の岩屋城を拠点として本願寺と連絡を取った。石山本願寺援助の兵糧を積んだ毛利水軍は、木津川沖に集結した。木津川沖を守っていた織田水軍は戦いを挑んだが、真鍋七五三兵衛、沼野伝内等討死して織田水軍は壊滅して大敗した。この後織田信長は羽柴秀吉に毛利氏討伐を命じ、石山本願寺との戦いを同時進行させることになった。

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86、天正五年(1577)
@七尾城の戦いA上杉謙信vs長 綱連B能登国七尾C越佐史料
天正四年、上杉謙信は能登畠山氏累代の城、七尾城を攻めた。この城は長綱連が守っており、謙信は能登の殆どの城を落して、七尾城は孤立していた。謙信は上野国に転戦し、その後越後ね戻った。天正五年、長綱連は熊木城、富来城を落し、穴水城を囲んだ。謙信は先陣を天神河原に進め、七尾城攻略を始めた。籠城の中、疫病が流行り城主畠山義春の病死して、能登の守護畠山氏は絶えた。謙信は七尾城の遊佐続光の内応に成功し、長一族も続光に謀殺され憤死した。倉部浜に晒された長一族に首をみて、後詰に駆けつけた織田信長は安土に引き返したといいます。

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87、天正五年(1577)
@雑賀攻めA織田信長vs雑賀孫一B和歌山県C信長公記
天正四年、紀州から備後に逃れてきた足利義昭が、毛利氏に信長追討を働きかけ、毛利氏は信長と絶縁し本願寺の応援を決め、石山に毛利水軍を使い、織田水軍を一蹴して、瀬戸内、大坂の制海権を確保して兵糧を石山に搬入した。天正五年、信長勢の水軍の充実を計り、雑賀を平定すべく、雑賀の三緘組(みからみ)と根来寺衆徒を味方につけ、雑賀衆の本拠地、中野城を攻落した。一揆の総大将畠山貞政は岩室城より逃れ、雑賀の孫一勢もいったんは降伏したが、一向一揆衆は再び決起して石山に入った。

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88、天正六年(1578)
@三木城の戦いA羽柴秀吉vs別所長治B兵庫県三木C別所長治記
天正六年、別所長治は羽柴秀吉に謀叛、三木城に立籠った。秀吉は三木城を包囲した。別所勢の神吉城、志方城を攻落し、端谷城は全員討死した。荒木村重が秀吉に謀叛、伊丹在岡城に立籠った。さらに魚住城、高砂城を攻略、三木城を孤立させ、兵糧攻めで城兵を苦しめた。餓死に瀕して別所長治・別所彦進・別所吉親の自刃で開城した。

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89、天正六年(1578)
@八上城の戦いA明智光秀vs波多野秀治B兵庫多紀C細川家文書
天正六年、三木城主別所長治が羽柴秀吉に背き、長治の妻が丹波八上城の波多野一族だったため、別所勢を応援した。織田信長は明智光秀に丹波八上城の波多野秀治を攻めさせた。光秀は八上城を包囲して、秀吉の播磨攻めの応援にも出陣している。伊丹在岡城の荒木村重の謀叛で摂津に転戦した。荒木攻めも長期化して、再び八上城攻めに懸り、天正七年、八上城の支城を殆ど攻落させ、八上城を開城させた。信長は、波多野秀治・秀尚兄弟を磔にしたと言われています。

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90、天正六年(1578)
@松尾城の戦いA土持親成vs大友宗麟B日向国延岡C延陵旧記
土持氏は宇佐八幡宮の宇佐・大神・漆間氏に次ぐ有力神官田部氏を祖として、宇佐八幡宮の荘園地頭として勢力を持ち、北部日向・延岡における有力豪族に成った。元亀三年、木崎原で伊東氏は島津勢に大敗、伊東氏は豊後の大友氏へ逃れた。島津勢と大友勢に挟まれた土持親成は、一時大友氏の幕下になったが、島津勢にも使を出し領土を安堵されていた。
天正六年、大友宗麟は嫡男大友義統を大将に土持勢の松尾城を攻めた。親成は捕らえられ、豊後の浦辺で自害させられた。

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91、天正六年(1578)
@上月城の戦いA吉川元春vs尼子勝久B兵庫県佐用C陰徳記
天正五年、羽柴秀吉は赤松政範の上月城を落し、山中鹿之介を城将にした。天正六年、備前の宇喜多直家勢真壁治次が、鹿之介が上洛中に上月城を攻落した。尼子勝久と鹿之介は上月城に戻り、尼子残党を集結した。宇喜多直家は真壁治次弟治時を大将として再び上月城を攻めた。宇喜多勢の猛攻で尼子勢は上月城から姫路に退却した。秀吉勢は軍を整え上月城攻めに出陣した。秀吉勢は上月城を攻落すと共に、宇喜多直家勢二万五千と播磨国堺で対陣した。上月城の落城を知った宇喜多直家勢は備前に引き返した。この上月城に尼子勢を残し、秀吉勢は姫路に本陣を移した。上月城奪回を図る毛利勢は、吉川元春を大将として、播磨国に侵入、上月城を囲んだ。秀吉勢も三木城で戦っており、軍勢を上月城に向けられなかった。織田信忠を大将とする播磨救援も、秀吉との軋轢で上手く行かなかった。秀吉は東播磨の別所長治を討つことが急務で上月城の尼子勢を見殺しにした。秀吉勢の退却も宇喜多勢に攻められ、大敗した。上月城の尼子勝久、舎弟通久が自刃、山中鹿之介も殺され、尼子氏は断絶した。

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92、天正六年(1578)
@浪岡城の戦いA津軽為信vs北畠顕村B陸奥南津軽C津軽一統誌
津軽は、北畠氏、津軽氏、大光寺氏の三氏によって争われていた。永禄五年、北畠具信により北畠具運が殺され、北畠氏が衰退した。天正六年、津軽為信は浪岡城を攻めるため出陣、為信勢は三方から城を攻落した。城の武士は北畠家数代貯え置いた金銀重器を奪い取り、臆病神に引立られ吾先に逃げたと言われています。ここに津軽の名族北畠氏は亡んだ。

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93、天正六年(1578)
@耳川の戦いA大友宗麟vs島津義久B宮崎日向C大友御合戦御日記
天正五年、島津義久に敗れた伊東義祐が大友氏を頼って逃れてきた。天正六年、大友宗麟は日向制圧に出陣した。この様子をフロイスは「船団の各船に翻る十字架の旗、宗麟の船の旗は、金糸の刺繍で縁取りし、赤い十字架を縫い込んだ白の緞子であった」と報告している。義久は高城に山田有信を籠城させ、高鍋城に退いた。大友宗麟は無鹿の本陣を置き、高城川を挟み大友勢と島津勢が対陣した。大友勢の加判衆田北鎮周・佐伯惟教が島津勢を攻めた。島津勢は「釣野伏」戦術で大友勢を耳川で大敗させ、宗麟は豊後に逃げ帰った。この「釣野伏」戦術とは、囮部隊を敵と戦わせ、敗けて伏兵の場所まで撤退して、追撃してきた敵を伏兵が叩き、混乱したところを本隊が攻め懸る方法で、大友勢を殲滅させたと言われています。

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94、天正七年(1579)
@鮫ヶ尾城の戦いA上杉景勝vs上杉景虎B新潟県新井C北越軍記
天正七年、子が無かった上杉謙信の死後、長尾政景と謙信の姉との子景勝と北条氏康の子景虎の両養子が、家督相続をめぐり争った。これが御舘の乱です。景勝はいち早く春日城に入り、景虎は前関東管領上杉憲政の御舘に立て籠った。北条高広・景広父子が景虎の応援に越後に入ったものの、武田勝頼勢が景勝の応援に越後に入った。景勝は兵を府中に進め、御舘を攻めた。景勝勢の攻撃で御舘は落城、景虎は北条氏政の小田原城に逃れようと、新井宮内の鮫ヶ尾城に寄った。鮫ヶ尾城主堀江宗親が裏切り、景虎は自害した。その後の越後各地で、戦いが続き、天正九年、柏崎の北条輔広の北条城を落城して終った。

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95、天正七年(1579)
@三間表の戦いA久武親信vs土居清良B北宇和C土佐遍年紀事略
天正七年、長宗我部勢久武親信は、宇和西園寺十四将の一人、三間の大森城主土居清良を攻めた。久武親信は長宗我部氏譜代の家臣で、中内氏・桑名氏とともに家老職を務めたといいます。大森城の支城岡本城を攻めていた長宗我部勢は、土居清良勢の働きで大将親信が討死して退いた。

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96、天正七年(1579)
@金沢御坊の戦いA柴田勝家vs一向一揆B石川県金沢C天文日記
柴田勝家と一向一揆の戦いは、勝家が越前の八郡を信長から与えられた頃から激しくなった。天正五年、信長は上杉謙信を攻め、柴田勝家を大将として、加賀に侵入した。御幸塚城、大聖寺城を固め謙信に備えたが、天正六年、謙信が病死すると、柴田勝家は加賀へ侵攻して、阿多賀、本折、小松町口までを焼き払い、稲を刈り取り加賀の一向一揆の拠点を荒らして帰陣した。この金沢御坊は金沢城の前身で、本願寺の支坊で、一名尾山城と呼ばれた時代もあった。翌天正八年、勝家は加賀に侵入、手取川に陣を張った。野々市で敗れた一向一揆衆は、越中へ逃れた。勝家勢は能登の末森城を落し、金沢御坊を攻めた。金沢御坊は佐久間盛政によって落ち、尾山城と称され、一向一揆による加賀支配が終った。

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97、天正八年(1580)
@重須の戦いA武田勝頼vs北条氏直B静岡県沼津C北条五代記
天正八年、武田勝頼が駿河に出陣、先陣は千本松原に布陣した。北条氏直は三島の黄瀬川で武田勢と対陣した。この時氏直は兵船を駿河湾に送った。勝頼も兵船を出して駿河湾重須(おもす)で海戦となったが、夜になり勝負はつかなかったといいます。

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98、天正九年(1581)
@鳥取城の戦いA羽柴秀吉vs吉川経家B鳥取県鳥取C信長記
鳥取城は、清和源氏新田氏を祖とする因幡・但馬に勢力を保つ山名氏が、天正始めに居城とした城で、天正4年、織田信長は羽柴秀吉に中国攻めを命じた。天正八年、秀吉は鳥取城を攻め、山名豊国を降し法実・色美二郡を安堵した。これに不満を持った家臣が豊国に叛逆、毛利氏を頼った。毛利氏は吉川経家を城主として送りこんだ。天正九年、秀吉は、再び鳥取城に出陣、城を完全に包囲し兵糧攻めにした。吉川経家は開城して自刃した。この戦いで、毛利氏は伯耆まで後退、戦いは山陽道に移った。

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99、天正九年(1581)
@高天神城の戦いA徳川家康vs岡部真幸B静岡県小笠C家忠日記
天正八年、徳川家康は高天神城きわに陣をおき、高天神の城を日夜攻めた、この時の城将は岡部丹波守真幸で、武田勝頼に後詰を依頼したが武田勢に余裕なく孤立して、城方七百三十余討死して落城した。この城が落ちたことにより、武田氏は遠江の拠点を失った。

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100、天正十年(1582
@高松城の戦いA羽柴秀吉vs清水宗治B岡山県岡山C高松記
天正八年、織田信長は宇喜多勢を先鋒として、因幡、美作に勢力を伸ばし、美作祝山城、因幡鳥取城を落し、天正十年、織田勢羽柴秀吉は備中に侵攻、冠山城・宮路山城を落し、毛利勢清水宗治が城将の高松城を包囲した。高松城は沼地に出来た城のため、秀吉は水攻めにした。この戦いの最中に、信長の死を知り宗治の自刃で和議を結び姫路城に退却した。

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101、天正十年(1582)
@本能寺の変A織田信長vs明智光秀B京都府京都C日々記
天正十年、織田信長の全国制覇は進んでいたが、当面の敵は、越後の上杉景勝と、中国の毛利氏、四国の長宗我部氏であった。越後の上杉景勝には、柴田勝家・佐々成政・前田利家、中国の毛利氏には、羽柴秀吉が姫路城に本陣をおいて対陣していた。四国の長宗我部氏には、信長三男信孝が摂津で戦いの準備に入っていた。武田攻略に功績の有った徳川家康が、安土城に参候しており、明智光秀が接待役を命じていた。備中高松城を水攻めしていた秀吉から、毛利本隊の出陣に対して、信長の出陣を要請してきた。家康の接待役であった明智光秀に秀吉後詰の先鋒を命じ、信長は本能寺の宿した。光秀は居城丹波亀山城に戻った。一万三千の兵で亀山城を出陣、本能寺を攻め、さらに宿を出て二条城に立籠った嫡男信忠を攻め、信忠は自刃させた。何故光秀が信長に謀叛したかは、怨恨説、領地を没収され、中国の出雲・石見を切り取り次第といった不安説など諸説多く、明確ではない。

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102、天正十年(1582)
@山崎の戦いA羽柴秀吉vs明智光秀B京都府大山崎C太閤記
本能寺で織田信長、二条城で嫡子信忠を自刃させた明智光秀は、近江の佐和山城、長浜城など落城させ、安土城に向かった。この時徳川家康は堺を出発、伊賀の山越えののち、岡崎城に戻った。羽柴秀吉は毛利勢と講和を済ませ、高松の陣から姫路城に入った。秀吉勢に池田恒興・中川清秀・高山右近などが加わり大軍となった。加勢のない光秀勢は淀川と天王山に挟まれた山崎に布陣した。この戦いは、光秀勢右翼の先鋒丹波衆の攻撃で始まったが撃退され、光秀勢左翼の斎藤利三も討死、光秀は坂本に向かって敗走した。光秀は山科の小来栖で殺されたと言われています。

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103、天正十年(1582)
@魚津城の戦いA柴田勝家vs中条景泰B富山県魚津C越佐史料
天正十年、織田勢柴田勝家は、上杉勢魚津城を攻めた。城将中条景泰は上杉に応援を求めたが、新発田重家、信州梅津の森長可に背後を脅かさせ、上杉景勝は兵を動かすことが出来なかった。中条景泰は和議を結び開城した。此時織田勢の佐々成政が城兵に襲い懸り、激戦となった。城兵は「板札に姓名を書付、耳輪に穴を明け、件の姓名札を結付て、各腹十文字に掻切て同枕に死す」と凄まじいものであったと言われています。

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104、天正十年(1582)
@勝端城の戦いA長宗我部元親vs三好存保B板野C昔阿波物語
天正三年、土佐一国を制した長宗我部元親は、織田信長から「四国取り切り次第」を許されており、阿波に侵入していた。天正九年、元親の勢力拡大を恐れた信長は先の取り切りの約束を反古にして、土佐一国と阿波南領を保証し、その他の阿波・伊予からの撤退を命じた。元親は、毛利氏に保護されていた足利義昭と幕府再興を計り、信長と対立した。天正十年、元親勢は、阿波三次義賢の子で、叔父の讃岐十河一存の養子となった十河存保の勝端城を攻めた。元親は岡豊城を出陣、阿波吉野川本流中富川に布陣した。兵数に勝る元親勢は、勝端城を攻落し、存保は虎丸城に逃れた。

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105、天正十年(1582)
@神流川の戦いA北条氏直vs滝川一益B埼玉県児玉C当代記
天正十年、甲斐武田氏滅亡し、織田信長は関東支配を目指し、滝川一益が上野国を巡って北条氏直と利根川支流の神流川(かんながわ)南岸で戦った。この時本能寺の変で信長は自害しており、当初は北条方鉢形勢など討たれ滝川勢が優勢で有ったが、氏邦勢が滝川勢の退路を断ち大勝した、一益は前橋城を開き伊勢に退いた。

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06、天正十年(1582
@田野の戦いA武田勝頼vs滝川一益B東山梨C勝頼滅亡記
天正十年、武田勝頼の妹を妻にした武田親族衆である木曽義昌が織田信長に寝返った。勝頼は弟仁科盛信、従弟武田信豊を木曽谷に出陣させた。信長は木曽義昌の援軍に、嫡子信忠を木曽口、徳川家康を駿河口、北条氏政を関東口、金森長近を飛騨口とそれぞれ武田領に侵攻させた。織田勢先鋒滝川一益、河尻秀隆は岩村口から伊那滝沢城、伊那松尾城を落城させ、さらに飯田城、大島城を落した。一方木曽口では織田長益、遠山友忠勢が、木曽義昌討伐のため攻寄せた武田信豊勢を鳥居峠で大敗させた。織田信忠は勝頼弟の仁科盛信が城主の伊那高遠城を囲んだ。徳川家康は駿河口から進み、田中城、駿府、持舟城を開城させ、信玄の娘を妻にしている江尻城(静岡清水)の穴山梅雪を降伏させている。木曽口の織田長益は深志城(長野松本)の馬場信忠を降伏させ、唯一抵抗した伊那高遠城主仁科盛信以下討死して落城した。勝頼は小山田信茂の居城岩殿城(大月岩殿山)めざして落ちていったが、武田一族で行動を共にする者はいなかったといいます。さらに小山田信茂にも裏切られた勝頼は進退に窮し、祖先の武田信満戦死の地、天目山栖雲寺目指したが田野という所で追手の滝川・河尻勢に攻められことごとく討死し、ここに甲斐武田氏は滅亡した。

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107、天正十年(1582)
@大沢山の戦いA小野寺義道vs由利十二党B秋田C語伝仙北之次第
北出羽は、北の比内は安東氏、東の仙北は戸部氏、南東は小野寺氏が勢力を伸ばしていた。正中元年、由利政春が庄内の鳥海勢に攻められ自刃し、この由利地方が無法状態になり、関東管領扇谷上杉氏に助けを求め、信濃の小笠原一族が下向し各地を領したのが由利十二党(頭)と言われています。由利十二党は、小野寺義道勢に属していたが、秋田安東氏が由利十二党に手を伸ばし、仙北侵攻を狙っていた。小野寺義道の父輝道が上洛した時、由利十二党が義道に謀叛して、平鹿・由利境の大沢山で小野寺勢と合戦が始まった。小野寺勢四百八十余人、由利十二党勢五十余人討死して互いに兵を引いた。

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108、天正十一年(1583
@賤ヶ岳の戦いA羽柴秀吉vs柴田勝家B滋賀伊香C賤岳合戦記
天正十年、本能寺で織田信長が明智光秀に討たれ、信長の嫡孫三法師丸(秀信)を擁護した羽柴秀吉が勢力を増加させ、旧織田重臣と勢力争いが激しくなった。秀吉は信長の三男神戸信孝を、信長の次男北畠信雄に攻めさせ、秀吉勢も大垣に兵を進め、信孝を降伏させた。天正十一年、伊勢亀山城の関盛信の家臣岩間が謀叛し、滝川一益に応援を求めた。反秀吉の柴田勝家も前田利家の子前田利長を先鋒として出陣、柳ヶ瀬北に本陣を置いた。秀吉は北畠信雄・蒲生氏郷を北伊勢の抑えとして、長浜城に出陣し、堀秀政を先陣として柳ヶ瀬で布陣した。柴田勢先鋒佐久間盛政は大岩山の中川清秀を討取った。大垣城にいた秀吉は直ちに出陣、木之本に着陣した。大岩山にいた盛政勢は退却、賤ヶ岳西方の勝田勝政勢の兵を引いた。この勝政勢に襲い懸った一番槍が、秀吉の近習で賤ヶ岳七本槍の福島市松、脇坂甚内、加藤孫六、平野権平、片桐助作、粕谷助右衛門、加藤虎之助と言われています。この頃、前田利家勢が戦線を離れ、敦賀街道から退却してしまった。佐久間勢の敗北で、柴田勢も崩れ、勝家は北庄に逃れた。秀吉は前田利家・不破勝光を降伏させ、北庄城を囲み、勝家は自刃した。

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109、天正十一年(1583)
@引田の戦いA長宗我部vs仙石秀久B香川大川C改撰仙石家譜
天正十年、中富川で長宗我部元親は中富川で三好存保を敗走させ、十河城も落した。羽柴秀吉は、三好勢援軍のため、淡路洲本の仙石秀久に出陣させた。秀久勢は讃岐引田で長宗我部に敗れ、船で敗走した。

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110、天正十二年(1584)
@沖田畷の戦いA島津晴久vs龍造寺隆信B長崎島原C肥薩軍記
天正六年、肥前の龍造寺隆信は、島原の有馬氏を攻め従わせ肥後を目指した。日野江城の有馬晴信は、島津晴久に通じた。龍造寺勢は島原の神代湊に上陸、有馬勢の森岳城に迫った。兵数に劣る有馬、島津勢は、森岳城北の湿地帯沖田畷に龍造寺勢を誘い込み、先陣小川・加富勢、二陣龍造寺勢を打破り、輿に乗っていた隆信を討取り敗退させた。この敗北で龍造寺氏は衰退し、鍋島氏が勢力を増加させていきます。

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111、天正十二年(1584)
@小牧の戦いA羽柴秀吉vs徳川家康B愛知名古屋C家忠日記
天正十年、本能寺の変で織田信長が殺され、信孝が秀吉に殺され、二男信雄が秀吉と対立した。天正十二年、徳川家康は信雄の後詰のため尾張清洲城に出陣した。織田家譜代の家臣池田恒興が秀吉に寝返り犬山城を奪われた。家康は森長可(恒興娘婿)を攻め小牧山城を占拠した。

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112、天正十二年(1584)
@犬山城の戦いA池田恒興vs中山定成B愛知犬山C大仙寺文書
織田信長の二男信雄が、秀吉との小牧・長久手の戦いの緒戦となった戦いで、織田信雄が秀吉に通じたとして家老三名を殺したことから、秀吉と信雄との対立が深まった。家康が信雄の応援に出陣、清洲城の信雄と合流した。この時、美濃の池田恒興が秀吉方に味方して、中山定成が城将の犬山城を攻落した。

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113、天正十二年(1584)
@羽黒の戦いA酒井忠次vs森 長可B愛知県犬山C総見寺文書
徳川家康は本陣を清洲城から小牧山城に布陣した。犬山城を落した森長可と池田恒興の子池田元助は尾張羽黒に布陣した。この森・池田勢を家康勢、酒井忠次・奥平信昌が急襲して打破り、森・池田勢は犬山城に退いた。

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114、天正十二年(1584)
@長久手の戦いA三好秀次vs徳川家康B愛知名古屋C三河物語
秀吉は犬山城から楽田(小牧)に着陣、小牧山城の家康と膠着状態になったが、三好秀次、森長可勢が家康の本拠地岡崎城に向け出陣した。秀吉勢は三好秀次、森長可が小口楽田を立ち、丹羽氏次の弟氏重の挑発で岩崎城を攻落した。三好秀次、森長可勢は長久手まで達していたが、すでに長久手に家康勢は進出しており、背後から三好秀次、森長可勢に攻懸り、池田恒興、森長可討死した。大勝した家康は小幡城から小牧山城を経て清洲城に入った。その後織田信雄が秀吉と単独講和をしてしまったので、家康は兵を引いた。

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115、天正十二年(1584)
@末森城の戦いA前田利家vs佐々成政B石川羽咋C菅君雑録
天正十二年、佐々成政は豊臣勢の前田利家の加賀朝日山砦を攻めた。豊臣勢は家康と戦っていたため、後詰を出せず、前田勢と佐々勢は小競合いを続けていた。末森城は能登半島根元竹生野に在り、佐々勢はこの末森城を総軍で攻め、城を囲んだ。落城寸前であった末森城を囲んだ佐々勢を、前田勢は背後から攻め負かした。

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116、天正十三年(1585)
@人取橋の戦いA佐竹義広vs伊達政宗B福島安達C政宗公軍記
二本松の畠山義継は、伊達輝宗を拉致して殺し義継も伊達勢の追手に殺された。伊達政宗は仙道の勢力拡大を狙っており、二本松攻めに出陣した。伊達勢の南下に反伊達勢として、常陸の佐竹氏、会津の葦名氏、岩城氏、白川氏が須賀川に集結した。安達郡本宮の人取橋で戦いが始まった伊達勢の鬼庭良直が討死、伊達勢の苦しい戦いであったが、突然の常陸佐竹勢の退却で、他の諸将も退いて戦いは終った。

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117、天正十三年(1585)
@太田城の戦いA羽柴秀吉vs太田左近B和歌山C宇野主水日記
天正十三年、羽柴秀吉は敵対勢力を一掃のため紀州に攻込こみ、太田城を水攻めにして落城させた。但し、この城に立籠った勢力は明確ではない。太田城が在る宮郷は根来寺衆とはかなり親密であり、一部の根来衆が戦いに加わった可能性も否定できない。秀吉の先手中村一氏勢と太田衆の小競り合いで、中村勢五十余人討取られ、戦いは始まった。秀吉自ら出陣し、紀ノ川支流宮井川から水を引いて水攻めにして、船を浮かべて城を攻め、城中の太田左近以下五十三人の首をはねて開城したと言われています。

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118、天正十三年(1585)
@根来寺の戦いA羽柴秀吉vs根来寺B那智C根来破滅因縁
天正十三年、羽柴秀吉は紀州の根来・雑賀一揆を倒すため、千石堀城、積善寺城(しゃくぜんじ)、畠中城を攻めた。泉州日根郡近木川東端にある千石堀城を副将羽柴秀次が攻めた。千石堀籠城兵は討って出て戦いが始まった。この戦いは、「秀吉御着陣す。虎口を見廻され、千石堀という城を乗り崩しおわんぬ。城内の根来寺衆ことごとく討ち果たし、火を懸けおわんぬ。責め衆も数多死す。」と攻防の激しさを物語っています。近木川左岸のある積善寺城は、根来寺衆の城で、「これへは、責め衆、打ち寄せ及ばず」とあまり激しい戦いは無かったようです。この城にじゃ細川忠興、蒲生氏郷などが攻めこみ、根来衆が降伏して開城した。羽柴秀吉の紀州出陣に、根来勢に味方する泉州南部の国侍らは、近木川に沿って城砦を築き、その一つが畠中城で近木川右岸に在ったが、千石堀城の落城により城中に火をかけ、退却した。秀吉勢本隊は、根来寺を攻めるため、和歌山根来に出陣した。根来寺勢は、ほとんど和泉に出陣しており、組織的な戦いは行われなかった。

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119、天正十三年(1585)
@一宮の戦いA 羽柴秀長vs谷忠澄B徳島徳島C丈六寺文書
天正十二年、小牧長久手で徳川勢に勝った羽柴秀吉は、反秀吉勢の根来・雑賀勢を討ち、天正十三年、秀吉は長宗我部征伐のため、羽柴秀次は淡路から羽柴秀長と福良で合流、阿波の土佐泊に上陸、宇喜多秀家が讃岐屋島から上陸高松に布陣、毛利輝元は伊予宇高に上陸、三方面から長宗我部勢を攻めた。秀長は羽柴秀次勢を長宗我部親泰の牛岐城に向け、本隊は谷忠澄が城将の一宮城を囲んで、水を絶って落城させた。牛岐城の落城して親泰も土佐に逃れた。秀長は谷忠澄に長宗我部元親の降伏を説得するよう依頼した。「上方は武具馬具綺麗にして光輝き、金銀を散りばめ、馬は大長にして眉上る如し、武者は指小旗を背にきつと差し厳しき躰也、四国は十人ヶ七人は土佐駒に乗り、曲り鞍を敷き、木鐙をかけたり、武者は鎧毛切れ腐りて麻糸を以て綴り集め着し、腰小旗を横たばりに指て上方武者に似るべくもなし、国に兵糧乏しくして上方と永く取り合うべき用意もなし、彼我の甲乙を考ふるに、十に1つも相対すべきことなし」と忠澄の説得に講和交渉に応じた。四国は、阿波を蜂須賀家政、讃岐半国を仙石秀久、伊予を小早川隆景に分け、長宗我部元親に土佐一国を安堵した。

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120、天正十三年(1585)
@神川の戦いA真田昌幸vs鳥居元忠B長野上田C恩田文書
天正十年、武田氏は滅亡、真田昌幸は滝川一益に従い、旧領を信長より安堵されたが、信長が本能寺で自刃し、織田勢は関東から撤退した。徳川勢と北条勢が甲信で対立したが、豊臣勢を警戒して、徳川勢と北条勢は和睦した。この和睦の条件で、北条勢に上野沼田領は北条領となり、真田氏は旧領の上田城に入り、越後の上杉景勝に臣従した。家康は直ちに鳥居元忠ら甲州勢に上田城を攻めさせた。上田城は落ちず、昌幸は神川で、戸石城の真田信幸とで家康勢を攻め大敗させ撃退した

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122、天正十四年(1586)
@岩屋城の戦いA島津忠長vs高橋紹運B福岡太宰C島津家文書
九州では薩摩島津氏、備後大友氏、肥前龍造寺氏の三氏が勢力争いをしていた。天正十二年、沖田畷で龍造寺勢を破った島津勢は、天正十四年、備後大友勢の高橋紹運が城主の岩屋城を攻落した。岩屋城は紹運以下城兵七百六十名悉く討死したと言います。島津勢は統虎の籠る立花城を攻めたが、秀吉勢の後詰により退却した。高橋紹運の妹が大友宗麟の嫡子義統の妻で、紹運の嫡子統虎(宗茂)に立花氏を継がしています。

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123、天正十四年(1586)
@戸次川の戦いA仙石秀久vs島津義久B大分大分C島津世録記
天正十四年、島津勢は大友勢鶴賀城を攻めており、豊臣秀吉は九州島津氏征伐のため、豊後出陣を命じた。豊臣勢は仙石秀久を目付けとして出陣、秀久は四国勢と鶴賀城の後詰として戸次川(べっきがわ)対岸鏡城に布陣した。戸次川の戦いは、仙石勢の無謀な攻撃を島津勢に阻まれ、先峰十河存保は討死した。この戦いは島津勢最後の勝利で、この後島津氏は豊臣秀吉に降った。

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124、天正十五年(1587)
@唐松野の戦いA安東愛季vs戸沢盛安B秋田仙北C秋田家文書
戦国の秋田仙北は、安東氏、戸沢氏、小野寺氏が争っていた。天正十四年、戸沢盛安は小野寺勢沼舘城を攻落した。この戦いの後戸沢盛安は小野寺義道と講和して、安東愛季に対抗した。天正十五年、安東愛季は、仙北唐松野に侵入、戸沢勢荒川城を攻めた。盛安勢は小野寺勢の後詰も得て、唐松野で合戦があり、愛季勢が負け、北浦は戸沢氏が制した。

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125、天正十六年(1588)
@十五里原の戦いA本庄繁長vs中山玄蕃B山形県鶴岡C最上記
天正十五年、越後村上城主本庄繁長は、二男義勝を尾浦城主武藤義興に養子に出した。これに反対した武藤家重臣の酒田東禅寺城主東禅寺筑前守が謀叛、山形城主最上義光と計り、繁長を殺した。天正十六年、越後本庄繁長は庄内に侵攻、最上勢支城を落し、最上氏重臣、中山玄蕃は尾浦城に退いたが、この城の落城して、最上勢は十五里原に布陣した。最上勢は東禅寺筑前守討死、中山玄蕃も退却して大敗した。山形から後詰に出陣した最上義光も、間にあわず山形に引き返した。この戦いで最上勢は庄内から退却した。

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126、天正十七年(1589)
@摺上原の戦いA葦名義広vs伊達政宗B福島県耶麻C仙道記
天正十五年、葦名盛隆が殺害され、幼少の亀王丸が家督を継いだが、その亀王丸が没し葦名氏の家督で葦名家臣団は伊達方と佐竹方に二分したが、佐竹義重の二男義広が佐竹から家臣団を連れて養子となり葦名家の当主となり、伊達氏と敵対することになった。天正十六年、義広勢は伊達勢に寝返った大内定綱を討つため兵を起こしたが、伊達勢に押し返された。天正十七年、奥羽覇権を狙っていた伊達正宗は、米沢城を出陣、葦名勢の安子ヶ島城・高玉城を落し、相馬領北部に攻め込んだ。葦名勢出陣で、伊達政宗は葦名勢を裏切った葦名一門、猪苗代盛国の猪苗代城に入った。両軍は猪苗代湖北の摺上原で対陣した。葦名勢は伊達勢先鋒、二陣を崩したものの、葦名勢重臣佐瀬・松本氏勢が、義広付佐竹衆と内紛しており、戦いに参加せず、葦名勢は将兵二千五百余討死し大敗して、葦名義広は佐竹に逃れ、葦名氏は断絶した。「奥羽永慶軍記、会津摺上坂合戦」

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127、天正十八年(1590
@小田原合戦A豊臣秀吉vs北条氏直B神奈川小田原C太閤記
北条氏直は小田原城を根拠地として関八州に勢力をのばし、側室に徳川家康の娘を迎え、伊達正宗とも親しく、この状況が豊臣家とは距離をおいていたとも思える。天正十五年、家康の勧めで、北条氏政は秀吉と和議を結んだ。天正十七年、上野沼田領について、三分ノ二は氏直、三分ノ一の名胡桃は真田氏の墳墓の地で真田領としたが、鉢形城主北条氏邦の家臣沼田城代猪俣範直が名胡桃城を襲い落城させた。これに豊臣秀吉の「関東、奥両国惣無事」令違反として北条氏誅伐の布告を行った。北条氏は小田原城籠城で二度敵を撃退している。一度目は永禄四年上杉謙信、二度目は永禄十二年の武田信玄で北条方の被害はほとんど無かったといわれる。相模と駿河の交通の要所である足柄、箱根に山中城、足柄城、韮山城を築き防御線とした。天正十八年、家康先鋒井伊直政に攻め込まれ足柄城守将依田大膳亮勢、二十六余人討死にして撤退している。山中城は豊臣秀次勢六万七千余人で攻め込み、秀次勢の一柳直末も討死した。山中城守将松田康長以下二千余人討死して落城した。伊豆韮山城主は北条氏政弟氏規で三千六百ほどの兵で守っていたが、秀吉勢四万の兵の囲まれ四ヵ月間の籠城の後開城した。小田原城は土塁と空堀に囲まれた戦国時代の東国城郭の代表する城で、大外郭(東西五十丁、南北七十丁、周囲五里)を築き、戦いに備えた。豊臣秀吉は、小田原を見下ろす石垣山に一夜城を築き小田原城を包囲して対陣した。

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128、天正十八年(1590)
@葛西大崎一揆A伊達政宗vs葛西大崎旧臣B宮城加美C葛西真記録
天正十八年、葛西晴信の葛西七郡、大崎義隆の大崎五郡を豊臣秀吉は奥州仕置により没収して、木村吉清・吉久に与えられた。この争いは、木村親子の強引な圧政や太閤検地などに反発した有力農民、葛西・大崎旧臣達が一揆を起こしたと言われています。一揆勢は木村親子を佐沼城に包囲した。一揆鎮圧に、蒲生氏郷と伊達正宗が出陣したが、もともと葛西郡、大崎郡は伊達の勢力下にあり、伊達氏の葛西大崎一揆関与を疑った秀吉に正宗は秀吉に釈明しなければならなかった。木村親子を救出した正宗は、翌天正十九年一揆勢の宮崎城を開城させ、葛西大崎一揆の最後の拠点佐沼城を攻落した。正宗は旧領を没収させ、葛西・大崎領に移された。

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129、天正十八年(1590)
@下田城の戦いA清水康英vs脇坂安治B下田C康英宛起請文
下田城は北条水軍の伊豆半島最大の拠点で、北条勢の清水康英が城兵六百ほどで守っていたが、豊臣水軍の脇坂勢に攻められた。

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130、天正十八年(1590)
@山中城の戦いA羽柴秀次vs松田康長B静岡三島C吉川家文書
豊臣秀吉の小田原征伐に、北条勢は足柄城、山中城、韮山城で防御線を築いた。秀吉は豊臣秀次を総大将として六万八千の兵で山中城を攻めた。この城は松田康長を城将として、玉縄城主北条氏勝以下およそ四千の兵で守っていた。岱崎出丸の攻防で始まり、城主以下、首千余討取り、その外追討数しれず落城した。

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131、天正十九年(1591)
@九戸政実の乱A蒲生氏郷vs九戸政実B岩手二戸C聞老遺事
南部氏の家督を巡り、南部一族の九戸政実と田子城主南部信直が争った。南部信直は二十四代南部氏当主南部晴政の養子になったが、晴政に子晴継が出来て、南部氏を継いだが、何者かに暗殺され、一族の北信愛が押し強引に二十六代当主となったが、これに不満を持った九戸政実勢と南部を二分する争いになった。天正十八年、南部信直は秀吉の小田原攻めに参陣、南部五郡の安堵状を受けた。天正十九年、九戸政実の勢力が増加して脅かされた信直は、秀吉方に応援を求め、羽柴秀次を大将として蒲生氏郷を出陣させた。九戸政実勢は九戸城に籠ったが、十万の大軍に囲まれ、開城した。九戸一族、城中の子女ことごとく撫で切りされたと言われています。

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132、慶長五年 (1600)
@和賀岩崎城の戦いA南部利直vs和賀忠親B岩手和賀C南部根元記
岩手和賀(北上)は、代々和賀氏が領していたが、天正十八年、豊臣秀吉の奥羽仕置により領地没収され、南部領となっていた。慶長五年、南部利直の出羽最上氏後詰の出陣に応じて、和賀忠親は伊達正宗の応援を得て、岩崎義彦と岩崎城に楯籠った。慶長六年、最上出陣から戻った南部勢は岩崎城を攻落した。伊達方の煽動で始まったこの戦いは、徳川家康に咎められ「百万石のお墨付」の約束は保護にされ、白石城と攻め取った苅田郡ののみ増加されたと言われています。

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133、慶長五年 (1600)
@伏見城の戦いA石田三成vs鳥居元忠B京都伏見C御湯殿上日記
慶長五年、徳川家康は会津上杉討伐のため、伏見城に鳥居元忠を守将として出陣した。西方石田三成勢は四万に軍勢で伏見城を攻めたといいます。籠城の将兵ことごとく討死して落城した。関ヶ原役の前哨戦といわれるこの戦いで市街の大半が焼失したと言われています。

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134、慶長五年 (1600)
@関ヶ原の戦いA徳川家康vs石田三成B岐阜不破C関ヶ原記
慶長三年、豊臣秀吉が死んだ。秀吉は五大老(徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元)五奉行(石田三成、浅野長政、前田玄以、増田長盛、長束正家)の制度を作り、お互いに牽制させた。慶長五年、豊臣側の上杉景勝を攻めるため兵を起こした。反家康の石田三成は、この隙に家康側の伏見城を攻落した。下野国小山の布陣していた家康は反転西上した。東海地方の諸将は三成に対する反感も強く、進軍も早かった。大垣城を拠点とした三成側の諸将の集結が遅く、清洲まで家康勢の進軍を許してしまった。

慶長五年八月十六日 @福束城の戦A丸毛兼利vs徳永寿昌・市橋長勝B安八郡輪之内
福束城は大垣城の南方にあり、城主丸毛兼利は三成側に味方していた。家康側東軍先鋒福島正則に従っていた松ノ木城主徳永寿昌、今尾城主市橋長勝は福束城を攻落した。この戦いが、関ヶ原合戦の最初の戦いと言われています。

慶長五年八月十九日 @高須城の戦A徳永寿昌・市橋長勝vs高木盛兼B海津郡海津
高須城は揖斐川左岸、今尾城南にあり、高木一族は三成西軍に属していた。徳永寿昌・市橋長勝勢が高須城を仮戦と騙し、力戦で攻落した。

慶長五年八月十九日 @駒野城の戦A徳永寿昌・市橋長勝vs高木帯刀B海津郡駒野
駒野城は、揖斐川をはさみ高須城の南にあり、高木一族の高木帯刀が居城としていた。徳永寿昌・市橋長勝勢に駒野城を囲まれ、開城した。

慶長五年八月十九日 @津屋城の戦A徳永寿昌・市橋長勝vs高木正家B海津郡津屋
駒野城の西北、津屋川岸にある津屋城も、徳永寿昌・市橋長勝勢の別動隊に攻められ、駒野城を攻めていた本隊も加わり、落城した。この後、池田輝政勢は岐阜城搦手から、福島正則は岐阜城大手から攻めるため、出陣した。

慶長五年八月二十二日 @竹鼻城の戦A福島正則vs杉浦重勝B岐阜羽島
竹鼻城は、木曽川と長良川に挟まれた岐阜城南にあり、城主杉浦重勝は岐阜城から援軍を得て、池田勢・福島勢と対陣した。戦いは池田輝政勢戦いを仕掛け始まった。福島正則勢も支城の加賀野井城を落し、竹鼻城を攻めた。杉浦重勝は自刃して落城した。

慶長五年八月二十二日 @米野・印食の戦A池田輝政vs織田秀信B岐阜県岐阜
岐阜城に迫った池田輝政勢は、木曽川を渡河し、中州の印食(じき)で野戦を計った西軍一陣の百々綱家・飯沼長資を破り、岐阜城に迫った

慶長五年八月二十三日 @岐阜城の戦A福島正則vs織田秀信B岐阜稲葉山
米野・印食の戦いで、西軍織田勢を敗走させ、岐阜城の大手口を福島正則勢、搦手を池田輝政勢が攻め立て、落城させた。西軍犬山城の諸将は全く兵を動かず岐阜城を見殺しにした。秀信は高野山に落ちたと言われています。

慶長五年八月二十三日 @河渡川の戦A黒田長政vs舞兵庫B岐阜河渡
東軍黒田長政・田中吉政・藤堂高虎は大垣からの岐阜城応援を阻止するため、長良川に出陣、対岸に布陣していた西軍の舞兵庫・杉江勘兵衛に攻め入った。不意を突かれた西軍は後退し、東軍黒田勢は揖斐川左岸に布陣した。

慶長五年八月 @八幡城の戦A遠藤慶隆・金森可重vs稲葉良通B郡上八幡
岐阜城が落城して犬山城にいた稲葉良通は密かに東軍に属した。郡上八幡城は稲葉良通が領していたが、元は遠藤氏の領地であった。加茂郡小原城主遠藤慶隆は旧領の奪還を図り、井伊直政・本多忠勝に計り、金森可重に応援させ八幡城に攻入った。稲葉勢は本丸で良く守った。和議の申入れにより、愛宕山に一旦兵を引いていた慶隆の陣に、駆けつけた稲葉良通勢が襲い懸り八幡城に入った。慶隆は金森勢に逃げ込み、慶隆と稲葉は和議を結んだ。

慶長五年九月十三日 @大津城の戦A石田三成vs京極高次B大津浜大津
大津城主京極高次の妻は、信長妹お市ノ方の娘で、その姉は秀吉の愛妾の淀殿であった。慶長五年、家康が会津上杉征伐に出陣したとき、大津城の京極高次を訪ねている。高次は敦賀城主大谷吉継と東軍勢の前田利長攻めに同行したが、三成の依頼で、大谷吉継が美濃に兵を向け出発、一日遅れで同行した高次は、大津城に戻り、東軍に味方した。西軍は立花宗茂・筑紫広門勢一万五千の兵で大津城を攻めた。西軍は大筒で城を砲撃したと言われています。大津城は関ヶ原合戦が始まる一日前の十四日に城が落ちています。高次は高野山に逃れた。戦いの後、京極高次は、若狭小浜八万五千石を与えられています。

慶長五年九月十四日 @杭瀬川の戦A石田三成vs徳川家康B大垣杭瀬川
東軍は赤坂、西軍は大垣に集結した。赤坂と大垣の間は一里もなく、中間に杭瀬川があり両軍対陣していた。三成家臣、島左近は杭瀬川に出陣、東軍中村一栄勢を挑発、一栄勢が杭瀬川を渡り、島左近勢を攻めたが、伏兵に合い苦戦、東軍有馬豊氏が応援の兵を出したが、明石全登に兵に攻められ、家康勢の救援で退いた。美濃における、この戦いが西軍唯一の勝と言われています。

慶長五年九月十五日 @関ヶ原の戦A石田三成vs徳川家康B不破郡関ヶ原
東軍先鋒、福島正則勢が宇喜多秀家の前衛明石全登勢に攻め懸かり戦いが始まった。三成は笹尾山に本陣を置いた。東軍右翼の黒田長政勢は島左近勢と戦い、細川忠興・加藤嘉明の応援を得て、島勢を退けた。各所で一進一退を続けていたが、松尾山に陣を置く小早川秀秋が西軍を裏切り、大谷吉継勢に襲いかかった。秀秋の裏切りが西軍に伝わると、島津勢も引上げ、西軍は総崩れになったと言われています。

慶長五年九月十七日 @佐和山城の戦A徳川家康vs石田正継・正澄B彦根佐和山
慶長五年九月十五日、関ヶ原の戦いで、西軍は敗北した。先鋒小早川秀秋・朽木元綱・小川祐忠勢が、佐和山城を囲んだ。講和の交渉が進む中、田中吉政勢が本丸なで攻込み、十八日落城したといわれています。

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135、慶長五年 (1600)
@大聖寺城の戦いA前田利長vs山口宗永B石川加賀C織田軍記
慶長四年、前田利家が没し、家を継いだ前田利長は、徳川家康に謀叛を疑われ、母芳春院を人質に出して大事を回避した。慶長五年、利長勢は、西軍丹羽長重の小松城を避け、松山城に布陣、大聖寺城の山口宗永と対陣した。大聖寺勢山口宗永・修弘父子も自刃して、開城した。

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136、慶長五年 (1600)
@浅井畷の戦いA前田利長vs丹羽長重B石川小松C前田家雑録
慶長五年、前田利長は石田方の大聖寺城主山口宗永を攻落し、徳川氏の東軍方を明確にした。北越前を制圧した利長は大聖寺城に帰った。前田勢が金沢に帰陣するには、三成方の小松城丹羽長重の小松領を通過しなければならなかった。利長勢は加賀能美郡大野領浅井畷を通り、小松城主丹羽長重勢を襲い戦った。先鋒は、小松城を牽制するため、御幸塚城に入り、前田勢本隊は三堂山城に布陣した。丹羽勢が殿の前田長連竜を浅井畷で襲い戦いが始まった。長連竜勢は南浅井村で留まり奮戦、多く討取られたものの、前田勢は金沢城に入った。この後、丹羽勢は和睦を請い、前田勢は小松城に入った。

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137、慶長五年 (1600)
@長谷堂城の戦いA最上義光vs直江兼続B山形県山形C慶長聞書
会津の上杉討伐に兵を進めていた徳川家康は、石田三成の挙兵を知ると、即座に兵を西に向けた。背後から上杉勢を攻める手はずであった最上義光は、直江兼続の与板衆志駄義秀が城将の庄内酒田城を攻めようとした。直江兼続は、色部修理を先陣として最上領に侵入、支城をおとし、志村光安・鮭延秀綱が籠る長谷堂城と最上義光の本拠地山形城のみとなった。兼続勢の上泉主水も討死、最上勢の頑強な抵抗の中、関ヶ原で石田三成勢敗北の報が届き、直江兼続勢は総退却となり、最上義光勢の追撃が始まり、大激戦となった。この戦いの後、最上義光は出羽庄内を手に入れた。

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138、慶長五年 (1600)
@石垣原の戦いA黒田如水vs大友吉統B大分別府C如水水軍記
文禄の役の失策で豊臣秀吉の怒りで豊後一国を没収され、毛利氏を頼った大友吉統(義統)は、豊臣勢と徳川勢の戦いの隙間で、旧地豊後に攻め入り、細川忠興の支城杵築城を攻めた。嫡子黒田長政が家康勢として出陣していた黒田如水は、兵を掻き集め杵築城の後詰に出陣、石垣原で合戦、大友勢吉弘統幸など討死、吉統勢は石垣城に逃れたが、開城した。

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参考図書
戦国合戦大事典 二巻〜六巻 戦国合戦史研究会編 新人物往来社
戦国合戦「古記録・古文書」総覧 新人物往来社
図説戦国合戦総覧 新人物往来社
合戦の日本地図 武光 誠 文藝春秋
武田軍記 小林形一 新人物往来社
本願寺と一向一揆 辻川達雄 誠文堂新光社
日本史年表 歴史学研究会編 岩波書店



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