会津紀行文



東遊雑記(抄)
 古川古松軒が天明八年(1788)、幕府巡見使に随行して東北から北海道まで視察に行った見聞を綴った十二巻の紀行文です。天明八年五月六日江戸を出発、十四日若松城下、十五日大内、十六日田島、十九日簗取から布沢、二十日野尻、二十一日大谷、二十二日柳津に至っています。

十七日に大沼郡・蒲原郡(小川庄)、川沼郡の内に五万五千石余りの公料(公儀料)あり、久しく会津候御預りの地なり。百姓の風俗我儘にて、不礼なすゆえにたびたび叱しことなり。またこの辺に庄屋というはなく、名主といい、その下に組頭五人組というあり、惣じての頭役を郷頭と称す。他国の大庄屋というに同じ。同公料五万石余りに郷頭十九人あり、これらは会津候より御扶持下され、帯刀御免の者なり。他国に違いしことは、百姓の中にても上下の隔てきびしく、郷頭はいうに及ばず、名主・組頭にはその所の歴家ならではせず、その村に名主・組頭をするほどの人柄なき時は、他村へ頼みて、あえて家筋なきものにはこの役目をさせぬことなり。たとい富饒なるものなりとも、歴家ならざれば、暦家の貧者にも腰を折ることと見えたり、これらは辺鄙の古風を乱さぬと思われ侍りしなり。
十九日布沢止宿。簗取と布沢の間悉く嶮山にて、馬はいうに及ばず、人の往来も自由ならざる嶮しき道なり。御巡見使御道ゆえ桟道を造れり、至って危うき道なり。高さおよそ百丈、麓へ谷川流れて桟道の間百三町余、他国になき道なり。心おどろき目くるめき、肝を消す桟道なり。人足に出でし所のものを見るに、短き蓑を着し、長き鎌を横たえ、さしも嶮しき桟道を、もののかずとも思わぬ体にて走り廻る有様、誠に男々しく見えたり。かかるものどもを戦場に用いなば、甚だ役に立つべきと人びといえり。


日本奥地紀行(抄)
 英国女性イサべラ・バードが明治十一年(1878)来日し、6月から9月の3ヶ月にわたり東北地方、北海道を旅行して、1880年に紀行文として出版されたものです。
彼女は「本書の中には、農民の生活状態を一般に考えられているよりも悲惨に描いているところがあって、読者の中には、そんなに生まなましく描かない方がよかったのではないかと思う人がいるかもしれない。しかし私は、見たことをありのままに書いたのであり、そういうことは、私が作り出したものでもなく、わざわざ探しに出かけたのでもない。私は、真相を伝えんがために述べただけである。農村こそは、日本政府が建設しようとしている新文明の主要な材料とせねばならないものであり、本書は、その農村の真の姿を描くことになると思うからである」と述べています。

第十二信(完)  車峠にて 六月三十日
 私たちは田島で馬をかえた。ここは、昔、大名が住んでいた所で、日本の町としてはたいそう美しい。この町は下駄、素焼、粗製の漆器や籠を生産し、輸出する。
私たちは、広さが三十ヤード平方から四分の一エーカーまで大小さまざまの水田を旅行していった。水田の土手の上部は利用されて、小豆が植えてあった。水田を通りすぎると、荒海川という大きな川に出た。私たちはその支流に沿って二日間とぼとぼ歩いてきたのであった。そして汚いが勤勉な住民のあふれている汚い村をいくつか通りすぎて、平底船で川を渡った。川の両岸には、また木がしっかりと打ちこんであり、藤蔓を何本の結びあわせた太綱を支えている。一人は船尾で棹をさす。あとは流れの速い川がやってくれる。これから先も、こんなふうにして私たちは多くの川を渡ってきた。どの渡し場にも料金表が貼り出してある。料金をとる橋の場合と同様である。事務所には男が坐っていてお金を受けとる。この地方はまことに美しかった。日を経るごとに景色は良くなり、見晴らしは広々となった。山頂まで森林に覆われた尖った山々が遠くまで連なって見えた。山王峠の頂上から眺めると、連山は夕日の金色の霞につつまれて光り輝き、この世のものとも思えぬ美しさで、あった。私は大内村の農家に泊った。この家は蚕部屋と郵便局、運送所と大名の宿所を一緒にした屋敷であった。村は山にかこまれた美しい谷間の中にあった。私は翌朝早く出発し、噴火口状の凹地の中にある追分という小さな美しい湖の傍を通り、それから雄大な市川峠をのぼった。すばらしい騎馬旅行であった。道は、ご丁寧にも本街道と呼ばれるものであったが、私たちはその道をわきにそれて、ひどい山路に入った。これは幅が約一フィートの道で、側面に波形が続いていた。その凹みは一フィート以上も深さがあり、駄馬がいつも前の馬の足跡を踏みならしたためにできたものである。どの穴も泥沼のように泥がねばりついた。馬子は、絶えず「ハイ! ハイ! ハイ!」と馬をはげましていた。この言葉は、馬に対して、よくよく用心が肝心だと、言いきかせているように思われる。馬の藁沓はいつも紐がとけてくるし、四マイルを歩くと二足を磨滅らしてしまう。峠の頂上は、他の多くの場合と同じく、狭い尾根になっている。山路は、山の反対側に下ると、ものすごい峡谷の中に急に降りてゆく。私たちはその峡谷に沿って一マイルほど下って行った。傍を流れる川は雷のような音を轟かせて、私たちが何を話そうとしても、かき消されてしまう。それはすばらしい景色であった。樹木の茂った断崖の間から、うねうねと山の続く平野を見下すと、森林におおわれた連山が周囲にそば立ち、平野は深い藍色の中に包まれている。高くそびえる峰々は深雪を戴いていた。草木は今までよりも温暖な風土を示していた。木蓮や竹はふたたび姿を見せ、熱帯性の羊歯は、美しい青色のあじさいや、黄色の日本百合、大きな青色の釣鐘草とまじっていた。美しい蔓草がからまっている樹木樹木の海があった。蔓草は白い葉を豊富につけているので、遠くから見ると、白い花の大きな房のように見える。しかしこの地方の森林に繁茂している藪は魅力的ではない。その構成部分の多くは雑草ともいうべきものである。ぶざまで、ぼうぼうと生えている芹や、粗野なすかんぽ、繁茂するいらくさ、その他に私の知らない草が多くあったが、二度と見たいとは思わない。山を下る終り近くで、私の雌馬は反抗して手に負えなくなり、私をのせたまま、見苦しい姿で早駈けをして、市川という村に入った。ここは美しい場所にあるが、傍は切り立った崖となっている。村の中央に、すばらしい飛瀑があり、そのしぶきで村中がまったく湿気に浸されている。樹木や路傍は藻類で青々としている。そこの駅馬係は女性であった。女性が宿屋や商店を経営し、農業栽培をするのは男性と同じく自由である。男女の住人の数や、馬や牛の数を記した掲示板がどの村にも立てられている。これまでどこもそうであったが、市川でも男性が優位を占めているのに気がついた。


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