葦名氏の「アシ」の字について



 このH・P作成段階で資料を集めていて判らなかったのは、葦名氏の葦、蘆、芦の字の区別と、山内氏と山ノ内氏の区別が全く判らなかった事です。各種資料も差異を付けて使用していたのでしょうが、理解する事が出来ず困ってしまいました。
途中から山ノ内氏については、原則、一族全体についての表記には山ノ内、固有名詞には山内を使用する事にしました。片方の(あし)の字ですが、白川静氏著「字訓」によれば、「あし〔葦・蘆〕沼沢など水辺の地に密生するいね科の多年生草で、茎は簾を作り、垣を編み、また屋根を葺くのに用いる。「よし(葭)」ともいう。葦(い)は韋(い)声。韋には緯のように経(たていと)を次第に編み束ねるものの意があり、葦の字形もその用途を示す語で、葦を縄のようにあんだ葦索(いさく)は歳晩の鬼やらいの呪飾に用いる。葦やススキのように穂の出るものは、占いに用い、隠しごとのあらわれることを、「穂に出る」という。蘆(ろ)は葦の異名。穂のないうちは蘆、穂が出たものは葦。」と説明しています。一方大修館大漢語林によれば、「葦、あし・よし。イネ科の多年草。水辺に自生し、秋の末、穂状の花をつける。茎はよしずを作るのに用い、根は薬用になる。その生え初めを葭(か)、大きくなったものを蘆(ろ)成熟したものを葦という。芦は蘆の俗字」とあり、角川大字源の解字には、葦「意符の艸(くさ)と、音符の韋(い)〔おおきい意=偉(い)〕とから成る。あしの大きく成熟したものの意」人名には葦は(あし)蘆は(よし)と有りました。結局意味は理解出来ましたが、使用区別は明確でなく、たまたま使っているワープロの(あし)の最初の転換が葦だったため、疑問に思いつつ葦の字を使用していましたが、最近、会津史談の中で、その当時会津若松文化調査委員をなされていた小島一男氏の寄稿文を読む機会が有りました。(会津史談第61号 小島一男「葦名の文字について」)
 小島氏は、会津史談前会長の坂井正喜氏が宗英寺蔵の国重要文化財「葦名盛氏座像」に注目されその厨子の右扉に「桓武天皇十一代佐原十朗左衛門尉義連十六代三浦葦名修理大夫平朝臣盛氏」の刻銘を認め、葦名に確信を持ったようだと述べています。その後、小島氏が「会津寺宝展」に関りを持ち、出品リストの中に天寧寺や極楽寺に、葦名氏の位牌のある事が判ったといいます。天寧寺は応永二十七年(1420)に傑堂能勝和尚が創建した寺で、開祖盛信公の位牌と、中興盛氏公の位牌がこの寺に安置されており、盛信公の銘には「会津先封大守葦名左近将盛信公 当山開基宝巌寺殿元慶聖喜大禅定門」、盛氏公の銘には「会津先封大守葦名盛氏公 当山中興開基瑞雲院殿竹巌宗関大菴主」とあり、また極楽寺の位牌は、同寺の開基浄顕上人の位牌であるが、裏銘には「永禄八乙丑年十月十七日往生 芦名盛高ノ実子 俗姓号万千代丸」となっています。さらに小島氏は「会津葦名氏を称したのは、その義連の一統(孫)であってみれば、まだ未成熟の蘆やその俗字である芦の字を使うよりは、成熟した葦の字を用いることの方がむしろふさわしい家柄であり、先述した万千代丸は盛高の第五子で、若くして出家し浄顕と称して、本願寺の蓮如上人を師としていたが、蓮如上人の死に臨んで会津に下り、極楽寺を開いた人であり、いわゆる葦名氏の直系ではなく、出家して系類を離れた人で、祖家に遠慮して「芦」の文字を用いたということも充分考えられる」と述べておられます。最後に小島氏は「会津葦名氏に関する限りは、国重文の盛氏像の厨子銘をはじめ、位牌の文字、子孫の方の姓、それらが合致している以上、それに従うべきであって、他人である我々が、他家の姓氏文字がこうあるべきだとか、こうあらねばならないなどというべき筋のものではないと思っている」と結んでいられます。


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