巻第一(抄) 天正三年に起り同十年に終る 葦名盛氏先祖附同盛興家督相続事 盛興早世附盛氏養子事 盛氏卒去事 葦名盛隆攻高倉城附立野妻被害事 最上義光討城取十郎事 寒河江合戦事 八沼城合戦事 天童城合戦附延澤能登守勇力事 葦名盛隆被任三浦介事 新発田因幡守請属盛隆事 常陸国久下田城合戦事 葦名盛氏先祖附同盛興家督相続事 茲に人王百八代正親町院の御字に、奥州會津の領主葦名修理大夫平盛氏と云ふ人あり、其先祖を尋るに桓武天皇の後胤三浦大夫義明が七男佐原十郎義連より出でたり、文治五年頼朝朝臣、泰衡、国衡征伐の後、會津四郡を義連に賜うてより、代々斯地を領す、義連が子を遠江守盛連と云ふ、盛連に六子あり、嫡子猪苗代大炊介経連、耶麻半郡を領す、次男次郎廣盛、河沼半郡を領す、三男藤倉三郎盛義、河沼半郡を領す四男會津次郎左衛門光盛、會津大沼二郡を領す、五男佐原五郎左衛門盛時、加納庄を領す、六男葦名六郎左衛門時連、耶麻半郡新宮を領す、是れ葦名氏の祖也、時連が子を三郎左衛門泰盛と云ふ、泰盛が子遠江守盛宗、其子遠江守盛員、建武二年八月十七日、中先代蜂起の時、鎌倉片瀬に於て嫡子高盛と共に戦死す、以故に次男若狭守直盛家督を相続ず、康暦元年直盛鎌倉より會津に下向し、幕内に三年、小館に二年住居し、後に小田山に移れり、其子弾正詮盛、其子修理大夫盛政、其子三郎左衛門盛久と云う、其子盛久子なき故に弟左近将監盛信を養子となす、其子下総守盛詮、其子修理大夫盛高、其子出羽判官盛滋、其弟遠江守盛舜に家を譲る、盛舜が子修理盛氏なり、盛氏武威逞くうして仙道長沼を押領し、佐竹、岩城と合戦すること数年に及べり、此時白河の結城義親、二本松義継、二階堂盛義、郡山、四本松、片平、阿子島辺まで皆盛氏の旗下に属す、以故に北條氏康、武田信玄も使を遣し親交を結ばる、其頃信玄家の評判にも丹波の赤井悪右衛門、江北の浅井備前、會津の葦名盛氏をば武将の器ありと、よりゝ稱美せられしとぞ、此盛氏に一女一男あり、一女をば白河の結城七郎義親に嫁せしむ、一男盛興既に政務を沙汰すべき程なりければ、迺ち家督を譲り、其身は岩崎の巓に城を築き隠居所とし、剃髪して止々斎と号す誠に浮世の外の山住なれども、折柄戦国の砌なれば要害の地を占めらる、此城東北は萬仭の石壁苔滑にして、下碧譚の深きに鑒み、千尺の巌松枝聳えて、上白雲の中に入る、走獣も蹤絶え、飛鳥も翔り難し、西の麓に九折まる細道あれども蔦楓生茂り、登るに行歩輙からず、山下より西方は小田の畔々打続き、分内いと廣けれども、底も知ざる深田なれば、中々馬の蹄の立つべうも覚えず、南方は山の尾つゞきなれども、峯よりは遥に下つて真葛、栗、椎、隙もなく岨高うして路嶮し、軍卒の攻上るべきやうぞなき、此処に住居して静に歳月を送られければ、是を見聞く人毎に羨まざるはかりける。 盛興早世附盛氏養子事 然る処に楽極つて悲生ずる習なれば、盛氏の嫡子盛興、多年酒毒虚損の病を患へられしが、天正三年六月五日行年二十九歳にして卒せられければ、盛氏の歎の程思ひやられて痛しゝ、實に若きを先きだてゝ強面残る老鶴の、長き齢も今更に、いと恨めしくぞ思はれける、されども斯くて有るべきことならねば、境内の成敗沙汰すべき者なき故に、世は逆の事ながら、盛氏又黒川に立帰り、浮世の業に携はらる、彼を見、此を聞くにつけて涙を添ふる媒とのみぞ成りにける、せめて墓なき頼とて、盛興の後室を養子とし、二階堂遠江守藤原盛義の一子を贅婿として家督を相続せしめ、盛隆と名づく、彼の二階堂盛義は、代々岩瀬の領主なりと雖も、度々の争戦に利を失ひ、兵減じ勢竭きて、諸方の手当心に任せざるに依て、此よりさき、永禄三年の春、僅七歳になれる一子を盛氏の方に人質に出し、向後御旗下に属し候はん、若し他国より敵勢向はんには援兵を頼み候とありければ、盛氏の返事に、多年入魂なれば御曹司を遣し置かるゝに及ばすと雖も、しかし一城に主たる人も無芸なるは悪しければ、二三箇年も預りおき、萬指南いたすべしとて、息子盛興と共に養育し、其心を様し見られけるに、聡敏にして勇知ありしかば、此時に及んで養子にせられけるとぞ聞えし。 盛氏卒去事 斯りける後、盛氏五十九歳の秋かとよ、不思議の夢を見られける、何所より来れるとも覚えず、其様厳然たる老翁、盛氏の枕上に立ちよりて、「忘るなよ六十にかけて契りしを」と云ふ発句を口號ければ、盛氏夢中に取敢へず「其行季を頼むことのは」と附くると見て夢覚めぬ、盛氏奇異の思ひを為し、来年は命終るべき夢相ならんと云はれしが、果して翌年天正八年六月十七日六十歳にして卒去せられければ、諸臣薤露(がいろ)の歌に袂を絞りて、郊原一片の煙となし、瑞雲院殿竹巌大居士と諡す、然れども盛隆仔細なく家督を嗣がれ、封内の臣民憂葵の歎を忘れ、泰山の思ぞ成しにける。 葦名盛隆攻高倉城附立野妻被害事 去程に盛隆世俗の喪にならひ、程なく倚廬の苔離れ、凶服を解かれしころ、旗下に属セ氏安積高倉の武士ども叛逆聞え有りければ、是を討ち従へんため自ら出馬せられける、其出立、綺羅綺羅しくぞ見えにける、先ず一番に天鵞絨の羽織を着し、金の熨斗付の太刀刃を帯し、朱傘の指物を持ちたる足軽千人、次に大鳥毛の槍千筋、次に猩々緋の羽織着せる足軽、長柄五百筋を持ち、次に重籐の弓五百張、虎皮の空穂を持ちたる者五百人、何れも二十人充に酋壱人、騎馬にて打たせたり、皆々什伍を乱さず歩みつれたり、其次に盛隆紫裳濃の鎧に鍬形打つたる冑を著し、奥州鹿毛といへる七寸に余りたる馬に、金覆輪の鞍おかせて打乗り、しづしづと歩ませ出でらる、今年二十七、容貌美麗にして眼に重瞳あり、其為體百萬騎の中にても、自餘に紛るべくは見えざりける、馬廻、歩行の者まで、一様に緋?の鎧、紅の袖無羽織に金の丸の紋をつけ、三百餘人前後左右に相従ふ、其次に馬上の士三百餘騎、組々の将に随って列を打出でたり、かくて安積、高倉の城を囲んで攻められけるに、暫く防ぎ戦ひけるが、叶はじとや思ひけん、立野弥兵衛を始として、各人質を出して降参しければ、仔細なく一命を助け、黒川に帰陣せられける、其後立野又反逆しければ、人質に出し置きたる女房を串刺にして殺されけるに、女房、 浅猿や身をば立野に捨られて寝乱髪が串のつらさよ と読みて空しくなれるぞ無慚なる。 葦名盛隆被任三浦介事 去程に葦名盛隆は、家人をあつめて議せられけるは、傳へ聞くに、洛陽には織田総介信長朝臣威盛に震ひ、近国悉く服従し、勅命を蒙り天下の武将に備はり、諸国より旗下に属せん事を願ひ、或は自ら上洛し、或は使節を馳せて、君臣の禮をなすと聞く、此上は某も使者を上せ、降参の實を題はすべしとて、家人荒井萬五郎を使者として、駿馬三疋竝に土産の蝋燭千挺を進献せられける、斯くて荒井は会津を立つて、天正九年八月六日に京着し、此旨を言上しけるに、信長喜悦ましまして仰せけるは、彼の葦名氏は遠く桓武の末より出て、家門多く三浦介に任ぜられたりといへども、応仁の大乱より以来、辺鄙遠荒の諸臣朝覲の禮中絶し、侍衛の役長も懈りねれば、一向補任有識の沙汰なかりける故なるべしとて、序を以て奏聞を遂げ、廼ち盛隆を三浦介に任ぜられ勅宣の綸旨を帯して、醍醐の密教院会津に下向せしかば、絶えて久しき家業を継ぎ、居ながら綸命を蒙ることの辱なさよ、速かに勅答謝禮申さでは叶はじとて、折から小笠原大膳大夫長時、先年武田信玄に戦ひ負け、越後に蟄居せられけるを、盛氏の時より招きて会津に置かれける、此節長時の指図を受け、勅答の文を認め、今度は一族金上兵庫頭盛備を使者に指上せられけるに、盛備程なく京着し、参内したりければ、盛備をも遠江守に任ぜられて、会津にこそは下りける。 |