巻第二(抄) 天正十年に起り同十二年に終る 白巖城合戦事 滑川合戦事 人取橋合戦事 松本栗村叛逆伏誅事 新国上総介降参事 兼山合戦附竹田兵庫討死事 最上義光與延澤能登守力競事 葦名亀王丸誕生附大庭三左衛門弑盛隆事 白巖城合戦事 天正十年二月、葦名盛隆軍兵を引率し、白巖の城に発向せらる、其遺恨何故ぞと尋ぬるに、盛隆の実父岩瀬の領主、二階堂盛義此処を押領し、白巖の城のい本丸には阿邊周防守、二丸には、要川左衛門を居らしめ、近辺七郷の侍三十人を属せしめ置かれける処に、田村清顯押し寄せて攻められしかば、二階堂後詰し、玉木に於て合戦に及びしに、二階堂利を失ひ、大久保と云う処まで引退かれしを、田村勢追懸けそれより直に大久保城に火を懸け、焼拂ひければ、二階堂かなはず、矢田野と云う処にぞ落ちられける、阿邊、要川も白巖城を追落されて、今泉城にこもりしが、此をも追落されて、長沼に逃げゆきしかば、田村清顯の家臣田村月齋を白巖城に置かれける、盛隆これを憤りて、此度発向せられけるとぞ聞えし、斯くて城を取囲み、城戸、逆茂木を熊手にかけて引きたふし、曳々聲を出し攻め上る、されども城にも屈強の勇士等多くこもり居たれば、玉箭を放ち石木を飛して防ぎける、会津勢の中より濱尾内匠、同内蔵助等真先にすゝめば、各劣らじと心を合せ攻めけれども、強く防ぎ堅く守つて陷ちざりけり向城をかまえへて、遠攻にすべしと議せられける処に、伊達より大軍発向する由聞しければ、先づこれを防ぎて後、此城をば攻むべしとて、しばらく囲みを解いてぞのきにける。 人取橋合戦事 其後葦名盛隆は、頃日の浮説を聞いて、伊達勢今や寄すると相待たれけれども、敢て其儀なれば、此方より逆寄にすべしとて、会津、岩瀬の軍勢を引率し、高倉に発馬せられしかば、伊達輝宗これを聞いて、嫡子政宗を大将とし、道まで出張せらる、互に人取橋にてはたと逢ひ、双方相挑むといへども橋狭うしてすゝまれざりしかば、会津勢馬を乗りすて、歩立になり、河に飛入り飛入り河岸を匍上る処を、伊達勢鎗を以て突臥せけるほどに、?にて会津勢多く討捕らる、中にも保土原江南が嫡子山城守、十八歳にて討死す、伊達勢の内より首をとらんと近付きけるを、濱尾十郎とて、これも十八歳になりしが、件の武者を防ぎ、山城守が首を揚げて、身方の陣に引き退く、此保土原は、去々年の春十六歳にて高名せしかば、盛隆其功を感じて、大和守と呼なる、翌年又比類なき働きありしゆゑ、山城守と稱せられし者なれば、知るも知らぬもおしなべて、惜まぬ人ぞなかりける、是を軍の始めとして、双方入りみだれ、追ひつ返しつ戦ひける、實にも東国にて伊達、葦名と稱せられたる大将に、士卒も日ごろ、誉をあらはしたる勇士共なれば、假令日を重ね月を越えて攻め戦ふとも、何れに甲乙あるべしとは見えざりける、然れども日已に西山に傾き、兵士戦ひ疲れたれば、雌雄を決せんこと後日にありと、互に再会の期を約して、各馬をぞ入れられける、此政宗の先祖を尋ねるに、山蔭中納言藤原政朝より出でたり、政朝の子を朝宗と云ひ、文治五年九月三日、鎌倉殿泰衡征伐の後、伊達郡を朝宗に賜はりて領知せらる、其子中村常陸守宗村、其子栗野蔵人大夫義廣、其子蔵人太郎政依、其子小太郎宗綱、其子孫太郎基宗、其子宮内大輔行朝、其子弾正少弼宗遠、其子大膳大夫政宗と云ひ、長井荘をも領す、此人文武の才あり、且つ和歌をも嗜まる、曾て屋代峠に陣せらるゝときの歌に、 山家霧 山間の霧はさながら海に似て波かと聞けば松風の音 山家雪 中々に九折なる路たえて雪に隣に近きやま里 其後新続古今を勅選ありしとき、此二首を献じて、又一首の歌を添へらる かき捨る藻塩なり共此度はかへさでとめよ和歌の浦人 応永二年九月十四日、政宗二十二歳にて卒去のとき、勝光院殿紺紙金泥の法華経と二首の詠歌を贈りたまふ、 武士の跡こそあらめ敷島の道さへたへん事の悲しき 朽果ぬかざし共なれ言葉をそへて書遣る法の華ぶさ 政宗の子を民部少輔氏宗と云ひ、其子大膳大夫持宗、其子を民部少輔成宗と云ふ、文明の秋、洛に入り、十月十一日に参内せられ、其後帰国の折節、洛を出で今道越より洛中を望み見て、 都出る餘波は誰と知ねどもひかるゝとのみ思ふ袖哉 成宗の子を大膳大夫尚宗と云ひ、其子左京大夫植宗、其子左京大夫晴宗、其子左京大夫輝宗、其子今の政宗也、政宗其為性聡敏にして雄略あり、攻むる所必ず陥り、討つ処必ず靡く、以故に後遂に仙道七郡、会津四郡を掌握し、陸奥守と稱し、中納言に任じ、武名を日域に輝かさる、類まれまる豪傑也。 松本栗村叛逆伏誅事 ?に葦名家に四人の老臣あり、松本、平田、佐瀬、富田と云ふ、これを四天王と稱す、其中に松本図書と云ふ者、去んぬる年郡山の戦ひに討死しければ、其子太郎、幼雅なれども家を嗣かしめ置かれけるに、太郎十一歳になれるころ、彼が母容色いまだ衰へざるゆゑ、平田某、妻にせん事を請望みけるに、盛隆も同心なりしかば、太郎は幼年まり、仔細あらじとて、婚姻の約をぞ究めける、太郎此事を傳へ聞いて申しけるは、某幼年なればとて、父が遺跡を相続いたす上は、假令屋形の仰なりとも、いかでか母を他に嫁せしめんやと、以ての外に腹立す然れどもさすが幼年なれば、屋形の仰なりとて強く威さば、など諾せではあるべきとて、或人太郎が許に行きて、今度母が婚姻の事屋形の御意を以て究りたるを、汝が兎角申すこと、甚だ奇怪に思召しゆゑ、切腹すべしとの仰に依て、検使に来れりと云ひければ、太郎少しも驚きたる體もなく、斯く申し上ぐるより兼て期したる事にて候とて、身を淨め衣服を易へて、實に切腹すべき風情なれば、彼の侍、いやいや此兒のありさま、何に威したりとても、中々心変ずまじと、舌を巻きてぞ帰りける、其後母は遂に平田に嫁しねれども、太郎は継父と義絶してぞ居たりける、此事を深く遺恨に思ひ立ち、己が男色の知音なりし、及川に住せる栗村下総守と、密々に謀を廻しける、今年六月三日、盛隆城東の羽黒東光寺に参詣ありて、終日舞楽を遊覧せられける、栗村も供しけるが、兼ての有増なれば、聊か所労の心地とて、途中より引きかへし、松本と牒じ合せ、其勢八百餘人にて、黒川の館におし寄する、城に居合せたる者共、驚き騒ぎて防ぎけるを、悉く追ひ出し、四方の城戸を、さし固めてこもりける、城の近辺なる者共、俄に城中騒動するは、如何なる仔細にやと馳せ来るを、城戸口に待ちうけて斬臥せ突殺しぬ、後に松本、栗村が反逆と聞いて互に気遣をして、しばし出合ふ者はなし、此時凶徒等、棟門を立て竝べたる家々に、火をかけんとしたりけるに、佐瀬河内守、足軽共を引具して西の城戸口に駆付け、敵を四方に追散しければ、一支へもせず引いて入る、本名右衛門佐は、己が宿処二丸の城戸向ひなれば、最初騒動の音を聞くよりも直に東の城戸より本城にかけ入り、盛隆の簾中を介抱し、寶蔵の中に入れ、側には簾中にてつかはれける林甚次郎、森代又次郎、大場平五郎と云ふ幼年の童を附し置き、其身は近辺を立ちめぐつて、油断なく守護しける、此事急に東光寺に注進す、此上は御帰城叶ふべからず、速かに岩瀬に、落ちさせたまひ、重ねて仙道伊達佐竹の勢を催されて、御攻めあるべきやと、供奉の輩は周章さわぎけれ共、盛隆少しも驚かれず、奴原が反逆、思ふに左もぞあらんずらめ、一々に首をはねて、後来の見懲にせんととて、羽黒山を打ち立たれける、相従ふ者纔に百人に過ぎず、剰さへ弓箭甲冑せざれば、いかゞとあやぶむ者多けれども、大将すゝんで向はれければ、相従つて馳せ向ふ、黒川に残り居たる侍共も、追々に馳せ集りしかば、程なく五百餘人にぞなりにける、盛隆申されけるは、長沼の新国上総介は栗村下総が父なれば、後詰に来る事あるべし、急げや者共とて、駒に鞭をすゝめて黒川に引き返し、小田山の城を取囲んで、息をもつがず攻められける、松本、栗村は俄にたてこもりたる事なれば、防ぐ勢は少し、分内は廣し、只西よ東よと馳せめぐる処に、盛隆鑓おつとり一陣に進み、攻めよ者共と衆を励ましすゝまれければ、誰か少しも猶像すべき、透間あらせず城戸を破つて入り、火を散して戦ふに、城中負色に見えければ、双方の色を見合せ居たる者どもも、寄手に馳せ加つてぞ戦ひける、盛隆の近習大波主膳、同弟彌太郎は、向ふ敵五人を討取つて、終に其身も討死す、此兄弟は須賀川より、盛隆に附来りし者なるゆゑ、一入不便に思はれける、斯くて寄手戦ひ勝つて、城中の凶徒残り少に打ちなされ、松本太郎も討たれけるを、家人其首を深く泥中に押し入り置きたるを、夜明けて兎角探し出しける、栗村下総は手負ひ、戦ひつかれて臥居けるに、赤塚藤内と云ふ者、早松本は討たれたるに、栗村は何処にぞ、かゝる大事を仕損じて、北落ちたるかと喚はりければ、栗村これにあるぞと云ふまゝに、つと入りて赤塚を丁と突きけれども、赤塚元来健者なればつかれながら栗村を取つて引きよせ、押へて首を掻落し、朱に染みながら刀を杖につき、盛隆の前に首を持参しけるが、深手なれば次第次第によわり行きて、頼みすくなう見えけるに、盛隆申されけるは、さても今夜の振舞、類少きことぞかし、早々宿所に帰りて療養せよ、薄手なるに甲斐なくも弱りたるものかなと云はれけるを藤内きゝて、今はの際に御座候へば、憚なく申し上げ候、其此ごろ御勘気を蒙り居候に、推参仕り御免を蒙り、御詞を下さるゝ事、今生の思出これに過ぎ候はず、なき跡の義を頼み奉ると申しければ、盛隆、向後の事仔細あるべからず、心易く思ふべし、これを将来のしるしにせよとて、著せられたる羽織の裾を裁つて與へられければ、藤内、生涯の面目忝しと頂戴し、人に扶けられて己が宿所に返りつゝ、幼少の子供を近づけ、爾々の御諚なるぞ、構へて向後の事疎にな思ひそと、返すがえす教訓し、程なく空しく成りにけり、彼の藤内は、其頃笠目と云う処の地頭なりしが、さる仔細あつて勘当を蒙り、在所に籠居したりけるに、此騒動を聞くより、近燐の武士共と倶に、黒川に馳参るとて、我此頃御勘気を蒙りて籠居せり、此度松本か栗村か二人の内一人を討つて、生前に御ゆるされを蒙ろ歟、さらずば必ず討死すべしと思へば、無からん跡には、これを最後の物語と思はれよと、道すがら云ひつゝ出でけるが、はたして栗村を討ちしとなん、其夜の明方に凶徒を悉く誅せられ、其後面々が忠勤の甲乙を僉議せられけるに、づ一番先に佐瀬河内守を呼び出さし、今度不慮の騒動に汝最初に馳著き、城外の家を凶徒に焼かせず、其上早く本丸に攻入りたる事、抜群の働きなり、汝が父源兵衛は近国に隠れなく、武功の名を得たる者なれば、我が家の名誉なり、父の名を稱すべしと常々云へども、父が名の世に高かりしを憚りて、辞退したりしが、今度の勤賞に、強ひて源兵衛になすぞとて、盃を賜はりぬ、二番に本名右衛門を召し出し、昨日簾中をのけたる振廻、神妙なりと感じ、名を讃岐と改め盃を賜ひ、次第に忠賞をぞ行はれける。 新国上総介降参事 盛隆思はれけるは、磐瀬郡長沼の城主新国上総介は栗村下総が親なれば、子の謀反を知らぬと云ふ事あるべからず、此次に誅戮すべしとて、千餘騎の兵を引具して、長沼に押しよせ、二重三重に取巻いて、鬨をどつとあげらる、新国兼て家人に下知しけるは、必ず屋形に向ひ奉りて、弓ばし引くな、鉄砲打つべからず、只攻め入る輩を防ぐべしと申しける、寄手も四方を打囲んで夜を明す処に、早天に上総が許より寄手の陣中常に親しき者共の方に使を遣はし、御辺達を頼んで屋形に申し上げたき仔細ある由を云ひ越しければ、沼澤出雲等を始め、二三人打ちつれて城に行きけるに、新国は城中綺麗に掃除し、兵具等を竝べ置き、さて面々を是まで請じ申す事、別儀にあらず、某所存の通りを屋形に申し上げて、後潔く切腹いたさんがため也、各よく物の心を聞きたまへ、今度下総が由なき者に頼まれて、謀反を起せし事、親なれば某増をも知りたらん歟と思し召す、是れ一つ、又は親子の間なれば、下総討たれまゐらせたる故、折に触れて、上に恨を報じ申さんかと思し召す、此二つにて御馬を出されたるならん、されども下総は常に不義の事のみ多き故、度々不通致せし事、各御存じの処也、惟何の日か憂目を見せつらんと、うとましく存じ候へ共、是は私の覚悟にてこそ候へ、歴然親子の事なれば、上の御疑心は理至極に存ずれば、某尋常に切腹いたすばし、併しながら、此の如く異儀なく腹を切らんずる者が、など憖ひに籠城したるぞと、思ひたまはんなれども、某不肖ながらも盛氏公より此境目の城に置かれたれば、申すはいかゞに侍れども、さる者有りと、隣国までも、沙汰せられたる身の、何の仔細もなく切腹いたさば、さすが名将の、御眼力の甲斐なきに似たれば、一先づ屋形の御馬を向けられたる上にて腹を切らば、實にも名将の恩顧の程もことわりと、沙汰せられんとの志までに候、所詮方々早々御帰りあつて、此事よき様に申し上げられ、検使を賜はらん事頼み入り候とて、更に余儀ありとも見えざれば、頼まれたる者共身方の陣に帰り、上総が心底具に披露したりければ、事の始終を僉議せられ、新国を赦免ありて、盛隆は黒川に帰られけるに、新国は一僕を従え、頓て黒川に来り、恩免の忝けなき由ぞ謝しける。 葦名亀王丸誕生竝大庭三左衛門弑盛隆事 天正十二年九月中旬、盛隆の内室男子誕生せられければ、廼ち亀王丸と號け甚だ喜悦せられける処に、十月十日に不慮に逆臣の為に弑せらる、其仔細を尋ね聞くに、盛隆先年二本松に赴かれしとき、町屋の内を見入られけるに、齢十四五ばかりの童、容儀いとすぐれけるが、手に一枝の花を持ちながら書を読みて居たりしを、盛隆不囲目とゞまりて、元来男色に耽る心深かりければ、使を以て此子を所望せられけるに、其父母、奉らんは易き事に候へ共、天性鳴呼の者なれば、行く季いかゞとて同心せざりけるを、強ひて請ひ取りつゝ乗代の馬ののせて会津にかへり、大庭左衛門と稱して、寵愛斜ならず、然れども、程なく又外の美童に心移りて、三左衛門は疎にもてなされけるに、譜代の子共、此間三左衛門に権をとられたるを憤り、妬ましく思ひし折からなれば、さしたりつる事よと悦んで、目引き鼻ひき?り笑ひ、後には眼前にても嘲弄したる故、三左衛門大に怒りて、胸塞り心迷ひ、彼の者共を打つて腹切らんかと、千度百度思ひしが、いやいやこれは彼等が云ふにはあらず、畢竟屋形のつらき御心より起りたれば、数ならぬ奴原に恨を含むにたらず、いかにもして時節を伺ひ、盛隆を一太刀恨みまゐらせんと、一筋に思ひ籠めける、或夜、常に親しき者共を呼びあつめ、種々饗応し、通夜酒宴に及んで、客各退出しけるとき、三左衛門、あら名残惜しやと云ひけるを、後にぞ思ひ合せける、既に其夜も明け、十月十日の早朝に、三左衛門沐浴し、出仕の衣類常よりも、美麗に引きつくろひて出でける、斯る折ふし盛隆は、躬ら鷹をすゑて、南の縁柱に靠りて居られける、側に近習一人もなかりければ、、三左衛門願ふ所の幸ひと、刀を抜いて走りかゝつて切りけるに、盛隆も心得たりとて、脇差に手をかけられしを、二の太刀にて切りふせ、追手をさして逃出づる、諸士この事を聞いて駭き騒ぎ、盛隆の死骸の側に集まり、大庭を討留んと追駆くる者一人も無かりける、其中に童坊一人、三左衛門を追懸けて走り出けるに、折節種橋大蔵と云ふ者、番代りに登城しけるを見かけて、爾々と呼はりければ、大蔵心得たりとて、西の城戸口に追い詰め、三左衛門を斬りてけり、斯く浅猿しき世の中なれども、せめて亀王丸ましませば、これを守立てゝこそと、舊恩を思ふ輩、其志をひとつにしぞ居たりける。 |