新編東国記



巻第三(抄) 天正十二年に起り同十三年に終る

巻第三
伊達政宗家督相続附大内備前背伊達家事
常州田野合戦事
關柴合戦事
松本備中父子示現寺樹芳事
猪苗代弾正隠謀事
政宗被議攻四本松事
小手森落城事

伊達政宗家督相続附大内備前背伊達家事
天正十二年十月、伊達輝宗の子息政宗十八歳になられけるに、家督を譲られしかば、近隣の諸大名より使者を以て祝詞を述べらるゝ内に、会津方に属したる四本松の大内備前も米沢に行きて、家督の祝儀を申しければ、政宗対面せられ、されば御辺当家に年久しく入魂なりし処に、中ごろより打絶え疎遠になり行きぬ、今よりしては先年のごとく在府せられよかしと申されけるに、備前、仰畏つて候、然る上は宅地を一箇所賜はり候へと望みければ、廼ち請に任せて與へらる、備前米沢にて越年し、明くる正月はじめに成つて申しけるは、いまだ残雪も深く餘寒激しくして、屋作も成らず候へば、雪消え候内在処に参り、程なく妻子を引具して、出府致し候はんと望みければ、政宗、何様にも便宜に任すべしと有りければ、備前は四本松にぞ帰りける、其後春は漸く過ぎゆけども、曾て出府の沙汰なければ、遠藤山城が方より、度々催促したりけるに、一向懸隔の会釈なれば、政宗大きに腹立せられ、よしよし其儀ならば押し寄せて、討つてすてんと云ひけるを、輝宗兎角云ひ慰め、宮川一色斎、五十嵐蘆舟斎を、備前が方に遣はして、色々意見ありけれども、聞き容れざるゆゑ、此度は政宗より片倉意休、原田休雪を使として催促せられけれども、同心せず、政宗父子大に怒り、原田左馬助、片倉小十郎を喚んで、今度備前が違変の事、畢竟会津よりの所為なるばし、其故は、始めは仔細なく伏従したる者が、今更かゝる次第、当家を蔑する処、甚だ以て遺恨也、此上は速かに会津に発向し、鬱憤を散ぜんと思へども、彼の地は、何方より寄するとても、皆嶮難の路を越ゆれば、兼て身方に心を合する者無くては叶ふべうも覚えず、面々は思按いかがと問はれければ、左馬助承り、御諚に就て按じ出したる事の候、某が与力の内平田太郎左衛門と申す者の、会津の所生にて候へば、彼と談合仕らば、いかなる謀も御座あるばしとて、頓て平田を呼びよせ、此儀如何にと談じければ、平田仔細なく領掌し、密に会津にゆき、關柴に任せる松本備中、同弾正をかたらひけるに、父子共に易々と同心す、穴沢九郎五郎も同心しければ、此上は政宗は穴沢を按内者にして、檜原口より向ふべし、新田常陸、原田左馬助は松本を按内者にして、搦手より廻り敵打つて出でば、追手搦手揉合せ、雌雄を決すばしとぞ、下知せられける。

關柴合戦事
去程に天正十三年五月二日の夕、米沢より侍十騎計り、松本備中が關柴の館に忍び来り、北方五十余箇所の在家に火を懸けたれば、こはいかに何者の所為ぞと、周章騒ぎて黒川に注進す、然るに先年盛隆生害の後は、何事も総て富田平田等が成敗に任せたれば、右両人軍兵を催促し、黒川を発して塩川の七宮自然斎が館に著きて、各僉議しけるは、抑も是れ程の一大事を、備中等が思按ばかりにて、思ひ立ちたるにては有るまじ、身方の中にも彼が一味の者あらん、殊に今此河を越えて大敵に向ふ跡にて、若し橋をはずし、裏切を為ば、たとひ我々いか程、武く思ふとも、やみやみと討死すべし、左あらん時は、葦名累代の御家忽ちに滅亡せん、兎角今度は一大事の合戦なれば、所詮此川を前に当て、寄せ来る敵を支へて幾回も戦はんに、身方は万事に便よければ、敵必ず利を失はんか、其上にて敵の機に乗つて、追討ちにすべしなど申しけるに、中目式部大輔進み出で、方々の由なき長僉議に、時刻移り行き候、某が儀は各御存じの通り、慶徳善五郎と無二の入魂にて候に、今度敵乱入し、北方を焼拂ひぬれば、慶徳一人にて大勢を引受けば、定めて討たれ申すべし、斯る事を知りながら目前にて討たせて罷り有らんは、武道の本意に非ざれば、某一人なり共慶徳が館に馳せ行き、安否をともに決し申すべしと云ひければ、各言を揃へて、いやいや是れ程の一大事を指置き、私の義不義を論ぜんや、只いかにもして領地を敵に奪はれず、御家相続の思慮こそ専一なれ、御辺假令慶徳が方に行かるゝとも、今時の世の中なれば、彼若し敵に一味の志あらば、如何為んやと云ふ、中目云はく、方々の宣ふ如く萬に一つも慶徳心変と見申さば、即座に押竝べて引組み刺違へんに、何の仔細か候べき、所詮某は、各の思按には同じ打出でけるに、本名木工允は、元来中目と合体なれば、同じく伴ひて慶徳が宅にぞ赴きける、暫くて両人は慶徳が方に行きて見るに、夜既に曙に及んで、未だ門を開かざれば、中目さし寄り門を敲き、内に入り、慶徳に対面し、塩川にて面々爾々の僉議なるを、我は如斯云ひ捨てて来りぬ、さても世の中の事、備中が所為ゆゑ争乱に及びぬる事無念には候はずや、此儘にて取籠められ、やみやみと討たれ給はんより、いざ此方より逆寄にして、思ふ敵に逢うて共に討死せばやとて、都合七百余人にて慶徳を打立つて小荒井宿にかゝり、街道を直に寺窪と云ふ所に至つて、見渡せば、新田、原田は、三千有余の軍勢を二手にわけて、新田は先陣に進んで、土橋瀧川を打越え、稲田の白山の前に陣を取る、原田は二陣に控へて、大用寺川の彼所総社原に陣せり、ここに塩川にさゝえたる、黒川勢の内佐瀬源兵衛は、中目式部大輔が弟なりしが、兄が先駆して、総社原に向ひしと聞き、己が手の足軽竝に一味の者共を引具し、塩川の街道勝里にかゝり、新田常陸はさゝへたる処に一文字に突いて懸り、散々に攻め戦ふ、米沢勢の中より藁品左近と云う者、群に勝れて馳廻りけるに、黒川勢の中より棚木何某と云ふ者駈合せ、馬上にてむずと組んで落ちけるが、刺違へてぞ死にける、是を軍の初めとして、入り乱れてぞ戦ひける、又寺窪に控へたる中目、慶徳は原田が陣を、目に掛けて、大用寺川を渡つて打つて懸り、塩川に残りたる黒川勢、佐瀬、中目に抜懸に先を越されたる口惜しさよとて、熊倉の街道を真直に、総社原に押寄せつゝ、鬨を揚げて攻め掛り、黒烟を立てゝ揉んだりける、伊達勢は山路の嶮難を越えて、疲労に及ぶといへども、元来義を重んじ、命を軽んずる勇士共なれば、爰を追立てられて嶮岨にかゝつて引かば、争でか一人も助かる者有らんや、迚も死なん命ならば一足も退かじと、互に衆を励して、防戦聊かも怠らず、敵味方討たるゝ者数を知らず、屍は横つて道路を塞ぎ、血は流れて野草を染む、終日戦ひくらし、手負も甚だ多ければ、勝負は後日にこそと、双方勢を引きあげて、人馬の息を休めける、斯る処に政宗は兼て五月三日に出陣と議せられけるに、如何したりけん総勢いまだ集らねば、先づ長井勢計りを召し具して、檜原より打入られけるに、黒川より此口を押へける、三瓶大蔵以下の兵路を塞ぎ、通さじと防ぎけるを、やうやうに打散して通られける程に、思ひの外に遅滞して、日も西山に傾きぬれば、山中に夜を明し、翌未明に白石を先陣として、萱峠まで打上げらる、白石は五六町先立つて、長坂と云ふ処を下りけるが、折しも五月雨降り続き、いとゞたに滋みが本の路の季、山隘の霧深かりしかば、本陣に使を立て、かゝる不審細路を、通り候だに心元無きに、今此前後を分たぬ霧の中に伏兵有つて、若し駈出づる者ならば、一楯も立合すべしとは存ぜず候、一先檜原に御陣をすゑられ、総勢の来り集るを御待ち有つて然るべく候と申しければ、政宗實にもと同心せられ、萱峠より檜原に陣を移され、暫く総勢をぞ待たれける。

松本備中父子示現寺樹芳事
今度松本備中は、譜代の主君に弓引きける天罰にや、關柴の合戦に黒川勢沼澤出雲に討たれければ、其子弾正は、如何なる所存にや、何処ともなく落ちうせぬ、備中が父長門は、齢既に九十に及び、行歩心にまかせざる故、黒川に残り居けるを、無道人の親なればとて、富田、平田等が下地として、天寧寺河原に引出し、串刺にして失ひける、是に就いて護法山示現寺の住持樹芳東堂も備中が弟なれば、兄を討たれ父を害せられたる上は深く憤り思ふらん、しかるを沙門なりとて赦し置かば、後日に必ず臍を噛むの悔有るばし、事の序に此法師をも方便て誅すべしなど僉議しける由、樹芳ほのかに聞いて、こはいかに口惜しき沙汰哉、兄備中無道人なればとて、我なんぞ累代の主君に対して、野心を含まんや、然れども黒川の面々、科なき沙門を疑ひ、斯る沙汰に及びぬる上は、如何様に謀りてか、誅せられんも知れず、所詮要害を構へ楯籠り、非常の枉難を免れ、辞を盡して陳謝し、それにても叶はずば、恨の箭一筋射掛けて尋常に自害せばやと思ひ定め、兼て相知りたる地下人を驅催し、護法山の尾崎なる、坂口纔八九間が際に、土を高く築きて通路を塞ぎ、東方の鼻を山際迄、深さ七尺計りに乾堀を掘通し、額には柵を振り、門前の渓水を堰入れたれば、程なく碧水蕩々と湛へ、緑樹森々と深うして、たとひ内より矢一箭射出さずと云ふとも、左右なく打入るべきようは無かりける、殊に一途に、思ひ切つたる者共なれば、易々と討たるべくはあらねども、曾て弓箭の道を知らぬ僧徒の、纔なる一山を頼にして、郷民百二百、驅集めたるを、事々しく甲冑を帯し、軍勢を催して攻め討たんも、世の聞え穏かならず、兎やせん角やせましと、僉議區々なりけるが、法師なりとてゆるしおかば、武威の足らざるに似たり、此上は彼の僧が心底を糺明し、必定任侠のふるまひせば、押し寄せ討つて棄つばしとて、黒川より大勢を遣はし、先づ護法山の此方なる河原表にひかへて、使を示現寺に遣はし、此頃僧に似合はざる闘諍を企て、勢を集むる聞えあり、若し心底に別儀なくば、速かに出でゝ意趣を述べられよと云ふ、樹芳聞いていや某が心より起つて、思ひ立つたる事には候はず、備中が弟なれば反逆に與しぬらん、方便て誅すばしと沙汰これある由、告げ知らする者候へば、敢て野心なき身の、屍に恥を晒さんより、暫く要害を構へ急難を免れ、逆意なき仔細を陳じ、それにてもゆるされずば、討手の輩に一矢射て、自害せんとこそ存ずれ、奚ぞ慈悲を専らにする沙門の、嗔恚の闘諍を企て候はんやと、佛祖に誓ひて陳じければ、此上は各々疑心を翻し、黒川にぞ引き帰りける。

猪苗代弾正隠謀事
去程に政宗は、搦手の軍散じねる由告げ来りしかば、直に会津に押し寄せて、戦ふべきなれども、按内者に頼まれたる備中は討たれ、弾正は行方しらねば、不知按内の敵国に、そこつに攻め入らん事も、遠慮無きに似たりとて、檜原峠に向城を構へらる、此上ながら如何にもして、会津方の者一人身方に属せしめ、それを手引にやとて、伊達五郎成實を呼びて、相談せられけるに、成實少間思按して申しけるは、某が家人羽田右馬助と申す者こそ、猪苗代弾正盛国が家臣、石部下総と申す者と無二の入魂にて候へば、羽田を遣はし、盛国を語らひ見申さんとて、頓て羽田を呼出し、事の仔細懇に云ひ含め、成實も片倉も同じく状を認め、右馬助に相談す、又七宮伯耆は元会津より出でたる者にて、檜原より猪苗代へ遣はしけり、又伊達成實が居所大森は、二本松義継が方より近ければ、若し留主を伺ひ押し寄する事やあらん、大森に帰つて用心せよとて、成實をば、還されける、かくて羽田右馬助は猪苗代に行きて、石部に対面し、件の由を私語ければ、石部頓て許諾し、成實片倉が状を盛国が前に持参し、斯様斯様と語りけるに、盛国異儀なく同心し、面々に返書を認め、羽田に渡しければ、右馬助仕済したりと悦び、其日の晩景に檜原に帰り、盛国が返書を片倉、七宮に渡しければ、政宗これを披見せらるゝに、書面所望の事三箇條候、若しそれだに御承引に於ては、御手に属し忠勤を抽んづべしとの趣き也、即ち此状を嶺式部、七宮伯耆に持たせて、成實が方に遣はし、猶々盛国が陰謀を催促すべしと有りければ、成實悦び、此上は彼の盛国が所望の事を承り、重ねて注進仕らんとて、大森に住せる三蔵軒と云う僧、元猪苗代より出でたる故能き使也と思ひ、呼び寄せてかくと語り、盛国が館に遣はし、此度不慮に一大事を頼み候処に、早速の御同心、政宗喜悦斜ならず、何事によらず御所望の仔細あらば、某宜しく披露致すべしと、申し越しければ、盛国兼て望みの事を書認め、三蔵軒に渡しける、三蔵軒大森に帰り、返書を成實に渡す、成實披見るに、盛国所望の事三箇條、其趣に曰く、
一、某が計略より出て、会津御手に入り候はゞ、会津領地方を可下賜事
一、某より後会津方に忠節の者出来り候共、某を其者より被置坐上可被下候、伊達家累代の御方には、構無御座候事、
一、此陰謀を仕損じ、伊達に落行候はゞ、伊達中にて三百貫文の所領可被下置事。
廼ち此文を檜原に進するに、政宗つぶさに被見せられ、彼が所望の條々相違あるべからず、就中陰謀仕損じなば、早速落ち来るべし、苅田柴田の内にて、三百貫を充て行ふべき由、嶺式部、七宮伯耆を使として返事ありければ、成實が方よりは三蔵軒を遣はし、右と云ひ送りけるに、此度は三蔵軒二三日逗留し、大森に帰り、成實に語りけるは、さても不思議の事出来候ふ仔細は、盛国が申す條、今度の企を愚息盛胤に告知らせ候へば、以ての外に気色を損じ、某が陰謀の企を飜すまじくば、早速黒川に注進すべしなど申せば、いかにもして彼の者を申し宥め、重ねて此方より御返事致すべしとの事也と語りければ、成實大に驚き、檜原にかくと注進す、兎角する内に向城も出来しければ、警固には郎従の後藤孫兵衛を残し置き、六月の始めに正宗は米沢にこそ帰られける

政宗被議攻四本松事
政宗檜原より米沢に帰陣せられて後、七月始めに、伊達成實が方より使を以て申しけるは、猪苗代が陰謀の事、度々催促仕ると雖も、盛胤が主意によつて、事既に矛盾に及び候、併しながら此者の事は、亦如何なる計策も候はん間、其儘に捨ておかれ、先づ大内備前が去年よりの振舞憎ければ、此者を御攻めあるべきや、左も候はゞ、備前が方人の内一両人も御身方に語らせ申すべしと云ひければ、政宗も、同心せられける故、成實家人石井源四郎、大内蔵人とて、元は四本松の者なりけるを近付け、汝等いかにもして四本松の辺にて一両人も語らひ、身方に属せしめよと云ひ含めければ、畏り候とて刈松田に行き、青木修理亮に対面し、ひそかに此事を囁くに、青木も兼て備前が支配を受け、人質を取られたるを遺恨に思へる砌なれば、某が願ふ仔細候を、叶へだに賜はり候はば、身命を抛つて、忠を盡し申すべしと答へければ、二人の者共、其儀ならば所望の事を書かれよとて、一々記して受取り、大森に立ち帰り、青木が心底具に語り、件の状を成實に渡せば、直に米沢に注進するに、政宗承引せられ、所望の仔細相違あるまじとの事なれば、成實又大内、石井を青木が方に遣はし、御辺の所望の儀政宗に達し候へば、聊か相違あるべからざるの由に候、彌向後の事頼み入り候と、懇に云ひ遣はしければ、青木、所望の事は叶ひぬ、此上は如何にもして出し置きたる人質を取り返し度は思へども、為ん方なれば、よしよし今は人質代にせばやと思い、彼の備前が頼み切つたる郎従の子共、中澤九郎四郎、大河内九郎吉、大内新八郎と云う者の方へ書中を以て、此辺早追鳥狩の頃に成つて、常よりは慰多し、一両日中に来り給へと云ひ遣はしたるに、斯る企ありとは曾てしらねば、三人の者共、八月十五日の晩景に刈松田に行きければ、青木悦び、翌朝列卒少々催して、鳥数十四五を獲て館に帰り、様々に調味し、色々興を催しつつ、三人に酒を強ひければ、何れも上戸なれば引請けさしうけ飲む程に、前後も知らず酔臥しけるを、青木、戯にもてなし、酔の上にては思はぬ過も出来るぞやと、刀匕首を奪ひとり、ひしひしと押込めおき、小濱に向つて火を放ち、謀反の色を顕はせば、成實は羽檄を飛して、此旨を米沢に注進す、政宗、さては計略仕済したりとて、原田左馬助、小早川貞半、白石若狭、濱田伊豆守等を呼んで、汝等急ぎ大森にゆき、成實が指図に任せ、青木が方に後詰せよ、我も出陣すべしと下知せらる、四人の者共大森に馳せ向い、成實と相談し、刈松田の近辺館野と云ふ処に、陣を張れば、成實は立子山にひかへたり、同廿二日政宗も大勢を引率し、杉目に打ち出でらる、青木修理亮は、成實が指図に従い、使を連れて杉目に来り、正宗に謁しければ、今度の忠志感じ入り候、彌大功を立てられよとて、刀一腰を賜はり、四本松の境地を書図にすべしと云はれければ、青木頓て書師を呼び、大概を記せしめ進せければ、諸士をあつめて攻口の事共を議せられける。


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