巻第四(抄) 天正十三年に起り同十四年に終る 巻第四 高倉合戦事 會津勢退散事 二本松勢寄渋川事 二本松梅王没落事 庄内合戦附草刈備前謀畧事 葦名亀王丸早世附葦名義廣家督相続事 高倉合戦事 去る八月廿六日、青木修理亮を便として政宗仙道に発向し、小手森の城を攻め落されし後、打続いて小濱、四本松の城の落ちぬ、二本松義継は迚も懸合の軍叶はじとや思ひけん、偽つて降参し、輝宗を害すと雖も、即時に政宗に討たれぬれば、今は会津に属したる城とては、須賀川、高玉、阿子島辺ばかりなれば、会津四天王の者共此事を口惜しく思ひ、同年霜月中旬安積郡に打出で、同十四日伊達方に属したる中村の城を攻め落し、本宮、高倉辺の城を急に攻めんとす、政宗此由を伝え聞いて、小濱より岩津野に打出で、爰にて方々に軍勢をわかたるい、先づ高倉の城には富塚近江守、伊藤肥前守、桑折攝津守等に、旗本の鉄砲三百余挺を添へて籠めらる、本宮の城には中島伊勢守、濱田伊豆守、瀬上中務少輔、桜田右兵衛、玉の井には白石若狭守等を大将として、各軍勢を分つ、伊達藤五郎成實は二本松の押へとして渋川の城に居たりけるが、政宗岩津野に出らるゝ故、小濱に残れる軍勢も少ければ、早々来るべしとの指図に任せ、己が手勢多半は渋川に残し置き、其身は四本松にまはり、小濱に行きけるに、政宗は早岩津野に出馬せられ、成實来りなば、其勢を分けて爰にも置き、自身は岩津野に来るべき由云ひ置かれたるに因て、内馬場日向守、青木備前守以下三十騎を残し置いて、成實は岩津野に行きけるに、政宗対面して申されけるは、前田澤兵部少輔は、先日義継を討ちたる日より身方に属しねれども、又心を翻し会津方に一味すれば、定めて会津勢は彼の者を案内として、高倉歟本宮歟に働くべし、左あれば汝の辺に出向ひ、明日敵寄せ来らんずる用心すべしと下知せられければ、成實少しも猶予せず岩津野を打立ち、其夜は粕塚と云ふ処に宿しける、此事会津に聞えければ、白川、須賀川、岩城の人々一同に談合し、敵手々に勢を分けて防戦の支度と聞えねれば、此方よりも二手に分けて、会津勢に岩城勢を合せ、前田澤兵部少輔を案内者として高倉に向ふべし、相残る勢は直に本宮に向つて、政宗を中に取籠め、雌雄を一時に決せんと議定して、同十六日前田澤の南の原に打出で、尺地も残さず陣を取る、政宗此由を聞き岩津野を打立ち、其の夜本宮に陣を移さる、明くれば七日の未明に会津勢前田澤を立つて高倉に押し寄する、此事本宮に聞えければ、政宗も卒に勢を二手にわけ一手は伊達五郎成實を大将として高倉街道の山下まで差しむけ、一手は片倉小十郎、伊達上野介を大将として、太田原に向はしめ、高倉の軍の様に随ひ、助け合すべしと下知せらる、然る処に会津勢案の外に多勢なりければ、高倉の敵には目も懸けず、街道を直に本宮に打ちてかゝらんと、猶余も無くぞ通りける、伊藤肥前守、富塚肥前守等是を見て、如何に目に余る程の敵にもせよ、其まゝにて目前を通さんやと、一度に打つて掛れば、会津勢横合の敵を防がんと、少しためらひける処に、岩城よりの援兵の内に竹貫参河守と云う者、精兵の手垂六百余人を相具し、一陣にすゝんで下知しけるは、敵陣の先きに進むは足軽なれば、目な懸けそ、高く差揚げて繰箭に射よと云ひけるに、元来田舎者なれば、弓矢の用意こそ綺羅綺羅しくは見えねども、握太なる鎌矛弓のづく打ちたるに、猫潜と云ふ大雁股を打ちつがひ、一度にばつと放ちければ、郡立つ鳥の羽音の如く、虚空の暫し鳴渡つて敵陣に落ち掛りけるに、冑の鉢籠手の機会中る所をかけず、ふつとぞ射貫きける、敵是に少しひるんで見えければ、竹貫得たりやかしこしと、一度に抜連れ切つてかゝる、其中に窪田十郎は、茂庭五月と引組み、取つて押へて首をとる、参河守は長刀にて、能き武者一人切つて落す、上遠野因幡(後に弥生と号す)は敵二人を討取りける、是等を軍の始めとして、会津、岩城の兵共勝つに乗りて敵を山上に追上せ、一息ついて控へたり、本宮には、高倉に軍ありと見えて、鬨の聲矢叫の音夥しければ、急ぎ高倉に後詰せよとて、濱田伊豆守、白石若狭守、高野壱岐守等に、鉄砲百挺指添へて、高倉にぞ差向けらる、斯る処に一方より向ひたる石川、須賀川の者共は、濱田、白石等を見かけて跡を慕ひけるが、余りに小勢なれば、合はぬ敵とや思ひけん、続いても追はず引分しけるが、太田原に多勢控へたるを見て、一文字に打つて掛る、濱田、白石は、跡をば敵に隔てられぬ、此上は伊達成實が陣に馳加はらんと馬を進む、爰に成實が陣に下郡山内記と云ふ老武者あり、彼は輝宗の鳥銃将にて、度々の高名を究めたる者也しが、此頃聊かの事有つて、政宗の勘気を蒙つて、成實が許にありしが、小高き所に打ち上り、敵の方を見渡すに、濱田、白石等と覚えて、旗少々さゝせたる勢の、跡二町許り隔てゝ追ひ来る敵のい、鉄砲一つ二つ打ち合せ、相引にして此の其のまゝ馬を引返し、身方の陣に向ひ、早敵合近く候、油断し給ふなと呼はりければ、成實此由を諸勢に下知する処に、濱田、白石等駈けつけて成實が陣と一つになる、右て敵身方二つに分れ、高倉と太田原にて合戦数刻に及ぶ、先に濱田、白石等を追棄てゝ太田原に向ひたる石川、白川、須賀川の勢は、太田原の敵をば打捨て直に本陣に切つて掛れば、如何したりけん、本陣むらむらと騒立つて、既に敗せんとしける処に、原田左馬助、伊達元安、同上野介、同美濃守、同彦九郎以下の雄士踏止まり、向ふ者にわたりあひ、多くの敵を討たれけれる故、本陣少しも崩れず、伊達成實は、跡をば石川、白川の者共に隔てられ、前には会津、岩城の大勢を引受けぬれば、只一筋に討死と思ひ定めたりけるに、下郡山内記、しばらく虎口をくつろげ、敵の機に乗つて給へと云ひしかども、成實今年十八歳、勇気抜群なる若武者なれば、耳にも更に聞きいれず、勢を一所に屯し、静かに控へて待ち居たり、会津勢は直に本営に懸らんとしけるが、間近く成實がひかえたるを見て、小勢なれども事の体侮り悪くや思ひけん、人馬を息めてためらい居たり、斯る処に成實が陣より、伊場遠江と云へる七十三歳の老武者只一人進み出で、会津勢の中に駈入り、一人と太刀打しけるが、一人と引組み、取つて押へて首をとる、是を軍の始めとして、成實、濱田、白石等、弓手馬手に開き合せ、東西に駈破り、透間あらせず揉みけるに、さしも猛き会津勢、成實等が勇力に砕かれ、山下より南五町許り引き退く、成實が家人羽田右馬助群を離れて進みけるに、会津勢の中より、花やかによろうたる武者、羽田を目がけて馳せよせ、槍を以て丁と突く、右馬助、心得たりと馬を前に駈けあましけるに、突外し槍を引取る所を、右馬助透さず切つて落して首をとる、同く成實が家人中野八郎兵衛とて、無双の兵ありけるが、大太刀を打振り、向ふ者を幸ひに二十余人切り伏せける、後には刀の刃彫子の如く成りけるゆゑ、多くは鼓殺してすてにける、牛坂左近、萱場源兵衛、北新介も太刀打の高名す、かくて双方入り乱れ、追ひつ返しつ相闘ふ、勝負いまだわかれざる間に、夕陽既に舂くを見て、今日の軍は是迄とて、会津方一勢一勢引き立ちぬれば、政宗も軍勢戦い労れたれば、明日こそ雌雄を決せめとて、相引にして岩津野に陣をぞ取られける。 會津勢退散事 去程に会津四天の者共は、明日未明より本宮に寄せ勝負を決し、其後二本松に籠りたる者共に力を合すべしと議しけるに、米沢勢の退き後れたる者共一両人紛れ居て、此沙汰を仄聞き、夜半に岩津野に立ち帰り、由をかくと告げゝれば、政宗、さらば今宵より手当の用意すべしとて、山路淡路と云ふ者を成實が方に遣はし、敵陣には斯る僉議の由を聞き伝へたり、汝今日遠く身方を離れ、敵を前後に受けて敗北せず、剰さへ敵数多討取り高名せし事、希代の振舞感じ思ふ処也、人馬の疲労察せしむといへども、明日は敵本宮に寄すべければ、今夜の中に本宮に行き、明日寄せ来らん敵を待ち受け戦ふべしと、自筆の文を送らる、淡路、夜半過ぐる頃漸く成實が陣に至り、事の仔細を悉しく語り、文を成實に渡しける、されども夜既に深更に及びしかば明くるを待つて、東雲のたなびく頃、成實本宮の城に入りて、寄する敵を待ち居たり、然る処に会津方の運命の竭くる兆にや、佐竹よりの援兵の大将義政と云う者、夜中に頓死したりければ、会津四天の者共、頼みに思ひける義政かくなる上は、彼の手の兵共は本国に帰るべし、相残る面々の勢許りにては、強敵に向つて互角の軍叶ふまじ、一先づ黒川に引き返し、軍勢の気を助けて、後日にこそ軍はすべきけれと、陣々に諜じ合せ、本国にぞ引き取りける、伊達方には今や敵よすると相待つ処に、本宮より付け置きたる斥候の者共馳せ帰り、如何なる仔細にや、会津勢を始め諸手の輩、前田澤兵部少輔と共に引き退き候と告げゝれば、諸将不思議の事哉とて、追々に斥候を遣はして見せしむるに、彌敵引き退きしかば、其日政宗本宮に打出で、昨日の軍の事を尋ね問ひ、それぞれに感書を與へ、或岩は当坐の褒美を賜はり、本宮を立つて岩津野に移り、二三日逗留有りけれども、敵の寄すべき沙汰なければ、頓て小濱に帰陣せらる、彼此の忽劇に打ちまぎれ、今年も程なく暮れにけり。 二本松勢寄渋川事 同十四年、新たまの春に成りぬれ共、世は未だ無為の昔にも帰らず、去齢は、夏の始目より伊達、葦名の確執に因て兵革打続き、萬民一日も手足を置くに暇なかりつるが、猶今年は如何なる憂目にか逢ふべきなど語りあふ処に、去年十月二本松義継討たれし後、残り居たる家人等、嫡子梅王を守立て、いかにもして亡君の讐を復せんと、昼夜に伊達方の透間をねらひけるが、今日は元旦の祝儀に敵も油断すべし、いざや成實が陣所渋川に押し寄せて、其不意を討たんとて、去年義継と共に討死したりける鹿子田和泉が子鹿子田右衛門佐と云ふ者、侍百余騎、足軽千余人引具し、渋川にぞ向ひける、先づ陣所の傍なる茂みが陰に勢を蔵し、物馴れたる侍一騎に、歩立の者十人付けて先きに遣はし、敵のやうを見せけるに、折しも成實が陣より下部共出でゝ水を汲み居たるを、四方へばつと追散しければ、成實が家人共、すは敵の寄せたるぞとて、追々に出遇ふ処に、兼て蔵し居たる敵、一度に切つてかゝりければ、不意の事と云ひ、物具もせざるゆゑ、防ぎかねて引き退かんとするを、追討に切り立てける、成實が方に遊佐藤右衛門と云ふ大剛の者ありしが、只一人出逢ひて追ひ来る敵を支へ、進む者を二人切り伏せ、一人に手を負はせ、あたりを払つて切り巡る、志賀大炊左衛門もかけ付けて、横台に切つて入り、五人に手を負はす、羽田右馬助は折しも、他行したりけるが、此事を聞くと斉しく取つて返し、是れも横合に切り入り、四五人に手を負はす、遊佐は元来渋川の産にて、案内は能く知つたり、先きに進んで切つてかゝり、鹿子田を谷地に追ひ込み、敵三十余人討取りければ、敵負色になる処に、八町目に居たる米沢勢、渋川に敵寄せたりと聞いて、南に廻つて街道を遮り、敵を中に取籠めんと、二本柳に向つて馳出づる、是を見て二本松勢叶うはじとや思ひかくる、右衛門佐も流石の勇士なれば、細道の切所にて返し合せ、散々に戦ひしが、日の早入相になりけるゆゑ、相引にひき分る、成實方に討取る首数二百六十三、翌日小濱に之を送り、政宗実検せられける、鹿子田は二本松に帰りて、遊佐が働きを常に称美しけるとなり。 二本松梅王没落事 正月元旦渋川合戦の後は、伊達、二本松互に何事もなかりし処に、さりとも弐心あらじと、今迄頼み思ひける二本松梅王が郎党の中遊佐丹波、同下総、堀江越中、氏江新兵衛、三輪玄蕃允など云ふ者共、政宗の武威に恐怖し、迚も亡君の讐を復せん事叶ふまじ、此上は米沢に返忠せばやと密談し、折につけて政宗に申し入れける、我等が内三輪玄蕃允が宅こそ、栗が柵とて分内広く候へば、仮令一手の勢を差し向けられ候とも、蔵し置くべき間、ひそかに御勢を遣はされ候へ、我々手引仕り、たやすく梅王を追い出し申すべしと云ひければ、政宗も内外虚實を正し、同心せられける上に、彼の五人の者人質を出しぬ、此上はとて同年三月十一日の夜中、人数を栗が棚の三輪玄蕃允が許に遣はし、本町、杉田町両所に火を放ち、其周章の変に従ひ計ふべしとて、遊佐、堀江、氏江等も三輪が宅に馳せ集まる、然る処に彼等が陰謀如何にしてか洩れけん、梅王が叔父新荘弾正が方に聞えければ、さては奴原を一々に搦捕るべしとて、夜半過ぐるころ三輪が許に討手を差向くれば、驚破陰謀露顕し、討手の向ひたるはとひめき、一防がんとしたりけれ共、用なき婢女童まで寄集り、上を下に入み合ひて、太刀を振り鎗を堤ぐべき透間もなし、是にては叶ふばしとて、一方の塀を打破つて落ち行きけるに、寄手追ひかけて一人も残さず討取りぬ、其後政宗早速押し寄せて攻めらるべきと議せらるゝ処に、政宗違例の心地有つて、七月中旬迄延引せらる、されども梅王強敵に透間をねらはれ、始終こらふべくも覚えねば、同七月十六日二本松の城に火を掛け、梅王と弟七郎打ちつれ、会津をさして落ちにける、頓て其跡に伊達成實入替り、仮屋をかけ、此由を小濱に注進しければ、同二十二日政宗二本松に打出で、四方を巡見あつて、其日の晩景にぞ帰られける、其後二本松をば伊達成實に、大森をば片倉小十郎に、四本松をば白石若狭に充行はれ、八月初旬に政宗は米沢に帰られける、彼の梅王は会津に住し、天正十七年六月常州に落ち行き、江戸崎に居けるが、聊かの罪科に因て葦名義廣より、沼田出雲に命じて討たせらる、二本松家此に至りて断絶したりける。 葦名亀王丸早世附葦名義廣家督相続事 去々年十月三浦介盛隆不慮に生害せらるゝといへども、亀王丸襁褓の内にして家督相続せられ、今年既に三歳なれば、各行く末永く思ひける処に、今歳霜月中旬より例ならぬ心地なりしが、同月二十一日の朝はかなくならければ、附き従ひける輩、渡りに舟を失へるが如く、如何に成りゆく浮世ぞやと、悲みけれども甲斐ぞなき、されども亀王丸の姉あれば、近国の大家の子息を養子婿にして、葦名家を相続させ参らせんと僉議して相集まる輩、葦名の一族には猪苗代弾正盛国、金上遠江守盛備、中目式部大輔、旗下には白川の結城七郎義親(盛氏之婿)、田島の長沼豊後守實国、嫡子七郎盛秀、横田の山内刑部大輔氏勝、伊南の河原田治部盛次、家老には富田実作守、平田左京亮等也、御養子の事宣しからんと相談しけるに、富田、平田は伊達政宗の御舎弟よろしかるべしと云ひけれども、結城、金上竝に沼澤出雲守、渋川助左衛門等は、佐竹義重の御舎弟平四郎義廣こそ然るばからんと議定し、使者往反ありて、不日に迎へ取りければ、富田、平田を始め各是を憤りながら、是非なく月日を送りける、是ぞ君臣不和の基、葦名滅亡の兆なりと、後にぞ思い合せける。 |