巻之三十九 鴫山城趾 巻之四十四 久川城迹 巻之四十四 河原田要害迹 巻之四十五 河原崎館迹 巻之四十九 猪苗代城 巻之五十三 磨上原古戦場 巻之三十八 会津郡楢原組 楢原村 館跡 東西五十間南北三十二間 天正中長沼氏の臣星玄蕃某と云者住せしと云傳ふ 巻之三十九 会津郡田島組 田島村 鴫山城趾 本丸東西四十六間南北十三間、外郭東西一町十間南北二町五十間土居空隍の形存せり、又土門大門と云二門ありし跡なりとて石垣今に残れり、東北の方は地形漸漸に低く民家に続き西南は岩山によりて要害とす、鎌倉右大将家の時長沼悪五郎家政と云者下野国結城長沼より此に来り始て住し、其子孫代代此所に居りしと云、長禄の頃長沼政明と云者あり、(河島組絲澤村龍福寺に政明が位牌あり)塔寺村八幡宮長帳に長禄二年此城にて合戦の事を記せるは政明が時にや、又明応大永の頃長沼盛秀と云者あり、永政十八年黒川を攻んとて檜玉峠(大沼郡橋爪組福永村)まで兵を出せしが、残らず討れたる由長帳に見えたり、此盛秀が時にや(一説に此事を豊後守實国と云者の時とす)又龍福寺所蔵永禄元年の文書に長沼盛勝の名あり、(平五郎と稱し此時十四歳なりしと云)彌七郎盛秀(上の秀盛とは別人なり)は天正の頃の人なり、葦名没落の後伊達氏に降参し其後此地に終りしと見え、徳昌寺に墓あれども子孫いかがなりしにか詳ならず、其盛なりし頃は田島関本針生の三郷より立岩郷までも其所領なりしと云、今猶家人の宅址処処に残れり、蒲生氏の時北川平左衛門某を此に置き、上杉氏の時小国但馬某住し、蒲生氏再封の後蒲生主計某と云者居れり。 田島村 館跡 土人折橋館と云、東西二十六間南北二十四間、相傳て長沼氏の臣折橋某が居館なりと云、(湯田折橋星室井とて田島四天と稱せしぞ)土居隍の形猶存す。 巻之四十一 会津郡高野組 大豆渡村 大岩山 天正中田島の城主長沼盛秀伊南の河原田盛次と戦ひし時、盛次が支族河原田大膳某と云もの此に拠て敵を防ぎ遂に戦死せしぞ、因て此山を岩館とも云。 巻之四十三 会津郡古町組 多々石村 館跡 東西四十間南北一町、天正の頃伊南源助政信住せり、今民家となれり、源助は河原田治部少輔盛次が随一の郎等にてしばしば軍功あり、中にも天正十七年七月七日盛次和泉組簗取の館を救ひしとき伊達政宗に與せし木伏無庵同右馬丞など云者を討取りぬ、其後政宗盛次を討んとて伊南の地に間者を遣しひそかに盛次が家人等を話らひしに、源助間者を欺きやがて味方の二心ある者を糺し人質をとり、河原田を勧て上杉氏を頼み伊南の地を保ち政宗を拒きしとぞ、子孫当家に仕て今にあり。 巻之四十四 会津郡古町組 青柳村 久川城迹 東西一町南北四町、東西北三方に乾隍を廻す、北を本丸とし二丸三丸其南につづき間に堀切あり、東を追手とす、檜枝岐川其麓を浸す、北を搦手に構へ久川一條の長流を阻つ、西に山を擁し南は昿野に連る、屈曲して登ること二町余土人七曲と稱す、古木茂れり、山下の東北にも外隍の形遣れり、東の麓に升形の趾なりとて石垣猶在す、天正中河原田盛次住すと云、盛次は古町村の館にありしに伊達氏の勢攻寄すべきよしを聞き、彼地要害悪しければ新に此処に城築し據て防守りしと云。 青柳村 館跡 東西十九間南北三十間、天正の頃森大隅某と云者住せり。 小塩村 館跡二 東西二町間南北一町中山城と云、天正中河原田尾張某と云者住せり。 東西二十八間南北三十五間天正の頃馬場越後某と云者住せりと云。 宮澤村 館跡 東西四十五間南北二十八間大永の頃杉岸伯耆某と云者住せりと云。 宮澤村 塁趾 東西二町南北三町前には城先瀧とて高二丈余の瀑布あり、後には一騎打とてわずかに幅四間余の隘口あり、満山巌石岨ちて攀登るべからず、土人河原田要害と云、(旧事雑考)天文十二年の記に、七月二十一日葦名盛氏を率て河原田氏を攻んとて此地に来りしに、河原田氏其兵勢の敵すべからざるを知り避て此塁を構へ城口に支て防ぎしに、杉岸伯耆敵将種橋藤十郎と云者を打取り、又南泉坊と云修験此口にて防戦し比類なき働ありしと云は此地の事なり。 濱野村 館迹三 東西二十三間南北十三間、河原田左衛門佐某住せしと云。 東西二十八間南北十五間、何の頃にか羽染越後守某と云者住せしと云。 東西二十三間南北二十一間、何の頃にか鈴木五郎大信住せりと云、因て鈴木屋敷と稱す。 巻之四十五 会津郡和泉田組 和泉田村 館迹 河原崎館と云東西一町三十九間南北四十八間、河原田盛次が郎等五十嵐泉某と云者住せしと云、天正十八年長沼盛秀伊達氏の臣屋代勘解由兵衛梅津藤兵衛と共に此館に攻来る、時に盛次は郎等の富澤藤助宮床兵庫と云ものをそへ僅五十騎計を属して入れ置しが、手しげき軍して寄手これかために多く討れ大将勘解由兵衛藤兵衛も打死す、されども分内広して寡勢なり、寄手は多勢気を励まし攻立れば応援に機を失ひ御方残すくなに打なされ、大将富澤も戦死し兵庫と和泉のみ遣りしが、二人相共に謀て敵を欺き辛うじて盛次が久川城に帰りしと云。 簗取村 館迹 東西五十間南北三十七間、応長の頃葦名盛宗の家臣三河権守宗景と云者築く、後何の頃にか山内上総某と云者住し、天正十七年伊達氏の臣原田左馬助が為に攻落されしとぞ(此時何人守りしや傳へず一説に上総が子簗取左馬丞某が時にして即伊達氏に降ると云)。 小林村 館迹 東西二十間南北十八間、塔寺村八幡宮長帳に、享徳二年八月十二日典厩伊南の河原田をたのみ労を休め、やがて同二十八日に伊北小林の館落るとあり、典厩は何人なることを知らず、天正十八年長沼盛秀と布澤上野助同信濃が為に攻落さると(四家合考)に見えたり、村老の説には文亀中山内大和守俊光と云ものの郎等堀金左京某と云者住し、天正中中丸三郎左衛門某と云者住せりと云。 瀧原村 館迹 東西三十間南北二十九間、何の頃にか佐久間備中某と云者住せりと云。 布澤村 館迹 東西二町南北一町間天正の頃布澤上野助俊勝と云者住せりと云。 大倉村 館迹 東西十九間南北二十一間、永正の頃横田某と云者築き天正中新国隼人某と云者住せりと云。 巻之四十六 会津郡黒谷組 黒谷村 館迹 東西二十五間南北四十間、何の頃にか山内兵庫某住せしと云。 泥島村 館迹 東西二十間南北二十二間、何の頃にか斎藤久太郎某と云者住せしと云とも詳ならず。 熊倉村 館迹 東西三十間南北十八間、永禄の頃目黒七十郎と云者住せしと云とも詳ならず。 楢戸村 館迹 東西三十九間南北四十五間、横山春信住せりと云。 只見村 館迹 東西一町四十間南北一町十間水久保城と云、天正中山内氏勝ここに拠て伊達勢を防ぎしと云。 巻之四十九 耶麻郡猪苗代 猪苗代 猪苗代城 此城は若松の枝城にて弦峯の続きにあり、亀城と云、府城の東北に当り行程五里、本丸は山をかたとり、二の丸と三の丸とは平地にて土居を築き隍を廻らし、搦手は帯郭の後山の腰を堀切り空隍と水隍と二重に要害を構ふ、元和の末までは半坂の西北より新町本町の東南まで外郭ありて隍をめぐらし土居ありて五門を開きしが、加藤氏の時毀ちしや今はなし、城の東北は市店にて西南は田園なり、この城は佐原大炊助経連が居所なりしにや、経連は遠江守盛連の長男にて光盛の異母兄なり其子孫代代此所に住し、耶麻郡半郡を領し猪苗代の主なりしと見ゆ(経連三子ありて共に従ひ来り此辺に住せしと云氏族も多かりしにや猪苗代の緒村に三浦某の古館と云傳るもの多し)経連の事(東鏡)寛元元年同五年に見ゆ、永徳の頃三浦時盛と云者あり、其父某の菩提に隣松院と云寺聞けりと云(今下館村にあり)又長帳に永正八年猪苗代より黒川を襲ふよしあれば其頃までは黒川の葦名と抗せしと見ゆ、何の頃より降て葦名の臣の如く成しにか詳ならず、(旧事雑考)明応三年の記に、四月十二日伊達尚宗植宗父子合戦敗れて猪苗代に入るとあり、又文亀年中葦名氏の為に猪苗代氏父子討れしと見ゆ、猪苗代氏父子と云もの其名を知らず、凡て猪苗代氏歴代の事詳ならず、長帳に「いなわしろとの」と記せる処多けれども誰人なるや考ふべき便なし、磐掎社の灯籠の銘に平盛為と彫附しは盛国が父祖なるも知べからず、其裔弾正盛国に至り、天正十三年五十歳にて嫡子盛胤に家督を譲り、本城の西弦峯に住居を構へ隠居せしが、幾程なくて又新地(今に半坂町の北菜園の中に其遺址あり)に遷りき、盛国後妻の讒を信じ、盛胤を悪み、再び元の身に復らんとたくしみに因り父子の中久く和せず、是よりさき伊達政宗檜原に逗留せしとき、会津を攻んと謀り盛国を語らひしかど、盛胤同心せずして事やみぬ、同十六年盛胤黒川に伺候せし隙を伺ひ盛国手の者どもを引具し本城へ理不尽に入けるに、有合たるもの周章騒ぐ処を手の下に薙捨て心安く再び住すかかりければ、盛胤進退途に迷い、まづ安積郡横澤(今は二本松領に属す)と云所に住居せしか、既に合戦に及び父子の争を引出し騒乱大方ならず、斯て此事隠なく黒川に聞えければ義広腹立して詮なき争を仕出し、上を蔑のしたる振舞なりとて暫く盛国を折檻して籠居させしが後勘当を免されても、萬つ年来会釈とは事替りければ遺恨をいだき陰謀深く遂に伊達勢を引入て同十七年磨る上の一戦に葦名累代の宗社を覆へし、其身伊達家に属せり。 巻之四十九 耶麻郡川東組 金曲村 館跡 東西三十六間、南北三十七間、四方に隍の形存せり、永享の頃岡部山城又六郎某と云者居りしと云、天正中三浦盛国が郎等大堀土佐某・秋屋平右衛門某と云者を壺下口の押として入置けり、盛胤父に追出され横澤に居りしが、兼て父子の中和せざれば、父の所領を犯さんとて、天正十六年七月十四日、小船四五艘に取乗て湖水をわたり、此処に不意に押寄せ、散々に攻め、二人の者共忰へ兼て落行しかば、盛胤頓て入替る盛国十五日の早朝に矢内八郎左衛門・広瀬藤内・遠藤太郎兵衛(共に諱を失ふ)と云者に足軽をつけて差越せしを、盛胤を打手の向ふ由を傳聞き中途に出向て一軍す、広瀬遠藤等は首数二十一打取、既に引返さんとする処へ後れ驅の勢驅付て又一軍し、若干の郎等打取て猪苗代へ帰り盛胤も又相引に引て再び楯籠る、されば盛国は盛胤を打もらせるを安からずおもひ、遂に自押寄せ陣を取る、かくて猪苗代の騒乱大方ならず、折節盂蘭盆会の斎日なれば僧侶とも集り、懇に取持しかば、共に軍を引しと云、其後この館も廃せしにや、今は菜園となりぬ。 巻之五十三 耶麻郡川西組 磨上新田村 古戦場 村の四方十二里の間は磨上原と稱す放鷹の地にて鶉雲雀の獲多し、相傳ふ、文治中源義経東に下りし時、武蔵坊弁慶・亀井六郎従い来り、路傍の石にて墨すり、山水の美を記せしとて、今猶硯石と稱へ、周六間計の石あり、此地は打開け、南下りの曠野にて、天正中伊達葦名戦争の地なり、其事の始は猪苗代盛国政宗に頼まれ、葦名氏に叛んとせしを、子の盛胤が諌にて事やみぬ、天正十七年己丑・伊達・葦名再びの確執より、高玉阿子島まで皆叛きしを見て、盛国、伊達氏に属せんとおもひし折節、政宗の臣伊達藤五郎、片倉小十郎と談合し、盛国に陰謀をすすめんとて、政宗の陣所大森に行、しかじかの事政宗に申て書簡を認め猪苗代へ遣しければ、盛国仔細なく同心す、其後彌催促の為に同六月朔日藤五郎・小十郎盛国が許に来り軍の評定せしが、此時黒川より坪下口の押として、二百余騎猪苗代の非常を守らせしを、盛国詐謀を廻らし黒川の返す、又政宗に信をあらはさんため我子の十三歳なる亀王といへるを、政宗の陣阿子島へ遣して質に渡す葦名義広磐瀬にありて此由を聞き、心許なしとて、六月四日一まず会津に帰る、盛国既に藤五郎・小十郎を引入れ、みずから案内して磨上原に打出て陣所を見計ひ軍の評定し、近里を焼散して猪苗代に帰る、然る処に政宗布施備後を使として汝等敵地に長居せしも心許なし、押付其地に打入るべきよし藤五郎・小十郎が方へいひ越ければ、二人の者驚きいまだ事の始終も調はず、御出張は詮なし、まず本宮に御陣をめさるべしと返答す、政宗既にかく有べしとさとり、備後が途中まで使を出し一刻もはやく大将の御出張をまつよし言葉をかへて復命させ、政宗は面々急ぎ兵糧つかへ馬に飼て、先より先へ打出よと左右に下知し、総軍をば坪下越を打越させ、其身はわずか十七騎にて石筵越して猪苗代へと急ぐ、藤五郎・小十郎今朝返答の上は斯あるべしとも思はざりしに、其由を聞て驚きつつ、早々酸川野まで出迎ふ、政宗猪苗代に着しは其夜の事なり、かくて黒川へ告来りければ、義広扨は盛国はや叛きけるよ、勢のあつまらぬ先に追散らせとて、やがて富田将監を先陣とし、其夜磨上原に向ひ、普藤の東なる高森山に陣をとり、先陣将監は湯田駅の邊まで打出たり六月五日早朝に政宗勢をわけ、八森に本陣をすへ、弾正盛国を先陣とし、片倉小十郎・伊達藤五郎・白石若狭等相續て備へけり、互の先陣吹渡と云処にて打合せしに、盛国が勢ども散々に打れ開き靡きしを、将監追懸しかば、先陣の崩懸るに揉立られ、二陣まで崩れけり政宗これを見て、太郎丸掃部に鉄炮二百挺差添先陣に力を合せよと下知す、掃部馳付つるべ放しに横様より打せければ、将監進み兼る処を将監の手の者共も筒口を揃ひ打懸しかば、掃部が勢どよめく所を忽に馳散し追懸けり、掃部今政宗に事ふれども、舊は葦名累代恩顧の者なり、将監かねて今度の振舞を悪みしに、掃部一騎東を指てにげ行ければ、将監馬を驅着て指物の根筒をつかみ、馬より引落さんとせしを、後より七宮木工助追続きしかば、将監由なき敵に目を懸じとや思ひけん、掃部を突落し首を掻けとて七宮に渡し其身は先陣に進む、伊達勢かく崩れ騒ぐを見て、藤五郎・若狭馬を西頭に驅せ、七森の間まで旗を進めければ葦名方にて敵既に後へ廻ると思ひ、進退猶豫せる程にかねて大縄刎石と富田平田と権を争ひ、思ひ思ひに成たる葦名方互に心を置き、周章騒ぐを伊達勢利に乗り切懸る、此日は西風稍強かりしに、折しも風変りて磐梯より東風俄に吹下し、兵塵みな葦名の陣へ吹懸しかば、敵味方を弁せず葦名勢引連て散乱せり、義広今日を限と思ひ定め、旗本勢四百余騎を進め八森に向ふ、政宗これを見て手痛き軍することなかれ、敵の機に乗り事をあやまつなと左右に下知し、やがて相懸りに懸り、散々に戦ひしが、義広ただ本陣に打なされければ、心ある郎等とも勝敗は今日にかぎるまじ、姑く引返し給へとて義広の馬の轡をとり、僅三十騎にて引返す、日橋は敵既に引落しぬ、大寺より西に下り堂島橋を渡り黒川へぞ帰りける、佐瀬八郎も群る敵に馳入て散々に戦ひ痛手をおひ、落合村の東にて打れぬ、河原田治部少輔盛次檜原口を守り、大塩に居りしが今度の戦を聞き此所に向ひ、味方敗軍の體を見て片倉と戦ひ、首七打取けり、金上遠江守盛備津川の居城より馳来り、葦名敗軍の體を見てつらつら思ひしは、味方度々勝に乗りしを、宗徒の者ども心々になり、身にそまぬ軍すればこそ斯は打負たれ、かかる敗軍何ぞ一人も打死するものなき、いでや我一人も国難に死せんとて、追来る敵を支て一軍し、一足も引ず打死す、その余葦名勢敗走し日橋川に溺れて死するもの数を知らず、磨上の役散して後政宗首を実検せしに、其数千五百八十三とぞ聞えける、かくて義広は遂に常陸の佐竹に奔り、寄公となり其後政宗黒川に入しが、同十八年豊臣家其剽掠の地を削り、羽州長井に遷し給ひし。 巻之五十八 耶麻郡檜原村 檜原村 館跡 村より亥の方三町戸山にあり、東西三十五間南北一町六間、土居空隍の跡遣れり、南を大手とす、文明十八年此地に山賊多く文太郎といへる者を張本とし、無頼の悪党集て往来の旅人をなやます、会津の領主葦名盛高穴澤越中俊家と云者に命じ之を誅せしむ、越中三百余人の郎等を引具して馳向ひ、山賊二百七十余人を討取て還ければ、盛高感賞して貞宗の刀と境野・寺入・道知窪(共に大沼郡にあり)三箇村をあたへて此地にをき、出羽国の押とす、越中即此館を築て移住し、檜木谷地を改て檜原と号く、檜木多く東南の方萱原なるによると云。 |