旧家  大沼郡編



巻之八十一 渡部長門綱孝の事
巻之八十三 中丸新左衛門俊朝の事
巻之八十三 横田土佐の事
巻之八十四 管家太郎左衛門善高の事
         横山帯刀道吉の事
         新國右京義方の事
         高根澤左馬助の事
         瀧澤河内忠長の事
         横田出羽の事
         須佐下総信重の事


巻之八十 大沼郡瀧谷組
瀧谷村 旧家
山内吉右衛門(大沼郡瀧谷組郷頭)先祖は山内攝津守長俊とて葦名氏の旗下隣、此村に住せり、其子を内匠俊基と云、今の吉右衛門が九世の祖なり。

巻之八十一 大沼郡大谷組

大登村 旧家
十郎右衛門 祖先は渡部長門綱孝とて代々山内の重臣にして、大登・桑原・河井三村を領す、伊達正宗会津乱入し、山内氏勝政宗を方便て所在に帰るに及て正宗怒て大波玄蕃に五百騎附て、布澤河口野尻を案内者とて、河沼郡柳津より沼澤を経て、河口に到、横田を攻めんとす。綱孝一族郎党集めて左靱に據て是を防ぐ、大波厳く攻れども破ること能はず、道を抂て砂子原・大谷・野尻経て河口に到、氏勝と戦ひ、又兵を分て綱孝を攻む、綱孝微勢と雖どもよく防て境に入ず、因て綱孝が後にあるうを憚り、一向に氏勝を攻ることを得ず、漂白の後綱孝仕官求めず。

巻之八十三 大沼郡大石組
大石村 旧家
中丸新右衛門 九代の祖を新左衛門俊朝と云、横田山内の一族新蔵人俊重が子なり、代々横田城下中丸と云所に住せり、天正十七年伊達政宗会津を攻る時、山内氏勝河沼郡搭寺まで出馬し葦名没落の事を聞き、評議区なりしが、俊朝等が異見により一先在所に帰る、其後方便りて正宗に降り、逃帰て兵を起し、政宗が将大波玄蕃と戦ふに及で、軍謀密計與らざることなし、上杉の諸将来救ふ、氏勝再び横田城に入、軍勢を分て本名の敵を攻る時、新左衛門須佐大膳石伏監物と水軍の将として、只見川を下り岸に上て伊達勢と戦ふ、俊朝衆軍に抽て進む、敵槍を以て俊朝が太股を突く、俊朝少もひるまず、突れながら当の敵を打取て其後鎗を抜く、味方俊朝が勇気に励まされ、奮戦て敵兵大に敗走る、其後豊臣家政宗を長井に移し、会津仙道を蒲生氏郷に賜ひ、氏勝旧領を失ひ流浪せし後、俊朝熱々思ひけるは、本家敷代の傅領を失ひ、氏勝東西に漂白するは皆政宗が所為より出づ、死を以て此怨を報はずんば有べからずとて、長井に往き、密々に政宗をねらひしに、人の為に怪まれ志を遂げず、故郷に帰り憤て自殺す、其子左馬丞俊家と云者本村に移りしと云。
  
西谷村 旧家
善兵衛 山内氏勝が家臣宮崎善兵衛後なり、先祖は山内の一族にて世々宮崎村住す、天正十八年氏勝伊達勢と戦はんとて、松坂峠を越、境澤の邊にて敵の伏兵起て本陣散々に乱れ山内一族郎党等六十餘騎討死せし時に、善兵衛等数人勇を奮て敵を防ぎ、氏勝に従ひ後殿して大藍城に入る、氏勝旧領を失ひし後、子孫本村に移住せしと云。

本名村 旧家 
藤左衛門 横田土佐某が子孫にて、この村の農民なり、土佐は山内氏勝の支族にて、氏勝に従て始終心を替ず、攻戦の毎度戦功多し、天正十八年松坂峠の合戦に敵兵前後に起り、矢澤・河内等を始一族多く命を落し、後詰の越後勢も路険しくして急に来援能はず、大に難儀に及びしが、土佐等力を振て防戦し氏勝遂に虎口を逃れて、大鹽・水窪の両城に據ることを得たり、氏勝所領を失ふの後、土佐も浪々の身なり諸侯に仕んこと求めず、郷里に居て終れりとぞ、

中井村 旧家
平四郎 先祖は中井山城秀詮とて、山内の一族にてこの村に住せり、子孫改て佐藤氏と稱し、今に至る。
  
巻之八十四 大沼郡大鹽組
大鹽村 旧家
太郎左衛門、山内譜代の臣、管家太郎左衛門善高が十一代の後なり、管家・伊藤・齋藤・目黒は世々山内氏の重臣にて四天と稱す、善高天正の頃氏勝に仕越後の押として此所に住せり、伊達正宗が将大波玄蕃横田を攻るに及て氏勝布澤に逆寄し、松坂峠にて敵の伏兵起立ち、味方散々に敗れし時、善高諸卒を励し奮戦ひ、氏勝死地を出て横田に帰る。氏勝舊領を失ひし後善高憂憤して死せしと伝。
長右衛門 山内家臣横山帯刀道吉が二男能右衛門道信道信が八代の孫なり、道信氏勝が時、六十里越・八十里越両口を固めしと伝。
利左衛門 山内家臣新國右京義方より八代の後なり天正十八年氏勝松坂峠にて伊達方の伏兵に逢、前後に敵を受、郎等多く打せ危急に逼りし時、左京後軍にありしが横山帯刀瀧澤河口と共に敵陣をつき氏勝を救中山城に入しと伝。

横田村 旧家
善蔵 八代の祖は高根澤左馬助某とて山内氏が猶子なり氏勝政宗を方便て黒川より帰りし時、横田出羽と左馬助とを人質に留置き、事の露顕せざる前に逃帰へし、運尽て落得ずんば人手に掛るべからずと言含め、暇乞して横田の帰る、二人快くうけがひ、よき透間を見済まし、難なく逃帰りしかば、氏勝喜悦斜ならず、政宗大波玄蕃をして横田を攻るに及て、氏勝松坂峠にて敗軍し、大波急に城を攻しに、左馬助等力戦して敵を退く、氏勝横田城を去て水窪城に據りし時は、左馬助をして中山城(大鹽の城なり)を守しめ、加勢を上杉景勝に乞ふに、左馬助が子彌次郎を人質とし、越後に遣す、氏勝本領を失ひ、流浪の身となりし後、左馬助高根澤に隠居して身を終れりと云、子孫本村に移住し、改て横田氏と稱し、村長となれり。
吉郎右衛門 山内家臣瀧澤河内忠長が九代の後なり、氏勝越後の加勢を得て兵を引て布澤に向ひ、松坂峠にて伏兵に逢ひ、散々に敗れ、味方六十餘騎打死せし時・河内・新國右京・横山帯刀と三人踏留て力死し、氏勝虎口を遁れ大鹽城に入り、後氏勝浪々の身となり、河内家に居て終れりと伝。

越河村 旧家
藤三郎 山内氏勝が猶子横田出羽が九代の後なり、氏勝出羽と左馬助とを黒川に残し人質とし、政宗を方便在所に帰りしに、二人又計を設て逃帰る、正宗兵を発して横田を攻るに及て出羽・横田日向・須佐大善と川口に向う、伊達の兵川口左衛門佐を先陣とし切拂橋立にて戦ふ、出羽等敵を退け、大布蟹山の西に陣し、木石を投て多く敵を殺す、明年氏勝松坂峠にて敗軍し、味方多打死せし時、出羽衆に先て戦ひ、其所にて命殞せしと伝。
長次右衛門 山内四天の一齋藤伊豆某が末葉なり、天正の頃、伊豆伊藤新平と共に氏勝に仕へ、氏勝布澤の敵に向て敗走し、伊達の大波玄蕃急に横田城を攻る時、伊豆新平等城を出て力戦し敵を退く、氏勝浪々の後、共に家居して終れり
と伝、伊藤が後は今絶てなし。

山入村 旧家
喜藤次 山内譜代の舊臣須佐下総信重が十代の孫なり、下総父大膳信清と刑部大輔氏勝に仕ふ、磨上の戦に氏勝塔寺村にて義広常州に出奔し、政宗黒川に攻入、政宗と戦はんとす、川口・野尻・布澤等固留れども従はず、下総信重高根沢左馬助中丸新左衛門と共に辞を盡して諌め、諸卒に再挙を約し、一先横田を攻るに及て父子并戦功あり、越後の加勢来加り、氏勝只見川を渡て、横田原にて合戦せし時、大膳信清は力量人に勝れたる者にて、馬上に長刀を打振、敵多く薙倒し、味方再び横田城に入る、信重が嫡孫下総信親と云者より村長となり、今に至りしと云。
喜太郎 須佐大膳信清が二男門之丞信基が後なり、信基父兄と共に山内氏勝に仕ふ、政宗横田を攻し時氏勝自ら布澤に向ひ、松坂峠にて散々に敗れ、後陣の諸士険阻に隔られ救府事を得ず、信基一人踏留て敵に当り氏勝辛じて横田に帰しと云。


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