旧家  会津・耶麻郡編




巻之四十三 河原田盛次の事
巻之五十八 檜原穴澤越中の事
巻之五十八 旧家(穴澤家臣)

巻之四十三 会津郡古町組
古町村 人物(河原田治部少輔盛次
藤氏にて結城七郎朝光二世の孫長広と云者、下野国河原田郷に居住せしより初て河原田と稱し十一世にして盛次に至りしと云、世世葦名氏に従ひ伊南の地を領せり、天正十七年伊達氏会津を襲ひし時、盛次は檜原口の警固として大塩村にありしが、六月五日伊達勢既に磨上原の方に寄来ると聞き引返して彼地に向ひ僅の手勢をもて合戦し、味方惣敗軍となり力なく引退き黒川の西なる中荒井村に留り其動静を覘ひしに、義広遂に佐竹氏に走り政宗黒川の城に入り、田島の城主名長沼盛秀を始め芦名累代の家臣多くは伊達氏に属せしかば、盛秀慷慨に堪へず、一先領地に引籠り、再び芦名恢復の功をはからんとて高田村の辺まで引取しに思ふ仔細やありけん、伊南源助政信と云郎等を使として一戦を挑しに政宗河原田が義気を感じ、且窮寇を追て士卒を損ぜんことを慮り慰諭して源助を皈しければ盛次遂に久川城(青柳村)に楯籠る、此時盛秀使をもて伊達家に降らんことを勧む、河原田大に怒り盛秀が不義をせめ使を皈す、盛秀も怒り政宗にかくと告げ加勢を請両度まで攻寄けれども河原田よく防守せり、折しも積雪路を埋み師を出しがたければ盛秀しばし攻来ることを得ざれども、政宗が大軍固より敵すべきにはあらざれば郎等主膳入道玄佐と云者を私かに伏見に上せ、石田三成に因て仔細を披露せしに豊臣家やがて小田原の北条を征伐し、其後政宗が罪を糺さるばしと玄佐帰て具さに語りければ盛次力を得て愈其志を堅せり、黒川よりは間者を入てさまざまに誘へしかば盛次は家の子郎等多くは内々政宗に與せしに伊南源助が智略を比て陰謀の人々より質を出させ盛次が嫡子亀坊とて十三歳なるを添へ上杉景勝の方に遣し援兵をこひ辛うじて城を守れり、然れども簗取を始め和泉田小林等残らず攻落されしかば危急旦夕に迫れり、翌年太閤小田原に至り政宗の罪を正し会津仙道を収公せらる、盛次此に至て初て眉を開しとぞ、時に太閤会津に移るべきよし聞えければ盛次先だちて所領を打起ち下野国宇都宮まで出向ひけるが、故ありて謁見を遂げず空く皈郷し日を経て病で卒すと云。

巻之四十四 会津郡古町組
落合村 旧家
河原田盛次が祐筆を勤めし菅家上野介某と云者なり。

巻之四十六 会津郡黒谷組
荒島村 旧家
星源吉 先祖を星右近某と云代々山内氏に仕ふ、天正中伊達政宗が将大波玄蕃山内氏勝が横田の城を攻し時右近大垣雅樂石伏監物等と防戦ひ終に敵を敗る、右近より八代にして今の源吉に至りしと云。
楢戸村 旧家
善八 山内氏勝が家臣横山帯刀と云者の後葉なりと云、天正十八年氏勝松坂峠にて伊達の伏兵に逢ひ味方多く打死せし時、帯刀新国右京瀧澤河内と共に氏勝を助け辛うじて横田の城に帰りしと云。

巻之四十七 会津郡大塩組
塩澤村 旧家
孫之丞 矢澤河内藤綱が七代の孫なり、藤綱は山内氏の世臣にして常に一隊を統へ、入ては密謀に預かり出ては攻戦に加はり、天正十八年松坂峠の合戦に敵の伏兵俄に後を絶ち、横田日向同出羽同兵庫同周防同安芸など云へる者立ところに戦死す、藤綱も其党十五人と一番に進て命を殞し、氏勝をして死地を免れしめたりといふ。

巻之五十八 耶麻郡檜原村
檜原穴澤越中の事
〔旧事雑考〕に穴澤に命じて檜原の境を守らせしは永正年中の事とす、今其家の伝る所に従ふ、越中が孫加賀信徳に至て、永禄七年四月伊達大膳大夫輝宗・石川但馬と云者二千五百余の勢つけて此館を攻めとす、加賀これを聞き会津と米沢の境檜原峠に出向ひ、厳しく防戦し勝軍しければ、石川逃れて米沢に帰る、同八年七月伊達氏再び兵を発して、烏川村の方より山をこへ迷澤を経てただちに戸山を襲はしむ、加賀防戦手を砕きければ寄手又敗れて引返す、同九年正月伊達勢千余人不意に村の入口北の木戸に火をかけ鬨をつくりて攻入る、加賀父子速に出会て一戦し寄手多く討死す、葦名修理大夫盛氏其戦功を賞し、耶麻郡大荒井村を興ふ、斯て加賀年老ければ嫡子新右衛門信堅に家を譲り、岩山に館を築て隠居す、天正十年四月小荒井村の地頭小荒井阿波と云者と、大荒井村税祖の事により私に闘争に及ぶ、其罪軽からずとて大荒井村を没収せらる、同十二年伊達左京大夫政宗其事を聞伝へ、七宮伯耆と云者を使として穴澤を話ふ、(伯耆はもと葦名家の臣なり、故ありて伊達家に仕へ新右衛門と旧友の好あり)新右衛門信堅(此時は俊元と稱す)容を改て、伊達殿忽御親族の好を忘れ、国奪ふべき為に某を語り給ふと見えたり、某苟くも累代葦名家に仕ふ、死を守て其旧恩に報ずべし、伊達殿もし葦名家に合力し、幼主を輔て国内の安寧ならんことを謀り給はば、誰かこれを防ぐべき、伊達殿若此地に御進発あらば某路頭馳向ひさび矢一つまいらせて、後腹切て国難に殉ふべし、偖又御辺は葦名譜代の旧臣にあらずや、然るに其厚恩を忘却するのみならず、某等をして不義の人たらしめんとす、最其意を得ざる所なり、速に立帰り此旨を達すべしとて伯耆をば帰しけり、其後政宗又穴澤が支族四郎兵衛某を招きしに、四郎兵衛忽一族の好みを忘れ政宗に内応し、同十一月二十六日伊達勢を引入、たばかりて加賀父子を始め一族郎等等敷を盡して討れぬ、此時新右衛門が嫡子助十郎広次、加賀が六男善七郎(後善右衛門と稱す)正清等は居合せざりければ、幸に死を脱れて大塩村の地頭中島左馬信清が館に遁る、(信清は穴澤加賀が五男なり、中島美濃といふものに養はれ其家を嗣)同十四年四月広次一族引具して大塩村より檜原に至り、小谷山に籠れり五島孫兵衛を襲ひ、偽敗れて伊達勢を誘き蘭峠の麓一渡戸と云所にて返し合せ、敵兵許多を討とる、(此外穴澤が一党大塩村に在て夜に乗じて其処を襲ひ、或は山をこえて不意をうつ、其志偏に父祖の讐を報ひ、檜原の地を快復せんと欲するにあり、いたつかはしければ略す)同十七年六月五日磨上原の軍敗れて、葦名義広会津を去て常陸の佐竹氏に寓侯たり、穴澤等も又大塩村を落て道知窪村の山中に隠る、いくほどなくて伊達氏ここを収公せられ、蒲生氏封につく、助十郎広次其家に仕へ再び村に帰住せりと云、其後出羽の秋田に至り旧主義広に謁しければ、其志を感じ義広自ら扇面に古歌をかき、形見とも見よとて広次にあたふ、其扇今に傳て家宝とす、上杉・加藤両家此地を知りし時もここに居住しぬ、寛永二十年肥後守正之封に就し時、広次が子新八郎光茂と云者に禄をあたへ此に居らしめ、村の北端に木戸門を営み番戍を置き、穴澤に属し非常をいましめ、従来を察し境を守らしむ、光茂が子孫相続て当家に仕へ今に到る、其先祖家人の子孫代々ここに住せるもの今に三十人あり。

旧家(穴澤家臣)
相原孫六 其先は藤原氏なり応永の頃兵三郎弘範と云者あり、甲斐の武田に随ひ信州相原に住せり、因て相原氏を稱せしとぞ、弘範が後裔孫六弘久始て穴澤に随ひ此村に住し、伊達勢を防ぎて功あり、天正十二年十一月二十六日穴澤加賀同新右衛門と共に戦死せり、子孫相続て此に住し、豊吉正範まで凡八世と云。
二瓶蔵人 天正十二年十一月討死せり。
遠藤與九郎 天正年中穴澤父子と共に討死せり。
高橋介太郎 天正十二年穴澤父子と共に討死せり。
大竹平内 穴澤父子と共に討死せり。
目黒善内 畠山荘司次郎重忠の後と云、穴澤父子と共に討死せり
豊島縫殿之助 天正十二年穴澤等と共に討死せし其一人なり。
赤城内匠利弘 天正十二年穴澤父子と共に討死せり、其子を鴨之助某と云、天正十一年四月穴澤新右衛門信堅に随て小荒井阿波と相戦ひ、敵徒萬部院と云修験の為に左の眼を射させけるが、少もひるまず萬部院を討取りしと云剛の者なり。
菊地内蔵之助 穴澤助十郎譜代の家来なり、穴澤父子と共に討死せり。
佐藤次郎左衛門 穴澤助十郎譜代の家来なり、天正十二年穴澤父子と共に討死せり。


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