横田大学という人



新編会津風土記大塩組横田村の項に、山内氏に関しての記述が有り、この中に山内氏勝弟として、横田大学が登場します。新編は「氏勝の弟横田大學は、東照宮に奉仕して駿府にいた。氏勝が家康公に書を送り、やがて大學を会津に差下され、上杉景勝の郎等甘糟備後守・須田大炊助・三條右近・河村彦左衛門等千余人に兵糧を持たせ、馳着きた」とあり、会津四家合考、山内刑部大輔合戦の事(巻ノ四)に「上杉景勝より後詰として、郎等甘数備後守・須田大炊助に、大勢を差添へ、千余人、兵糧を持たせて馳着きたれば」と同じ記載があります。山ノ内天正記は、横田大学について詳しく記述しています。「刑部舎弟に大学助と言者有り、刑部の父兵衛太夫舜通は刑部と父子の仲が悪くなり、舜通は大学を愛して家督を継がそうと考えた。この事で郎等の間でも仲が悪くなり、刑部もまず松前寺へ立退き、それより下山という所に居た。大学も山内を退き越後へ行き、其後家康公に仕えた。この大学は、山ノ内一族の中でも第一の器用の人であり、文武二道の達人と人々が言っていた。会津山内にて兄の刑部は政宗と合戦し、戦いに難儀しており、刑部方より弟大学助に応援の依頼あり、家康公も暇を出し、大学に冑甲を与え、また腰脇にせよと、からの頭の毛を賜り、刑部にも甲冑に馬を添て贈った。ただでさえ物騒の折、道中心もとないと鉄炮数多賜はり、何某といふ人を付け送らせた」とあり、上杉家の記録書、管窺鑑下之上七巻にも「八月十六日会津加勢衆発馬、其面々は藤田能登守・安田上総介・須田右衛門並に佐藤甚助に、植田三庄の小身衆を、相備に仰付けられ、さて又、小澤大蔵・横田大学両人は、会津牢人なり。両人ともに、会津の内にて一城の主なるが、葦名盛氏へ楯を衝き、打負けて立去り、本意を頼み、景勝公へ来る故、召置かれたり。此度、小澤大蔵には、刈輪衆少々差添へられ、大蔵地白に黒下猪小繚を持たれ候、横田大学には、御旗本組少々差添へらる。右両人、藤田・安田・須田三備の前駆となり、案内御導の為めなり。附、横田大学は、会津浪人仕り、権現様へ頼み来り居り候へども、会津へ本意近々は罷成るべき様子これなき故、御暇申上げ候へば、権現様種々御引出物下され、上意に、越後は、会津へ山一つ隔て程近く、本意なり易かるべし。景勝を頼み候へとて、則ち本多佐渡守より、直江山城守へ書状相添へ、大学持参仕り候なり」とあり、この横田大学は、徳川家康の家来で家康に可愛がられた事、家康が上杉景勝に大学の事を頼んだ事がわかります。
山之内勢、伊達勢との戦いに奮戦したが、結果山ノ内一族は本領を失いました。
武鑑下之中八巻舎諺集によれば「景勝公御持会津領の内、伊原、伊法、横田、ただ見、小沢、武ハ赤谷、比他所々氏郷へ之を渡さる。但し、小沢大蔵、横田大学両城は、景勝御手柄を以って、両人本意付けらるる」と大学は会津に残ったように記載がありますが、一方大学のその後について新編会津風土記は「氏勝自ら旧領を失ひ、流浪の身となれり、佐竹氏招けども固辞して往かず越後に往て上杉景勝に属す、又蒲生氏卿の招に応じ、再び会津に帰り氏卿卒して其子秀行宇都宮に移りし時、兄弟留て上杉氏に寄食す、弟大學故ありて会津を去り、最上義光に仕へし時、氏勝も従い行きしが其後兄弟共に最上を去、慶長の末年氏勝白河に在て病死せり、氏勝が嫡孫当家に仕て子孫今あり」と記述しています。
大学が景勝に仕えた事は、慶長記に、「文禄元年二月家康公名古屋へ向かうため江戸城出発(前年天正十九年秀吉、朝鮮征伐を命じる)、安芸国広嶋に着き、町屋の二階で町中人の通るのを観ていると、上杉景勝家来横田大学と申す者傍輩二人と連れ通ったので、家康は大学に声をかけた。大学はこの時二十八歳、会津守氏の家老の子で守氏死去の後、牢人駿河に来て一年御奉公した」との記述が有り、上杉三代日記に「慶長四年、家康公、利家・秀家・輝元・景勝五行と騒論あり、景勝、同年神□原新地を立ち諸牢人を抱へ、諸将を入れ置かる」「慶長三年、会津五十万石へ、景勝所替に付、所々手置き候節、謙信此方武功の家臣等も病死に付、手薄に之有候間、蒲生家の牢人召出し候」とこの時蒲生家浪人として横田大学を召抱えています。他に関東牢人の山上道及(首供養度仕候由)上泉主水(武州深谷城主上杉憲盛の老臣)車丹波守(火車の指物)、上方牢人の水野藤兵衛・宇佐美弥五右衛門・前田慶次郎を召抱えています。其後、上杉家家臣梁川城主須田大炊助の手勢として伊達勢と戦った事が会津陣物語に載っています。その後、大学の身のふり方は「新編会津風土記」が述べる所が大体正確だと思われる最上義光に仕え、三代義俊になって御家騒動が表面化、元和八年(1622)に幕府に持込まれた。この時大学もその訴訟のため出府したとある。しかし大学の労もみのらず結果は御家断絶となった。その後「横田系譜」では「六十二歳にして遂に江府に病死す」とだけ書いている。この大学をもって、四国土佐、山内藩始祖の一豊とする説があるが、会津山内氏の滅びた天正十八年(1590)には一豊はもう遠州掛川城主になっており、無理があるが、話としては面白い。


新編会津風土記
この書は享和三年(1803)幕府より諸国郡村の呼称を調査の命を受けて、旧会津藩主保科正之が寛文年間に撰した会津風土記を基として、会津藩主容衆の時代(文化六年、1806)に凡そ十六門に分けて増訂したものです。

管窺武鑑
管窺武鑑は、全巻を上中下の三巻とし、更に、各巻を上之上、中之中、下之下と分巻し、計九巻として、各巻の下に合諺集と記しています。(一名上杉記、謙信記とも云)

会津陣物語
関ヶ原の合戦の時期に会津で起きていた上杉と伊達との合戦の顛末を記した物で、寛永中老中酒井讃岐守忠勝が、杉原親清に命じて会津合戦の伝承を集めさせた記録を延宝八年(1680)に国枝清軒が校訂を加えたものです。

山ノ内天正記
延宝五年(1677)横田三友益が天正十七・八年の伊達と山之内の戦後約九十年を経て奥会津の戦跡を訪ね村郷長農民より合戦の伝承を集め天正記を書いたといわれている。
昭和十年山内為之輔氏編註「山内天正記」の序文で、山内天正記は未刊行のもので容易に見当らず又発見されても内容がはなはだ不備で、編者の底本もその奥書に「此書本略字多く又古本にて所々に分り難い文字有り、あらましを写置く」とあります。
本ホームペイジ記載の天正記は「叶津 長谷部保信家文書、山ノ内天正記」によりました。

慶長記
家康の側で常に仕えていた医者板坂ト斎が、関原戦伐、秀吉公の事跡と家康公天下に周流の事を併せて記したものです。



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