会津の高倉宮以仁王伝説について



福島県令三島通庸が「東蒲原郡東山小倉嶺の高倉宮以仁王の墳墓」について、伝説か否かの調べを明治十四年(1881)「高倉宮以仁王御墳墓考」を著述した宮城三平に依頼しました。三平は高倉宮について多くの疑問を持ちながら、新編風土記で「伝説」としての記述があり、これを覆す史料がなく、止むえなく伝説地とする新編風土記に従うこととしましたが、著書「会津温故拾要抄」の巻末に「余高倉宮御墳墓の事の於いて疑いを懐く」として、山城国相楽郡綺田郷鳥居村の春日大明神高倉宮は「春日神にして廟にあらず、古事によりて合祀するものにして御墳と認めるもの更になし。ここに至り東蒲原郡東山村中山高倉嶺の御墳の真なるを信ずる也」と述べています。
何故会津の山奥に高倉宮の伝説が多いのでしょうか。柳田國男は昭和十七年「史料としての伝説」の中で「この高倉宮以仁王は御在世も久しからず、また記録の豊富なる時代であつて御生涯には隠れた隈もないのに、突如としてその遥々の御旅路を信ずる村が、やはり北国の田舎にあつたのである。但し東蒲原郡の方では「温故之乗」二十四編に、天皇世の乱れを厭ひたまひ、伊豆守中綱以下の武士を案内者として、来つて留らせたまふと記したる小川荘上條谷、又この地に在つて、神隠れたまひ、御遺骸を葬ると傳ふる中山の御廟山に付ては、共にこの頃では地方の学者たちの意見に従つて、高倉天皇は高倉宮の誤りと言ふことに一致して居る。無論さうした方が確かに信じ易くはなるが、それはただ伝説を信じ易くしたと謂ふだけのことであつて、果して話の元の形が、この通りであつたか否かは、また別の問題である。思ふに高倉宮以仁王の御行衛が、宇治川合戦の当時から、既に種々なる風説を生じて居て、結局は不明に終つて居る故に、奥州・越後の境の山に、御遺跡があつても不思議でないと言ふことを人が始めて心付いたのは、さまで古い頃の事ではないやうだが、しかもかう言ふ切れ切れの、各地必ずしも両立せぬ言ひ傳へは、ずつとそれ以前から行はれて居た」と述べて、又宮城三平の「高倉宮以仁王御墳墓考」については、「以仁王は著者の断案に従へば、宇治川敗戦の後、まづ奈良路から近江の信楽に遁れ、東海道を下つて甲斐より信濃に入り、上州の沼田に越えて片品川の流れを溯り、桧枝岐の山村を過ぎて、南会津に入られた。故に只見川右岸の村々に、宮御通行の遺跡が無数に分布して居るのである。しかも近隣の武士に敵意を含む者があつて、更に安全なる武陵桃源を求めたまふとすれば、これから東蒲原の小川庄へは、ただ国境の山一重であつた。かつて忠義の誠を致した者が、在所に御遺跡・遺物を保存して、家の昔を誇るのは、至つて自然の結果だと論じてある。この書の功績は不幸にして資料の判別の方面にはなかつた。「東山村地誌」と言ひ「会陽小川風土記」と言ひ、色々珍しさうな写本の名を挙げてあるが、すべて「新編会津風土記」より後のもので、しかも、つとめてこれと牴触すまいとしたものばかりらしい。会津郡の村々には「治承四年書之」とある社誌とか、養和年間の日記とか、取分けて怖ろしいものが多かつた。続群書類従第七十四巻に編入せられた、「会津高倉社勧進帳」の如きもその一種で、表紙には「明応九年所書記也」とあつて、文は聖堂式とも名づくべき近世風の漢文であつたが、宮城氏の著述には此等の文書の多くが採用せられて居る。由緒ある旧家に於て、王より賜はつたと傳ふる宝物にも、牡丹を描いた南京皿十枚とか、梅に根笹の模様あるひび焼の盃の類少なからず、或は又無銘の刀子、矢の根、五器や朱塗の椀などと言ふ物も、是非とも年代を見極めてから、その由来を聴くべきものであつた。殊に注意すべき点は、宮の御詠と傳ふる三十一文字が、如何にしてもあの頃のものらしくないことであつたが、これも些しも考への中に入れられていなかつた。
次にはその伝説の内容であるが、多くの平家谷の口碑と比べて見て、変化が新しい為か、この方には一層無理が多い。一言で謂へば何の為に、この様なひどい山中へ、王子が御入りなされたかが明らかでない。難を遁れ乱を避けて、安住の地を求め給ひしものとしては、そちこちに戦争の跡が多く、家来たちが功名手柄を現し過ぎて居る。と言ふよりも全体に少し話しが多過ぎる。今ある附近の御遺跡をみな真なりとすれば、宮は頼朝が志を得てしまつた後までも、こんな狭隘なる山里を蜘手十文字に、行き巡つて居られたことになつてしまふ。恐らくはそれまでの理屈は考へない人々の間に、王子流寓の物語が久しく人望を傳して、次から次へと成長して行つた結果がこれであらう。しからば又その中心は何れに在り、如何なる力によりて統一せられて、今日の様な一編の歴史となり、多くの会津人をして終ひにこれを信ぜしむに至つたかと問へば、どうしても若干の嫌疑を掛けてよい人が、実はかの山中に早くから、入つて来て住んで居たのである。
いずれの村でも、家筋の古いことだけは確かで、これを具体的に証出することの出来ぬ家では、何とかしてその便宜を求めようとするのが普通だが、小椋を苗字とする木地屋の部曲は、更に一歩を進めて目的の為に手段を択ばなかつた。小なくとも彼等の中の歴史家は、歴史は小説と同じく人が製作してよいものと思つて居たらしい。さうして其趣向には常に定まつた型があつて、必ず中心を以仁王の如き、不遇の皇族にして居たのである。
越後小川荘中山の清一家が、小椋氏の古い分脈であつたことは証拠がない。或は後の会津の伝説にかぶれて、共々に高倉宮を称することになつたのかも知れぬ。これに反して会津側の旧傳に作為の疵のあることは、王の従臣の顔触れを見ればよく分る。大内・水抜・萩原等の諸村に於ては、まづ以仁王なるが故に源三位入道の一門が来て働いて居る。伊豆守仲綱は御伴をして、八十里越から越後に入らうとして、途で死んだことになつて居る。乙部右衛門佐源重頼と言ふ者があつて、また頼政の子であつた。何故の乙部かは知らぬが、この地方に子孫の家がある。それから渡辺長七唱、猪野隼太勝吉なども遣つて来て大いに戦うて居る。それ以外に宮の直臣として、尾瀬中納言頼実がある。その兄大納言頼国は桧枝岐の山に留るとあつて上州藤原村民家に傳ふる古系図に、桧枝岐二郎・尾瀬三郎兄弟とある者と、どうも同じ理想人物らしいが、何れにしても国境尾瀬沼の附近が、勤皇派の勢力圏であつたことを謂はんとするものらしい。又、三河少将光明と言ふ人もある。明治十五年に桧枝岐村の三河沢を焼畑して、一箇の塚を見出した。これこそその三河少将の墓なりと宮城氏が謂ふのは、どうした証明方法であるか分らない。最後に今一人の大切なる人物として、小椋少将藤原定信と言ふのがある。これ即ち木地屋部落の眉目と認むべき忠臣であつて、会津では少将などとやや謙遜をして居るが、彼等が本国江州の小椋に於ては、之を小椋太政大臣実秀と傳へて、やはり小野宮惟喬親王に随従して、あの山中に土着したことにして居るのである」。また「伝説が前代信仰の久しい記憶から、時につれて成長した場合には、仲綱となり猪早太となることは度々あつても、かう言ふ思ひがけぬ人傑が横あひから飛出すやうなことは滅多にない。かう言ふことをするのは殆と木地屋特有の癖である。仮に会津の山村に古くから、高倉と呼ばれた神の宮があつて、王子巡遊の口碑は自然に以仁王の伝説を発生せしむべき傾向をもつて居たにしても、その従臣の連名に小椋氏少将を加へるまえは、只の神官の企て能はざる所である。しからば其小椋氏の一族は、どうして又こんな遠国の山中に、来あはせて居たのかと謂ふに、それには簡単に述べ盡しにくい沿革があるのである。山地を旅行する諸君には、もう説明の必要もないことだが、木地屋は山中の樹を伐つて、轆轤を以て椀類の木地を製作する特殊の工人のことである。その郷里は前に述ぶる如く、近江愛知郡の伊勢に境した東小椋村であるが、その大部分は数百年以前から、郷里を離れて原料の豊かな諸国の山に、分散して住んで居り、或至つて珍しい組織を以て、常に故郷の村との連絡を保つて居た。会津は東部の日本にあつては、殊に彼等の多く集合する一箇の中心地であつた。即ち今日も猶盛んに産出せられるこの地方の名産、会津漆器業の有力なる参加者である。曾て「日本及日本人」の郷土光華号に、二瓶唯由と言ふ人が会津南奥の地に住し、木地挽きに従事した者を以て元祖とする。その子孫相伝へて小椋を以て姓とすと謂つて居る。平家と言ふ二文字だけを抜き差しすれば、すなはち第二の伝説にも通用したのである」と述べています。


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