家紋の話T(夜討曾我) 「家紋とは、一般に対称的形状をもって表わされた図象であって、名字もしくは称号の目印として用いられたものである。家紋は、元来、衣服や輿車の装飾、旗幕の徽号などが起源であって、その形状は、初めは写実的で、整正なものではなかったが、後世になって、肩衣や羽織の衣服に、場所を定めて付けるようになってから、その形状は次第に変化し、おおむね、対称的なものとなったのである」これは、沼田頼輔先生の日本紋章学の第1頁に載っている家紋の定義ですが、武家の紋章は源平の白旗、赤旗の旗紋に始まり、幕紋などを通して家の紋がつけられ、定着していった。家紋としての紋章の記載は、足利時代以降、吾妻鑑・太平記の時代に始まり、江戸時代に流行した「紋ずくし」のはしりである「長倉追罰記」一名羽継原合戦記や、この幕紋羅列の方法を真似た幸若舞曲の「夜討曾我」があります。今回は「我等が家、山ノ内の家の紋」の記載がある夜討曾我について載せました。 夜討曾我 戦国逸話に載せた「師僧天沢信長の日常を語る」の「敦盛」も幸若舞の一節で、この幸若舞は、室町時代足利氏系の桃井直詮(幼名幸若丸)が、草子に節をつけて舞曲したことに始まり、将軍家の保護もあり、江戸時代まで続いたが、徳川幕府の崩壊により廃れたといわれています。この「夜討曾我」は幸若舞曲の一曲で、工藤祐経を討取るため曾我兄弟が屋形に入り、家々の幕の紋を見る場面があり、各家々の幕紋が列挙されています。 夜討曾我(抄) ある屋形を見れば、明日は鎌倉入あるべしと申して、馬の湯洗ひ、庭乗りして、ひしめく屋形もあり。またある屋形を見てあれば、太鼓、鼓を打ち鳴らし、どめいて遊ぶ屋形もあり。かく見て通りければ、余り虚空に存じ、東へ回って、家々の幕の紋をぞ見たりける まず一番に、釘抜、松皮、黄紫紅、この黄紫紅は、三浦の平六兵衛義村の紋なり。石畳は、信濃の国の住人に、根井の太夫大弥太、扇は浅利の与一。舞うたる鶴は、蘆原左衛門。 庵の中に二頭の舞うたるは、駿河の国の住人、天智天皇の末孫竹下の孫八左衛門。伊多良貝は岩永党。網の手は須賀井党。追州流は安田の三郎。月に星は千葉殿。傘は名越殿。団扇の紋は児玉党。裾黒に鱗形は、北条殿の紋なり。繋馬は相馬、折烏帽子、立烏帽子、大一大万大吉、白一紋字、黒一文字は山の内の紋なり。十文字は島津の紋。車は浜の竜王の末孫佐藤の紋。竹笠は高橋党。亀甲、輪違、花空穂、三本傘、雪折竹、二つ瓶子川越、三つ瓶子宇佐美の左衛門、二つ頭の右巴小山の判官、三つ頭の左巴は宇都宮の弥三郎朝綱、鏑矢伊勢の宮方、水色は土岐殿、四目結は佐々木殿、中白は三浦の紋、秩父殿は小紋村紺、割菱は武田の太郎、梶原は矢筈の紋、真白は御所の御紋であり。 爰に庵の中に木瓜、ありありと打ったる紋あり。「是は我等が家の紋ぞ」と思し召し、一入(ひとしほ)十郎殿なつかしくて、時を移して立たせ給ふ。かかりける所に、祐経が嫡子犬房と申す童、幕の隙より一目見て、父の前に畏まり、「十郎殿の御通り御申しあれ」と申す。祐経聞いて腹を立て、「十郎とは誰がことぞ、相沢の十郎か、豊後に臼杵の十郎か、遠江に勝間田の十郎か。この度富士野への御供に、十郎の化名、その数を知らず、ええ汝は虚空なることを申すものかな」と父に叱られ、時ならぬ顔に紅葉をさっと散らし、「いつぞや三浦殿にて、花見の興のありし時、舞舞はせ給ひたる相模の十郎の御通り」と申す。 夜討曾我文中の幕紋一覧(紋幕と家紋は、正確には違いがありますが、家紋は、紋幕などから進歩したものと都合よく考えて、代表的な家紋を記載してみました。)
参考図書
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