家紋の話W(奥会津の家紋)



「会津は旧奥州の西南に在り会津郡を分て耶麻郡とし、又割って大沼郡として、さらに又会津大沼二郡を裂て河沼郡を置き、山を会津山と稱し、川を会津川と名づけたのは其本号に由るなり」といわれる会津は、奥州合戦後、只見川中流域大沼郡西部の金山谷から上流域の伊北を山内氏、伊南川流域の伊南は河原田氏、阿賀川の上流域一帯を長沼氏とそれぞれ地頭職を与えられ、山内氏は横田、河原田氏は古町、長沼氏は鴫山城を本拠地として家臣団を形成していきました。この「奥会津の家紋」では今に残る山ノ内氏や奥会津の武将の主な家紋を紹介したいと思います。西方村に残る「西方正統記」には、奥会津の寺領時代の郷士地頭の記載があり、また五十嵐の名称については「五十足日彦命略記」に詳しい記載があるので、別に載せておきます。
「会津四家合全」の記載による山内氏勝家臣団苗字410氏・641名の内、横田山ノ内氏領地、132ヶ村(会津郡35ヶ村、大沼郡36ヶ村、越後蒲原郡11ヶ村、魚沼郡50ヶ村)の内、村の名を家名とした者71氏・140名となっています。
本編での奥会津は、三島町・金山町・只見町・南郷村・伊南村・昭和村・舘岩村・田島町の4町4村です。
別記、「西方正統記」「五十足日彦命略記」「会津四家合全

山ノ内氏
中井氏中丸氏沼澤氏本名氏宮下氏
青柳氏五十島氏五十嵐氏伊南氏押部氏
菅家氏栗城氏栗田氏小林氏五ノ井氏
斉藤氏坂内氏佐藤氏三瓶氏須佐(諏佐)氏
鈴木氏雪下氏瀧澤氏角田氏二瓶氏
長谷川氏星氏目黒氏横山氏渡部(渡辺)氏
  
山ノ内氏家紋山ノ内一文字、山ノ内三ツ柏、中陰一文字) 
横田秀雄氏本山内首藤系図に、藤原俊通、首藤山内刑部允と云。初め相洲鎌倉山ノ内に住み近江国蒲生郡高島郡坂田郡甲賀郡浅井郡伊勢国飯高郡三重郡伊賀国の名張郡合せて八郡を領し、江洲横田に居城し保元の合戦に度々武功を立て、平治の軍に義朝公の手に属して六条河原にて討死しました。家の紋は大祖より藤丸でしたが、俊通は悪源太義平の十六騎の内で軍の一のかけの時家の紋にせよと白一文字を義平より賜った。其時俊通曰く「大庭三郎景親と同紋の旨言上す」義平曰く「大庭も故有て白一文字を附る也然者汝者白一文字の下に黒一文字を引可」。是より藤紋の丸を改白一文字黒一文字を家の紋とした。又影紋は先祖盆に柏の葉三枚のせて陣立の時搗栗昆布を取添て出陣を祝し度々戦功を立てたことにより、丸六の柏のさき三分宛丸元かけて附けた柏の葉を影紋としています。
別家伝に、家紋は先代より折烏帽子三枇杷の葉先輪の内へ通したのを紋としていたが、刑部丞俊通義朝公の旗上げに相洲より第一番に味方に駆参した褒美に笠印にせよと一文字を賜い、これを日月に表して白黒の一文字を白絹に画き左右の袖につけて出陣したといいます、又一文字を大将より賜りより万事吉兆ありと大一大万大吉と云文字をたたみ合せて幕の紋としたとあります。
土佐山内氏家紋は家傳に「秀郷末流、瀧口刑部丞俊通後胤也、後居丹波国、先祖於丹波国、戦之刻、依強敵及敗軍時大将自進馳、于時指物折傷故、取柏枝為物差、返戦即得勝利、柏枝葉三残、於是為吉例、以丸内三葉柏、以為家紋」と云っています。
全国で山内さんが3万5千軒、山之内さんが約2千軒、山ノ内さんが360軒いらっしゃいますが、奥会津では意外に少なく、山之内・山ノ内さんで数軒、山内さんは只見・伊南を中心に140軒の方がいらっしゃいます。

中井氏家紋巻き藤、五三桐
新編風土記に「先祖は中井山城秀詮、山ノ内一族で中井柵を守り、子孫改めて佐藤氏を称し」とあり、今奥会津で玉梨以外に中井氏を称する家はほとんどありません。会津四家合全に「川口山ノ内俊満四男万四郎中井大和ヵ婿に行山城と改天正十七年簗取合戦に討たり中井大和ヵ妻は宮崎尉右近行友女也又大和ヵ二男平助同十八年に討死す依て中井の家断絶せり」という。この中井さんは、全国では1万8千軒と結構多く在りますが、福島県では0.5%と少なく、奥会津でも金山町に貴重な数軒が残っているだけです。

中丸氏家紋丸に白黒一文字、五三の桐
岩代の豪族で、横田山ノ内の一族代々横田城下中丸と云う所に住む。会津四家合全に「氏勝家老に中丸新蔵人、侍大将に新蔵人子中丸新左衛門、足軽大将に新蔵人二男中丸清左衛門」の記述あります。また古塁記に「南山大倉山柵中丸新九郎築く、伊北小林村柵天正之頃中丸三郎左衛門居る」とあります。この中丸さんは、全国合せても1260軒と少なく、関東地方・福島県・新潟県に集中しており、福島の中丸さん軒の内4割が、金山町にすんでいられます。

沼澤氏家紋丸に白一文字、亀甲に三引
山ノ内出雲守藤原政重沼沢丸山城主、山ノ内支族で山ノ内七騎等の一人で岩代国大沼郡沼沢邑より起る。古くより葦名氏に仕え、天正一三年伊達政宗に内応した松本備中を北方合戦にて葦名先陣として討取る。同一七年、摺上原合戦に散じて、葦名義広に随い佐竹に奔る。子孫会津藩に仕える。沼澤・沼沢さん合せても全国で2千軒を欠き、今奥会津には住んでいらっしゃらないようです。全国の4割が山形県・秋田県に集中しています。

本名氏家紋下り藤、五本骨扇
川口山ノ内一族、会津四家合全に「川口山ノ内俊満三男弥十郎に本名右近氏重ヵ婿に行、俊満本名弥十郎に本名湯倉半領舟渡三條合二十貫文を分地す。山ノ内帯刀俊隆初て本名に柵を設置後下野守と改子無故に山ノ内治部太夫俊清の七男右近介氏重を養子とす若名新七と云女を持依て川口俊満の三男弥十郎を婿に取氏重後下野と改」という。会津古塁記に「金山谷下中津川村柵本名掃部介住す」とあり、今本名さんは、全国で約550軒と非常に貴重な苗字で、しかも4割を福島県で占めており、奥会津では昭和村と只見町に集中しています。

宮下氏家紋丸に一文字、下り藤
山ノ内氏支族、横田中丸城主山ノ内左馬亮俊明其子中丸四郎左衛門俊親三代中丸隼人則宗子中丸新蔵人俊重宮下村ノ柵を守り宮下を家名とした。子孫会津藩に仕え、古塁記には「宮下村柵宮下丹後直勝住す」とあります。全国の宮下さんは2万軒程度いらっしゃいますが、東北地方は非常に少なく、福島県には百軒程度で、今奥会津にはいらっしゃらないようです。

青柳氏家紋木瓜、丸に横木瓜
会津四家合全に「河原田右近将監重房の子近江守盛俊長禄年中青柳に住し子孫家名とす」とあります。この青柳家は全国で1万1千軒いらっしゃいますが、福島県には約170軒あまりで、奥会津では、金山町に集中しています。

五十島氏家紋四目結
五十島姓は(いかしま・いそしま・いそやま・いそり)と色々呼名がありますが、東蒲原郡五十島村は「いがしま」と呼ばれ会津旧事雑考に「文明五年、若宮神社に地頭山ノ内新右衛門通信が寄贈」の記載があり、古塁記に「五十島舘、永禄の頃山ノ内新右衛門住す」とあり、五十島氏はその一族かもしれません。五十島さんは、全国で約90軒、金山町10軒・会津若松市10軒、福島県全部で約30軒あります。福島県の次に多い冨山県の五十島姓は(いそしま)さんと呼ばれています。奥会津では金山町だけの特異な氏名で、今五十島村は合併して阿賀町になっていますが、この阿賀町には五十島さんは一人もいらっしゃらない様です。

五十嵐氏家紋丸に梅鉢、三頭左巴、藤巴
一般的には「いがらし」さんと呼ぶのが普通ですが、新潟福島では「いからし」さんがほとんどです。越後国蒲原郡五十嵐より起る。此の地延喜式内伊加良志神社あり、当社の祭神五十日足彦命(伊加多良志・いかたらしひこのみこと)の後裔かといわれ、又この地の伝説に五十嵐氏の祖とする五十嵐小文治は池の蛇神の子で、成人して郡司といい、社名を五十嵐の字に改めたといいます。一般的に複数の呼名が有る場合、濁らない読み方が古いと云われています。余談ですが源氏方の弓の名手那須与一宗高は五十嵐小文治の女婿といわれています。河原田盛次の郎党五十嵐和泉は、源義家奥州征伐に戦功があった出羽国秋田郡五十嵐淡路守頼常の子孫。古塁記に「大谷村鳥ノ海柵五十嵐豊後光輝住す、又和泉田村河原崎城天正之頃五十嵐伯耆守道照住す」とあります。地名で五十嵐(アイヌ語で物見・場所)は越後の五十嵐川が南限で、苗字も関東から北が50%を超え、圧倒的に多くなります。奥会津では、三島町・只見町・南郷村・昭和村で苗字上位ベスト3の中に入っています。

伊南氏家紋二頭右巴、猪
秀郷流藤原姓小山流、岩代会津の伊南郷より起る。頼朝奥州征伐に戦功あった下野小山党河原田氏に従い、河原田氏支族ともいい、会津合全に「河原田盛信の子光盛伊南を家名とす」、又会津四家合考に「伊南源介ト云者猪ヲ紋二付タル指物指メ向」、古塁記に「伊南只石村舘伊南源介住す」とあり、上総国夷隅郡伊南は「イナン或はイノミナミ」岩代国南会津郡伊南は「イナ」と読んだそうです。別府市天間(あまま)に伊南さん一族が住んでいますが、今奥会津でも伊南さんは数軒あるのみで、全国的に珍しい名前となっています。

押部氏家紋上り藤に一文字、州浜に一文字
会津四家合全に「山ノ内氏勝家臣軍者并軍用兼奉行四人の一人で、押部七郎右衛門」がいます。州浜の家紋を使っているところから、忍海部(押海部)氏と関係の有る一族かもしれません。押部さんは非常に珍しい苗字で全国でも210軒ばかりで、6割は兵庫県に住んでおり、福島県は2位で約35軒です。この押部さんは奥会津では、金山町に集中しています。

菅家氏家紋梅鉢、丸に梅鉢
山ノ内氏譜代の家臣、山ノ内四天の一人。菅家太郎左衛門は越後の押さえとして山内氏大塩中山城に城代として住む。天正年間、伊達勢横田を攻め、戦いに奮戦する。この菅家氏は全国で千軒弱でほとんど関東周辺に集まっており、福島・新潟両県で約半数、その内奥会津で6割の軒を占めています。

栗城(栗木)氏家紋五三の桐、隅立ち四つ目
九州、中国、四国地方にはこの苗字の人は殆ど無く、僅かに徳島県勝浦郡勝浦町三渓に地名を字としたと考えられる栗城(クリシロ)さんが居られますが、奥会津の栗城(クリキ)姓は、会津四家合全によれば「川口治部左衛門尉山ノ内俊甫家老、烏山基季二男栗城越後」とあり、玉梨・松山・坂井の各栗城氏で川口十騎の内五騎を占めています。この栗城姓は全国で約千軒で、約半分が福島県在住です。奥会津では、昭和村・金山町・三島町に集中しています。

栗田氏家紋木瓜、三階松
新編風土記に「鹿島神社神職栗田薩摩、小栗山村に住、伊勢と云う者初めて神職となり、十二世を経る」とあり、子孫会津藩に仕える。会津四家合全によれば「山ノ内氏勝家臣に本丸番頭栗田伊勢、大書院四人の一人に本名に住む栗田市十郎、川口治部左衛門尉山ノ内俊甫家老栗田内記」とあります。栗田さんは、全国で約1万2千軒、其の内福島県では160軒と意外と少なく、福島県の70%を占める奥会津の栗田さんは、三島町・只見町に数軒あるだけで、後残り全部金山町に集中しています。

小林氏家紋上り藤、五ッ瓜に下り藤) 
藤原姓、会津郡小林邑より起る。会津四家合全に「西方山ノ内氏信家老に中丸氏小林三郎左衛門婿目黒新介三男小林豊後景裕、野尻信濃守山ノ内俊行家老で中丸三郎左衛門光政の子小林外記、又山ノ内氏勝家臣、中丸五郎左衛門俊貞二男で小林に住む侍大将小林三郎左衛門、小姓奥番四人の内一人に目黒新介子小林藤馬小林に住」とあります。小林さんは、全国では22万軒ありますが、福島県は全国対比で、2%と少なく、奥会津の小林さん全部加えても約100軒と関東信越の他県と比べると非常に少ない。

五ノ井氏家紋井桁に白黒一文字、丸に立ち沢瀉)
山ノ内氏累代の郎党、山内氏鎌倉より下向ににより会津に向う、会津四家合全に「山ノ内氏勝家臣団の郡代九人の一人に五ノ井伊勢守、大目付に五ノ井佐渡、又川口山ノ内俊甫家臣に五ノ井長左衛門、五ノ井伊賀」がいます。この五ノ井さんは、全国で300軒もなく、福島県で4割を占め、その約4割の五ノ井さんが金山町に住んでいられます。

斎藤氏家紋丸に上り藤、丸に三つ柏)
永延の頃、河沼郡夏井村舘に斉藤氏住む。新編風土記に大沼郡越河村に山ノ内氏譜代の重臣で、山ノ内四天の一人。会津四家合全に「山ノ内氏勝若年寄で三郎兵衛則勝子斎藤帯刀、野尻信濃守山ノ内俊行家老で作右衛門二男斎藤十郎左衛門」とあり、古塁記に「伊北泥嶋村柵斎藤久太郎住す、石伏村柵斎藤石見築く」とあります。福島県の斎藤さんは浜通り・中通りに集中しており、奥会津の斎藤さんは約150軒で、他の斉藤・齋藤・齊藤さんは合せても10軒未満と非常に少ない。

坂内氏家紋三つ柏、上り藤に一文字
新編風土記に「坂内氏、先祖安倍大和守実信にて駿州安倍郡を領し、足利将軍義輝に仕え、実信長男助左衛門実乗会津に来り四男善九郎、参河に参り奉仕せり、坂内参河憲政葦名に仕える」、又会津四家合全に「山ノ内氏勝家臣に徒歩頭二人の内一人で坂内九郎九衛門」がいます。坂内さんは、福島県を除いた東北各県には少なく、6割が関東を中心として、残り4割が福島・新潟両県で占めており、奥会津の50軒の内、金山町・三島町に集中しています。

佐藤氏家紋上り藤に一文字、巻き藤
西方正統記に「大高寺の地頭佐藤頼信」、新編風土記に「大沼郡東尾岐、上中川村に佐藤氏住す、耶麻郡穴沢助十郎譜代の臣に佐藤氏あり、次郎左衛門天正十二年討死す」、又古塁記に「南山下々松川村柵永禄之頃佐藤伊豆住す、伊北布沢村久沢柵永正十二年佐藤弾正築き住す、軽井沢村柵天文年中佐藤與兵衛築いて住す、簗取村舘窪之城城代に佐藤左馬介信虎を置く、さらに領家村内小川村柵佐藤道明築いて住す」とあり、さらに天正十八年近江国木地頭佐藤和泉が会津に木地挽を連れて来たそうです。全国1位、福島県1位に輝く佐藤さんですが、福島県では2万7千軒の内、浜通り・中通りに集中しており、奥会津では意外と少なく2百軒強となっています。

三瓶氏家紋三ッ瓶子、三ッ追亀
越後国蒲原郡に五十足日彦命(イカタラシヒコノミコト)御山稜ありて、命は人皇十一代垂仁帝第八皇子で越君となりこの地に御降り、拾余人臣随従の臣の中に一幣より五幣に至る兄弟がおり、中古の氏を改めたとの伝説があり、三瓶を称するのは恐らく幣を瓶に改めた者とおもわれます。福島の三瓶さんは、全国の軒で45%あり、中通りに大方の方が住んでおり、奥会津では只見町に集中しています。

須佐(諏佐)氏家紋立ち梶の葉、鷹の羽
山ノ内氏譜代の旧臣、古塁記に「伊北大塩村西部柵永禄之頃須佐七郎左衛門築く」とあり、山ノ内家滅亡後寛永年間六十里越より越後東中野俣へ移る。東中野俣には信濃諏訪から入植した有力庄屋である諏訪一家が居り、この諏訪家が慶長五年越後に入封した堀氏と争い会津大塩へ逃れたが、堀家断絶で諏佐の姓に変え越後に戻ったといわれています。会津横田の山入には須佐大膳の流として須佐家が多く、又大塩には諏佐家が多い。諏訪と須佐を併せた諏佐を姓としたか、両氏が婚姻関係を結んだ結果であるか不明ですが、明治の苗字届出で栃尾の須佐氏は諏佐氏に統一したそうです。須佐・諏佐さんは、全国で約1200軒いらっしゃいますが、福島・新潟両県で約50%、栃尾市に須佐さんはほとんどいらっしゃらないようです。奥会津の須佐・諏佐さんは、金山町・只見町に集中しています。

鈴木氏家紋上り藤、一つ丁字巴、九枚笹
会津四家合全に「山ノ内七党持柵の内、軽井沢柵佐藤興兵衛、蒲生柵佐藤帯刀、今和泉柵鈴木弥太郎、田代柵佐藤甚左衛門、又峠杉山城代鈴木源兵衛」と記載が有り、桧野原山ノ内俊範の家老に鈴木大蔵がいます。穴沢介十郎譜代の家臣に天正十二年討死した佐藤次郎左衛門がおり、また会津に木地挽を連れて来た近江の木地頭佐藤和泉がいます。佐藤さんは、全国で約41万軒あり、輝く全国第1位の軒数ですが、福島県でも2万6千軒で第1位になっています。奥会津では200軒ありますが、奥会津の2%程度で、田島町と只見町金山町に集中しています。

雪下氏家紋丸に三引、丸に十文字
藤原氏秀郷流首藤氏族で山ノ内氏と同族、源為義に仕え、駿河国磐田郡に住む、鎌田通清の子鎌田次郎正清は源義朝第一の郎党、義朝と共に、尾張国の住人長田忠敬に討たれる。山内氏勝の侍大将雪下相模守は、会津四家合全に「鎌田権守通清三男雪下に住越後守清政十六代雪下七郎清隆の二男」とあり鎌倉の名を残す会津の名門です。全国でも約130軒程度と非常に貴重な苗字で、福島県が50軒弱とダントツに多いが、奥会津では金山町だけに残っている苗字です。

瀧澤氏家紋下り藤に一文字、丸に四つ目
新編風土記に「山ノ内家家臣に瀧澤河内忠長、松坂峠の戦いで奮戦する、後氏勝浪々の身となり、河内家に居りて終れり」(旧家、大沼郡編)とあります。この瀧澤氏は、滝沢・瀧沢・滝澤と同姓があり、今ほとんどが滝沢姓を称しています。奥会津では、滝沢姓でほとんど金山町に在住しています。

角田氏家紋(橘、三つ柏
新編風土記に「田原藤田秀卿五男五郎左衛門千常ノ二男相模守公光其子佐伯兵庫助経範其弟民部丞経秀其次男次郎遠義美作国角田に住す、是より子孫角田を家名にす」とあり、藤原姓は会津の名族で、延元二年、角田弾正藤原秀義越前黒丸城落城にて会津に来る、又新編風土記に「天喜の頃、源義家に随い此の地に来りて、秀保十二代角田若狭守は会津葦名氏に仕、其三男丹波は横田山ノ内氏勝に仕る」とあります。この角田さんは福島県の中で軒数ランク69位、1300軒で、三島町・只見町・金山町・南郷村で百軒を越しています。

二瓶氏家紋二ッ瓶子、違い鷹羽
美濃国判官代河越源太綱弘の子孫、源頼朝家臣河越又太郎義時は、文治年中高館の合戦で戦功あり、頼朝公より瓶二つ陣屋に送賜されてより河越家紋二ッ瓶子用い(元来違い鷹羽)姓を二瓶と改めた。古塁記に「桑原村柵二瓶安左衛門住す」とあります。全国で二瓶さんは三瓶さんより、700軒程度多くいらっしゃいますが福島の割合は36%の軒があり、中通り・猪苗代周辺の市町村に大方の方が住んでおり、奥会津では三島町に集中しています。
  
長谷川氏家紋左三ツ藤巴、剣カタバミ
源三位頼政之嫡男伊豆守仲綱其二男伊豆蔵人頼包之三男新蔵人頼英は伊豆ノ国片山郷長谷川ノ庄に住み、是より子孫片山長谷川を家名にしたといいます。長谷川宮内小輔は山ノ内下野守季基に従い奥州会津に来て伊北横田に居住んだといいます。長谷川姓は全国にまたがる大姓ですが、福島県では意外と少なく全国の3%位で、奥会津では三島町・金山町に集中しています。

星氏家紋七曜、九曜
藤原姓 会津の豪族にして、新編風土記に「荒島村の星右近代々山ノ内氏に仕え、天正年中伊達勢と戦う」とあります。会津高倉神社・大澤熊野神社・白岩熊野神社・楢原八幡宮の神職は星氏です。又越後蒲原郡瀧谷村河内神社・熊渡村若宮八幡宮の神職に星氏がいます。古塁記に「加塩村塁文明三年星越中築く、伊南檜枝岐村柵星備中住す、南ノ山下々猶原村舘星玄蕃住す、南ノ山山船子村柵永享年中星刑部築く」、又檜枝岐村星家「家宝記」によれば、延暦十三年、紀州牟漏(むろ)郡星の里より藤原金氏の子孫藤原金晴来て住いする」とあり一星を常紋としています。赤松憲国、新田義国に従い北国の下り、会津田島の長沼泰興を頼み住し、星姓を名乗り長沼四天の一人となる。この星さんは、全国で1万6千軒、南関東と福島・宮城に多く、福島県で4千軒若松市・郡山市・田島町・下郷町・舘岩村で約半分を占めています。特に南会津郡檜枝岐村では、星・平野・橘の三苗字で村の9割を占めています。田島町・舘岩村では、星さんが軒数でベスト1に輝いています。

目黒氏家紋丸に五三の桐、木瓜、弦巻
畠山氏族、畠山重忠の曾孫重行より出る。重忠討死の後、重行武州荏原郡菅刈庄目黒郷に居り、以って氏を目黒氏と称する。後奥州に徒り、金山谷山ノ内氏に拠るとも、佐原盛連に仕えるともいう。医王山月光寺の本尊は重行が奥州下向の時、背負って来たと云われています。山ノ内家重臣にて、菅家・伊藤・斉藤と共に山ノ内四天の一人。古塁記に「伊北熊倉村柵永禄之頃目黒七十郎居る、伊北下山村柵目黒小三十郎住す」とあります。全国の目黒さんは約5400軒、その内福島・新潟・宮城・秋田4県で50%を占めており、福島県では840軒、奥会津の只見町・金山町に集中しています。

横山氏家紋隅立四つ目、左三巴松皮菱
会津の豪族で、新編風土記に「山ノ内家臣横山帯刀二男能右衛門道信、六十里越、八十里越両口を固めし、又八木沢村白幡神社神職に横山氏在」、又古塁記に「瀧沢村舘、天正の頃横山監物義秀住す、伊北楢戸村柵天文之頃横山光氏住す」とあります。この横山さんは、全国で5万1千軒ありますが、東北では岩手県のみ極端に軒数が少ない。福島県も約3%と少なく、今奥会津では只見町・金山町で70軒、田島町で数軒ある程度です。

渡部氏家紋(三星に一文字、丸に下り藤
職業部の一つで、渡船の事を職とした品部です。新編風土記に「渡部長門綱孝、代々山ノ内の重臣にして、大登・桑原・河井の三村を領す」、又古塁記に「上荒久田村舘渡部源左衛門基綱住す、伊北布沢村舘天正之頃渡部長門住す、南ノ山々倉谷村小淵柵渡部大和住す、中荒井村柵天正之頃渡部源吾住す」とあります。伊達会津に乱入し、山内氏を攻めたとき左うつぼに拠ってこれを防いだ。耶麻郡・河沼郡・大沼郡・会津郡の渡部氏皆岩代国の氏です。全国規模でいえば、渡辺さんが22万8千軒、渡部さんが4万軒で、渡辺さんは、渡部さんの5.7倍いらっしゃいます。福島県で、その差は2.4倍まで縮まりますが、奥会津では、渡部さんが圧倒的に多く、渡辺さんの12.8倍になり、田島町に集中しています、只見町での苗字のベスト2に入っています。



(軒数調べは、平成17年4月現在の電話帳記載登録数によりました。奥会津の4町4村合計の電話帳登録数は10,484軒となっています、なお同じ奥会津の檜枝岐村は、星さん・平野さん・橘さんの3苗字で村の登録軒数の89%を占めてしまう特殊性があるため集計から除かせてもらいました)


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