会津の武者



葦名光盛 葦名盛高 葦名盛滋 葦名盛舜 葦名盛氏 葦名盛隆 葦名盛重
猪苗代盛国 猪苗代盛胤 五十嵐和泉 伊南政盛 伊南源助 伊東重信
上杉景勝 上杉謙信
大槻政道 大縄義辰
河口左衛門 菅家善高 金上盛備 河原田盛次 片倉景綱
車丹波 栗村盛胤
上泉主水
佐原義連 佐原盛連 斎藤伊豆 佐瀬種常 佐瀬常雄
須田長義 須佐信清 須佐信重 須佐門之丞 杉岸伯耆
伊達政宗 伊達成実
富田氏実 富田将監
中丸俊重 中丸俊朝 中丸左衛門 長沼盛秀 中目式部 七宮憲勝 直江兼続
二階堂盛義
沼澤実通 布澤俊勝
針生盛信
平田舜範
星右近 堀金左京
前田利太 松本舜輔 松本氏輔 松本実輔
宮下大善 宮下忠常 宮下俊長 宮崎善兵衛
山内氏勝 山内舜通 山内氏信 山内重勝 山内信濃 山内俊政 山内俊範 山内俊基  矢澤藤綱
横田大学 横田出羽 横田土佐 横山道信
渡部綱孝





あ】
葦名光盛(あしな・みつもり)
光盛は盛連の四男で遠江守と称し、佐原を改め葦名とした。父盛連と黒川小館に住んだが康元元年執権北条時頼が剃髪するや、光盛は弟盛時・時連等と共に出家した。

葦名盛高(あしな・もりたか)
盛詮の子で修理大夫と称し、文明年中兵を率いて大沼郡高田館を襲い、之を滅ぼす。文明十四年伊達持宗の娘を娶り、始めて伊達氏に通じた。

葦名盛滋(あしな・もりしげ)
葦名盛高の嫡子で、父盛高と不和になり戦にも敗れ、伊達氏を頼る。其後父子は和睦して家督を継ぐが、子が無く弟の盛舜を養子として家督を譲る。

葦名盛舜(あしな・もりきよ)
盛高の子盛滋の弟で、兄盛滋が没し家督を相続して遠江守と称する。この相続を契機として家臣の謀叛が起きる。

葦名盛氏(あしな・もりうじ)
姓は平氏。黒川城主で其先は三浦義明より出て、佐原義連始めて会津四郡を領し子盛連相模葦名に住み、これを氏とした。天文十二年大沼郡横田の山ノ内氏を攻める。永禄四年本郷岩崎に城を築き、家督を子盛興に譲り隠居するが、盛興天正三年早世し、盛氏再び黒川城に戻り、二階堂盛義の子盛隆に家を譲る。葦名の血脈このとき断絶した。

葦名盛隆(あしな・もりたか)
天正九年三浦介に任ずる、須賀川二階堂遠江守盛義の子で、盛興早世により葦名の家督を継ぐが、天正十二年寵臣大場に殺された。

葦名盛重(あしな・もりしげ)
佐竹義重の子で、葦名盛隆の養子となり、奥州黒川の城主。初めの名を義広と云。天正十七年重臣の猪苗代盛国が伊達政宗に通じて、共に兵を率いて義広を攻める。摺上原に戦い敗れて常陸に逃れる。奥羽永慶軍記、会津摺上坂合戦)

猪苗代盛国(いなわしろ・もりくに)
岩代猪苗代城主、佐原経連の末裔で、葦名氏に属す。天正十三年盛国、家を嫡子盛胤に譲り隠居するが、父子争乱を引起し、主家葦名義広に冷遇され、これを恨み伊達政宗に通じ、摺上原の戦に葦名勢を攻め、伊達氏に属した。子孫仙台藩準一家。

猪苗代盛胤(いなわしろ・もりたね)
葦名家家臣。猪苗代城主、左馬介と称する。父盛国から家督を譲られたが、後に盛国と戦う。摺上原合戦で葦名盛重を守り戦う。一旦は兵を退いたが、伊達政宗に内応した父盛国の旗を見て再び兵を伊達の陣に進め、負傷して横沢村に退いた。

五十嵐和泉(いがらし・いずみ)
川原田盛次の郎等。伊北郷和泉の河原崎館に住む。天正十八年田島長沼盛秀と和泉田にて戦う。 伊北軍記、泉田城人数楯籠の事)

伊南政盛(いな・まさもり)
河原田氏の一族伊南左衛門尉政秀の子、伊南郷に住む、伊南河原田五郎左衛門を称す。

伊南源助(いな・げんすけ)
川原田盛次の郎等。伊南郷只石の館に住む。葦名氏が摺上原の戦いに負け、盛次が伊達勢と一戦を挑もうとして、盛次の口上を政宗に伝えた。
会津四家合考、小川、山ノ内者共、政宗に属せざる事)

伊東重信(いとう・しげのぶ)
伊達政宗に仕え、人取橋合戦に武功を轟かす。久保田合戦で政宗の身代わりとなって討死する。

上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)
越後上田城主長尾政景の子。上杉謙信に子が無く、北条氏康の七男景虎と長尾景勝を養子とした。謙信急死の後、景勝は景虎と家督を争うが、景勝は武田氏の応援により景虎を破り、越後・越中・能登を支配した。豊臣秀吉に仕え、五大老の一人となり会津に転封となり、若松城を本拠地とした。その後、徳川家康と対峙したが、石田三成、関ヶ原の戦に敗れ米沢に転封となった。

上杉謙信(うえすぎ・けんしん)
越後国守護長尾為景の末子、幼名虎千代。のち輝虎と改める。病弱の兄・長尾晴景より家督を譲られる。北信濃を巡り、武田信玄と川中島で五回に渡り戦う。生涯不犯を貫いて子がなく、突然の死で家督争いが起きた。
 
大槻政道(おおつき・まさみち)
葦名家家臣。大庭駿河守政長の子、太郎左衛門と称する。本貫は北田氏で先祖は佐原十郎義連孫。葦名氏の功臣であったが、越後上杉謙信と内応し娘婿の西方山内重勝と共に葦名盛氏と戦い、敗れ自害する。

大縄義辰(おおなわ・よしとき)
佐竹氏家臣。大縄左京亮の子、讃岐守を称する。佐竹義広の葦名入嗣に従い会津に入る。葦名累代の家臣と競う。摺上原合戦に敗れ、葦名盛重に従い常陸に逃れる。


【か】
河口左衛門佐(かわぐち・さえもんのすけ)
山ノ内氏の支族。大沼郡河口に住む、居館は野尻川の西山上に有り、玉縄城という。天正六年葦名盛氏のため大槻左衛門を討つ。天正十八年伊達政宗の軍門に下り、横田の山内氏勝と戦う。山ノ内天正記巻之上、横田刑部太輔氏勝政宗に不順か事)

菅家善高(かんけ・よしたか)
山ノ内譜代の重臣で、太郎左衛門と称し、山ノ内四天の一人。菅家は、越後の押えとして大塩中山城の城代として住む。松坂峠の戦にて奮戦する。

金上盛備(かながみ・もりはる)
葦名一族で重臣の筆頭、津川城主で遠江守を称する。葦名盛隆の使者として信長に謁見する摺上原の合戦にて奮戦するも討死、後、会津藩主松平容敬は金上盛備・佐瀬種常・佐瀬常雄の忠勇を称え、三忠碑建立する。

河原田盛次(かわらだ・もりつぐ)
伊南久川城主。先祖河原田盛光文治五年奥州征伐の功により岩代伊南郷を賜り、およそ十一代にして盛次に到る。天正十七年摺上原で伊達氏と戦い敗退し、義広常陸に逃げるに及んで、葦名累代の諸将皆伊達に属した。盛次憤慨して、伊南久川城に楯籠り伊達勢と戦う十八年秀吉会津下向に当り、宇都宮に出迎えるが、故あって謁見できず、空しく帰郷し日を経て死亡、河原田氏ここに滅亡した。
会津四家合考、河原田治部少輔合戦の事)

片倉景綱(かたくら・かげつぐ)
伊達家家臣、幼名子十郎、伊達輝宗の見出され、政宗側近となる。人取橋合戦、摺上原合戦で奮戦、文禄の役では朝鮮にも渡海した。政宗の参謀として活躍。

車丹波(くるま・たんば)
佐竹義宣に仕え、火車の書を以て背標とする。後に上杉景勝に仕える。
上杉家の記録、上杉将士書上)

栗村盛胤(くりむら・もりたね)
葦名氏家臣、新國貞通の子、下総守を称する。葦名盛隆に反乱、黒川城を襲うが反撃に合い、赤塚藤内に討たれる。

上泉主水(こういずみ・もんど)
新陰流上泉伊勢守信綱の嫡孫で会津一刀流の祖、前田慶次郎等と上杉景勝に仕える。最上勢との長谷堂合戦で討死。上杉家の記録、上杉将士書上)


【さ】
佐原義連(さはら・よしつら)
義連は三浦義明の七男にて会津葦名氏の始祖ですが、会津に封ぜられた事について当時の正確な記録に記載が無い、新編会津風土記に「鎌倉右大将藤原泰衛を征伐なりし時、三浦(又佐原と称)十郎左衛門尉義連軍功により此地を領せり、然れども常に鎌倉に伺候して在邑の暇なかりしにや、其住所何れの地ともしれず、」云々と記あり、会津における居館も耶麻郡加納庄三ノ宮、或は会津郡幕の内とも云い、正確には不明です。
 
佐原盛連(さはら・もりつら)
盛連は義連の五男(母は武田信光の娘)で、黒川小館に住む。義連に六男あり、長男経連(猪苗代に亀ヶ城築き、耶麻郡半郡領する)次男広盛(河沼郡北田金上に城築き、河沼郡半郡領する)三男盛義(河沼郡藤倉に城築き、河沼郡半郡領する)四男光盛(家督して会津を総領する)五男盛時(耶麻郡加納庄三宮に城築く)六男時連(麻耶郡新宮に城築き、麻耶郡半郡領する)、四男光盛次郎左衛門が義連の後を継ぎ会津を総領した。

斎藤伊豆(さいとう・いず)
山ノ内家、鎌倉よりの譜代の重臣で、山ノ内四天の一人。山ノ内家天正年中領地を失った後越川に移る。

佐瀬種常(させ・たねつね)
葦名四天の宿老の一人佐瀬源兵衛の養子、大和守を称し、不及斎と号する。猪苗代盛頼の乱に活躍した。摺上原合戦に出陣も討死する。

佐瀬常雄(させ・つねお)
富田美作の二男。佐瀬大和守種常の養子となり、名は平八郎。摺上原合戦で葦名勢大敗を見て、敵中に取って返し深手を負い討死する。

須田長義(すだ・ながよし)
須田満親の子、大炊介を称する。須田氏は信濃須田を本拠としていたが、武田信玄に追われ越後上杉を頼り、信濃衆として上杉家臣となる。須田大炊介、天正十七年横田大学を案内として只見・大塩に横田山ノ内氏の援軍に出向う。後に簗川城主となる。政宗との松川合戦にて政宗後陣を打破り、伊達家九ッ星の陣幕を奪い取った。大坂冬の陣で上杉勢の先陣をつとめた。山ノ内天正記巻之下、越後の勢山内に来る事)

須佐信清(すさ・のぶきよ)
大沼郡横田の須佐信宗の子、山内四家老の一人で大善と称す。天正十五年没と有るが、伊達勢奥会津侵攻のとき奮戦した、山ノ内天正記にある家老須佐大善と同一人か。
諏訪因幡守子豊後佐信昌、文明年中始め信濃より移る。信昌の孫信宗天文年中山之内氏の家臣となり、諏訪を須佐と改める。

須佐信重(すさ・のぶしげ)
須佐大善信清の子、下総を称する。政宗政奥会津に侵攻した時、山内氏勝を助けて奮戦する。父子で戦うも、松坂峠にて敗れる。末弟五郎信俊の子孫会津藩に仕える。

須佐門之丞(すさ・もんのじょう)
須佐下総信重の弟、鮭立に住む、山内氏勝の足軽大将を務める、天正十七年松坂峠の戦いにて、門之丞と、その子孫六と親子で奮戦する。

杉岸伯耆(すぎぎし・ほうき)
伊南郷宮沢に住む、天正十二年葦名盛氏が河原田氏を攻めた時、盛氏勢の将種橋藤十郎を討取る。


【た】
伊達政宗(だて・まさむね)
幼名梵天丸、輝宗の子。世々陸奥伊達郡を有する。天正十二年十八歳で家を継ぐ。十三年二本松城主畠山義継を殺し父の仇を討つ。十六年葦名家を亡ぼし会津七郡を併領し、黒川城に移り住む。慶長中徳川氏のために上杉氏と戦い白石城を取る。

伊達成実(だて・しげざね)
伊達一門、伊達稙宗の三男実元の子。人取橋合戦、郡山合戦、摺上原合戦に功績有り、信夫郡松川に住む。伊達氏外交に功大きく、其日記を成実日記という。

富田氏実(とみた・うじざね)
葦名四天の宿老の一人で、美作という。先祖は会津慧日寺に仕え、その後佐原義連に従い葦名家の重臣となった.石田三成が葦名義広の上洛を促す書状を氏実に送っている。摺上原合戦では左備えで子隆実を先陣させたが大敗、その後政宗に服従、山ノ内氏勝と戦う。

富田将監(とみた・しょうげん)
葦名四天の宿老の一人富田美作の嫡子。天正十七年摺上原の戦いに、葦名勢の先鋒をつとめる。伊達勢の一陣、二陣打破るも力つき、味方総崩れにて常陸の佐竹に逃れる。後相馬氏に仕える。


【な】
中丸俊重(なかまる・とししげ)
宮下大善の項

中丸俊朝(なかまる・としとも)
大沼郡大石の地頭、横田山ノ内の一族新蔵人俊重の子で新左衛門という。代々横田中丸に住む。天正十七年伊達勢との戦に、水軍の将として伊達勢を敗走させる。
山ノ内天正記巻ノ上、中丸新左衛門勇戦の事)

中丸三郎左衛門(なかまるさぶろうさえもん)
伊北郡小林に住む。天正十八年南山長沼盛秀、布沢上野助・信濃に攻め落される。

長沼盛秀(ながぬま・もりひで)
田島鴫山城主、弥七郎と称する。長沼氏は、関東小山氏の出で結城氏とは同族、会津南山・田島を領した。天文元年には葦名盛舜、永禄四年には葦名盛氏に攻められ臣従する。伊達政宗の会津侵攻後は政宗に従い、伊南の河原田氏との戦いの先陣となったが、度々の戦いにて敗北する。

中目式部大輔(なかめの・しきぶだゆう)
佐瀬源兵衛の子、河内守の兄で名は助常。中目氏は葦名氏の支族、義広、佐竹氏より葦名氏を嗣や、大縄・刎石・平井と葦名四天宿老とが対立したが、式部大輔、執権金上遠江守盛備、慶徳善五郎らと義広を支える。天正十七年摺上原の合戦にて奮戦の後討死した。

七宮憲勝(ななみや・のりかつ)
葦名家譜代の臣。下総、入道して自然斎と号する。塩川に住し、その子栗村弾正左衛門尉憲俊は義広に随い、天正十七年の摺上原の戦にて討死する。

直江兼続(なおえ・かねつぐ)
上杉家重臣。樋口兼豊の子、幼名は与六。上杉謙信死後の「御館の乱」で景勝を擁護、与坂城主直江信綱の養子となり、天正九年より直江氏と改める。

二階堂盛義(にかいどう・もりよし)
奥州須賀川城主。鎌倉政所の執事藤原行政の子孫で、二階堂照行の子、妻は伊達晴宗の娘で、其子盛隆を以て葦名氏を継ぎ、須賀川二階堂氏は会津葦名氏の勢力下に入った。盛義天正九年秋病により死す。その寡婦会津葦名氏の下の属し、家を保つが、天正十七年政宗に攻められ、城落ちて二階堂氏滅亡する。

沼澤実通(ぬまざわ・さねみち)
山ノ内氏一族。葦名氏家臣、出雲守を称する。天正十三年松本備中との北方合戦に葦名勢の先陣として備中を討取る。天正十七年、摺上原の戦にて葦名氏大敗し、義広常陸の佐竹に敗走し、それに従う。

布澤俊勝(ぬのざわ・としかつ)
布澤柵主、上野助を称する。摺上原の戦いの後政宗に降り、黒川政宗勢として山ノ内勢と戦う。


【は】
針生盛信(はりゅう・もりのぶ)
葦名氏家臣、葦名氏一門。針生盛秋の子、葦名盛滋の曾孫、民部大輔を称する。摺上原合戦に出陣、敗れて常陸に逃れる。大坂の役で伊達勢として子実信従軍する。葦名宗家滅亡した時、伊達綱村の命により盛信の曾孫盛定のとき、葦名に氏を戻す。

平田舜範(ひらた・きよのり)
葦名四天の宿老の一人、是亦斎と号する。

星右近(ほし・うこん)
山内氏勝の郎等、天正十八年伊達政宗の大将大波玄蕃が横田の城を攻めた際、防戦し玄蕃勢を破る。

堀金左京(ほりかね・さきょう)
山内大和守俊光の郎等、伊北小林の館に住した。


【ま】
前田利太(まえだ・としおき)
字は慶次郎、前田利家の兄利久の養子。初め利家に属し数々の武功あり、文を好み和歌を学び兼ねて申楽に通じる。上杉景勝に仕えた。関ヶ原の戦いの後浪人となる。
上杉家の記録、上杉将士書上)

松本舜輔(まつもと・きよすけ)
葦名四天の宿老の一人、松本勘解由宗輔の子。図書介を称する。

松本氏輔(まつもと・うじすけ)
葦名四天の宿老の一人松本舜輔の子。図書介を称して会津高田船岡に住む。葦名家に対する謀叛を度々行う。陸奥安積郡福原の田村清顕との戦いで討死する。

松本実輔(まつもと・さねすけ)
葦名四天の宿老勘解由の嫡子。太郎左衛門という。父勘解由は田村清顕との戦いで討死する。葦名盛隆に反乱、黒川城を襲うが反撃に合い討死する。松本氏は葦名氏の重臣で、度々謀叛を起こしているが、粛清の意味で討たれた者も多いという。

宮下大善(みやした・だいぜん)
山ノ内氏支族、大沼郡宮下の館に住む、名は新蔵人。天正十八年伊達政宗会津侵攻により葦名氏滅亡の後、二男八郎左衛門と越後に落のびる。

宮下忠常(みたした・ただつね)
山内氏の支族。宮下俊久の子、宮左衛門を称し、後大沼郡宮下に住する。

宮下俊長(みやした・としなが)
山内氏の支族。宮下忠常の子、太郎右衛門を称する。天正中大沼郡宮下に住む。

宮崎善兵衛(みやざき・ぜんのひょうえ)
山内氏勝の家臣、先祖は山ノ内の一族で代々大沼郡宮崎に住む。氏勝、天正十八年伊達勢と松坂峠の戦いで、一族郎党六十余騎討死、善兵衛等奮戦し、大塩城に入る。


【や】
山内氏勝(やまのうち・うじかつ)
山内舜通の子、刑部大輔を称する。天正十八年関白秀吉に領地没収される。
会津の山ノ内氏)(会津四家合考、山内刑部大輔合戦の事)
山ノ内天正記巻之上、山ノ内先祖奥州を領する事)


山内舜通(やまのうち・きよみち)
舜通の名は、葦名盛舜の一字を賜ってつけた名と言われ、兵部大輔を称する。
 
山内氏信(たまのうち・うじのぶ)
西方に住む、左馬丞を称する。山内俊與二男、氏信四代孫が重勝

山内重勝(やまのうち・しげかつ)
大沼郡西方に住む、右近と称する。天正六年野沢大槻城主大庭左衛門と上杉謙信に内応、葦名盛氏に謀叛して小巻の合戦に敗れ、自刃する。

山内信濃(やまのうち・しなの)
大沼郡野尻を領し、中丸城を築く。

山内俊政(やまのうち・としまさ)
山内治部少輔俊清の二男、摂津守を称する。永禄元年、弟俊範と松本図書助の居城大沼郡瀧谷の巖谷城を攻め落す。

山内俊範(やまのうち・としのり)
山内治部少輔俊清の三男、横田豊前守を称する。兄俊政と松本図書助の居城大沼郡瀧谷の巖谷城を攻め落す。その後檜原の淡路守俊景の養子となる。

山内俊基(やまのうち・としもと)
大沼郡瀧谷の巌谷城主山内長俊の子、天正十七年摺上原の戦にて戦死。

矢澤藤綱(やざわ・ふじつな)
山ノ内氏家臣、大塩塩沢に住む、天正十八年松坂峠の合戦にて、一番に進み命を落す。

横田大学(よこた・だいがく)
山内氏勝舎弟、家康に仕える。兄氏勝は政宗と合戦し難儀に及び、家康より冑甲、鉄炮多数賜り、氏勝を応援する。後に上杉景勝に仕える。
(山ノ内天正記巻之下、横田大学介か事)

横田出羽(よこた・では)
山内氏勝猶子、天正十八年松坂峠にて、出羽衆に先して戦い討死する。

横田土佐(よこた・とさ)
大沼郡本名の地頭、山内氏勝の支族で氏勝に従って戦い、戦功多く松坂峠の戦いで奮戦する。

横山道信(よこやま・みちのぶ)
山ノ内家臣、横山帯刀道吉二男。氏勝の時六十里越、八十里越両口を固める。


【わ】
渡部綱孝(わたべ・つなたか)
山ノ内氏の家臣、長門を称する。大沼郡大登・桑原・河井を領し、大登の館に住む、天正十八年伊達勢大波玄蕃が横田山内氏を攻めた際、左うつぼにて奮戦よく防いだ。


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