お城の基礎豆知識 1.お城の定義、 2.城郭用語、 3.関東・東北の城郭について、 4.吉川古松軒の奥羽城下の記述、 若松城下、二本松城下、米沢城下、久保田城下、盛岡城下、仙台城下 白石城下、中村城下、常州水戸城下 1.定義 会津古塁記は城・塁・館・柵の定義を次のように記しています。 城は内外に堀あり、水湛へ大手・搦手・四方門・櫓・掻楯有るを云、 塁は城に似て、六具不揃いを云、 館は一重堀・城戸表裏・門・土手有るを云、 柵は一重土手を結い、門有り城戸有るを云。 2.城郭用語 山城・平城、詰の城(つめのしろ)、根小屋、支城、出城、対城(たいのしろ)、一城別郭、掻揚城(かきあげのしろ)、陣城、舘(たて・たち)、砦、 虎口(こぐち)・坂虎口、大手・搦手(からめて)、舛形(ますがた)、勢溜(せいだまり)、馬出(うまだし)、空堀、堀切、土居(どい)、竪堀(たてほり)、畝状竪堀(うねじょうたてほり)、虎落(もがり)、切岸(きりぎし)、曲輪(くるわ)、腰郭(こしぐるわ)、天守(てんしゅ)、犬走、武者走、横矢掛け、 縄張、輪郭・悌郭式の城、多聞櫓と多聞天、櫓(矢倉、矢蔵)、城門、埋門、松竹梅、 山城・平城 山城は独立した山に、平城は丘陵と平地に築かれた城で、江戸時代、荻生徂徠が山城・平山城・平城に区分したといわれるが確かではありません。 詰の城(つめのしろ) 中世の城は、日常生活のための平地の館と、いざ戦いという時に楯籠る山上の城に別れている場合が多く、山上の城が詰の城で、平地での日常の生活の場・家臣団の生活の場を根小屋とも呼びます。 根小屋 根古谷、寝古屋などとも書き、山城の場合、各曲輪が狭いために城主の館や家臣団を麓に置いたのが語源になったといいます。 支城 ある一定地域の根拠となる城の出張り的役割をなす城砦のことであり、本城自体直接的防備を持つ城に詰の城・付城があり、本城自体の直接的攻撃の支城に向城・対城があります。 出城 ある一城に地形状付属している城砦、又は出曲輪をいうが、直接的防御上の支城を出城と呼ぶ場合もあります。 対城(たいのしろ) 敵の城を攻めるために、攻める側が対陣のために築くもので、向城とか付城ということもあり、短期間の臨時的なものです。 一城別郭 城としては一つでありながら、その城の中に主要な郭が複数設けられ、どちらかが落ちても、もう一つの郭で支えることが可能なように工夫された城をいいます。 掻揚城(かきあげのしろ) 掻上城とも書き、土を掻き揚げただけの城で、堀を掘ったとき、その土を盛りあげて土居を築いた堀と土居だけで成る城をいいます。 陣城 城攻めの時に築く臨時的城郭で、円形又は四形が普通で、周囲に空堀を巡らし、土塁を築き、掻楯を並べ、又は陣幕を張り巡らした簡単なものをいいます。 舘 土居、堀などの防御施設を設けた地方豪族の居所を一般に舘と呼び、語源的には楯から転じたものともいわれています。 砦 取出・取手、塞の字が当てられ、本城の近くに取り出して小さな要塞として築いたもので、普通は柵で囲った程度の簡単なものをいいます。 虎口(こぐち)・坂虎口 城の出入口を虎口いい、主として戦いの出入口をいう、坂虎口は、城門前方に築いた坂道を、土塁などで区画し。鍵の手状に曲げて敵の侵入を阻止し易くしたのもです。一の門にあたる所が虎口で、小さく出入口を築く小口より語源があるといわれています。 大手・搦手(からめて) 城の正面を大手または追っ手と称し、裏を搦手と称した。地勢に関係ない場合は、南が追っ手、北が搦手となる場合が多い。 舛形(ますがた) 城門の中で小さな広場の武者溜りで、虎口の防ぎに備えたものも多くあります。この舛は一度に出撃する武者の人数を計る升として使ったので舛形と称したと言われています。 勢溜(せいだまり) 武者屯(むしゃだまり)ともいい、虎口の近くに設けられた施設で、城内から撃って出るため、城兵を待機させておくために設けた一画で、この勢溜は城外に築かれることもあり、特に勢隠とか武者隠と呼んでいます。 馬出(うまだし) 虎口の外側に配置する小型の郭が馬出であり、虎口の遮蔽物です、攻守両用の舛形に比べ、馬出は攻撃に重点が置かれ、虎口から出撃する軍勢を敵に見られないように隠すことを目的としています。 空堀 堀には水堀・空堀が有りますが、中世の城館はほとんどが空堀です。この空堀の土を積んで土居(土塁)を築くのが普通です。堀は断面形状によって4種に分けられているが、実際には判別することは難しい。 土居(どい) 土塁ともいい、城や舘の周囲に築かれた土手のことで、たたき土居と芝土居があり、堀を掘ったときの土をただ掻き揚げただけの簡易なものから、堅固なものまで色々あります。 堀切 狭い尾根などにこれと直角に堀切った一種の空堀で、敵の侵入を阻止するのが主たる目的で、堀切は竪堀につながるものが多くあります。 竪堀(たてほり) 斜面の最大傾斜線に沿って築いた一種の空堀で、寄手が斜面を直線的に攻め登るのを防ぎ、石・大木などを投落し効果的に防御できるようにした堀で、これを波形に段々に構築したのが畝状竪堀で中世の頃に工夫されたと言われています。 畝状竪堀(うねじょうたてほり) 畝状竪壁とも畝状阻塞とも呼ばれ、山城、兵城の斜面に穿たれた竪堀が土塁を介して斜面にならんだ形となり、土塁と竪堀が交互に築城されており、攻城兵は自然とV字状の畝堀の底を一列縦隊で進攻しなければならないから、守城兵は土塁の上から攻撃することが出来る防備のための堀です。 虎落(もがり) 空掘の底に、竹を枝がついたまま敵に向けておいたり、太い竹の先端を斜めに切って、敵の方に向けたもので、木を用いたものを逆茂木といいます。 切岸(きりぎし) 曲輪の防御のために、周囲を絶壁状に削り取った場所をいいます。 曲輪(くるわ) 城内の削平地、本丸・二ノ丸・三ノ丸なども曲輪の名で、腰曲輪は曲輪の側面に設けた平地で、その曲輪の補助的な役割を持っている。帯曲輪は、曲輪の側面や城を取囲むように細長く構築された曲輪をいいます。 腰郭(こしぐるわ) 腰曲輪とも書かれ、山城で山腹に削平地を設けたもので、山の腰の位置にあたることから、腰郭と呼ばれ、敵を腰郭に誘い込み、上の郭から掃射を行うために造られたものです。 天守(てんしゅ) 天守は天主・殿守・殿主とも使われが、いずれにしても桃山時代以降の近代城郭だけに 存する重層建築で、城中で最も高く立派な櫓を天守と称しています。江戸時代には三重の場合、天守とは言わず「三重櫓、三階櫓」などと呼んだ例も多くあります。 犬走 塁の上部を馬踏、武者走というが、塀が外側に出来た小径を犬走といいます、又城外から城内へ登る坂、塁の外側に設けた段も犬走といいます。 武者走 城内側の塁上の平地、もしくは城内より塁へのぼる坂を武者走といい、これに対して、城外側の塁上平地・城外へくだる塁の坂を犬走といいます。塁上にできる武者走と犬走とを合せた平地を、馬踏と称し、建物においては、主柱の外側にできる回り廊下を武者走といいます。 横矢掛け 塁壁などをよじ登る寄手を弓矢・鉄炮などで防御するために、土塁などに折れ・歪みなどを付けた場所をいいます。 縄張 郭(曲輪)の配置や虎口の形式等、城の平面計画全般を縄張といいます。 輪郭・悌郭式の城 一般的には、城郭の構造を輪郭式・悌郭式・連郭式の3形式と、これらの変形とに区分しています。輪郭式は、本曲輪を中心にして、取り囲む様に他の曲輪群を配する構造を基本とするもので、悌郭式は、曲輪群を梯子状に並べ、その一曲輪を本曲輪とした構造ですが、実際は地形に合わせ、それぞれ変形、または複合の形を取っています。 多聞櫓と多聞天 石垣や土塁上に建てられた長屋造の櫓を多聞櫓という。土塀に比べると格段に堅固であった。多聞櫓の初まりは、永禄三年(1560)に大和国を平定した松永久秀が多聞城(奈良県)を築き、その郭の外側を二間簗の長屋で取囲み、矢狭間などを設けて堅固にしたこととされ、それを多聞櫓の名称の起源とする。なた、四天王の一で、毘沙門天の別名で信仰を集めた多聞天を祀ったことを名称の起こりとする別説もある。江戸時代には、多聞櫓は多聞や長屋と呼ばれており、足軽の住む長屋の多聞と称した。 櫓(矢倉、矢蔵) 名称から武器庫から発展したものと考えられているが、近世城郭では武器や兵糧などの倉庫になっていた。貯蔵した物品により鉄炮櫓・旗櫓・具足櫓などと名づけられた櫓の多い。櫓は城壁の出隅部や虎口などの要所に建てられ、有事の際の物見と射撃の拠点となった。したがって、郭の隅に配置されることが圧倒的に多く、隅櫓(角櫓)と呼ばれる例が多い、中世の合戦を描いた絵巻物には、矢狭間を切った土塀の後に、屋根の無しで、腰高ほどの端板(楯板)で囲った物見台で、武者が弓を射ている様子が見られます。このような物見台から中世末にかけて使用する武器の変化と共に、本格的な櫓へと発展したと思われます。 城門 城門の種類や名称は多い、表門である大手門(追手門)と裏門である搦手門、門扉を常に閉じた不開門など用途別の名称があれば、総鉄板板張した鉄門(くろがねもん)銅板張とした銅門(あかがねもん)のような外装による名称もあります。 埋門(うずみもん) 土居や石垣などに埋め込まれたように造られた門で、非常の時には埋められるよう隧道のようになっていることから、穴門とも呼ばれました。 松竹梅 城内に植えられた樹木で多いのが松で、松は生木でもよく燃えたので、籠城の時に燃料や松明の材料にもなった。竹は建築の材料や防火帯とも見通しを遮る役目もあったと思われます、果樹では梅干しの原料となる梅が多く、籠城時の備えとしたといいます。 3.関東・東北の城郭について 日本の城郭は中世(鎌倉・室町)と近世(桃山・江戸)で大きく異なっている、その要因は鉄炮の普及発展と戦国期の領主層の再編成が大きな役割を果たしたと言われています。中世城郭はその多くが山や丘の頂上付近を利用した山城で、山頂部を削平して本丸(詰丸・甲丸・本城・実城等呼称不明)を築き尾根云いに郭(曲輪)を順番に造成して行ったと考えられます。中世城郭の多くが山城であったため、水堀は稀で、ほとんど山城の地形に応じた空堀で、郭の境を仕切るために山の尾根を切断する短い堀切や、山の斜面を縦に分割する竪堀を築いた。関東・東北の中世城郭での石垣の使用はほとんどなく、石垣を築いたとしても技術的制約で一、二間の低いもので、石垣の延長も短く防御よりも土留を目的としていたと思われ、一言でいえば天守のない土塁の城であるとおもいます。関東・東北の中世城郭は数の上では圧倒的に多いが、国人や土豪といった在地領主が築城を行っており大部分が貧弱なもので、一城当りの城兵の数も数十人程度であったとおもわれます。城の多くは山城で、大部分は事有るときに逃げ込むための城であり、平時は山城の麓の根小屋や、土居、堀に囲まれた館(たて、たち、やかた)に居住していました。東北の近世城郭でも、壮大な石垣がある城は少なく、盛岡城・会津若松城と白川小峰城程度で、佐竹氏の久保田城や上杉氏の米沢城のような大藩でもほとんど石垣はなく、伊達氏の仙台城、最上氏の山形城でも要所に限って石垣を使っており、他には弘前城や二本松城の本丸などに目立つぐらいです。東日本には石垣を持つ近世城郭が少ないが、関東地方でもまともな石垣がある城は江戸城と小田原城にしか見られず、将軍の世嗣が居住した江戸城西ノ丸でさえ大半が土塁で築しています。近世においても関東地方の城に石垣がないのは、関東地方特有の洪積層が集中しており、材料となる城郭用の石材の入手が難しい事がわかります。 4.吉川古松軒の奥羽城下の記述 大坂夏の陣から約170年後の冷害、洪水等で大飢饉があった時期、天明八年(1788)、吉川古松軒が幕府巡見使に随行して東北地方での見聞を綴った紀行文「東遊雑記」に若松城下について「若松の町家草葺きにして、瓦葺きは稀なり。寒気強き所よわしという。城も平城にて要害の地とは見えず。御城主松平肥後守(二十三万石)。ここは昔時葦名氏の古城跡にて、その後上杉家・蒲生し在城ありしなり。会津候は二十三万石の御大家ながら、城下甚だ侘しく賤しきなり。御城下ながら備前岡山の城下などに見くらべば大いに劣れり」、二本松城下では、「御城主丹羽加賀守(十万七百石)、もかし二本松右京亮という人の城跡なり。山を開き嶮岨によりし城にて、要害の地なり、町は一筋にて、三十余町の中に坂道ありて、ながながしき屋宅、いずれも草葺きにて見苦しし、上方筋の城下とは大いに違いし町なり」、米沢城下では、「城主上杉弾正大弼侯(十五万石)、平城にて櫓も低く、寒国ゆえに瓦は用いがたきによりて、みな檜皮葺きにして、壁も板を以てかこいたり。予思うに、かくの如くにては、敵を城外へ引き受けて火矢の防ぎは如何するや、もしさようの時の用意もあるにや、いかに太平の世なりとて、余り不用心なることなり。市中およそ三千余家、大概の町にて、豪家も数多見ゆ。しかれども板葺き、草葺きの家ばかりにて、上方筋と違いて奇麗なる家造りはなく、政事は謙信公の遺風ありて武備正しき由、聞こえ侍り」、久保田城下では「久保田は昔時秋田城之助代代城主たりしに、今は佐竹候の大城地にて、当主次郎殿〔佐竹義和〕と称し、二十万五千八百石余、新羅義光の嫡流にして諸侯の中にての歴家なり。佐竹義宣のころまで常州の太守なりしに、ゆえありてこの地へ移られ給い、羽州六郡〔出羽の国秋田・河辺・仙北・平鹿・雄勝・山本の六郡〕の大守なり、知行所広大なるに如何してか貧窮なると風聞あることなり。このたびくわしく聞くに、御知行高不相応に御家士数多にて、太夫に高知の家多きゆえといえり。さもあるべきことにや。市中三十六町ありて、三千八百余軒の地なり。町のもようみなみな杉板の屋根にて、上に石をかずかず並べておしとなし、壁も板壁にして、ひさしは同じように一間余もさして、これを雪道と称して雪のふるせつの通い路とす。往来筋には富饒に見ゆる家居もなく、かしこここに草ぶきの小家まじわりて、上方筋の城下とちがいて見ぐるし。城は山城にして要害堅固の城といえり。往来より見上ぐる所広大の所見えしなり」、盛岡城下は「盛岡は南部大膳大夫候の城下にて、聞きしよりはよき所にて、町の長さ三十余町、豪家と覚しき商家も数軒見え、御案内の者の申し上げしは、市中千七百余軒といいしことなれども、これは先年より御巡見使へ申し上ぐる定まりのことにして、実は三千余軒余もあるべし。城は往来よりは委しく見えず。土人の物語を聞けば、要害よき大城といえり。上方筋の城とは違いて、寒国ゆえに白壁を用いずして板包みにせることにて、遠見には城とは見えぬことなり」、仙台城下に「仙台城下諸士の屋敷屋敷を見巡りしに、所ところに番人ありて咎むるゆえ、くわしく見ること能わず、城下は定めて宜しき構えなるべしと思いの外、草葺きの小家多くて、甚だ佗しき市中なり。町の長さ五十余町、道筋小石数多ありて河原のごとし。仙台城は山上にありて壁巌削るがごとし、一夫これを守れば万卒も当りがたき名城なり。昔は青葉山と称せしを、松島より仙人飛び来たりてこの城山に遊観せしより仙台と改め、今城中に仙神窟という所ありといえり。誠に全郭鉄柵、無双の構えなりといえり」、白石城下では「白石は仙台候の家臣片倉小十郎の所在にて、城は山上にありて、往来より少し見ゆるなり。今は郭数も減じて小城となりしといえり。町も草葺きの小屋ばかりにて、佗しく見ゆるなり。町の中に小川あり、川の左右の岸に白き石数多並びたり。すべてこの辺は白き石数多ある所なれば、地名も白石といえりと案内者いう、他国にてはしら石という。中村城下は「中村城主相馬因幡守(知行六万石)領し給う所の地、およそ方十里余といえり。皆みな相馬と号す。差出しの高にして、相馬候の代々知行し給うことなり。城は平城にて、城の北方を巡りて町に入る。外見要害よき地理に見え侍りしなり。案内者いう、家中・市中合わせて八百軒余といえども、予はかり見るにおよそ二千五百軒ありて、大概よき町なり。御巡見使、城の外堀を通行して、武家町も往来せるゆえに、士家のもようも見しに、なかなか厳重のことにして、武備全きように見えしなり。案内者いう、「当御家にては、下ざまの小人にても、三石五石の給米みな地方にて賜わり、何れも譜代の者どもなりといえり」予思うに、武家は知行の多少によらず、武風に論はあることなり。戦国の昔思うに、小身より数ヵ国討ち取りし例、はかるべからず、みな武風の善悪にありと見えたり。予六十万石の仙台の武風に感ぜずして、六万石の相馬侯武風に感ぜしなり。と述べています。もっとも、仙台藩に対する古松軒の印象が悪かったのは、巡見使が江戸を出発した時、仙台侯も帰国の途にあり、道中前になり後になったが、仙台侯から巡見使に対して、何の会釈もなく、最初から古松軒は仙台藩に心持よく思っていなかったようです。最後に常州水戸城下を通っています、中川(那珂川)と称して常州第一の川水戸城の北岸を流る。もっとも要害の川上なり。去々年の大水に町まち大いにいたみ、往来筋草葺きの家多く、上方筋の城下より劣りしなり。上町も下町に同じ。水戸侯の御城は聞きしより大城にて、北の岸に中川流れ、大手は千波の沼を以て要害とし、風景も宜しく魏々然たる構えなり。水戸藩については、「御家中の諸士武風十分に備わり、威儀堂々として礼儀正しく、昔賢君光圀公の御政事今に残りてかくの如くなるべし」と大変感激しています。 参考図書
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